【短編版】預言師ディルムッドは語らない
「まだできないのかディルムッド。仕方ないよなあ……お前、声が出ないんだもんな?」
そう言い、嘲りとともにしゃがむ少年の背中を蹴飛ばしたのは、十歳年上の兄、カイルだった。
赤毛の青年はまだ幼い黒髪のディルムッドが痛みに目を細めたのを見て、満足げに笑いながら去って行った。
「どうしたの、あなたには神殿で、大金をかけて神聖魔法の治癒までして貰ったのに。まだ声すら出せないなんて、情けない」
そう言い諦めの色をハシバミ色の瞳に浮かべため息をつく母親ミリナは酷い親だろうか?
まだどこか自分を見捨てない優しさが残っているような気がして、ディルムッドは青い湖畔の底のような目に涙を溜めた。
「だらしない奴だ! 我がウォークレン家の家業は「予言士」。言霊とつながらなければ何も始まらない。音すら出すことができないとは!」
先天的に障害を持つ子供でも、口から音をだすことはできた。それが普通だったし、音になれば意思を言霊に伝えることができる。だから、誰でも音と魔力があれば、家業を継げる貴族の世界。
魔法は貴族だけの特権ではなかったが、魔法使いの多くは貴族だった。
父親ガンズはそう言い、言葉でなく拳で少年の頬をぶった。もう止める者は家族には誰もいない。
母親すら、四歳の誕生日に隣の国の王都まででかけ、そこで最高神の神殿に属する神官から最高位の神聖魔法による処置をうけても音が出せない我が子を薄気味悪いと寄り付きもしなくなった。
六歳になったディルムッドの真っ白な小麦のような肌に、一筋の朱が混じる。
唇の端からガンズの一撃で口内を切ったせいだ。
「見ろ、このマヌケを! 俺の拳を避けることすらできない! 見た目だけはまともな癖に、どこまでも愚鈍で無能な愚か者だ! 俺の息子? はっ! 勘弁しろ……こんな出来損ない、産まれて来なければよかったんだ」
そこまで言い切った父親を、しかし、家族の誰も責めようとはしない。
むしろ憐れみのこもった目で、これまで能無しの息子がどうにか一人前になるようにとよくやったと、みんなが心の中でそう言っているように、少年には思えた。
……この家にもう、僕の居場所はない。
そう割り切った時、六歳のディルムッドは寄宿舎学校に入れという父親の命令に頷いた。
早くこの家族から離れよう。
自分を守るために。
異常者と言われ冷酷な視線で見下され、心を曇らせないために。
いつか声がでて両親に褒められる……ために。
四歳まで知っていた母親の優しさ、父親の励ましを受けたあの頃に戻るために。
家から出ていくその姿は周りから見れば厄介者がどこかに売られていくような様だったと――噂を耳にしたときにはチクリと心が痛んだけれど。
ディルムッドは心にわいてでた、なにかもやもやとした、白い霧のような闇に背を向ける。
世間で三流呼ばわりされるロッサヌス魔法学院の門を叩いたのは、六歳の初夏だった。
男子寮と女子寮とに分かれこれから十二年近い歳月を幾人かのルームメイトを変えて、過ごすことになるロッサヌスの入学式は意外にも盛大なお祭り騒ぎだった。
黒いドラゴン、セイレーンたちの音が新入生の耳を魅了したかと思えば、ドゥールドイ(六本足の半人半馬)の騎士たちが勇壮に学院の二つの寮を分かつ大通りを駆け抜ける。
いっときの幸福は素晴らしい清涼感をともなって心の癒しとなった。
だが、それはほんの初日だけのこと。入学式の翌日から予言士の名門、ウォークレン家の六男がそこにいるという噂は広まっていて、同級生はもちろん、上は最高学年の十二年生に至るまで。
ディルムッドはその名を知られていて、逆に注目を集めることになる。
「あいつ、ウォークレンの名を持つくせに、音を操れない厄介者らしいぜ?」
誰が言い出したのだろう。
その心無い一言がディルムッドのささやかな居場所を奪う。
ルームメイトの少年は最初は優しかった。
だがその噂を聞いたとたん、彼の態度は豹変した。
魔法使いにとって声は何よりも大事だ。
命よりも大事なものでそれを失えば二度と復活することもできない。
言霊に命じておけば、たとえ命を失うような大事故に遭遇したとしても、魂を呼び戻し肉体を再構築することで復活を遂げることができる。
その何よりも大事な声を失った少年に対して周りの目は家族以上に冷たく、他人だからこそ与えられるはずの優しさは微塵にもない。
一人孤独となった夜を過ごすことは悲しいことではなかったけれど、初めて心を通わすことができた友人に裏切られた事がディルムッドに悔し涙を流させた。
「無能に教えることなどない。覚えたければ声を取り戻せそれが魔法使いだ」
担当の講師はそう言って、ディルムッドに魔法を教えることを拒んだ。
声は誰もが持つもの。声を出せないものであっても音は出せるはず。
叩けば音が出る。足を鳴らせば音が出る。目を瞬かせたとしてもそれすらも音になる。指先を鳴らしても音には間違いない。
それらは出すことができたけれど、言霊には届かない。
世界の全てから……現代の魔法使いが理解しうる魔法のすべてからディルムッドはその存在を拒絶されていた。
入学から二週間が経過し、図書館に入るために必要な呪文を唱えることができない少年は、他の逃げ場を探さないといけなくなった。
ちょうどその頃、大地のはるか下にある魔界と呼ばれる魔族の世界から、一人の留学生が学院へとやってきた。
燃えるような真紅の髪はありとあらゆるものを焼き尽くすような物騒さで腰までうねり、苔色のその瞳は世界のすべての「緑」を吸い込んだような好奇心と知性に彩られていた。
人間と変わらない見た目なのに、その魔力は尋常ではなく、幼い外観に似合わない恐ろしさを持つ。
全校生徒を集めた集会で紹介を受けた彼女はミレイア、と名乗った。
六歳。
自分と変わらない。
それなのに彼女が持つ魔力のなんて素晴らしいことか。
魔界から来たというだけあって何もかも、魔法使いという存在においては彼女は輝きに輝きを重ねて、誰よりもきらめいていた。
しかし、希望と期待に満ちた魔族の少女は、たった数日で落胆へと心のそれをすり替えたらしい。
「あなた、どなた? どうしてここにいらっしゃるの?」
体育館の吹き抜けのうちがわにあった、天井裏へとつながる灯り取りようの小部屋。
そこを数日かけて清掃し、授業が始まる朝から終業の夕方の鐘が鳴るまで、学院から与えられた魔法書を持ち込んで読みふける日々。
ノートにペンを走らせながら、寡黙に自習をするディルムッドは、真紅の大海を見た。
いや、例の留学生のうねる赤い髪がそこにあった。
その真ん中に、ちょこんと載った卵型の形の良い顔を凝視して、ディルムッドはかたまってしまう。
姉は三人いたが家族と他人はまるで違う。
どうやって返事を戻していいものか理解が及ばない。
あわあわと慌てふためく少年を見て、少女は再び口を開いた。
出てくるのは蔑みか。
学院の生徒なら誰もが自分の無能さを知っているから、それしか頭に思い浮かばない。
しかし、ミレイアは猫っぽい微笑みと共にこう告げた。
「私、行き場が無いの。ここで一緒にいてもいいかしら」
(どうぞ)
イエスを示す単語をあわててノートに書き記すと、ディルムッドはミレイアにそれを掲げて見せた。
いずれこの場所も彼女に奪われる。そんな未来を思い描きながら。
「ありがとうございます。失礼するわね」
もしそのとき一人しか通れない入り口がもっと広かったら、ディルムッドは急いでその場から逃げ去って二度と戻ってこなかっただろう。
またどこか別の逃げ場を求めて、学院の中を迷走したかもしれない。
部屋の中は狭くて、少年と少女二人が手足を伸ばせばどうにか事足りるくらいで、大人は一人しか入れない。
それくらいの広さしかなかったから、逃げようにも逃げれなかった。
四歳のあの日から母親の興味を失った少年はまともな食事を与えられてなかった。
そのおかげなのか少女と見まごうような線の細さと華奢な体の作りが、この時ばかりは幸いしたといってよかった。
「勉強しているの?」
少女は自分の名前を口にすると、ディルムッドが実家にいた頃に何度か参加することを強制された社交界のレディーたちのような優雅な仕草で挨拶をしてきて、少年はそれに思わず見惚れてしまった。
ミレイアはこの学校のどの学年のどの女生徒よりも美しく気高い存在だった。
少なくとも少年にとってはそうだった。
少女は多くのことを質問しなかった。
まるで彼女自身も誰かに追われているかのようなそんな顔をしていた。
たぶんそれは正解で二人は追われていたのだ。
常識という名前の魔物に。
少年は魔法使いならば音が使えて当然という常識に。
少女は魔族ならどんな魔法でも扱えて当然という常識に。
それぞれ追いかけ、追い詰められて二人は自然に出会ってしまった。
ミレイアは留学生という立場もあり、いつも秘密の場所にいることはなかった。
週に数回。
互いに互いをこの場所で見かけては軽く挨拶をし、そして夕方までの時間をそれぞれが適当に過ごして解散する。
何度かそうやっているうちにミレイアは他に友人をもち、ディルムッドの噂を耳にする。
魔法から忌み嫌われた少年。
それがこの学院におけるディルムッドの評価だった。
「私おかしいと思うのです。あなたはそんなに魔法を学ぼうとしているのに、魔法から嫌われるなんて」
半年ほどした時、ミレイアはふとそんなことを言い出した。
ディルムッドは昼食用にと購買で購入したパンを頬張りながら、魔法書を読みふけっていたそんなときのことだった。
初等科の魔法書、講義に使われる教科書のすべてを模写し、理解した少年は半年も経たないうちに中等科の教科書を借り受けて、その内容に魅了されていた。
図書館からその魔法書を借りて来たのはもちろんミレイアで、二人の仲はその程度には良くなっていた。
少年はミレイアの疑問にふと手を休めると、なにごとかを思案して会話用にしたノートに返事を書きつける。
(それは僕には分からないよ。でもここにいる間、僕は魔法を学ぶことができるから何も不満はないよ)
君がそばにいてくれるから。
その思いを書き連ねることはディルムッドにはまだできなかった。
それを言ってしまったら。いや、書いて伝えてしまったら、もしかすればミレイアは彼の気持ちが重くなってしまってもうここには来ないかもしれないから。
秘密を共有する少女はいつしか少年にとってこの学院で生きていく希望を与えてくれる存在だった。
「でもおかしいと思いませんか」
(何が)
無音と有音の会話が続く。
「魔法に嫌われているなら、あなたの周りには魔力そのものが存在しないはずなのです。うっすらとでも近寄らないはず。体の表面から遠ざかっていくその光景が魔族の私に見えないことが、不思議なの」
(魔力が遠ざかる?)
全くもって分からない表現だった。
魔力は肉体にも、音にも、光にも。この世に存在するありとあらゆるものに備わっているもの、それが地上の魔法使いたちの常識だったから。
それを伝えると魔族の少女は、「いいえ、違うわ」、と否定する。
「魔法には意思があるの。それは人間や私たち魔族のようなはっきりとしたものではないけれど、でも間違いなく意志はあるの。人の目には全てに宿っているように見えるかもしれないけれど、本当はそうじゃない。嫌われているもの、それを扱うことにふさわしくないものには魔力は寄ってこない。だから人によって魔力の違いが存在する」
それは初めて知る知識だった。いや、この世には存在しないはずの概念だ。
少なくとも地上の魔法使いにはそんな考えは存在しない。
魔界に住み、より魔法という存在に近い魔族だからこそ語ることができる真実だった。
(それなら僕はどうすればいいの)
素直な質問が少年の心をついて出る。
「音を使って魔法と語らうことはやめればいいのよ」
全くもって理解できなかった。音を使わないとすればどうやって魔法と意思の疎通をすればいいのか。
そんな高等技術は今まで読んできたどの魔法書にも載っていなかった。
(分からない。僕には想像ができないよ)
「とにかくあなたは魔法に嫌われていません。それは魔族たる私が保証します。でも……感覚として魔法をとらえることができなければ、魔力を使うことができないかもしれない」
(困ったね。僕には魔力というものが全く見えないんだ。見えないというよりも、この世界は二重三重の光によって構成されているように見える)
「え……」
訪れる沈黙とともにミレイアは驚きのあまり歓喜の声をあげそうになる。
(たぶん僕は変なんだよ。この世の誰からも望まれていない存在なんだ)
自嘲気味のその一言はあっけなく真紅の魔女によって遮られてしまう。
「ディルムッド。あなたが見ているその光景が、まさしく本当の魔法なのよ。魔法は意志を持つもの……それは別の言葉で表せば精霊とも呼ばれているわ。見えるのなら彼らと言葉を交わすこともできるはず。音なんてものはいらないの、あなたの心が精霊に語りかければ時間はかかるかもしれないけれど必ず彼らは返事をしてくれるはず」
(君は? 君にはそれが見えて、精霊と語り合い、魔法を使うことが当たり前のようにできるの?)
その質問に、ミレイアはいいえ、と首を横に振る。
「私たち魔族は生まれながらにして精霊に近い存在だから。何を語らなくてもすべては思い通りに」
(なるほどね。心で語らうのか)
「ええ、そうよディルムッド。もしそれができるようになれば、あなたは言葉を精霊に預けて未来を紡ぐことができるようになる。私たち魔族のように」
思ってもみなかった奇跡の一言。
それから魔法を知ることに心を砕いた少年が、魔法の中に生きる精霊という存在と言葉を交わすことができるまで多少の時間がかかったけど。
彼は一年と経たず、音を使わずに、魔法を使えるようになった。
この頃になると相変わらず声を発することはできなかったけれど、ディルムッドは辺りに響く音を集めて自分だけの声を作ることに成功していて。
それ以外の感覚は全てにおいて正常だったからいつのまにか彼はあの小さな秘密基地を抜けてで、自分だけの狭い世界の扉を開放し、その魔力の才能を多くの講師たちに認められ授業へと戻ることが許されるようになった。
気難しい留学生として教師たちの頭を悩ませていたミレイアとともに教室に戻ってきた魔法使いの名家の息子は、それから数多くの友人を得て十数年に及ぶ学園生活を送ることになる。
そして六年が過ぎた頃、ミレイアは留学期間を終えて魔界へと戻っていった。
この頃から彼女との文通は続いていて、ミレイアは師匠にあたる人物のすすめで魔王の秘書の一人になれたのだと、嬉しそうな報告を文章で書いて寄越した。
ちょうどこの時、ディルムッドは中等部から高等部に進学する時期を迎えて忙しくしていた。
手紙を返すのが一週間遅れ二週間遅れ。
ひと月が経過しようという頃になってようやく少年はその返事を書き始めた。
彼が住んでいるのは東の大陸で、ミレイアが住む魔界は西の大陸の地下深くに存在する。
一度の手紙の往復で軽く一月はかかるから、もしかしたら返事が行き違いになってしまったかもという最初の一文から始まる新しい手紙はちょうどそんな時に送られてきた。
まだ返事を返していなかった。
そんな罪悪感に心を苛まれながら親友の手紙を開いたディルムッドは、彼女が住む地下世界がたびかさなる大地震に見舞われてしまい、一時的に地上へと避難するかもしれないと書かれているのを見て心をざわつかせる。
これまで感じたことがない嫌な予感。
ミレイアの身になにか起こるのではないかという、未来を知る預言師の卵は敏感に親友に歩み寄る危険を感じ取っていた。
彼女の安否を気遣う内容の手紙を返したものの返事は一向に戻ってこない。
三か月を経過した頃、出逢った頃の秋の日のようにほんのりと太陽が明るく血の色に染まっているように見えたことをディルムッドは覚えている。
やがてやってきた地下世界からの情報は、魔王が地震を治めるために地下深くに消え、その書記官だった若い魔族の少女が代理人となって魔族を率いて地上世界へと移住した。
そんなものだった。
ついでに西の大陸の人々は魔族を忌み嫌い、彼らを地下深くへと戻そうとして人と魔族との戦争が勃発。
魔王の代理人となった少女は自ら新たな魔王を名乗り、人のこと戦いを始めたのだという。
このことを知った少年は心がざわめくのをなんとか抑えつけて、彼女のことを忘れることにした。
最後に送られてきた彼女からの手紙。そこに自分はもう死んだものと考えてくれ、あなたはこの事に関わってはいけません、と。
そう記されていたから。
少年は友人の最後の頼みを破ることなく、卒業までの時間を過ごすことになる。
予言を越えた預言を編み出し、学院内外の並み居る魔法使い達からの挑戦を退け、実家の名声を保つことに終始、ディルムッドは注力した。
それが両親の愛を得る唯一の方法だと考えていたから。
卒業間近になり、ミレイアの国と人の国との戦争が終結したことが遠く東の大陸にある魔法学院にも伝わって来る。
かつての親友は最悪の魔女と呼ばれ人類を守護した聖者の手によって封印されてしまったのだと、ディルムッドは知る。
地上に逃れた魔族は全て地下に戻され、それから幾度か発生した地震のせいでその多くが命を失ったと聞かされた。
魔法使いの最高位であった「真紅」はミレイアの象徴とされ、忌み嫌われる存在として新たに「蒼」が設定された。
世界から人類の敵としてミレイアの名前は災厄をもたらすものとされた。
ただ一人、それを信じたくなかったディルムッドは青年となり、学院を卒業してからその姿を消した。
隠された真実。
魔王となった親友が自らの国民を守るために命を懸けて戦ったその理由を、ディルムッドは海を越えて西の大陸に渡り預言の魔法を使って知ることとなる。
人の国は地下から入れてきた魔族を忌み嫌い彼らを助けることなく殺そうとして争いが勃発した。
ミレイアは仲間を守るためだけにその力を使っただけで、人類の敵なんてそんな大それたもんじゃない。
ただ仲間を守ろうとしただけで、本当の悪は魔族という脅威を利用して、その身を守ろうとした同胞たち。
人類の方だったと知ったディルムッドは、ミレイアの封印を解くことを決意する。
だがそれは、人の守り手である最高の魔法使い「聖者」との戦いの幕開けでもあった。
そうして、数年後。
ディルムッドは、封印の地で静かな眠りから覚めたミレイアをその腕の中に抱いていた。
十日、二十日。
最悪の魔女を封印するために作られた墓所のなかで、青年は静かに眠り続ける彼女を、可能な限り抱きしめ続けた。
眠ってる間に孤独に苛まれることがないように、冷たい墓所の中で体を冷やして病気にかからないように。
外に出ればまだ自分たちを追いかけている聖者に加担する勢力は多く、意外にもこの中が一番の安全なのはとても皮肉なことだった。
そしてひと月が経過しようとしたそんなある日。
彼女はうっすらと瞼を開いた。
後遺症が残っていないか意識はきちんとあるのか、そんなことを心配する青年に向かい苔色の瞳に光を宿した彼女は、確かにディルムッドをその目の端に止めていた。
「……来てはダメだと言ったのに」
ありがとうでも久しぶりでも寂しかったでもない。
青年の名前を最初に選んでくれるわけでもない。
疑問とちょっとばかり怒りを含んだ呆れの言葉が、一番最初に彼の耳に入った。
困ったとディルムッドは笑顔をつくろってみせる。
薄着の一枚で墓の中に横たえられていたミレイアは、成長が遅い魔族の特性のせいか別れた時とあまり見た目は変わらないのに見えた。
しかしその目の奥に宿した力の炎と体の内側から溢れる燃え盛る炎のような魔法の光は、確かに彼女のものだった。
「君に逢いたかった。遅くなってすまない」
「あなた音を! 手紙では読んでいたけどまさか本当に……どうしてきてしまったの。ここに来なければあなたには成功の未来が待っていたのに」
「もう遅いんだ」
「遅いって何がどういう遅いの、ねえ、ディルムッド!」
自分が眠っていた間に何かが起こったらしい。
成功の未来と言われて彼の顔に差し込んだ、微妙な翳りを見てミレイアは悟る。
あの大敵、聖者と親友の青年は対立し……そして、ここにいるのだ、と。
「心配しなくていい。ここから先に出ればまた僕たちにとっては地獄だ。だから戻ろうと思うんだミレイア」
「どう、いう……こと? 戻るってどこに戻る気なの?」
「出会いの場所、出会いの時間、出会った時の僕ら。あの時よりももう少し昔に。それは時間の風を使えば不可能ではないと思う」
「過去に戻って歴史をやり直すというの? でもそんなことをしても未来は何も変わらない。一度決まってしまったものは覆すことができない」
「試した人はいる?」
「試さなくてもそんなことはわかっているわ。何よりも時間の流れは神々の管理している最高機密よ。誰にもそれに触れることが許されないそんな存在なのに。預言が使えるからと言って可能になると思わない、あなたは人間だし……」
魔族である自分ですらもできないのに。
魔王となった自分ですら負けたのに。
たった一人の人間がそんな奇跡を起こせるなんてミレイアには信じられなかった。
しかし、とディルムッドは言う。
「僕はこの数年間、仲間を作らず一人で戦ってきた。聖者……聖者サユキとも何度も矛先を交えたよ。彼女はとても強くて誰よりも賢いそして誰よりも恐ろしい。君が負けた理由がよく理解できた……すまない。馬鹿にするつもりはないんだ。ただ――君の国へも行ったよ。その時に芽生えたんだ。失われた死者の魂とすらも僕は語ることができる。古い新しいは関係なく、彼らが生きていたその時のままに語らうことができたよ、ミレイア」
「まるで……死神の力のようね。魔族にも神にもそんな力があるかどうか私には分からない」
「難しい話はまたにしよう。ここも安全じゃない、まだ聖者サユキとその軍勢は僕を探しているから」
彼女の顔が悲しみに歪んだ。
仲間はもういないと暗黙裡にディルムッドは伝えていた。
たぶん彼もそうだったのだろうとミレイアは理解する。たった一人でかなうはずがない。
魔法学院の友人たちであれ、自分が残した部下たちであれ、聖者サユキの行動に怒りを持つ誰であれ。
仲間となった彼らはほぼたぶんその全てが死んでしまったのだろうと。
彼だけが唯一、ここにたどり着けたのだろう。
それは奇跡かそれともよく分からない運命の神々の悪戯?
どちらにしても長くいられないと言うなら彼に従う他はない。
「あなたがそう決めるのなら、私はそれでいいわ。救われた命だもの、あなたに捧げる」
「そんなつもりで来たんじゃないよ。僕にとって君は何よりも大事な人だから」
その先を言えず、ディルムッドは黙ってしまう。少年は青年に姿を変えても心の中の純朴さは何も変わっていなかった。
孤独のなかに生きて、孤独の中に存在し続けた彼の心は、どれほど多くの友人知人を得たとしても、たぶんずっと癒されることはない。彼だけの家族を与えてやらなければ、その心の寂しさは死ぬまで埋まることがないのかな。
ミレイアはふとそんなことを考えてしまう。
そしてそれができるのは多分、命を賭して救いに来てくれたことから見ても、それは単なる思い上がりかもしれないけど。
だけど、自分しかいない。彼を見てクスリと笑う幼馴染は彼の背中へと手を回しその全てを抱きしめた。
「これからはあなただけの家族になるわ」
「……最初から家族だったじゃないか。僕のミレイア」
「ただいま、私のディルムッド」
そして静寂の中に訪れた光に包まれて、やがて二人の姿はゆっくりと消えていった。