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赤いオートバイ  作者: 田代夏樹
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第二章 城田夏海

 11


 落ち着いて。自分にそう言い聞かせた。今日はまだエンストしていない。街を走ってみたけれど、大丈夫、車の流れには乗っている。少しずつ、このバイクに慣れていく気がした。


 先週、自宅にこのバイクが届いた。教習中から、もうこのモデルにしようと決めていた。ホンダの600ccのダブルアール、そのシリーズの250cc。取得できるのは普通二輪運転免許だから、400ccまでは乗れるけど、私は身長が低い。技量がないうちから足着きがよくないバイクに乗ることに躊躇いがあった。でもニーゴーならきっと大丈夫。何度もカタログを見てシート高を確認し、教習車と比較しながら自分に言い聞かせた。これなら厚底のシューズじゃなくても、お尻を半分落とさなくてもバイクを支えられる。

 本当はショップに行って跨らせてもらいたかった。でもショップで跨らせてもらったら、きっとそこで買わなくてはならなくなる、そんな気がした。どこで買うのがいいのか、よく判らなかったけれど、少しでも安く買いたかった。他にも買うものが沢山あるのだから。ヘルメット、プロテクター付きのジャケット、ブーツ。グローブは、免許を取りたいと言ったら、お父さんがプレゼントしてくれた。お父さんも昔は自分がバイクに乗っていたから、私がバイクに乗ることに反対はしなかった。気を付けて乗るんだぞって一言。お母さんには反対されたけど。私だって社会人、収入のある、一人前の大人だ。何をするか、何を買うかは自分で決める。

 インターネットでいろいろと調べると、家の近所の店ではなく、通販で県外の店舗から取り寄せるのが一番安いみたいだった。大手の中古車業者のウェブサイトで、走行距離や装備、カラー、慎重に選んだ。購入ボタンを押す前からワクワクが止まらなかった。

 届いたバイクは全然教習車と違う、フルカウルのレーサーレプリカ。前傾姿勢はその気にさせてくれる。アクセルをレーシングする音も、タコメータの踊る針も、全てが新鮮で嬉しい。バイクを届けてくれた業者の人は、これが私の初めてのバイクだと知ると、丁寧に各部の説明をしてくれた。

「以上で説明は終わりです。何かご質問は?」

そう聞かれたけれど、舞い上がってしまい、大丈夫です、と言い切ってしまった。

「ガソリンは五リッターしか入れてませんので、まずはガソリンスタンドで給油して下さいね。それではご安全に」

ご安全に、という言葉が妙に新鮮だった。業者が帰ったあと、走るための装備を身に付け、バイクに跨ってエンジンを掛けてみた。二度三度とアクセルを煽る。それに連動する排気音。踊る針。嬉しい。自然と笑みがこぼれる。カッコいい。色もブラックを選んだのが正解に思えた。

 ここまで長かった。通販サイトで購入を決めてから必要書類を送って三週間、名義の変更が終わって書類が郵送されて来た。それを元に保険に加入してバイクの到着を待った。業者の整備が終わって車両が届くまで、本当に一日千秋の思いだった。

 よし、ガソリンだ。ギアを入れてゆっくりとクラッチを繋ぐ。スルスルと動き出すバイク。いいじゃん! 慎重に、いつも行くガソリンスタンドへバイクを走らせた。セルフスタンドの給油機の横にバイクを止めて、慎重にバイクを降りてサイドスタンドを出した。ゆっくり傾ける。大丈夫、私のバイクを支えてくれている。

 給油機のタッチパネルを操作しようとして会員カードを忘れていることに気が付いた。カードは車の中に置きっぱなしだ。仕方ない、車とバイクを二台持つということは、ガソリン系のカードは車の中に置きっぱなしではいけないということだ。気を付けよう。油種はハイオクだったかな? さっきどっちと言ったっけ? まあいい。バイクのタンクは小さい。ハイオクにしよう。どのくらい入れるのか、よくわからない。車の時はどのくらい入ったのか見えないけど勝手に止まってくれた。バイクのタンクにはノズルが入り切らない。タンクをのぞき込んで、溢れちゃダメだと言いながら給油を終えた。よしよし、大丈夫。

 バイクに跨って、バイクを垂直に立てる。ガソリンの分だけ、重い。エンジンを掛ける。ギアを入れてクラッチを繋ぐとエンジンが止まった。何で? あ、サイドスタンド。焦るな、私。スタンドを払ってエンジンを掛け直す。クラッチをゆっくり繋ぐ。歩道を横切る前に一時停止。左右確認してスタート。エンスト。焦るな私。来るときより重くなっているのだから、とエンストの理由を探してエンジン掛けた。回転数を上げる。上げ過ぎ? いやエンストするよりマシだ。大丈夫、焦るな、慎重に、と呪文を繰り返しながら自宅に戻るまで、エンストは四回した。


 落ち着いて。自分にそう言い聞かせた。今日はまだエンストしていない。街を走ってみたけれど、大丈夫、車の流れには乗っている。少しずつ、このバイクに慣れていく気がした。そうだ、このまま高速に乗ってみよう。バイパスを走らせながら考えた。まだ早いかな? 大丈夫、車でなら普通に高速を走っている。車がバイクに変わるだけだ。念のため、スタンドでガソリンを入れた。少ししか入らなかったけど、二度目だからすべてがスムーズにできた。

 バイパスに戻り、高速道路へのスロープを上がっていった。上りの坂道で減速しないように、アクセルを充てて。高速道路の入り口で一旦停止し、通行券を取る。取った券をポケットに仕舞うが、それがなかなかできない。グローブを着けたままではポケットに物を入れることさえできないということを初めて知った。慌ててグローブを外して券をポケットに入れ、グローブを着け直す。後ろの人、ごめんなさい。大きな声で謝りたい気持ちだった。ライダーは皆、どうしているのだろう? あとでネットで調べてみよう。あ、ETCか。そうか、そうだね。私の車にも付いている。

 加速レーンで思い切ってアクセルを開けてみる。怖い。風圧で体が後ろに持って行かれそうだ。ハンドルをギュッと握る。走行レーンが空いていたおかげで、スッと入れた。オーケー、大丈夫。時速は八十キロまで上げてみた。ヘルメットが後ろに、顎が上がる。風が首からヘルメットの中に巻き込む。首が痛い。どうしたらいいのかよく判らないけど、なんとなく体をカウルの中に沈めてみた。嘘のように風が止んだ。そうか、そうだよね。そのためのカウルだ。車での時速八十キロは、別に怖くない。けれど、バイクだと速度の感覚がまるで違う。体感する速度は五割増しのような気がした。それに風圧。カウルがなければ飛ばされたのじゃないかと思えた。車とバイクの違いを改めて思い知った。教習所でも習ったはずなのに、すっかり忘れていた。バイクも高速教習をやるべきだ、何故そんなカリキュラムになっていないのだろう。

 しばらく走って、次の出口で出ようかと思ったが、PAのマークを見てパーキングに入れようと思い直した。高速道路には入れた。次の課題は出るときだ。入る時にあれほど苦労したのだ。出るときは券とお金を渡し、お釣りと領収書をもらって、更にそれを仕舞わなければならない。ちゃんと準備しなければ。パーキングエリアに進み、乗用車のスペースにバイクを停めた。バイクの駐車場所に停めて、他のライダーに初心者と見透かされるのが嫌だった。

 ヘルメットを脱いで髪をかき上げる。ミラーを覗き込んでメイクが崩れていないことを確認する。前髪と頭のてっぺんがぺちゃんこだ.。男の人はウィッグの下に着ける、ネットみたいなものを使う人もいるみたいだけど、女性はどうなんだろう。髪形を潰さないアイテムなんて、ないのだろうか?  考えながら歩く、パウダールームに行くまでのわずか数十メートルが、体がフワフワして変な感じだった。それが緊張からの解放感なのか、単純に自分が浮かれているのか、判断が着かなかった。足が地についていない自分が可笑しかった。

 中に入るときれいなパウダールームだった。三月の中旬、寒いかなと思って沢山着込んできたから、用を足すのも大変だ。大きな鏡に映る自分を見て服装のチェックをする。よし。

 外に出て売店でコーヒーを買った。紙コップ越しに熱さを感じながら、遠くで自分を待つ、黒いバイクを眺めた。ここから見ても赤いラインが際立ってシャープに見えた。うん、カッコいい! 惚れ惚れする。このバイクに負けない、カッコいいライダーになりたい。ならなきゃ。


 コーヒーを飲みながら作戦を立てた。お釣りをもらうのは避けたいが、小銭を出すのはもっと大変そうだ。バックパックではなく、ウェストバッグかポーチにするべきだった。思いつきで高速道路に乗ったことを、少し後悔した。でも、こういう経験の一つひとつが大事なのだ。そうだ、クレジットカードで払えばいい、と閃いた。料金所で一時停止、ギアをニュートラルにしてリアブレーキを踏んだままグローブを外す、ポケットから通行券とカードを一緒に出して。よし、これが一番スムーズだ。納得してコーヒーを飲み終えた。バックパックから財布を取り出し、高速道路の通行券と一緒にジャケット右側のポケットに入れ、バックパックを背負った。これで準備は整った。

 目の前を横切る軽トラをやり過ごし、バイクに歩み寄った。軽トラにはバイクが積んであったが、自分のとはまるで違う形をしていた。オフロード用だっけ。一瞬目で追ったが、自分のバイクに目線を移すと、すぐに忘れた。

 キーをポケットから取り出し、差し込む。ヘルメットを被り前髪を直して顎紐を締める。グローブを着けて、準備完了。スタンドを払って、バイクに跨る。キーを回して、メインスイッチ、オン、と呟く。インジケータのランプが点灯する、この一瞬が好きだ。が、何かが違うような気がした。違和感の正体に気が付かないまま、セルスイッチを押したが、エンジンが掛からない。エンジンが掛からないというよりも、うんともすんとも言わない。もう一度押す、長く押す。セルの押しっぱなしはダメだと教わったが、無視して押し続けた。何にも言わない。あ、キルスイッチ。パチパチとオンオフを繰り返し、こっちがオンであってるよね、っと自分自身に聞いた。そもそもここは触っていない。ダメだ。胸の鼓動がどんどん早く、大きくなっていった。

 何故? 何か起きたの? さっぱり解らなかった。落ち着いて、と自分に言い聞かせる。キーを回してスイッチを切った。深呼吸を二つ。もう一度キーを回してセルを押す。セルは回らない。どうして? 恐怖心が湧き上がってくる。目頭が熱くなって、鼻の奥がツーンとして。もうパニック寸前だった。どうしたらいいのか、さっぱり解らなかった。何度も同じ動作を繰り返す、何度繰り返しても同じだった。お願い、掛かって!

「あのう、どうかしましたか?」

不意に声を掛けられ、びっくりした。振り向くと、中年の男の人が立っていた。Gパンにトレーナー。両手をポケットに入れて、声の主はこの人だ。その向こうに軽トラ。さっき視界をかすめたオフロードバイクを思い出した。この人のだろうか。

「エンジン・・・掛からなくなっちゃって・・・。どうしよう。どうしたら・・・」

つい答えてしまった。頭が混乱していて見知らぬ人への警戒心がマヒしている。でも、自分の声を聞いて少し落ち着いた。そうだ、エンジンが掛からないのだから、バッテリーが上がってしまったのかも知れない。お父さんのバイク、バッテリーが上がったから押し掛けでエンジンを始動させたって、前に確かそう言ってた。

「バッテリー、上がっちゃったのかな。これ押し掛けですか? 押し掛けなんてできない」

思っていることがそのまま言葉になった。

「FI、でしょ? バッテリーが完全放電してたら、まず押し掛けは無理です。ちょっと降りてもらっていいですか?」

言われるがままにバイクを降りようとして、バランスを崩した。慌てて踏ん張る。エフアイって何のこと?

「まず落ち着きましょう。ね。バッテリーなら誰かブースタケーブルを持っている人がいるかも知れません」

サイドスタンドにバイクを預けて二歩下がった。男が私のバイクを覗き込む。ここに来る前、どのくらい走りましたか?調子はどうでしたか? 聞かれて私は答えられずにいた。この人はバイクに詳しいのだろうか。

「貴女のオートバイ、ですよね?」

そう言われてちょっとむっとした。

「私のです」

「怒らないで下さい。確認したいのです」

「先週やっと納車されて。中古で買ったんです。初めてのバイクで。調子の良し悪しはよく判らないけど、普通に走っていました。今日はお昼から3時間くらい乗って・・」

言葉を切りながらの説明。なんか変なしゃべり方だ。

「一人で?」

「今日は一人です。来週友達とツーリング行く予定で、高速も慣れなきゃって、乗ってみたのです」

「ガスは?」

「高速に乗る前に」

「軽油、入れてませんよね?」

「ハイオクを入れました」

「解りました。ありがとうございます」

男がキーを回す。

「あ!」

その人の声に、体がビクッと震えた。ヘルメットを脱ぎ掛けた手が止まった。こちらをゆっくりと振り返り、

「ヒューズボックスの場所、判りますか?」

尋ねられたけど、そんなの、知らない。

「判りません。あの・・」

「電気系のトラブルだと思いますが、もしかすると・・・」

その先は言わなかった。シートを外して何かを探しているようだった。

「ちょっと知り合いのバイク屋に電話してみます。保険、入っていますよね? 任意保険。レッカーを使うことになるかも」

私の目は再び涙が溜まり始めた。こぼしてなるものか。

「毎度」

関西風のイントネーションだ。このおじさん、関西人なのか?

「これ、FI交換しなきゃ駄目ですかね?」

「そんな距離じゃないから」

「独身生活を謳歌していますよ」

 何の話をしているのだろう? 独身だろうと既婚だろうと関係ないじゃない。ああ、もう陽が傾いている。おじさんは電話を終えた。

「残念ですが自走は無理だと思います。バイクの購入店に引き取りに来てもらうか、保険のレッカーを使うか、JAFを呼ぶか、ですね」

「通販で買ったから、店、遠いんです。来てくれますか?」

「さあ。それは私に聞かれても・・」

 私はスマホの履歴から中古車業者の番号を探して電話をした。店長は不在で整備主任と言う人が話を聞いてくれた。

「え? 高速道路で立ち往生? エンジンが止まったのですか? ああ、パーキングで。エンジンが掛からなくなった? ちょっとお待ちいただいてよろしいですか? 整備記録確認します。え? FIが? それは誰が? 偶然通り掛かった人が、他のバイク屋に聞いてくれたということですか? そうですか・・・」

しどろもどろの説明を根気よく聞いてくれた。しかし、引き取りはできないという。

「大変申し訳ございませんが、今日のお引き取りは車両が準備できないので、すみません、後日調整致します。ところで、任意保険のご加入はお済でしょうか?でしたら特約にレッカーサービスが付記されているかも知れませんので、ご確認下さい」

 一旦電話を切って、今度は保険屋さんに電話を掛けた。きれいな声のオペレーターの女性が丁寧な対応をしてくれた。契約書の番号を言うと、ご自宅から五十キロまでは無料で、すぐに手配しますので一時間ほどお待ち下さい、と言われた。

「引き取り、一時間くらい待つように言われました」

「仕方ありませんね」

「いろいろありがとうございました。私パニくってしまって・・・。助かりました」

「いえ。何をしたという訳でもありませんから。困ったときはお互い様ですよ」

おじさんは軽トラに乗り込み、窓を開けて大きな声で言った。

「話し相手、要りますか?」

笑っている。

「大丈夫です」

 クラクションが一回、短く鳴って軽トラは走り出した。私は頭を下げた。もう大丈夫、私は冷静を取り戻していた。一人でも大丈夫。帰れる目途も着いた。バイクは修理が必要みたいだけれど、もうあたふたしても仕方がない。休憩所のバイクが見える場所に座り、ただレッカー車を待った。


 昼休みにスマホを手に取ると、着信履歴があった。見慣れない番号、誰だろう、留守電を再生すると中古業者のバイク屋さんだった。私が購入した店ではなく、系列の他の店舗だった。その店舗の方が私の自宅に近い。店長を名乗る男性はとても丁寧な言葉使いで、引き取りに伺いたいのですが、と切り出した。このバイクには購入後三ヶ月もしくは千キロの整備保証が付いている。今回の修理は無償だ。引き取りは、平日なら夜八時まで対応するという。その時間なら大抵自宅に帰っている。できるだけ早く来て欲しいと頼んだ。修理に掛かる日数は見当もつかないが、週末には使いたいのだ。早速引き取りの予定を組んでもらった。

 しかし結局修理には一週間掛かった。引き取りの翌日には、故障した部品の特定ができたので部品を手配したと連絡があった。ただ、何故そこが壊れたのか、原因を特定できないと言う。通常こんな短期間で故障することは考えられない。中古だが、新車登録から二年も経っていないバイクだ。たぶん、前のオーナーが電子ユニットに負荷の掛かる、特殊な電装品を使っていたのではないか、そんな話をしてくれた。

 そして私のバイクが帰って来た。朝からそわそわとしていた。こんな気持ちでバイクの到着を待つのは二度目だ。しかも同じバイクで。引き取りに来た時と同じ整備士がトラックでやって来て、修理の説明をしてくれた。故障した部品を交換したことと、一緒にリコール対象部品も交換してくれたとのこと、そして修理に手間取ったことを丁寧に詫びた。早速エンジンを掛ける。気持ち良く吹け上がる二気筒のサウンドを聞きながら、お帰り、と心の中で話し掛けた。楽しみにしていた初ツーリングは延期になったけれど、逆に考えれば不良箇所は全て無くなったとも言える。前向きに考えよう。



 12


 職場には同性のライダーがいる。私の先輩で指導員でもある、真鍋洋子さん。私が免許を取るときも、アパレルやギアを選ぶときも、貴重なアドバイスをしてくれた人だ。ライダー歴は三年だから、私からすれば大先輩だ。ヤマハの、ものすごく速そうなニーゴーに乗っている。免許を取ったら一緒に走ろう、バイクを買ったら一緒に走ろう、そう何度も誘ってくれた。ただ、残念だけど彼女とは休みのシフトがなかなか合わない。前回流れてしまった幻の初ツーリングは、本当に貴重なチャンスだったのだ。

 バイクが帰って来て、私は彼女にツーリングを誘ってみた。三週間後の日曜日は二人とも休日だ。彼女は快くオーケーと言ってくれた。彼女の彼氏もやはりライダーだ。目的地やルートの選定は全て任せた。大体、どうやってプランを立てるのかも私は判らないのだ。洋子さんー彼ー彼の友人と、瞬く間に連絡が繋がり、初心者引率ツーリング(仮)の計画はすぐに決まった。


 アラームが鳴る前に目が覚めた。ゆっくりと意識が覚醒するのではなく、いきなり、全ての体の機能が全力運転を始めたかのような目の覚め方だ。分厚い遮光カーテンの隙間から、日差しが見える。昨日何度も見た天気予想でも今日は快晴だ。ベッドから降りて窓に飛びついた。カーテンを開ける。よし、いい天気だ。着替えを始める。洋子さんは、まだ冬用のジャケットでいいよ、って言ってた。パンツの下にも冬用のインナーを着たいが、家の中では熱いだろう。取り敢えず、一旦部屋着に着替えて朝食とメイクを済まそう。

 トイレを済ませ、洗面所で歯磨き、洗顔、化粧水。私のモーニングルーティン。キッチンではお母さんが朝食の準備をしていた。おはようと挨拶して一緒にご飯を作る。私とお母さんは朝食はパン派だが、お父さんはごはん派だ。

 私が朝食を済ます短い時間の中で三回も気を付けて、と言われた。その度に大丈夫、気を付けるから、と繰り返し、部屋に戻った。鏡を覗き込んで自分に問い掛ける。私ってそんなに心配? 簡単に顔を作る。メイク時間はいつも短い。髪をとかして完成。ウェストバッグの中身を確認する。財布、免許証、ガソリンのカード。メイク道具、ハンドタオルとティッシュ。スマホ、家の鍵とバイクのキー。

 次は着替えだ。上下のインナー、厚手の靴下、バイク用の革のパンツ。男物のネルシャツにフリース、ベスト、アウターはライダースジャケットだ。シュシュで髪をまとめ、ポニーテールを作る。ウェストバッグを腰に回して、カチッと閉めた。やっぱりこの服装だと部屋の中では熱い。

 ヘルメットとグローブを持って階段を下りる。キッチンのお母さんに、行ってきますと言ったら、今日四回目の、気を付けて。そして四回目の、大丈夫。お父さんはいなかった。まだ寝ているのかしら。玄関でブーツを履く。ガレージへ行くと、お父さんがシャッターを開けてそこにいた。母さん、心配性だから。そう言って笑ってた。たぶん、キッチンでの会話を聞いていたに違いない。今日五回目の気を付けては、お父さんから聞いた。

 キーを取り出し、メインスイッチへ差し込む。ヘルメットを被る、グローブをはめる、一連の動作はもうすっかり慣れた。サイドスタンドを払い、バイクに跨る。メインスイッチ、オン。呟いて捻る。エンジン、スタート。ここも、そっと呟いてセルスイッチを押す。一発始動。もうワクワクが止まらない。ヘルメットの中で、私は満面の笑みだ。ガレージの出口に立つ、お父さんも笑っている。朝の光の中に、私は走り出した。


 待ち合わせ場所のコンビニに着くのは、私が一番だと思っていたけど、もう洋子さんが来ていた。朝の挨拶もそこそこに彼女は私のバイクをベタ褒めしてくれた。もうそれだけで気分が上がる。いかんいかん、今日の私は浮かれ過ぎだ。初めてのツーリング、気を引き締めなきゃ。

 次に来たのは洋子さんの彼氏のお友達の結城さんYZF-R1、私は初対面だ。挨拶をしていると、洋子さんの彼氏、坂本さんはYZF-R25で到着。その後ろにNinja1000SX、浅見さんがいた。浅見さんは洋子さんの前の部署の人で、私も面識がある。実は洋子さんがバイクに乗るきっかけは坂本さんではなく浅見さんにあるらしい。その話は深く掘り下げて聞きたいところだが、一切話してくれなかった。洋子さん、実は頑固者。全員が揃ったところで坂本さんが挨拶をした。

「皆さん、おはようございます。城田さんのバイクデビューに相応しい天気です。ルートは事前連絡の通りで変更はありませんが、今日の主役は城田さんです。城田さんが無理をしないように各自留意して、安全運転でお願いします」

「城田夏海です。今日はよろしくお願いします!」

私も挨拶した。他の人たちはもう何度か一緒に走ったことがあるようだ。

「じゃあ、インカム合わせまーす」

 こうして、私の記念すべき初ツーリングは始まった。ワクワクとドキドキで舞い上がる気持ちを抑えつつ、安全運転安全運転安全運転と三回唱えてスタートした。市街地を抜けて海岸線に入る頃、ようやく昂った気持ちが落ち着いてきた。

 お喋りしながらのツーリングなんて、楽しみだけど私にお喋りをする余裕があるのだろうか? そんな心配していたが、全然違った。先頭を走っている人が、この先渋滞中とか、対向車にツーリンググループ発見、皆さんヤエーを! などと逐一情報をくれるのだ。うん、これは素晴らしい。私はグループの後ろから二番目、洋子さんが最後尾を走ってくれた。私がエンストしたときも、大丈夫、リラックス! と後ろから励ましてくれる。安心して走れる。楽しい。皆と走るって、こういうことなんだ。勝手に納得した。

 走り始めて一時間ちょっと、三十五キロ走って一回目の休憩。コンビニに用はなかったけれど無理やりガムを一つ購入して、五分間だけ、休ませてもらった。この先は山間部になるからね。次は峠の展望台まで二十五キロくらい。でもここから状況が一変した。コンビニを出て、最初の信号を曲がり、民家がまばらになったら、いきなりペースが上がったのだ。

 この先集落なし、皆さんご安全に! 先頭を走る結城さんの言葉が合図になり、三台が吹っ飛んで行った。本当に、排気ガスを残して消えて行ったのだ。え? マジ? 私も慌ててアクセルを捻る。とたんに洋子さんが、ダメよ無理しちゃ! と止めてくれた。この先は休憩所の展望台まで一本道だから、あいつら先に行って待ってるわ。待たせればいいのよ。

 峠道に入ると私の頭の中は真っ白になった。カーブの先が見えない。怖くて恐る恐るそーとカーブに進入すると、エンストしそうになる。慌ててクラッチを切ったらバイクが傾いて倒れそうになった。ダメー、倒れないでーと心の中で叫んで踏ん張った。なんとか持ちこたえられた。胸の鼓動は違う意味でドキドキしてた。

「なっちゃん、ギアはもっと低くて良いよ」

洋子大先輩が優しく諭す。

「私、先導するね。落ち着いてついて来て」


 市街地では車の流れについていけた。峠道も車の後ろについて行くのなら何とかできた。だけど車がいなくなったとたん、前を走るバイクに全然ついて行けない。いや、あの三台は特別なのだ。洋子さんのあとを走りながら懸命について行くが、それでも時々見失うくらい距離が離れてしまう。見通しの悪いカーブの連続だ。インカムから、なっちゃん、今ギアいくつ? サードの入れっぱでいいからねー。ああ、天の声だ。慌てる心を落ち着かせてくれる。だけどギアがいくつか判らない。短い直線でギアを一旦ローまで落として二つかき上げた。皆自分のバイクが今何速で走っているのか、知っているんだ。すごいな。

 なんとか展望台に辿り着くと、そこは砂利がひかれていた。なっちゃん、砂利の上は徐行でね。車体傾けちゃ駄目よ、と天の声。慎重に進んで洋子さんの横にバイクを停めた。砂利の上で足を踏ん張る。洋子さんはバイクに跨ったまま、サイドスタンドを出してバイクをそれに預けた。私も倣ってやってみる。あ、この方が楽だ。教習所で教わった手順と違うけど。

 どうだった? 聞かれたから素直に怖いと言ったら、笑われた。でも何が怖いのか、説明ができない。笑われた理由も解らない。怖がっちゃいけないのだろうか。なら、私はバイクには向いていない。ついさっき感じた気持ち良さと嬉しさ、感動が一斉に消えた。

「ねえ、なっちゃん。怖いって思うと、体が委縮するでしょ? 体が固くなるとバイクの操作が柔らかくできないから、危険なの。でも、今日が初めてなのだから、それは仕方のないこと。大丈夫、慣れるわ。私もそうだったし」

洋子さんが助けてくれた。ねえ皆、忘れたの? なっちゃん、今日がデビューなのよ?

 そうか、慣れなのか。じゃあ仕方がない。私は峠道は初めてなのだから。でも慣れる前に事故るんじゃないか? 出掛けに言われた、気を付けて、という言葉が思い出される。

 それから、教習ツーリングが始まった。休憩の度に、あるいは走行中インカム越しに、男性陣が口々にアドバイスをする。口調こそ穏やかだったが、上から目線がくどかった。私からすれば皆さんベテランですし、勿論年上ですし、教えて頂けるのは嬉しいのですけれども! 時々、教習所で教わったことと違うアドバイスがあって返って混乱した。途中から洋子さんのアドバイス以外はスルーするようにした。大体、そんな口々に言われても解るものか。洋子さんの後ろにいれば、なんとかついて行ける。取り敢えず、今日は洋子さん一本で行く。こうしてようやくお昼を食べる食堂に着いた。

 食堂の駐車場ほぼ満車状態で、車の他にバイクも何台か停まっていた。先に着いていた浅見さんが私たちを誘導してくれた。五台のバイクを一列に並べ、記念写真。大丈夫? 疲れていない? 大丈夫だよね、まだ百キロだから。ベテランライダー達の言葉に笑顔で応える。緊張からか、疲れは感じていない。空腹も感じていない。

 洋子さんの後ろを走って、失いかけた嬉しさを再び感じていた。そうよ、バイクは楽しい。私はまだ上手く操れない半人前だけど。私も三年乗れば洋子さんのように走れるのだろうか。思い切って聞いてみた。どのくらい走れば一人前のライダーになれますか? んー? どのくらいだろう? 免許持っているんだし、一人前っちゃー一人前でしょ。距離はわかんないけど、納得するまで俺が一緒に走るよ。嘘! さっきも先頭きって置き去りにしたくせに。大きな笑い声が響く。そうだ、一人で走るよりやっぱり皆と一緒に走る方が楽しい。そこへ、聞きなれない排気音が響いた。バラバラとすごい音がしている。壊れているバイクなのだろうか? 皆が一斉に音がする方に顔を向けた。

 ドカだ。坂本さんが呟いた。あれ、もう三十年くらい前のモデルでしょ? ドカと呼ばれた赤いバイクが、ゆっくり私たちの前を横切る。と、不意に止まった。ラーダーはバイクを降りて私たちの方にゆっくりと歩きながらサングラスとヘルメットを脱いだ。私を見ている。誰だろう? いぶかしげにその人を見た。どこかで会った人だろうか? こんなバイクに乗っている人を私は知らない。年齢もだいぶ上のようだ。

「バイク、直ったのですね?」

直った? ってことは壊れたことを知っている人? 話し掛けられて思い出した。あのおじさんだ。

「あ。高速道路の! あの時はありがとうございました」

隣の洋子さんに話し掛ける。

「この前、高速でトラブった話、したでしょう? その時声を掛けて頂いた方」

ああ、と声には出さす、頷いた。

「今日は軽トラじゃないんですね」

「そう、今日はオンロードバイク」

そうか、この人はこんなバイクに乗るのか。今日はオンロードっていうことは、やっぱり軽トラに載っていたのはオフロードバイクだったんだ。

 二言三言、言葉を交わしておじさんはバイクを発進させた。袖触れ合うも多少の縁。ライダー達はどこで出会うか判らない。


 午後の部が始まった。峠道では、最初は坂本さんが私の前で引率してくれて、次に浅見さんが引っ張ってくれた。洋子さんはいつも私の後ろでサポートしてくれた。少しずつ峠道の運転に慣れてきた気がしたが、洋子さんの後ろを走っているときと全然違う感覚があった。洋子さんの後ろでは、一定の車間距離を保って走れていた。そう、教習所でインストラクターの後ろを走るように。ところが、坂本さんや浅見さんの後ろでは車間距離が伸びたり縮んだりして一定にならない。一定の車間になるようにした方がいいんですよね? インカムで聞いてみる。なるべくね。でも無理しないでいいよ。そう返事が返って来た。

 カーブの手前では距離が縮まる、でも前のバイクのブレーキランプを見てブレーキを掛けていては遅いのだ。オーバースピードでカーブに突っ込み、オーバーランしたことが何度もあって、これは流石に洋子さんから叱られた。運よく対向車が来なかった、事故にならずに済んだのはただそれだけの理由だ。洋子さんがインカムで叫ぶ。健二君! もっとペース落して! ゆっくり気味にカーブに入ると、もうそこには前走者がいない。首を回して見ると、遠くの方でバイクがスルスルと加速していく。離されちゃいけないと思い、カーブの出口でアクセルと開けるけど、私のバイクは思ったように加速してくれない。前走者はカーブ毎に入り口で待ってくれている、そんな感じだ。

 午後の二回目の休憩でバイクを降りたとき、少し脚に力が入らないのに気が付いた。屈伸運動をする。腰から背中がパンパンに張っている気がした。疲れた? まだ平気よ。自分に言い聞かせる。今日の予定ではここから海岸線に出て三回目の休憩、そして集合場所だったコンビニまで走って最後の休憩、解散と言う流れだ。

 あと少し、もう少しで今日と言う楽しい時間が終わる。ただ、楽しいと思っているは私だけかも知れない。皆が私のペースに合わせてゆっくりと走ってくれている、そう思うと申し訳ない気もした。

 海岸線の、夕日の見えるパーキングは結構混んでいた。結城さんが車用に区画された場所にバイクを停めた。ここに置くの? インカムで聞いてみる。このパーキングはバイク用の駐車場がないんだ。ここでいいよ。という返事。遠くを見渡すと、奥の海側の歩道前にバイクが十数台並んでいる。あっちなら他のバイクも停めてあるのに。その一番端に赤いドカが見えた。歩道にはあのおじさんがいた。

 私はゆっくりと近づいてヘルメットのシールドを上げた。なんか嬉しい。慎重に徐行しながら、ドカの横に並ぶように前からバイクを入れ、ギアのニュートラルを確認してエンジンを切った。

「また会いましたね!」

それから車体の下の方を見て、跨ったまま左足でサイドスタンドを出した。

「あ。だめっ!」

 私がバイクを降りた次の瞬間、スタンドが外れてバイクがふらついた。慌てて立て直そうとするが既に傾き始めたバイクを止められない。ゆっくりとバイクは倒れ込み、私はバイクに押されて尻もちをついた。自分のバイクとおじさんのバイクの間に挟まれてしまった。私の背中で、パキッと乾いた音。ヤバい。何かが壊れた音だ。おじさんが私のバイクの右側に回り込み、ハンドルを持って引き上げてくれた。

「体、抜けますか? 痛いところ、ありませんか?」

「ごめんなさい。あの、大丈夫です」

インカムから大丈夫か? という叫び声。やってしまった。初めての立ちゴケ。バイクを停める度に気を付けて、踏ん張って、頑張ってきたのに。悔しさが胸いっぱいに広がる。でも、そんなことより私は何を壊したのだろう? 明らかに何かが割れる音。おじさんは私のバイクを取り回し、向きを変えた。立ち上がって足元を見る。バイクの部品がそこに落ちていた。これは、私のではない。

「本当に大丈夫?」

おじさんの声が優しい。落ちているオレンジ色の部品を拾い上げる。ウィンカー? 振り返るとおじさんのバイクのウィンカースティが折れ曲がっていた。

「ごめんなさい。貴方のバイク、壊しちゃいました。私、直します。弁償します」

「私は、貴女が怪我をしていないかどうかを聞いているのです」

バランスを崩して尻もちをつく寸前、腰から背中に掛けて、強く何かに押し付けられるような感覚があった。でも今は背中も腰も痛みはない。服の重ね着のおかげか怪我はしていないようだった。

「体は・・・」

手足を振って確かめた。

「大丈夫です。本当に何ともありません」

「そう? バイクはいくらでも直せるけど、体はね・・・」

 仲間が周りを囲んだ。口々に、大丈夫? 怪我しなかった? すみません。大丈夫でしたか? 私とおじさん話し掛けた。おじさんは怒る様子もなく、何故私が立ちゴケしたのか、丁寧に教えてくれた。

「ここは右下がり前下がりなので、後ろ向き、バック駐車が正解ですよ」

「ごめんなさい」

「怪我がなくて何よりです」

私は神妙にしている。本当なら弁償しろと怒鳴られても仕方ないのだ。

「すみません、偉そうに言い過ぎました。ギアが入っていますから、スタートの時は気を付けて下さい」

ところが、おじさんは怒鳴るどころか、自分が教えたことを言い過ぎたと謝る。こっちは申し訳ない気持ちでいっぱいなのに。

 自分のバイクを見ると、左のハンドルバーエンドとクラッチレバーに傷が付いていた。バイクを倒してしまった、傷付けてしまった。もの凄いショックではあったが、それよりも他人のバイクを傷付けてしまったことの方が、ショックが大きく、悲しんではいけないと思った。


 それから少し、おじさんと話をした。自分が半年前にバイクの免許を取ったばかりの初心者だということ。バイクで走るのが嬉しくて楽しくて仕方がないということ。そして、今日のツーリングは自分が下手で、仲間に迷惑を掛けているということ。何故だろう。言葉がスラスラと出てきた。決して自分が初心者だから許してもらおうと思ったわけじゃない。初心者であろうとなかろうと、免許を取って公道に出ているのだ。言い訳はできない。ただ初心者であることを見透かされるのが嫌で隠していたことが、もう隠す必要がないのだという安堵感はあった。素直になれた。

 おじさんは嬉しそうに話を聞いていくれた。時々、遠くを見るような目だ。おじさんのまつ毛が長い。全く関係のないことに気が付いた自分を、馬鹿みたいだと思った。それからおじさんは車載工具を出して、スパナを折れたウィンカースティをビニールテープでぐるぐる巻きにした。どうしよう、言わなきゃ。私がこのおじさんの大切にしているバイクを壊したんだ。

 意を決して、弁償させて下さいと、何度も頼み込んだ。そうでもしなければ到底気が済まない。おじさんは半ばあきれたような顔でスマホを出した。城田夏海という名前と一緒に番号を登録してもらった。それから私のスマホにワン切り。

「田代夏樹です。田んぼのだい、夏の樹木」

「似てますね、名前。田代と城田、夏樹と夏海」

そう言うと、おじさんは笑った。



 13


 食事を済ませて自室でくつろいでいた。先日のツーリングを思い起こし、写真を眺めると楽しかった記憶が鮮明に蘇る。やっぱりバイクは楽しい、面白い。もうすっかりツボっている。でももう少し速くなりたい。せめて洋子さんの足はひっぱりたくない。どうしたらいいのだろう。慣れるしかないって言われた。そうか、経験を積むしかないのか。でも一人で走っていいものだろうか?やはり誰かに伴走してもらった方が良さそうだが。

 午後九時。スマホが鳴った。画面を見ると田代夏樹、とあった。あのおじさんだ。簡単な挨拶のあと、用件を告げられた。私がしつこく払うと言った、ドゥカティの修理代だ。ドカってドゥカティのことだって、あの日帰ってから速攻で調べた。

「代金は振込で構いません。ショートメールで口座をお知らせします」

「田代さんは、どちらにお住まいなのですか?」

気になっていたことを聞いてみた。神戸ナンバー、二度もこっちで会ったのだから、旅行者ではないだろう。

「N市です」

「私もです。田代さん、神戸ナンバーでしたから、どこかなって思っていました」

 この前、自分のことをペラペラと話したことを思い出すと恥ずかしく、おじさんのことを聞かないとバランスが取れない気がした。ただおじさんのことを聞いているはずが、いつの間にかライディングの話になってしまった。

「怖いと感じることは大事ですよ。貴女のセンサーが危険を教えてくれているのですから」

「そういうものですか?」

「私はそう思います。怖いと感じることは、無理しないことです。そのうち慣れますよ」

ああ、やっぱりここでも慣れ、か。思い切って言ってみた。

「あの、再来週の週末は何か予定はありますか?」

「予定はありませんが、天気が良ければ何処かを走っていると思います」

「もしよろしければ、一緒に走りませんか?その時に代金もお支払いできますし・・」

おじさんは黙ってしまった。ああ。言わなきゃ良かったか。

「あまり大人数のマスツーリングは、正直言うと苦手なのです」

「そうなんですか?」

「ソロでばかり走っているもので。それに、こんなおじさんが一人、若者のグループに混ざるのも躊躇しますね」

「ダメですか?」

「駄目、ではありませんが・・」

「では是非行きましょうよ。集合の場所と時間は、また後日連絡をしますから」

 ちょっと強引だったかな? でもあの物腰、きっとこのおじさんは熟練度の高いベテランなのだ。この前一緒に走った彼らより、ずっと年上で、経験も豊富に違いない。あわよくばバイク操作のコツみたいなものを教えてくれるかも知れない。自分勝手な思い込みだが、私はもっと速くなりたい一心で約束を取りつけた。


 ゴールデンウィーク中は三回、日帰りのツーリングに出掛けた。ソロで一回、幼馴染と一回、洋子さんたちと一回。しかしソロで走ったときは参った。元々人見知りする方ではない。幼い頃から、なっちゃんは警戒心が足りないと、いつもお母さんに言われてきた。そのせいか、私には何故かいつも人が寄って来る。休憩した道の駅や、観光名所の駐車場、はたまたコンビニでさえも、ナンパされた。女性が一人でバイクを走らせるのはそんなに珍しいことなのだろうか? 教習所の女性教官がそういえば教えてくれたっけ。しかし今どきナンパなんてね。笑うわ。勿論私は軽くあしらったけどね。


 子どもの日、その事故は突然起こった。と言っても私はその瞬間を見ていない。現場に着いたとき、三台のバイクが横倒しになっていて、ライダーが転がっていた。インカムから洋子さんの、あらあらやっちゃったよ、という比較的能天気な声が聞こえてきて、初めて事態が飲み込めた。

 その日は十人集まって走っていた。半数は初対面の人だ。理由は解らないが、のっけからハイスピードのツーリングになっていた。ついて行くのを早々に諦め、洋子さんとノンビリ走ることに専念した。女性は私も含めて四人、一人は革つなぎを着ていて見るからに体のラインがセクシーだ。大型バイクで登場したとき、皆の目が釘付けになってしまった。ところがこの女性、とんでもなく速い。先頭集団をけん引したのは、この人だ。

 車線を塞いでしまったバイクを女性三人掛かりで起こしていると、反対車線からバイクが戻って来た。転倒車両は男たちに任せるとして、私と洋子さんは後ろで交通整理。男って、ほんと単純、馬鹿。洋子さんが呟く。そうか、そういうことか。要はあの女性の前でカッコを付けたかったのか。何日か前のナンパライダーを思い出す。結局どいつもこいつも同じか。アホ共め。


 ツーリングから戻ると、夜を待って田代さんに電話を掛けた。この前はこの時間に電話を頂いた。たぶんこの時間なら失礼にならないはず。年配の方に失礼のないように、今日のできごとを話した。ただセクシーライダーのことだけは言わずに。

「救急車を呼ぶ騒ぎになって。大変だったのです。警察は来るし、レッカーを呼ばなきゃならないしって・・」

「貴女は無事だったのですね?」

「私は一番後ろを走っていましたから。距離も離れていたし」

「巻き込まれた人がお気の毒ですね」

「そういう訳で。申し訳ありませんが、今回は中止ということでお願いします」

私から誘ったのだ。楽しみにしていたのは私の方だ。本当に申し訳ない。

 それからまた少し、田代さんのことを聞いた。この連休はどこを走ったのか、誰と走ったのか。こんなこと聞いたら、あきれられるかしらと思ったけれど、どうやったら安全に速く走れるようになるかも聞いてみた。

「走る、止まる、曲がるの基本操作の反復でしかないでしょうね。自分のバイクの性能も踏まえて、最短制動や急減速ができれば回避運動ができます。その上でツーリングは上手い人に付いて行って、どこで減速するとか、どこで加速するとか、真似するのもいいです」

「私、遅いから置いてきぼりにされちゃいます」

「上手い人が貴女のペースに合わせてれば良いのです。初心者をリードするのはベテランの役目ですよ」

 ああ、なんて寛容な人なのだろう。厚かましいけれど、もう一度頼んでみよう。

「・・・私も日曜日、一緒に走っていいですか?」

「構いませんよ。元々来週はそのつもりでしたから」

やったあ。ありがとうございます。単純に、嬉しい。

コースもスケジュールも、全てお任せしていいかしら。お願いして電話は終わった。

 翌日、つまりゴールデンウィーク明けの出勤日、思わず、嘘!と口に出してしまった。まさかのシフト変更。しかも今週末の土日が来週、再来週の水曜日と入れ替え。上司は申し訳なさそうに、しかし厳として命令した。仕方ない、宮仕えとはそういうものだ。丸一日を落ち込んだ気分のまま過ごし、その日の夜、田代さんに電話した。悪い連絡こそ、早くしなければならない。

「本当にごめんなさい」

何度も謝る私に、気にしないで下さい、と慰められてしまった。

「週を明けて、水曜日が代休なんです。その次の週も。どうせなら月曜日に代休をくれたら連休になるのに」

愚痴が出てしまった。

「来週の水曜日、ですか?それは奇遇ですね。その日は私も休みなんです」

やったあ。何これ、神様のいたずら?

「それでは、週末ではなくて水曜日に行ける、ということでしょうか? あ、ごめんなさい、予定があってお休みされるのですよね?」

慌てるな、私。

「いえ、予定はないのです。強いて言えば衣替えをするくらいで」

「それでは?」

「はい。行けますよ。行きましょう」

こうして田代さんとツーリングの予定が決まった。



 14


 朝七時四十五分、待ち合わせの駐車場に行くと、既に田代さんは来ていた。おはようございます!  ヘルメットのシールドを上げるや否や叫んだ。我ながら声が大きい。胸が高鳴っているのが判った。私が待つつもりだったのに。おはようございます、と言う田代さんの声は冷静だった。

「峠道までは私が先導します。合図したら追い越して貴女が先を走って下さい。峠の山頂までは曲がる所はありません、まっすぐです。山頂に行くまでの途中、最初の駐車場に入って下さい。いいですか?」

「私が前を走るのですか?」

てっきり、ずっと先頭を走ってくれるものだと思っていたから、この提案はびっくりした。

「ご自分のペース、リズムでお願いします」

大丈夫、ソロツーリングだってこなした。峠だって何本も走った。私はできる。自分に言い聞かせた。

 田代さんについてバイクをスタートさせた。走り始めてすぐに判った。この人、すごく上手いんだ。ただ市街地を走るだけでそれは判った。バイクのあらゆる動きがスムーズなのだ。流れに乗るというより、流れをコントロールしている、そんな感じだ。加速も、減速も、レーンチェンジも。交通量が少なめとはいえ、こんな風に走る人を私は初めて見た。

 バイパスから旧道、そこから国道に入り直して、峠の標識を見つけた。右折して県道に入ると、田代さんは速度を落として、右手をアクセルから離し、手首だけでクルクルと円を描いた。これが合図だ。私は後方を確認してウィンカーを出し、田代さんを追い越した。

 片側一車線の峠道は路面が少し荒れていた。カーブが近づく、自然と肩に力が入る。ブレーキで減速、ニーグリップ。太ももにも力が入る。アクセルはパーシャル。バイクを倒し込む。そう、外側のステップで踏ん張る、カーブの出口でアクセルを開ける。大丈夫、できる。でも九十九折りのヘヤピンカーブは本当におっかなびっくりだ。そして中途半端に大きなカーブも怖い。スピードをどのくらい落とせばよいのか、未だによく判らないから、つい、減速し過ぎてしまう。もっと速くても良かったかな、たった今抜けて来たカーブのことを考えていたら、もう次のカーブが目の前に迫っていた、ギャー! 来ないでー! 先の見えないブラインドのカーブ。強くブレーキを握るとABSが効いて、ガガガと音を立てた。危ない、目の前の道に集中しよう。大丈夫、遅過ぎても事故は起きない。田代さんはきっと怒らない。ブレーキ、ニーグリップ、倒し込み、アクセル、順番に、順番に。でも時々ふらついた。倒し込みのタイミングが判らない時がある。焦るな、慌てるな。自分に言い聞かす。


 パーキングの看板を見たとき、正直ほっとした。これで休憩できる。本線を離れて、駐車場の誘導路へ。走っているときは判らなかったが、田代さんは絶妙な距離で私の後ろにぴったりとついていた。十分に減速をして白い矢印が導くエリアへバイクを向けた。駐車場はほとんど空に近い。二輪車と書かれた場所にバイクを止めて、ギアはニュートラル。グリーンの灯りを確認してからメインキーをオフにし、サイドスタンド出して車体を預けた。バイクを降りてグローブを外し、トップブリッジの上に置いた。ヘルメットを脱ぎ、前髪を描き上げた。ふーー。

「どうでしたか?」

田代さんの優しい声が風に乗る。

「怖かった」

素直に言ってみた。笑われるだろうか。田代さんはその言葉には触れずに、肩、凝っているでしょ? と言った。そう言われて肩を上下に動かした。何でもお見通しだった。

 

「どうしたらいいのでしょう?」

ベンチに並んで腰掛け、遠くを見ていた田代さんに話し掛けた。

「アドバイス、必要ですか?」

「まさか人生相談ではないですよね」

この人、面白い。人生相談なんてこんなシチュエーションでしないわよ、普通。

「人生相談、ではないです。ワインディングの走り方。もっとスムーズに速く走りたい」

田代さんは黙って頷いた。

「田代さんは何も言わないんですね。私の友達はアドバイザーばっかり。マウント取りに来るし」

「私はほら、おじさんだから。聞いてくれれば知っていることはお教えしますよ。でも聞かれてもいないことを自分から言うと、要らぬお節介になる。そうでしょう? だから基本、自分からは言わないスタイル」

そう言うと、田代さんはメモ帳とボールペンを取り出し、絵を描きながら教えてくれた。

 とても丁寧で解り易い解説だった。頭の中のモヤモヤが晴れていくように感じた。真剣な顔、この人は真面目で誠実な人なんだ、そう思った。そして印象に残った言葉。私は心に刻み込んだ。

 バイクライディングの楽しみは加速。スローインファストアウト。


 平日だというのにお蕎麦屋さんは混雑していた。待ち時間の間、そしてお蕎麦を食べながら私たちはバイクライディングの話をしていた。理屈はあまり得意ではない。それでも、本当に解り易く教えてくれた。聞いたことは何でも答えてくれる。すごい。ライディングについて興じる私たちは、他の人からどのように見えるのだろう? 少しだけ気になった。

 午後は田代さんが先導してくれた。私は教えて頂いたことをやってみて、休憩の度に田代さんを質問攻めにした。本当に田代さんの後ろは走り易い。安心してついて行けるし、自分が上手くなった気がする。もしかしたらこの人は教習所のインストラクターなのかも知れない。あるいは白バイさんとか? 実はプロのライダー? 私は勝手に想像し、でもプロライダーに転勤なんてあるのかしら、引退したのかしら、と想像を膨らませた。半ば強引だったとはいえ、この人と一緒に走れたことはラッキーだった。

 そして最後の休憩場所のコンビニ。やはり少し疲労感があった。でもすごく充実した疲れだ。店舗に入った田代さんを見て、スマホをチェックした。今日はスマホを全然見ていない。SNSの書き込みがすごい数になっていたが、それは無視した。読むより先に今日の感動を誰かに伝えたかった。

 メッセージを書き始めて、躊躇し、消した。冷静になろう。すごい、だけでは伝わらない。今日のことを思い返してみた。田代さんがコーヒーを手に出て来た。あ、私もコーヒーを飲もう。もう少しだけ田代さんと話がしたい。職業を聞くのは失礼にはならないよね? 経歴は聞いたらダメなのかしら。店に入っておトイレを借り、コーヒーを買った。出ようとすると田代さんが入って来て、イートインコーナーに手招きした。椅子に座れるのは有難い。

「本当に今日はありがとうございました。いろいろ教えて頂きまして」

丁寧にお礼を言って、でも、もう一つの疑問が頭をもたげた。この人は私よりだいぶ年上だ。そしてベテランライダー。どうして年下の、初心者の私に対して敬語なのだろう?

「私には貴女が大人の女性に見えます。成人に対して敬語を使うのは至極当然だと思いますが」

紳士だ。もっとフランクでもいいのに。歳を尋ねてみた。私の予想では四十代前半。巳年だという答えに納得した。そうよね、そう見える。ところが次の言葉にびっくりした。

「四捨五入したら還暦ですよ」

え? 想像より一回り上だ。全然見えない。スリムで、がっしりとした上半身。

「もっと若く見えます」

「年配だからといって、バイク乗りだからといって、皆が馴れ馴れしい訳ではないですよ。それに、まだ友達と呼べる仲でもないでしょう?」

「友達ではないのですか?」

「バイク仲間、かな」

仲間、か。恐れ多い。私は呼び方を探した。

「先生とか師匠は止めて下さい。私より上手い人は沢山いますし、お教えできることなんてほとんどありません」

 アイディアを思いつき、ついニヤッとした。

「また一緒に走っていただけますか?」

「勿論です」

「ありがとうございます、師匠!」

照れくさそうに笑う顔が可愛く見えた。



 15


 あの日から私は田代さんのことを、密かに師匠と呼ぶことにした。あの日私はバイクを操るという感覚が、どういうものか解った気がした。なんとなく、だけれども。だから次の休み、もう一度、師匠と走ったコースを走ることにした。休みが待ち遠しい。

 あの日ツーリングから帰って来てSNSに投稿し、洋子さんに電話で喋りまくった。洋子さんは優しい。長い電話、彼女は相槌を打ちながら聞いてくれた。その翌日もお昼休みに彼女とツーリングの話で盛り上がった。話の流れから、次の計画が立てられ、行き先は初夏の南信州に決まった。それまで、もっと練習しておこう。

 水曜日、朝同じ時間から一人で走り始めた。師匠と走ったルートを、教えて頂いたことを一つひとつ思い出しながら走ってみた。峠道での私の呪文は、大丈夫、焦るな、慎重に、から、スローインファストアウトに変わった。

 嘘! 自分でも信じられないくらい、クルっと回った。苦手だったヘヤピンのカーブ。カーブの立上りでエンジンの回転数が上がり、スルスルと加速している。思い通りにバイクが動いた気がして、ものすごい快感だった。いい子ね。そうよ、私を連れて行って、加速して。

 スローイン、早く倒し込み過ぎないこと。ブレーキとアクセルと使い分けること。目線を遠くに置いて、バイクを走らせるラインを見て。パーシャルで溜めて、ここ! 一気にアクセルオン! ファストアウト。バイクが言うことを聞いてくれる。エンジンの回転が上がるとすごい音がするけれど、むしろ心地いい。その音がパワーの証だという気がする。

 いい気になって走っていたら、左のカーブでオーバーランしてしまった。危ない。体が固まる。ラインを動かせない。お願い、対向車来ないで! 運よく、対向車は来なかった。助かった。胸の鼓動が高鳴ったままだ。奥に行くほどタイトになるRのきついカーブだった。私には一度決めたバンク角を、より深くに変えることができない。つまり私の回転半径は一定だ。今のように奥に行くほどRがきつくなるカーブには一度入ったら対応できない。自分を戒めた。スローインを徹底しよう。ね、そうですよね、師匠。

 ちゃんと休憩も取りながら走ったけれど、先週より早くお蕎麦屋さんに着いた。女将さんは私のことを覚えていた。

「お客さん、先週も来てくれたよねえ? 今日はお一人?」

「ええ、ここのお蕎麦、美味しかったから、また来ちゃいました」

まさかバイクの練習に来た、とは言えない。先週と同じもりそばを注文し、おそばが上がるまで、さっきまで走っていたワインディングを何度も思い返した。

 上手くできた所、下手だった所、何が違うのだろう? 師匠のアドバイスが欲しかった。低速で走る小さなカーブ、緩い上りのカーブも、それなりに走れた気がする。でも下りは全然駄目だ。この先は、確か上りも下りも傾斜がきつかったはずだ。下りのカーブ、師匠になんて教わったっけ? 先週投稿したSNSをめくって、自分の書き込みを確認する。そうだ、思い出した。自分が思うよりももっと遅く入る、だ。ギアも一つ低いやつを使うのだった。バンク角を徐々深くする、は、まだできそうもない。リアブレーキを引きずってパーシャルアクセルでの加速を止めるのだった。リアブレーキは他にも何か言われた。なんとかかんとか、掛け過ぎちゃダメ、だっけ? 違う気がする、でも似たような・・・。えーと。そうだ熱でブレーキが効かなくなるんだ、何とか現象。それだけは避けなければ、怖過ぎる。そのためには徹底したスローインだ。よし、午後の課題が見えてきた。でき上がったもりそばを、スマホで写真に収めた。

 何度目かの休憩の時、ふっと思った。この道、ルートはどうしてなのだろう。普通ツーリングと言えば景観を楽しむとか、ご当地グルメとか、映え写真を撮るとか、そういう場所を選ぶものだと思っていた。お昼のお蕎麦は美味しかったけれど、ただの田舎そばだ。休憩場所も見渡しの良いところもあったが、場所で選んでいると感じはしない。というより走行距離毎に止めた、という感じだ。ここまで走って来て、交通量が少ない道だと思ったけれど、そうか、違うのだ。師匠はわざわざ交通量が少ないであろうルートを選択していたに違いない。そういえば前に、走ることそのものが目的だ、と言っていたっけ。

 しかし休憩を頻繁に入れたのは、間違いなく私のためだ。何度か経験したツーリングでは後半から終盤に、どんどん疲労感が強くなっていった。ワインディングを走るということは単なる地点間の移動ではない。バイクを操作するということはスポーツと同じなのだ。師匠は私のために、疲労が蓄積し難いように気を使ってくれたのだ。そしてそれは距離までも。師匠だけならもっと沢山の距離を走っていたかも知れない。いや、たぶんそうだ。先週のツーリングルートを正確にトレースして、自宅に帰った。今日も丁度心地よい疲労感に包まれている。今日の感動はSNSに投稿する前に、洋子さんに報告する前に、師匠に話したかった。


 お風呂にはたっぷり一時間入った。クラッチの使い過ぎ? 左手首が痛い。脚と腰の疲労は少し温めのお湯に浸かったことでスッキリした。電話は夕食を食べてからの方が良いかしら、でも待ち切れない。私は師匠の番号をコールした。一回、二回、まだ仕事中なのだろうか。三回。四回目の呼び出し音の前につながった。

「夏海です。今、お時間よろしいでしょうか?」

姓ではなく、名前が口をついて出た。ちょっと早口だ。

「すみません、今はちょっと・・・。あ、あとでかけ直します」

「そうですか、では、お願いします」

しまった。まだ仕事中だったのだ。自分がまだ興奮していることに改めて気付いた。

 キッチンではお母さんが夕食の準備中。私も手伝う。疲れているんでしょう、いいわよ、そう言われたけれど、何もせずに待っている気にもなれない。今夜のメニューは牛カツだ。牛肉の塊を一口大に切り、パッドの上で全ての牛肉に衣を着け終え、一旦手を洗ったところで電話が鳴った。師匠だ。もうお仕事は終わりですか。

「城田です」

「田代です。すみません、お電話を頂きまして」

「いえ、お仕事中に失礼しました」

でも仕事中ではなく、買い物中だったという。そうか、師匠は独身だっけ。初めて会った時、独身生活を謳歌してるって、言ってた。

 私は今日の報告をしようと思ったが、その前に来月のツーリング計画に誘うことにした。先に自分のことを話すと、何だかはしたない気がした。ワンクッション置こう。六月の梅雨に入る前に南アルプスを走るプランです、もし良かったら参加しませんか?細かいルートはまだこれからですけど。務めて冷静に言ってみる。ダメかな、師匠はソロツーがメインだものね。返事を待っていたら、あまり大人数でなければ行きましょう、と言ってくれた。やったあ。すごい、嬉しい。

「それから。今日も一人で走って来たのです。先週の場所」

「そうですか。頑張り屋さんですね」

私、褒められた。それも嬉しい。

「田代さんに教えて頂いたこと、少しできた気がします」

「城田さん。バイクは楽しく乗って下さいね。もし怖いと思うことがあれば、それはその時点での貴女の限界だと思った方が良いです。無理に恐怖心を抑え込んでも良いことはありませんよ」

そうなのかしら。恐怖心に打ち勝つことが大切なのでは? 洋子さんには怖いと思ってはいけないって教えてもらったけれど。でもこの電話で聞くのは躊躇われた。長電話になってしまうかも知れない。そうだ、長電話は失礼だ。

「とっても楽しいです。バイクも、先週よりも私の言うことを聞いてくれた気がします」

うん、そう、楽しい。バイクが思うように動いてくれるのは快感でしかない。

「週末はまた、お一人でツーリングですか?」

「今週は雨予報ですね。部屋で大人しくしてます」

「そうかあ、そうですね。ではまた、連絡します」


 今回のツーリングは洋子さんと坂本さん、そして私の三人でプランニングした。師匠の好みも盛り込もう。たぶんワインディングは、その前後に観光名所がなくて混雑しなさそうなところ。洋子さんは牧場に行きたがった。その周辺を地図で探したら、丁度良さ気な場所が見つかった。洋子さんに、なっちゃん大丈夫? と心配されたけど。


 メンバーの話になって、私が田代さんを誘ったと言ったら、坂本さんに、誰? と聞かれた。赤いドカの人、ほら私が前にウィンカーを壊した、と説明したら、ああ、あのおじさんか。でも何で? と突っ込まれた。私は適当に言葉を濁した。まさか私のお師匠さんですとも言えない。メンバーは坂本さんの友人二人を加えて全員で六人だ。あまり大人数は苦手と言っていたけど、師匠、許してくれるかしら。


 ツーリングはゆったりとしたペースで始まった。洋子さんが先頭で仕切ってくれた。坂本さんは前の事故のことがあるから、当分洋子さんに頭が上がらない。メンバーの構成上、師匠だけだいぶ年配だし、若い人とのコミュニケーションを心配していたが、坂本さんもその友達も軽いノリでフランクに話し掛けていた。彼らは地元のバイク屋のツーリングクラブのメンバーで、クラブメンバーは年齢層が幅広い。年配のライダーと話しをするのは慣れている様子だった。

 休憩を挟んで、高原の牧場に到着。入場料を払って中に入ると、スタンドショップの冷たい飲み物、アイス、ソフトクリームの文字が目に飛び込んで来た。洋子さんと小走りにスタンドに飛びつき、全員が買った。熱い陽射しにソフトクリームがすぐに溶けてしまう。夏の太陽と競争するようにソフトクリームを食べた。師匠、甘いものは苦手かと思ったけれど、目を細めて食べていた。ライダースジャケットを脱いだ腕が太い。師匠の顔を見る。やはり五十の半ば過ぎには見えない。

 そのあと、レストランで昼食を食べながらいろんな話を聞いた。ベテランライダーたちの経験談は面白い。バイク雑誌の投稿記事やネットのブログも面白いが、直接話が聞けるのは臨調感が違う。経験に勝るものはない。せめてその経験値を分けてもらおう。


 午後の部が始まった。私セレクトのルート。師匠は喜んでくれるだろうか。駐車場を出る前に、展望台集合で構わない、各自のペースで走りましょうと洋子さんが、一言。

 河を越えて山に入ると、薄い紫煙を残して先頭の二人が消えていった。坂本さん、洋子さん、私、師匠の順で走っていたが、坂本さんのペースが上がると私たちはついて行けなくなった。坂本さんが見えなくなり、私は洋子さんの後ろをついて行く。洋子さんの後ろ、ワインディングだと走り難い。

 ああ、そうか、そういうことなのね。私は私のリズムを作ろうと考えた。師匠に教わったスローインファストアウトの走り方。カーブのアプローチで私たちは離れ、脱出の加速で追いつく。私にはこのリズムよ。後ろにいる師匠からはどのように見えているのだろうか。集中、集中。

 と、直線で師匠が抜いて行った。左手で軽く挨拶。格好いい。勿論私にはついて行けない。でも大丈夫。今の私は一人でも走れる。師匠は洋子さんも抜くと、猛然と加速していった。え? 速い! カーブに入る寸前、一瞬ブレーキランプが点いたと思ったら、もう師匠は消えていた。目の前の、たった一つのカーブで見えなくなった。旧車に乗った、安全運転するだけの人ではないだろうとは思っていたが、これほどとは。今までいかに私に合わせたスローペースで走って来てくれたのか、一瞬で理解した。

 展望台にバイクを入れると、先行した四台のバイクが整列していた。私たちもその横にバイクを停めた。

「なっちゃん、上手くなったねえ。私、後ろから煽られまくったわ」

洋子さんから褒められた。そんなことないですよ。煽っていませんしー。皆が一斉に笑った。展望台には気持ちの良い風が吹いていた。

「写真撮りましょう。バイクが入るように、後ろに並んで下さい」

洋子さんがタンクバッグからミニサイズの三脚を出してセットしてきた。彼女は腰を屈めてファインダーをのぞき込み、左手を上げた。

「はーい、撮りまーす」

この風が写ればいいのにと、私はカメラに顔を向けて笑った。


 それから。迷惑かなと思いつつ、私はかなり頻繁に師匠に電話した。父親とあまり変わらない年齢の人に、だ。何処を走ったとか、ツーリング先で見つけた風景のこととか、次のツーリングの計画とか。私は師匠のバイク仲間、なのかな?歳の離れた友人と言っても良いのだろうか。電話の向こうで師匠は相変わらず敬語だ。聞いてみたかったが軽くあしらわれそうで聞けなかった。



 16


六月、七月、八月とほぼ毎週のようにツーリングに出掛けた。もっとも雨の日は中止だったけれど。レインウェアも用意したので雨の日のツーリングもできたけど、一緒に走ってくれるメンバーが嫌がった。レインウェアを着ていると夏場は蒸れるし、視界も悪い。何よりタイヤが滑るような気がして気持ちよく走れない、というのが理由だった。洋子さんは、雨の日に走るとバイクが汚れるわよ、と言った。

 私はそんなものかと思いつつ、それでも我慢できずに梅雨の晴れ間を狙って走ってみた。今日はもつだろうと思ったけれど、雨に降られてしまった。雨の中をレインウェアを着て走ってみて、初めて皆の言うことが解った。ツーリングで降られてしまうのは仕方がない、けれどわざわざ雨の中を、こんな不快な思いで走ることはない、そう思った。それでもただ一度だけ、八月の真夏日の経験は忘れられない。

 その日は坂本さんと結城さん、浅見さんの三人とで内陸部の高原を走っていた。標高は千メートルを超えているのだろうか、サマージャケットだけでは寒いくらいの気温だった。その帰り道、高原から盆地に降りてくると、どんどん気温が上がってくるのが判った。体を起こし、全身で風を受けるようにして走った。丘陵地を一気に下って行くと眼下に田舎の町並みが見えて、こんな風景を見るのは初めてだ。すっごい気分だ。丘陵地を走り切って町に入る前、長い直線で逃げ水を見た。走っても走っても追いつかない。目を凝らして見ると、景色が揺れて見える。あ、陽炎。自分が不思議な空間に迷い込んだかのような錯覚があった。すごい、これもバイクがくれる世界なんだ、そう思うと感激しかない。

 走っている時は気が付かなかったけれど、信号で止まると全く風が感じられない。真上からは陽射しで、下からはアスファルトの照り返しで、上下挟まれて焼かれているような感覚だけがあった。むせ返るような熱気で息苦しささえ感じる。体の下にある、エンジンからの放熱もあって、僅かな時間さえも止まっていたくない。


 午後四時、町を通り抜け、交通量の少ない田舎っぽさの残る国道を私たちのバイクが疾走している。ふいに空気の匂いが変わった、そう思ったらいきなり日影に入った。いや違う。頭上を雲が覆ったのだ。あっ、と思ったらいきなりバチンと大きな音がしてヘルメットに何か当たった。虫? 続いて薄手のグローブに何かが当たる。雨だ。そう判断したときは大粒の雨が、バイクを私を正面から強烈なシャワーのように叩いた。どこかに停まってレインウェアを着るか、雨宿りしなければ、そう思ったが先行する三台は止まる気配がない。慌ててインカムで。

「雨、すごいんですけど? 止まらないんですか?」

「雨宿りできるとこないんで、このまま行きます」

「夕立だから三十分も降らないよ、止むから」

いや、この雨の中、三十分も走ったらずぶ濡れですよ。でも、私のデニムパンツも既に濡れている。ここまで濡れてしまえば今更レインウェアを着ても遅いのかも知れない。上半身をカウルに沈めるようにしてアクセルを開けると段々楽しくなってきた。三人は子供が雨の中をはしゃいでいるみたいだ。そしてそれは私も。

 雨が弱くなったような気がすると、途端に小雨になり、本当にすぐ止んでしまった。また夏の陽射しが帰って来た。冷たかったデニムパンツが太陽の熱で温まるとちょっと不快だ。いっそ冷たいままか、速攻で乾いて欲しい。中途半端が嫌。

「なっちゃん! 虹!」

坂本さんの声が聞こえた。前を走る坂本さんが左手を遠くに指している。大きな虹が半円を描いている。これもきっとバイクがくれた世界なんだ。私の心を感動が支配する。迂闊にも涙ぐんでしまった。


 何度もツーリングを重ねるうちに、何となく自分の走りに足りないものが判って来た。普通に前走車について行く分には問題はない。ツーリングのメンバーは皆、街中では無茶な追い越しはしないからついて行ける。やはり問題は峠道、ワインディングだ。山間部に入ると人格が変わったかのように、いや人格が変わってしまい、途端にアクセルの開け方も変わる。師匠に教わったスローインファストアウトの走り方で、最初の頃よりだいぶスムーズに曲がっている気がするし、自分自身、安心して走れる。だけど物足りない。物足りないのはスピードだ。もっと速く走りたい、そういう欲求が大きくなっているのだ。

「ねえなっちゃん、だいぶ慣れたみたいだし、もう少しコーナリングスピード上げてもいいんじゃない?」

そう言ったのは坂本さんだ。

「レーサーレプリカなんだし、ハングオフしたら? コーナリング中の車体、安定するよ? オンザレールみたいに」

「そおなんですか?」

「ちょっと! 健二君!」

たしなめたのは洋子さんだ。

「なっちゃん、ハングオフなんて公道じゃ要らないテクだからね。この人たち、頭のネジを何本も峠で落としてるから、信じちゃ駄目よ」

「でも洋子さん。私、まだ遅いですよね? 皆さんの足手まといじゃ・・・」

「そんなことないわ。それになっちゃんの走り方、すごく良いと思う。基本に忠実で、スローインファストアウト、きちんと出来てるわ。敢えて言うなら・・・」

「なんですか?」

「コーナーの出口加速、もう少し早くアクセルを開けてもいいかもね」

やっぱり遅いんだ。


 師匠に電話をしたみた。でもどう言っていいか判らない。まさか速く走るための練習をして欲しいとは言えない。

「田代さん、九月の第一週なんですけど。またご一緒に走っていただけますか?」

「ええ、いいですよ。今度は何処を計画したのですか?」

「何処を、というわけではないのですが。田代さんと一緒に走りたいなあと思って」

「走るのは別に構いませんが、逆に珍しいですね。城田さんが行きたい場所を言わないとは」

「すみません。できればあまりアップダウンのきつくない、中速のカーブが続くような道を走りたいのですが、ご存知ですか?」

怪しまれるだろうか。でも師匠は、笑って、探しましょうと言ってくれた。やっぱり師匠は優しい。


 峠に着き、いざ走り始めようよとしたとき、師匠に聞いてみた。

「田代さんは、ハングオフってされないんですか? ここに来るまでも、今までも田代さんの後ろ走ってきましたけど、お尻、落していませんよね?」

「私はしませんね・・・。城田さんはしたいですか?」

「いえ、したいと言うか・・。あの、私の友達が、ハングオフした方が車体は安定するって教えてくれて・・・」

叱られるだろうか? 師匠は特に何も言わずにハングオフの説明をしてくれた。本当にこの人は何でも知っている。

「やってみましょう」

そう言って走り始めた。師匠のハングオフ、初めて見るけどやっぱりスムーズだ。私も教えられた通り、減速が終わった時を狙ってお尻を半分シートからずらす。そのまま倒し込むと、確かにお尻は落ちている。だけど? あれ? こんなもの? 思っているより安定しない。荷重の掛け方が悪いのだろうか。でもこの姿勢ではイン側のステップに体重が掛けられない。アウト側に荷重してみる。車体の挙動は安定した気がするけど。何かしっくり来ない。リーンウィズで曲がってみる。あまり変わらない気がする。坂本さんの言った意味が解らない。オンザレールになっていない。休憩を挟んで、師匠にライディングフォームを見てもらった。やはり師匠に頼るしかない。何が悪いんですか、師匠。教えて下さい。


 イメージ通りに走れないジレンマの中で、私はいつの間にか苛立っていた。

「あー、もう判んない!」

ヘルメットを脱いで、半ば叫ぶように言ってしまった。

「城田さん。今のコーナリングスピードでは、はっきりとした明確な違いは体感しづらいと思います。少し考えてみましょう、四つのフォームの違いを」

師匠は丁寧に教えてくれた。そうか、結局この程度の速度ではハングオフなんて必要ないんだ。

「城田さんのフォームはきれいですが、通常はどちらかというと、ウィズよりアウト気味なの、気が付いていましたか?」

え? そうなの? 今までずーっとリーンウィズでバイクと一緒に傾いていると思っていた。

「私の体、立っていますか?」

驚く私に師匠は説明してくれた。ブラインドカーブの多いところでは決して悪いことではないとフォローしてくれた。


「この先の道は広域農道になります。そこではリーンイン、ウィズ、アウトを意識的に使い分けてみて下さい」

意識してカーブに入る。教習所では習ったけど、使い分けなんてしたことない。理屈だけで実際にはリーンウィズでしか走っていないのだ。前を走る師匠の真似をして体をイン側へ入れてみる。自分の体の動きに一瞬遅れてバイクがバンクを始める。あれ? なんだろうこの感覚。今度は倒し込んだバイクに逆らうように体を立てる。体を立てるが、バイクはより深くバンクする。え? こんなに倒れていいの? 不安になりながら、それでも不思議な感覚だ。そしてリーンウィズ。いつもと同じ、じゃいけない、いつもより体の傾斜を意識して倒す。なんだ、これが一番安定しているじゃないか。一年前の教習を思い出した。基本基本基本。耳タコになるまで言われた言葉だ。やっぱり師匠は教習所のインストラクターじゃないのかしら?

 師匠が追い抜けと合図をくれた。今度は後ろから見てもらおう。リーンウィズとリーンインとリーンアウト、意識してカーブに入る。そうか、何か違和感があると思った、その正体が解った。リーンウィズが一番走り易いくせにリーンインやリーンアウトの方が倒し込みが楽なのだ。何か矛盾している気もするから違和感が生まれているのだ。あとで師匠に聞いてみよう。

 昼食を取るために国道に出て、看板に大きく書かれたカレーライスの文字を見た瞬間、師匠にここにしましょう! とヘルメットの中で言った。師匠はインカムを付けていないから聞こえるわけがないのに。でも以心伝心、師匠は停まってくれた。

「ここでいいですか?お昼は」

「私もこの看板見て、胃袋がカレーになっちゃいました」

インカムなんかなくても、私は師匠と繋がっている、そう思えた。嬉しい。

 席についてカレーを注文すると、店員が下がるのももどかしい。

「田代さん。私、二つ解ったことがあるんです」

「なんです?」」

「一つ目は、さっき田代さんから教わった通り、私にはまだハングオフは早いってこと。リーンウィズが一番走り易いです。比べてみて解りました。やっぱり教習所で教わることって、基本なんですね」

師匠は深く頷いた。

「二つ目は、でも、リーンウィズよりリーンインやリーンアウトの方がバイクを倒し込み易いんです。これはなんか矛盾しているようですけど」

「何故だと思いますか?」

「意地悪ですね。それを教えて頂きたいんです」

ちょっとだけ、拗ねたフリをしてみた。師匠は小さく笑った。

「城田さんは、バイクの倒し込み、カットインのきっかけはどうしていますか?」

「えー? あまり意識していませんよ? 体重移動、かな?」

「そうですね。たぶん無意識に体重移動をして曲がり始めのきっかけにしているのだと思います」

「リーンウィズでは無意識にやっていることを、リーンインやアウトでは意識的に体を使ってやっている、ということです」

あ、そうか。それから師匠はいつものように丁寧な説明をしてくれた。師匠の長いまつ毛、いつもサングラスで隠しているけれど、その大きな目と長いまつ毛は師匠のチャームポイントだと思う。見ていると吸い込まれそうだ。

私は聞いているうちにすぐに試してみたくなった。

「それ、やってみたい、試してみたいです」

「ご飯、食べてからにしましょう」

やっぱり師匠は頼りになる。こんなことなら最初から素直に聞けば良かったのだ。あ、これも聞いておかなきゃ。

「あと、カーブの出口、立ち上がりで早くアクセルを開けるにはどうしたらいいのでしょうか? 私、ファストに抜け切れていない気がするのですが」

「バイクを意識的に寝かすのと同じように、意識的に起こす、というアクションが必要ですね。バンクしている状態で大きくアクセルを開けると、タイヤがスリップしたり、オーバーランする可能性があります」

「それは出口に近づいたら外側のステップにもっと強く荷重を掛ける、ということですか?」

素晴らしい! と私は褒められた。上半身もね、と付け加えられたけど。


 スパイシーなカレーにすっかり満足して長居しそうになったけれど、さっきの教えを実践してみたい。師匠に先導してもらい、次の峠道に入って行った。

 早速試してみる。意識して倒し込むと思った以上にバイクがバンクした。あれ? こんなにクイックに倒し込めるのか? それでも速度とバンクがバランスしていないのが判る。どっちを調整すべきなのだろうか。次のカーブが近づく、師匠が減速を始める、私も減速する。師匠と同じ速度ならイケるはずだ、そのために師匠は私に合わせてくれているのだから。

 師匠と同じ速度でカーブに進入する、ココっと思ったポイントで自分の力でバイクをバンクさせる、今までとは違うスピードで旋回する、でも怖くない。バンク角が一発で決まったのだ。ヤバイ、これは快感だ。

 もう一つ。出口で師匠のバイクが起き上がるのを見て、私も外足に力を込める。上半身も外へ。連動してバイクが起きてくるのが判る。師匠の背中を見てアクセルを開ける。師匠! ついて行く、ついて行くから。師匠の背中が離れていないどころか、近づいた気がした。嬉しさが込み上げてきた。やった、できた、私はできたんだ。



 17


 珍しく師匠が待ち合わせの時間と場所の変更を言ってきた。十月の第二週、信州紅葉狩りツーリング。遠出だったからだいぶ早い時間にしていたのだけれど、さらに一時間の繰り上げ。それに高速道の入り口とはちょっと離れた市内の運動公園。何かあるのかしら? そう思ったけれど、早起きは別に苦ではないし、師匠が言うのなら弟子は従うまでだ。

 早朝、まだ家中が寝ている時間に家を出た。もしかしたらエンジン音で起こしてしまうかも知れない。そう思ったけれど、行先も時間もツーリングの計画は事前にちゃんと伝えてある。それにしてもどっぷり浸かったものだ。ほぼ休日毎にバイクで出掛ける娘を、両親は何と思っているのだろう?

 待ち合わせ場所には、師匠はもう来ていた。ひと気のない駐車場でバイクをクルクルと回転させている。邪魔にならないように、少し離れた所にバイクを停める。師匠は私に気が付いたようだ。ほどなくバイクを私の横に停めた。

「何をしていたのですか?」

師匠に尋ねると練習だという。こんなに上手い人でも練習をするのか。ただひたすらに走っているだけではないのかと感心した。

 やってみますか? 促されて私もやってみることにした。私こそ練習が必要なのだ。8の字。二本のコーヒー缶をパイロンに見立てて、右回転と左回転を交互に行う。ぎこちなく大回りだ。小回りにするにはもっとバイクを倒し込ないと。頭では解っているがなかなかできない。それでも半円を描きながら8の字にはなった。でも何か違う。さっき見た師匠の回転と。

「何か田代さんのと違いますよね。何が違うんですか?」

きっと何か秘密があるに違いない。そして師匠はいつものように丁寧に教えてくれた。ターンの入り口でパイロンに寄せるのではなく、出口側で寄せるようにラインを引く、半クラを使って回転数を上げる、速度はリアブレーキで。何周かするとフルロックではないが、一定のアクセルとバンク角で安定した8の字を回れるようになった。

「立ち上りでは思い切ってアクセルを開けてみましょう。そしてアプローチではガツンとフロントのブレーキを使って、サスを縮めて下さい」

 ガツンとサスを縮めるは、ちょっと勇気の要る行為だ。でも思い切ってやってみる。で、ブレーキを半分引きずったまま倒し込むと、クルリと小回りできた。自分自身に驚く。あ、いい感じ。

「今、いい感じで回れましたよね? でもどうしてですか?」

師匠は笑顔で教えてくれた。でもこの理屈は理解できない。まあできたのだから良し。

 私は確実に上達している。私が休んでいると師匠は、ペットボトルと缶コーヒーを近づけ、今度はこんなのどうです? と、変形の8の字の回転をした。ペットボトルに近づいてカットイン、バンクしながら減速、缶コーヒーの横でタイトに回り、加速する。さっきより格段に難しそうに思えた。私にできるのだろうか? ええい、練習あるのみだ。だが何度挑戦しても上手く回転できなかった。どうしても缶コーヒー横で大きく膨らんでしまう。そこに乗用車が入ってきて練習は終わった。難しい。でも何の練習かは解った。コーナリング中、曲がっている最中にさらに倒し込むってことだ。師匠はまたも解説してくれたが、これも私の頭では理解できず、正直何を言っているのかチンプンカンプンだった。師匠、ごめんなさい。

「無理にハンドルをこじると一気に転倒しますから、それだけは忘れずにいて下さい。あとは理屈じゃなく、感覚で覚えましょう」

これは解った。そうなんだ、結局は練習しかない。理屈じゃないんだ。それから師匠は、練習に付き合ってもらって、ありがとうございました。と私に頭を下げた。なんということ! お礼を言わなくてはならないのは私の方だ。

「私は田代さんと一緒にいると、いつも新しいことを教えて頂いています。こちらの方こそ、感謝、です」

自分の言葉にはっと気づいた。そうか、そのための一時間だったのだ。

「さあ、紅葉狩りに行きましょう」

私たちはバイクをスタートさせた。


 高速道路も使って概ね三時間、休憩を挟みながら私たちは走った。高速道路では時速九十五キロまで出せた。私にとっては高速道路を使った初めてのロングツーリングだ。師匠の背中を見ていると、高速走行の怖さを感じない。目的のインターチェンジで降り、国道、そして県道へと進み、湖へ辿り着いた。湖に近づくに連れ景色が変わって行く。湖畔にはすっかり色づいた楓と紅葉が所々に点在している。

 私たちは駐車場にバイクを停め、湖畔を散策しながらカメラとスマホで、思い思いの写真を撮った。今日の目的は紅葉狩り。私はミラーレスのカメラで風景を切り取った。一眼レフを持って来ようか迷ったけれど、軽さを取った。

 食堂の湖側のテラスで、私たちはお互いの写真を見せあった。私の写真を師匠は褒めちぎった。嬉しい。この人に褒められるのは快感だ。

「構図といい露出といい、・・・完璧ですね」

 私は学生時代、写真部だったことを告げた。構図の取り方は、顧問の先生と部長にみっちりと指導してもらった。私は図に乗って師匠のスマホを手にし、画面を操作した。

「例えばこの写真なら、大胆に空を広げて紅葉を端に持ってくると、こんな構図ですが、コントラスト的に紅葉が引き立ちます。端に置いても主人公は紅葉なのです」

偉そうに講釈してしまった。

 学生時代が思い出される。本当は人物写真が専門だ。被写体の女性を、息をひそめてただ一瞬を待つ。彼女の人生の、五百分の一秒を切り取る。師匠は私の話を興味津々と聞いてくれた。そういえば、師匠とバイク以外の話をするのは初めてだっけ。

 湖を、来た方向と反対に抜けると渓谷沿いの峠道がある。この湖の上にダム湖があって、そこで県道は行き止まり、ダム湖までの往復を走ってから帰るのが今日のプランだ。店を出ると二台のスーパーバイクがやって来た。排気音が大きい。二人とも使い込んだ革つなぎを来ている。いわゆる走り屋なのだろうか。

「すごいバイクですね」

師匠に聞いてみる。師匠も同意した。やっぱりすごいバイクなのだ。

「もしこんなバイクが後ろから来たら、慌てずキープレフトで先に行かせて下さい。上手い人は勝手に抜いて行きますから、抜かれるときにパニくらなければ大丈夫です」


 私は自分のリズムで走るんだ。そう言い聞かせた。ただひたすら、リズムを作ることに専念して丁寧に。片側一車線、センターラインはイエロー。師匠の後ろを、車間距離を詰め気味に走っている。ちょっと近いかな、平気かしら。でもこの速度、この距離でのクルージングはまるで二人がつながっているかのような錯覚になる。師匠とリズムが同じなのだ。無性に嬉しい。と、少し師匠のペースが上がった。私を認めてくれたのだろうか。そうよ、きっと。私はついて行ける。車間距離は伸びたがへっちゃらだ。カーブの入り口で車間距離は詰まり、立ち上りで開く。ああ、まるでダンスを踊ってるかのよう。師匠がリードしてくれる。楽しい。バイクってなんて素敵な乗り物だろう。でも、ダムの駐車場が見えてペースダウン。ああ、もっと走りたかった。私はわがままなのだろうか、欲張りなのだろうか。

 駐車場には誰もいない。ダム湖であるというだけで何もないところだった。私たちは早々に引き返すことにした。何もない場所にいるのだったら踊る方がいい。

「じゃあ今度は貴女が前を走って下さい。さっきの湖まで」

今度は私が師匠をリードする番だ。私は爪先で地面を蹴りながらバイクをバックさせ、切り返して前に出た。師匠は白バイのように小さくUターンをする。格好いいなあ。憧れる。

 さあ、踊りましょう。師匠、お手をどうぞ。でも足を踏んでも怒らないでね。

 走り出しは慎重に。少しずつペースを上げる。カーブで思い切ってバイクを倒し込む。半年前とは全然違う自分を感じられる。よし。リズム、リズムと言い聞かせる。目の前のカーブに集中していると、不意にものすごい爆音が近づいて来る。ストレートに近い緩やかなカーブで二台とすれ違った。空気がビリビリと震えているかのような音と風圧を浴びて一瞬体が強張ったが、本当にそれは一瞬のことだった。大丈夫、自分のライディングに集中しよう。今は大切な、師匠との二人きりの時間なのだから。ブレーキを掛け、減速からの倒し込みは慎重に、でも思い切り良く、躊躇する方が危険だわ。立ち上がりではマシンを起こして、アクセルオンで加速。いい感じ。私は私のリズムでワインディングを楽しんでいる。


 師匠からのパッシングに気が付いた。車間距離がやけに近いと思ったら、スルスルと広がった。この合図は? 後ろから何か来る? 師匠のドゥカティではない別の排気音が迫って来た。さっきすれ違った二人組だ。

 私は慎重に左カーブを抜けると次の右カーブに備えた。後続車が来る、そう思ってキープレフト。一台目が直線で抜いて行く。音が凄い。風圧も感じた。ドクンッ、心臓が激しく胸を叩く。バイクは私を抜いた、そのままのラインで豪快に右に倒し込んでいった。もの凄いスピードだ。あんな速度で走るなんて。カーブに進入するのにブレーキを掛けたように見えなかった。

 私は自分のポイントでブレーキを掛けて減速、ブレーキを離してパーシャルアクセル、倒し込もうとしたその刹那、二台目が視界の中に入って来た。倒せない。私はパニックを起こした。山の斜面が近づいてくる。フロントブレーキをもう一度掛ける。お願い、止まって! 視線は山肌に張り付いたまま、体は硬直し右を向こうとしても首が動かない。ガガガとABSが作動する。正面を凝視している目を、それでも意思の力で強引に右を向かせる。フロントタイヤが暴れ振り落とされそうになるのを必死で堪えた次の瞬間、タイヤが砂を噛んだ。

 マシンはコントロールを失いフロントからスリップした。必死でしがみついているはずのハンドルが、重力を感じなくなったと思ったら、私の手はハンドルから引き剝がされていた。私はバイクの右前方に落ちて滑り、そして転がった。


「城田さん! 夏海さん! 大丈夫ですか? ちょっと待って、まだ動かないで!」

今まで聞いたことのない師匠の大声。右腕と右の腰辺りが熱い。私はうつ伏せに倒れていた。短い時間、気を失ったのだろうか。 起き上がろうとして師匠に止められた。

「どこか痛いところはありますか? 無理して立たないで」

大丈夫、だけど自分の声があまりに弱弱しい。あれ? 私、泣いているのか。脚を延ばして座るように言われ、そうした。体の右側が少し痺れているような気がする。痛みはない。ヘルメット、脱がしますから、痛かったら言って下さい、そう言って師匠はヘルメットを脱がしてくれた。

「大丈夫、痛いところはありません」

「いや、今は興奮しているから痛みは感じないのかも知れない。しばらくこのままでいて下さい。いや、ここじゃまずい。少し移動しますね」

師匠は私を抱き上げ、来た道を戻って路肩にそっと降ろしてくれた。ドゥカティのタンクバッグからペットボトルの水を取り出してきてくれた。私のバイクを引き起こし、持ってきてくれた。それらを私は、呆然と見ていた。師匠が私の横に腰を下ろした。

「カウルは傷だらけになりましたが、エンジンは掛かりました。」

 段々と恐怖がこみ上げてきた。震えが止まらない。私は今、この場所で、死んでいたのかも知れないのだ。

「寒いですか? どこか痛みますか?」

師匠の心配そうな、でも優しい声。

「・・・怖かった」

そう絞り出すのがやっとだ。私は泣いた。ひとしきり泣いた。師匠は私の横で黙って座っていた。


 しばらくしてそっと立ってみた。大丈夫、手も足も。気持ちも悪くない。師匠から体のセルフチェックをするように言われ、一つひとつ確認した。右肩と右肘にちょっと違和感があったが、病院に行くほどではなさそうだった。

 そのあと、警察と保険屋さんに電話し、受け答えはしたが、ほとんど記憶に残らなかった。ただ警察の事情聴取があって、調書にサインをしたのは覚えているし、保険屋さんの、何か体に異常が感じられたらすぐに病院に行って下さい、という言葉だけは覚えている。

 帰らなきゃ。師匠は、バイクは走れると言った。私の怪我もそれほど酷くはない。ヘルメットに傷が付いてしまった。買い替えだな、高かったのに。グローブも擦れてしまっていたが、これはお父さんが守ってくれた気がした。バイクの周りを一周し、擦り傷を見て、愕然とした。ごめんね。私はバイクに謝った。



 18


 正直、帰り道の記憶は曖昧だ。ただ師匠の背中だけを見て走り、それだけで無事に帰って来れた。師匠と別れて家に着いたとき、体がずっしりと重かった。予定を大幅に遅れて三時間遅れの帰宅、睡魔に襲われ夕飯も取らず、お風呂もそこそこにベッドに倒れ込んだ。ああ、髪の毛乾かさなきゃ、タオルを巻いたままじゃまずい、そう思ったけれど、もう睡魔に耐えられなかった。

 翌朝、目が覚めた時、体が動かなかった。いや、極度の疲労と筋肉痛だ、節々が軋むけど動かないわけじゃない。でも右腕は肘の高さまでしか上がらなかった。どうしよう、これじゃ、着替えもメイクもできない。痛みがない分だけ冷静だったが、これではどうしようもない。鏡をのぞき込む。浮腫みで酷い顔だ。困った。

 取り敢えずキッチンに降りてみる。お母さんが朝食とお弁当を拵えていた。おはようと挨拶して、腕が動かないんだけど、と切り出した。寝違えたの? それとも筋肉痛? 笑いながら聞くお母さんに、昨日の事故のことを話した。お母さんは驚き、半分泣きそうな顔で、お父さんを呼びに行った。バツが悪かった。私はしどろもどろに事故の経緯を話し、事故って言っても転倒しただけだから、ちゃんと帰ってこれたのだから、と懸命に説明した。

 お父さんは渋い顔。お母さんは少し落ち着いたのか、とにかく病院に行きなさい、ときつく言った。言われなくともこれでは仕事ができない。着替えさえもできないのだから。


 時間を待って職場に電話をし、急遽休みをもらった。お父さんが車で病院まで連れて行ってくれたのは助かった。外科で受付を済ませ、レントゲンを撮ってもらった。骨は折れていなかったが頸椎に損傷あり、と診断された。たぶん転倒の時に頭も打っていたのだろう。そういえばヘルメットにも傷が付いていた。大事を取って入院し、CTスキャンで検査を受けることになった。傷みはなかったけれど私は神妙にするしかない。

 お父さんが入院の手続きを済ませて帰って行った。私はもう一度上司に電話し、実はバイクで転倒して検査入院することになったと報告した。休みを取るときは渋い反応だったけれど、事故ったと聞くと逆に二、三日休むように言ってくれた。電話を終えて、保険屋さんにも連絡を取った。それが済むと差し当たりすることがない。私は待合室に戻り、ぼうっと検査の順番を待った。

 午前中に検査を終え、脳や胸部に異常がないことが確認されたときは、ほっとした。そのまま処置室で首にコルセットを巻かれ、病室に案内された。病院食は夕食から出ると聞いて、無性にお腹が空いてきた。昨日は朝食だけ、今朝も少ししか食べられなかった。売店でサンドイッチと菓子パン、紅茶を買って、なるべく首を動かさないようにして食べた。

 午後にお母さんが着替えを持って来てくれた。お小言も。もうバイクは辞めてね、お父さんがバイクの傷を見て驚いていたわ、何度も繰り返し言われた。取り敢えず黙って聞くしかなさそうだ。大人しくしていた。お小言の途中で回診。先生からもバイクでの転倒を甘く見てはいけないと、お叱りを受けた。一つ間違えていたら君は死んでいたかも知れないのだよ、そう言われてしまった。今夜一晩泊まり、明日もう一度診察して問題がなければ退院していいでしょう、その言葉にお母さんは安堵したようだった。

 しかし。私には、君は死んでいたかも知れない、という医者の言葉が突き刺さった。死。昨日の恐怖が蘇る。動悸が激しくなったのを悟られないように平静を装った。


 お母さんが帰っても、動悸は続いていた。でも、ダメだ。ちゃんと向き合おう。私は一台目のバイクに追い抜かれたあとのことを反すうした。ブレーキを掛けて減速、ブレーキを離してパーシャルアクセル、カットインのポイントに近づく、倒し込もうとして倒せず、直進するバイクを止めようとして急制動。そして・・・。あっと思った瞬間にはもうアスファルトに投げ出されていた。

 私は思い上がっていた。バイクをコントロールしているつもりでいたけれど、それは誤解だった。ブレーキレバーを握りしめたとき、バイクは暴れ馬のように私を拒絶した。恐怖と、何もできなかった悔しさ。涙が溢れた。

 夕食のあと、ネットの繋がる休憩所でSNSにアクセスしてみたら、もの凄いことになっていた。私の上司から洋子さんに伝わったであろう情報がグループの中で拡散していて、尾ひれが付き、私は重体になっていた。ほぼ丸二日、書き込みをしないだけで人は重体にされてしまうのか。洋子さんはもとより、ダイレクトメッセージも山のように届いていた。一人ひとりに返信するのは大変だ。私はグループの中に、大丈夫、生きてるよ、とだけ書き込んだ。そうだ、師匠にも連絡しなければ。でも散々大丈夫を連発した揚げ句、入院しています、では流石にシャレにならない。あの人に心配を掛けてはいけない。迷惑を掛けてはいけない。


 翌日、無事退院すると自宅のガレージでバイクを改めて見た。右側のウィンカーは割れ、バックミラーも割れ、ブレーキレバーは曲がっていた。ハンドルのバーエンド、カウル、マフラーは傷だらけだ。一刻も早く修理に出したかったけど、この腕と首ではそれができない。お父さんに頼んだらバイク屋さんに持って行ってくれるだろうか? 夜、帰宅したお父さんに頼んでみた。お父さんは渋い顔で、冷静になってよく考え直してごらん、とだけ。お母さんは、こんな怪我をしたのにまだバイクに乗るつもりなの? と私を叱りつけた。

 首にはコルセット、片腕は三角巾で釣下げ、こんな姿で出勤すると、職場の皆から注目の的だ。洋子さんが遠くから飛んでくる。全然大丈夫じゃあないじゃない、驚きを隠せない。いやいや、右腕が動かないだけですから。そう言っても信じない。そもそも腕が動かせないのは大怪我よ、と大袈裟だ。私は上司の元へ行って、突然仕事に穴を開けたことを謝った。私の不注意で、とは言いたくなかったけれど、やはり自分の責任だ。自分の怪我、バイクの怪我、せめて治るまでは、直すまでは、大人しくしてよう、そう思った。


 二週間が経って、腕が自由に上げ下げできるようになった。病院に行くとコルセットを外され、首回りがすっきりとした。それからリハビリ。理学療法士さんにストレッチと簡単な運動を教わり、一ヶ月。首や肩の関節に柔軟性が戻り、私の体はすっかり回復した。

 まずはお母さんを説得した。一ヶ月半が経って冷静になれたのは私だけではない。なっちゃんは言い出したら聞かないから。でももう事故だけは起こさないでね。と渋々折れた。

 お父さんは厄介だった。自分だってバイクに乗っていたくせに。最初免許を取るときは賛成してくれたのに。私は説得を諦め、バイク屋さんへ修理に出掛けた。

 久しぶりの運転、少しドキドキした。傷付いたバイクを店長に見せると派手にやったね、と笑われた。でも大した怪我じゃなくて良かったと、バイクの周りを三周ほどして破損箇所の確認をしてくれた。修理の見積をもらうと目が飛び出した。こ、こんなに? 全部を直すとその金額になるよ、と店長。相談して、ウィンカーとバックミラー、ブレーキレバーは交換し、カウルとマフラーはそのままにすることにした。カウルは傷を埋めてリペイントっていう手もあるから、と教えてくれたが、マフラーは交換しかない。カウルのリペイントもそれなりの金額だ。いっそ交換するか、冬のボーナスを見てから決めることにした。


 怪我が治るまで、バイクを直すまで。自分の中で師匠への連絡を封印していた。毎週のように電話をしていたのが嘘のようだ。しかし、バイクの話題を除けば、私たちに接点はない。そう思うと寂しかった。洋子さんとは職場で会う、会わないに限らず連絡を取り合った。グループのメンバーからも、早く治して一緒に走ろう、と励ましのメッセージを沢山もらった。一度や二度の転倒でバイクを降りるなんて言うなよ。そう言ってくれる人も、いた。

 お父さんの言う通り、冷静になって考えてみる。何処かに行くという移動の手段だけなら、実はバイクは不便なものだ。車と比べて疲れるし、荷物も積めない。雨に降られたら最悪だ。夏は暑いし、冬は寒い。まして冬になって雪や路面凍結の心配がでてきたら、危なくて私には乗れないだろう。

 それでも。バイクは楽しい。マシンを操る快感、カーブを脱出する加速、山から見下ろす風景、峠道、生い茂る木々の木漏れ日、光と影、草や木や潮風の香り、夏のむせ返るような熱気、陽炎と逃げ水、雨の匂い、夕立、燃えるような極彩色の夕焼け。そして仲間。バイクは一人で乗るものだ。だからこそ、いつだって助け合う仲間が必要なのだ。

 私には、私の怪我を悲しみ、一緒に痛みを感じ、励ましてくれるバイク仲間がいる。SNSに写真を投稿して、いいねをもらう、共感する、そんなものじゃない。あれはバイクとの一体感、いいえマシンとの融合、大自然との調和。ライダーの、魂の共鳴だ。そして、師匠。冷静に考えていたはずなのに、すっかり興奮している。胸が高鳴る。涙が溢れる。ああ、師匠。私の、二人目の父親のような存在。尊敬するライダー。憧れ? 違う! もうダメだ。思考が止まらない。ずっと考えないようにしていたのに。私は、師匠が好きなのだ。もう気持ちが抑えられない。この気持ちを打ち明けたい。


 意を決して、私はお父さんに向き合った。私がどれほどバイクを好きなのか、夢中になれるその理由を説明した。私はもうバイクを降りることができない。あの事故以来、バイクの話になるといつも苦虫をつぶしたような渋い顔をしていたお父さんは、私の熱弁を聞いて、一言だけ、呟くように言った。安全運転するんだぞ。 

 翌週末、バイク屋さんから電話があった。部品が届いたから都合の良い日に交換に来て、そう言われて、はやる気持ちを抑えながらバイク屋さんに出掛けた。出掛ける時の呪文は、安全運転だ。今日直してあげるからね、そうバイクに話し掛ける。

 部品を換え、ついでにオイルも交換してもらった。交換を待っていると坂本さんがやって来た。この店は友達の紹介だったが、坂本さんも常連客だ。

「あ、なっちゃん。復活?」

「レバーと保安部品だけですけどね」

「明日、行く? 行ける?」

そうか、すっかり忘れていた。洋子さんからも誘われていたっけ。体は治った、バイクもオーケー。お父さんも理解してくれた。走らない理由はない。明日の目的地とコースを確認すると、海鮮ラーツーだと言う。海鮮らーめんかあ。想像したら胃袋が反応した。

「はい。行きまーす」

「なっちゃん、終わったよ。チェーンルブはサービスしといたから」

「ありがとうございます」

朝九時、いつものコンビニ集合。私は頭の中にメモって店を出た。


 市内の集合コンビニまでは、だいたい三十分。何度も行っているから間違えない。でも、何だろう。何か違和感があった。あ、なっちゃん来たのね? 既に来ていた洋子さんの声。ヘルメットも新しくなって。そうだ、先週ヘルメットを買い直したのだ。真新しいチークパットはちょっときつい。違和感はきっとそのせいだろう。勝手に解釈した。

 出発前に、今日はなっちゃんの復帰戦、じゃなくてリハビリでーす。皆さん、ご安全にお願いします! という挨拶から始まった。総勢九人。皆知った顔だ。

「なっちゃん、だいぶ上達したみたいだし、今日は中盤に入って」

先頭から四番目のポジションだ。いいのかしら?

「もう前後を切ることはないでしょ? ま、切ってもいいさ、大丈夫」

 大丈夫、ついて行ける。転倒の前は、師匠について行けたんだ。師匠のことを考えると切ない。今夜帰ったら、復活の報告をしよう。インカム合わせ、よし。出発。ところが。

 市街地を抜け、車の流れがまばらになり、カーブが増えてワインディングになると、前走車から一気に引き離された。気持ちが焦る。でも。怖い。私は私のリズムを作れなかった。カーブの度におっかなびっくり、停止寸前まで減速してしまう。立ち上りのアクセルが鈍い。どうしたの、走ってよ。もっと速く。加速して! 頼んでみてもこの子は全然走ってくれない。慣れたはずのバイクが全く知らない他人に思えた。私の後ろは大渋滞。私は最初の休憩所までの間に、すっかり打ちのめされてしまった。

 先頭を走る今日のリーダーに、私は最後尾を走ることを伝えた。洋子さんは心配して私の前。すっかり昔の走りに戻ってしまった。皆の足手まといになった気分で、重い。洋子さんが気を使って、いろいろ話し掛けてくれた。慰めてくれた。どうしちゃったの私。これが転倒のトラウマなのだろうか。今まで師匠に教わってきたことが、全て消えてしまったような気がして、悲しかった。


 解散して家に戻ると、脚に力が入らない。ガレージのシャッターは開いていた。中に入れてバイクを停めた。中途半端な位置にサイドスタンドが止まっていることに気付かず、バイクを降りた瞬間、スタンドが外れた。ダメ! 倒しちゃ。お願い! 倒れないで。今倒れたら、私はあなたを起こせない。願いはむなしく、バイクは倒れた。仕方がない。ヘルメットを脱いだ。バイクは一人では立っていられないのだ。ハンドルとクラブバーを持ち、膝を曲げた。腰を伸ばして、脚の力で上げる。膝が震えた。鼻の奥がツーンとして、涙が溢れた。ごめんね、ごめん。何度も謝った。あなたは悪くない。悪いのは私だ。倒れたんじゃない、倒してしまったんだ。

 引き起こしてサイドスタンドを掛け、左側を点検する。下を向くと涙が落ちた。私、何やっているんだろう。運よく、壊れた所はなさそうだった。私は何故バイクで走ろうと思ったのだろう。ヘルメットを持って母屋に帰る。何のために。誰のために。



 19


 海鮮ラーツーの日、私は師匠に電話ができなかった。師匠と作ってきたものを自分が壊してしまった気がして。本当は、師匠に謝りたかった。慰めて欲しかった。大丈夫、またできるようになりますよ、そう言って欲しかった。でも。自分の気持ちがコントロールできるか、自信がない。今優しくされたら、私の気持ちは堰を切ったように流れ出てしまいそうだ。父娘ほども歳の離れた、師匠から見れば小娘であろう私に告られたら、きっと師匠は困惑するに違いない。それとも受け止めてくれるだろうか。思いが迷走する。もしかしたらこの師弟関係が壊れてしまうかも知れない。それだけは避けたい。


 十二月は何かと忙しい。師走と言うくらいだから、皆、忙しく慌ただしい月なのだ。でもそのおかげで、私は余計なことを考えずに毎日を過ごせた。ツーリングの誘いは相変わらずあったけれど、洋子さんも忙しくて参加を見送っていたくらいで、私も到底行く気にはなれなかった。バイクに触らない日が増え、ガレージで出番を待っている私のバイクは、うっすらと埃を被っていた。

 乗って上げなきゃかわいそうだ、そう思うが、なかなか決断ができない。事故のトラウマ。寒い季節。忙しい日々。全てが私とバイクを隔てる。

 年末の大掃除、お父さんが車を洗うついでに私も一緒にバイクも洗車した。冷たい水で手がかじかむ。ゴム手袋越しでも辛い。洗剤を洗い流して、水気をふき取り、ワックスを掛ける。擦り傷が痛々しい。何とかしなくては。チェーンにもオイル注さなきゃ駄目だぞ。お父さんの声。お父さん、やり方教えてよ。教わるという口実でお父さんにやってもらう。お手本を見せてよ。私はずるい。私がヘルメットを被りさえすればいいのだ。寒かろうと忙しかろうと、そんなのは口実に過ぎない。バイクに乗って走り出さなければトラウマは克服できない。全ては自分の心次第なのだ。

 新年の初日の出ツーリングも行かず、寒い寒いと家の中に引き籠った。冬になるとこの地方では路面凍結の日が増える。十二月から二月いっぱい、時には三月までスタッドレスタイヤを履かないと車は危なくて使えない。一月も二月も、私のバイクは全く動かなかった。バイク屋さんのオフロードチームは、雪道を楽しんでいるという情報が流れてきたけれど、私には無縁の話だった。

 タイヤが滑るなんて、想像しただけで恐怖だ。タイヤはちゃんと路面をグリップしなきゃ。そのためのパーツでしょう? 雪道なんて、頼まれても行かないわ。だけど、師匠もオフロードに乗っていたっけ。師匠も雪道をはしゃいで乗るのだろうか。何かに付けて師匠を思い出す。私の心に師匠が住み着いている。


 春を待ち焦がれるライダー達は、早々に三月ツーリング計画を練り始めていた。洋子さんは交渉の上、早々に休みを勝ち取り、私も第三週の週末に休みを頂いた。これで行けるねと、二人で小さく喜んだ。

 問題は、私が走れるかどうか、だ。私のバイクはカウルを修理し、マフラーは友達の勧めで社外品のものに変えた。ツインのサウンドは少し高音質に変わった。アクセルのレスポンスも良くなった、ような気がする。ガレージでたたずむバイクは、新車のようだ。じっと見ていると、あの子が私に話し掛ける。さあ走りに行こう。エンジンを掛けて、アクセルを開けて。風を感じに行こう。

 私はバイクに跨ってカウルに身を伏せる。ねえ大丈夫? 私は走れる? あなたはもう私を裏切ったりしない? ふと、私たちの関係は男女のそれと似ていると思った。

 一目ぼれ? 好きになって、付き合い始めて、二人の時間が長くなるほどお互いを理解して、それでも時々けんかする。お互いの主張を言い合って、謝らないまま。時間が経つと寂しくなって、やっぱり求めてしまう。そうね、私とあなたは二人で一つ。一心同体なの。あなたが転倒したら私もただでは済まない。私はまだ下手だから、あなたのポテンシャルを引き出して上げられない。あなたはその性格で私の失敗をカバーしてばかり。それでも、あなたと私がいないと一人では走れない。私がいなければダメな人。一人では恋愛は成立しない。バイクは一人では立っていられない。

 バイクを擬人化して考えるとき、私は自分がおかしいんじゃないかと思う。ただの機械なのに。どうしてこんなにも深く思い入れてしまうのだろう。

「恋は人を狂わせる、か」

解っている。これは恋ではない。そんな浮ついた気持ではいけない。もしもこの子が廃車になるほどの事故を起こしたら、私もこの世にいないのかも知れない。生死を共にする間柄なのだ。

 こんな話をしたら、笑われるかしら? ドン引きされるかしら? きっとライダーなら、皆共感してくれると思う。してくれないかな。師匠なら、何というだろうか。師匠に会いたい。くすぶっている気持がいつまでも収まらない。


 ツーリングのために少し練習しておこうと思った。三ヶ月間、ほとんど乗っていない。でもワインディングを走るには躊躇いがあった。一人で行ってもし転倒したら、そう思うと無理はできない。ツーリングまでは洋子さんとも休日が合わないし、師匠にお願いするのも、もう少し自分の気持ちを整理してコントロールできるようになってからにしたい。実は前回のツーリングからこっち、何故、ああも自分が走れなくなったのか、それなりに考えていた。

 正しいかどうか判らないが、倒し込みの思い切りが悪いのだと思う。私は師匠と練習した8の字を思い出した。そうだ、あの練習なら公園の駐車場でできる。いや公園でなくともスペースさえあれば。でも他の場所は思い付かなかった。そもそも運動公園の駐車場だって誰かに咎められたら、バイク乗りの肩身を狭くするかも知れない。誰もいない時間、そーっと走るしかない。それでも見張りがいるわ。

 思案した挙句、結局ツーリング当日の早朝に洋子さんを誘って練習することにした。洋子さんは坂本さんと浅見さんを誘い、8の字練習会は四人になった。


 その日集まると、坂本さんは、

「なっちゃん。こんな練習、よく思い付いたねえ」

と張り切っていた。洋子さんは、私これ苦手なのよねえ、と弱気。でもなっちゃんが練習するなら付き合うわ。私の練習なのに二人ともすっかりやる気になっている。

 コーン代わりにペットボトルを置いて、私から始めた。ものすごい大回り。全然小さく回れない。どうするんだっけ、どうしたんだっけ。私は師匠の言葉を一生懸命思い出した。ターンの入り口でペットボトルに寄せるのではなく、出口側で寄せるようするんだった。半クラを使って回転数を上げるのだった。速度はリアブレーキで調節するのだった。だんだん思い出してきた。そうだ、ガツンとフロントのサスペンションを縮めるんだ。でも上手くいかない。

 休憩して次は坂本さんの番。あ、上手いわ。綺麗に8の字を繰り返す。ペットボトルぎりぎりをかすめるようなラインだ。でもちょっと師匠とは違うような。

 坂本さんは、こんなもんかな、と言ってすぐにマシンを止めた。洋子さんは苦手とは言いながら、全然上手い。もしかしたら坂本さんよりタイトにターンしているのでは? 二人の違いは何だろう?  考えた矢先に浅見さんが遅れてやって来た。私の横にバイクを停めて、おっはよう、と一言。変なイントネーションだ。

 いやあ、懐かしいなあコレ。昔、洋子に散々やらせたなあ。独り言にしては随分声が大きい。後輪にトルクが伝われば、もっと思い切って車体をバンクさせても大丈夫だよ、坂本さんから洋子さんへのアドバイスが聞こえた。もっとアクセル開けろよ。浅見さんも言う。もっと突っ込んでみ! 師匠のそれとは違う言い方。でも、その言葉が記憶を蘇らせた。思い切って、そう、思い切ってアクセルを開ける、だ。立ち上がりで加速させ、アプローチでフロントブレーキをガツン。速度が乗っていないからサスペンションが縮まないのだ。思い出した。私は洋子さんを止め、ごめんなさい、今閃いたの。そう言って代わってもらった。

 おっかなびっくり、私がビビッていたらこの子は私の言うことを聞かない。バイクを信じて思い切りを良く! 加速と減速にメリハリが出てきた。自分でも判る。マシンが前後ではなく上下に挙動する。それを確認できて、マシンを止めた。よしよし。納得。すぐに浅見さんが言う。

「なーんだ。なっちゃん、乗れてるじゃんか。洋子より上手いよ」

なんということを! それでも私はバイクを操ったような気がして嬉しい。洋子さんは、またか、みたいな顔をして練習を再開した。

 浅見さんが激を飛ばす。坂本さんは、

「浅見さん、根っからの体育会系だからなあ」

と呟いた。ひとしきり洋子さんが練習すると、浅見さんは、見ててな、と言って走り始めた。速い。まるでイリュージョンを見ているようだ。ペットボトルを回って加速の度にフロントが持ち上がる。それでいて次のターンは、これ以上小さな半径では回れないと思えるくらいの小回転。次元が違う。いつの間にか洋子さんが隣に来て、

「ほんと、嫌になる。こーゆーのだけは抜群に上手いのよね」

と笑った。でもね、いっつも上から目線で偉そうで、やっぱり付き合うとなると、無理よねえ。私たちは顔を見合わせて笑った。


 私たちは練習を切り上げ、皆との集合場所へ移動した。今日は十一台、全員が集合の時間よりだいぶ早く集まった。皆、寒かった冬を耐え、暖かくなるのを待ちわびていたのだ。

 いつものように簡単な挨拶、ルートの再確認、そしてインカム合わせ。走行のポジションを決める時、私は先回のことがあって後ろから二台目を指示された。最後尾は今日のセカンドリーダーだ。今日の人数からたぶん二、三グループに分裂してしまうだろうことが予想された。午前中は標高の高いところは走らない、海岸線中心のツーリングだ。

 海沿いの道は国道ではなく県道だ。センターラインが所々なくなる、一車線の相互通行。道幅は狭く、ブラインドカーブの連続。慎重に。でも大胆に。タイヤが冷えているうちは抑えてね、セカンドリーダーから指示が飛ぶ。ヘルメットで切る風が冷たい。海は凪いでいる。今日の私は景色が良く見える。きっと目線が上がっているのだろう。

 前を走るバイクのリズムは、私のと少し似ている。ブレーキがハードで掛けている区間が短い。私はそれよりも前からブレーキを掛ける。コーナリングのターンが小さく、クイックでバンクが深い。絶対的な速度は別にして、でもリズムは似ていると思う。前走車の走りに私もついて行けるのだろうか。

 ブレーキのタイミングを遅らせて、ハードに短く。ブラインドカーブで実践するには怖過ぎる。オープンなカーブで試してみよう。そうだ、ガツンとフロントを沈めれば、小さくクルリと回れるんだ。いきなり前走車の真似をするのも怖い。今の私のタイミングよりほんの少し、ほんの少しだけ遅らせてみよう。そして遅らせた分だけブレーキレバーを握る力が強くなり、リリース、パーシャルアクセル、カットインのタイミングがずれた。アウトに膨らむ。アクセルが開けられない。もう一度。でもやはり倒し込むのが遅くなる。最初の休憩ポイントに着いた。うーん上手くできない。ブレーキのタイミングをほんの少しずらしただけで、リズムがガタガタになった。

「なっちゃん、初めは良かったけれど、後半グダグダになったね」

セカンドリーダーに声を掛けられた。何が悪いんですか? 聞いてみる。スランプだって聞いてたけど、最初は乗れてたよ? それなのにどうしたの? 会話に人が集まる。

「実はブレーキのタイミングを遅らせて、制動区間を短くしてみたんです。そうしたら倒し込むタイミングも遅れてしまって、出口でアクセルを開けられなくなっちゃって」

ふーん、と聞いていた人がアドバイスをくれた。

「なっちゃん、ブレーキのリリースとパーシャルアクセル、倒し込み、これ一度にやってごらん」

「ええー? ブレーキング中のシフトダウンさえもやっとなのに。三つの動作を一度にこなすなんて無理ですよお!」

「大丈夫だよ、そんなの慣れだから。まずはブレーキを掛けるポイントは元に戻して、リリースとハーフアクセルオンと倒し込みを同時に行う」

「・・・せめて二つになりませんか?」

「じゃあさ。アクセルはブレーキ中に開けちゃえよ、ハーフでね。そしたらリリースと倒し込みは一度にできるでしょ」

「んー。やってみます」

 朝の8の字と何が違うのだろう? ブレーキをガツンと掛けて、クイックに回るつもりだったのに。お礼を言って浅見さんを探す。浅見さんなら解説できるかも知れない。あ、もう出発の時間、休憩は終わりだ。先頭から順に駐車場を出ていく。私も準備する。


 渋滞で先頭グループとははぐれてしまった。渋滞を抜け、車の数が減って走り易くなると第二グループも前後に分裂した。私は無理に追いかけるのを止め、カーブでさっきのアドバイスを試してみた。ブレーキを掛ける、シフトダウン、エンジンの回転数を合わせてクラッチをつなぐ、フロントのブレーキは掛けたまま。ここまではいつもと同じ。エンジンブレーキは使わずアクセルを少しだけ開けて。この子の中で前に進もうとする力と止めようとする力が拮抗する。ブレーキのリリースと同時に倒し込む。

 おっ! おおおっ! それまでとは違う感覚でバイクがバンクした。すごい。これかあ。これね。この感覚。

「お! いーよいーよ! その感じ!」

インカムからセカンドリーダーのお褒めの言葉。よし、もう一回。ブレーキのリリースと同時に倒し込む。いい。コレいい! むしろこの方が簡単かも知れない。

 私は調子に乗ってアクセルオンも、つまり三つの動作を同時にやってみた。が、とたんにふらつく。アクセルの開けるタイミングとバンクの開始が同調しない。これはまだ無理だ。でもダブルアクションは、できる。楽しい。コーナリングが面白い。私はまた一つ、バイクが好きになった。



 20


 ツーリングから帰る途中、私はすっかり浮かれていた。今日は転倒する前と同じくらい、いや、もしかしたらそれ以上に速く走れたのかも知れない。現金なものだ。あれほど落ち込んでトラウマとか言っていたくせに、一つコツを掴んだだけですっかり自信を取り戻した。師匠に電話してみようか。でも、今日のアレは師匠が教えてくれたのとは違う。師匠の教えは一つひとつの操作を丁寧に、だ。ダブルアクションの話はしない方が良いのだろうか?

 考えてみればもう五ヶ月も電話をしていない。師匠のことを考えると、私はまた切なくなってきた。私はずるい。師匠の優しさに甘えて、いつも教えを乞うてきた。転倒した時もあれほど心配と迷惑を掛けた。それなのに五ヶ月もの間音信不通で、今更何が言えるのだろう。勝手に師匠呼ばわりして、言わば押し掛け弟子だ。それなのに私は、自分の都合ばかり。怪我が治ったら、バイクが直ったら、トラウマを克服できたら。自分の本当の気持ちを隠したまま、何も言わずにここまで来た。ならば破門になっていてもおかしくはない。いや、これは私が創り出した妄想の師弟関係だ。私が師匠と慕う気持ちを、あの人が知る由もない。私からツーリングに誘っているとはいえ、毎回一緒に走ってくれる、あの人は私のことをいったいどう思っているのだろう。もしかしたら、好意を持ってくれているのだろうか。そんなことはないだろう。もしそうなら、二人の距離はもっと縮まったはずだ。様々な思いが脳裏を駆け巡る。あの人にとって私はバイク仲間。それ以上でも以下でもない。たぶん、そうなのだ。切ない。片思いをしているみたいだ。私は自分の気持ちを持て余した。

 今日も師匠には電話ができなかった。でも、一つだけ心に決めたことがある。やはりこの気持ちは封印しよう。少なくとも師匠から破門、縁切りをされた訳ではないのだ。私が気持ちを悟られなければ、この関係は続くはずだ。師匠が私を仲間だと思ってくれている間は。それでいい。私たちの接点はバイク。バイクに乗り続く限りきっと関係は終わらない。こんな楽しい乗り物を、決して降りるものか。


 次の休みは水曜日だ。天気も良さげだし、すっかり春らしくなった。桜と菜の花、見に行こうかと思ったけれど、まだ早そうだ。いや、半島の南端近くに行けば、もう見頃かも。ネットで情報を集める。場所によっては、と微妙な表現。もし咲いてなくても走れればそれでいいわ。私はルートの検索を始めた。南下のルートはいくつかある。今の私は一日の走行距離が二百や二百五十キロでは物足りないが、ちょっと遠いかも。あ、師匠と初めて走ったあのロード。先日のダブルアクションのおさらいをするには絶好かも。でもあのコースの近辺にはお花見できる場所がない。というよりあそこは練習場だ。これは思案どころだ。お花見か練習か、結局私はお花見を取った。日本には四季があり、やはりそれは感じていたい。咲く花の旬は短いのだ。春を愛でよう。


 水曜日の早朝、いつものように私は家を出た。リアシートには防水仕様のカメラバッグ。愛用のニコンとレンズは三本。念のためにエアークッションでグルグル巻きにした。街はまだ静かだ。静かな街にこの子に排気音だけが響き渡る。国道からバイパスへ。交差点で曲がって旧道の方に入り直し、しばらくは直進だ。車がいないだけで世界は一変する。緩いカーブ、住宅がまばらになって、いきなり始まる峠道。ワインディングロードの始まりだ。丁寧に。スローインファストアウト。三つクリアしてタイトなヘヤピン。ダブルアクション。スパッとバイクが倒れ込む。バンクのアングルが一発で決まる快感。クルっと回ってアクセルオン。フワッと前が持ち上がるような感覚。体を残してバイクだけが先に進むような加速。ダメよ、私も連れて行って! ニーグリップする膝に力が入る。気持ちいい。もう少し前傾姿勢がいいな。腹筋と背筋で上体を支えて。この子が私に話し掛ける。もっと開けて、回転数を上げて! 欲張りなこの子。もっとパワーを出したがっている。でもダメよ、ここは公道。安全マージンだけは譲れない。

 概ね一時間毎に休憩を入れて、目的地に着いたのは十時半だった。有料駐車場にバイクを入れる。他にもライダーや観光客はいた。バックミラーでメイクのチェック。相変わらず髪はぺちゃんこ。それを手櫛で直してキャップを被る。ヘルメットはバイクに預けて、カメラバッグを担いだ。

 河原の土手に桜並木。よしよし。カメラ小僧ならぬカメラ女子の気合が入る。レンズを換え、アングルを換え、私は夢中になって桜を撮りまくった。気が付くと十二時。屋台のホットドッグとタイ焼きで空腹をしのいだ。土手には菜の花が咲いていたが、一面の菜の花畑とは言えない。私の理想は、視界を埋め尽くす一面の菜の花だ。そんな所はないのだろうか。駐車場のおじさんに尋ねた。ああ、それならねえ。そう言って観光案内のパンフをポケットから取り出した。今ここね。ここ出てこっち行って、ここに信号あるから。それを曲がるとお嬢さんが探している景色があるよ。徒歩で十五分。

「ありがとうございます」

丁寧にお礼を言って、そのまま歩き出した。観光客もスマホを手に散策している。歩きながら教えてもらった方を眺めるが、建物の塀で囲われていて向こうが見えない。信号まで行ってやっと視界が開けた。すごい。何ヘクタールあるのだろう? 一面菜の花畑だ。黄色黄色黄色。美しい。そして壮大。ただ惜しむらくは観光客がいること。どんなアングルでも人のいないカットは撮れそうもない。かと言って画角を狭めたら広さを表せない。私は諦めて畑に降りた。観光客向けの木で作られた通路がある。ここを通って畑の真ん中まで行けた。そこは三百六十度、全面の菜の花の中だ。私は今、菜の花の海に立っている。カメラを構えて広角レンズで構図を決める。絞りを目いっぱい使って背景をぼかす。またもや夢中になってシャッターを切る。気が付くとすぐ足元に子どもがいた。まだ二歳かそのくらいだろう。一心に何かを見つめている。てんとう虫だ。そのまなざしが可愛い。ほっこりさせられる。


 桜と菜の花。私はすっかり満足して帰路についた。途中のワインディングも楽しい。でも調子に乗ってはいけない。自分を戒める。気を抜かない、無理をしない、安全運転。帰りは自分で思っているよりもずっと疲れていることが多い。疲労は判断を鈍らせる。そう、だから師匠はいつも疲れていないか、私に聞いたのだ。今は自分で自分の疲労度を把握していなければ、誰も聞いてはくれない。私は今ソロツーリングをしているのだ。そして夕方。夕暮れと共に帰宅した。予定通り。バイクのエンジンを切って、お疲れ様。この子を労って、私は自分を褒めた。一人でも走れた。私は一人でも走れる。深めた自信が、師匠に電話を促す。もっと教えて欲しい。もっと一緒に走って欲しい。でもそれはバイク仲間として口に出せそう、そんな気がした。


 その晩、私は師匠の番号を押した。胸が高鳴る。三回、四回、五回。なかなか出ない。流石にもう仕事はしていないだろう。そんな時間ではない。誰かとどこかで一杯飲んでいるのだろうか。六回、七回。諦めて切ろうかと思ったとき、ラインが繋がった。

「ああ。久しぶりですねえ」

懐かしい声。胸の鼓動が一層速くなる。

「お久し振りです。本当に。長らく連絡も取らず申し訳ございませんでした」

声が上ずり、早口になった。落ち着け私。夜の窓に映る自分自身の姿は、はしゃいでいるようにも見える。落ち着け。

「田代さん、私、転倒を克服できたんです。あ、あの。ブレーキのリリースとカットインが同時にできるようになって、こう、スパッとバイクを倒し込めて」

一つ話し始めると、次から次へと言葉が溢れる。興奮している私。それを聞く師匠。夢中になって話した。そして。

「私、一人で走れます」

最後に出た言葉に、はっとした。違う、この言葉は。そして沈黙。それまで黙っていた師匠が口を開いた。

「私もね、今日走って来たんですよ。覚えていますか? 貴女と初めて走ったあの峠、去年五月のワインディングロード」

私の胸にこみ上げるものがあった。失敗した。間違えた。今日はあの峠に行くべきだった。

「ええ。覚えています。よく覚えています。今日はお休みだったのですか?」

「うん。あのね、城田さん。私転勤するんですよ。それで休みをもらって、最後に走ってきたんです、あのロード。この週末に引っ越しです」

目の前が真っ暗になった。脚がガクガク震える。どうして? 何故? 師匠は私に黙ったまま引っ越すつもりだったのか。それはあまりにも・・・。混乱する思考。涙が、こぼれてしまいそうだ。やっぱりこの人は私のことなんて何も気にしていなかったのだ。朴念仁。でも、その次の言葉はもっと衝撃的だった。

「去年のあの転倒事故からこっち、貴女からの連絡がなくて、どうしているのか、心配でした。実は怪我の具合が悪かったのではないか、もしかしたらバイクを降りてしまったのではないか。ずっと気になっていました。転勤に際して、それだけが気掛かりでね・・・」

だったらどうして電話をくださらなかったのですか? ダメだ、言葉にしたら私は泣き出してしまう。

「でも今日お電話を頂いて安心しました。複合操作は一つひとつの操作がキッチリと身についていなければできません。もう貴女は初心者なんかじゃない、立派な一人前のライダーさんですね」

どうしてそんなことを言うの? 私は、私はあなたと走りたいのに。もっと教えて欲しいのに。言葉にできない。私は涙を堪える作業でいっぱいいっぱいだ。体が震え、脚に力が入らない。相槌さえも上ずってしまう。私は涙を飲み込んだ。

「ありがとうございます。田代さんに教えて頂いたおかげです。ほんと」

違う。こんな言葉を伝えたいんじゃない。

「どういたしまして。ねえ城田さん。こんな風に言うと誤解を招くかも知れませんが、私は貴女と会えて、貴女と走ることができて、良かったと思っているのです」

それは。それは私の言葉です。

「ありがとうございました。どうか安全運転で、バイクライフを楽しんで下さい」

沈黙。

「はい。ありがとうございます。田代さんも、どうか、お元気で」

やっとの思いで絞り出した。そして通話が切れた。切れた瞬間、力が抜けた。崩れ落ちる私。涙を止められない。嗚咽。もう我慢できない。私は泣いた。大声で泣いた。年甲斐もなく。子どものように。


 四月になった。春はとっくに始まっていたけれど、新しい季節が始まったかのように感じられる。時間だけが哀しみを忘れさせてくれる、そう信じて毎日忙しく働いた。そして休日はバイクで走り回った。仲間と。あるいは一人で。胸にポッカリと空いた穴は、今の私にはどうしようもできない。ただ、バイクだけは私を慰めてくれる、そんな気がした。師匠のことはなるべく考えないようにしていた。あの晩、散々泣き散らかしたあと、転勤先はどこなのか、引っ越し先はどこなのか、聞かずに電話を終えてしまったことに気が付いて後悔したけれど、もう電話を掛ける気力がなかった。でも、スマホのメモリーはまだ消せずにいる。


 ゴールデンウィークが始まって幼馴染のタカシが帰って来た。彼は東北にある大学の大学院生。連休の時だけ帰省して来る、真っ赤なホンダのロクダボ君。去年はドイツに研修に行っていたからほとんど会えなかった。ナツ、帰ったら一緒に走ろうぜ、そうメッセージをくれたのは連休の二日前だった。大抵の友達は私のことをなっちゃんと呼ぶのに、ナツと呼び捨てにするのはこの人だけだ。いいよ! 私速くなったから。もうタカシにもついて行けるわ。メッセージを返す。でもねえ、もっと前もって言ってよね。連絡くれるのいっつも直前じゃん。


 シーサイドのカフェ。テラスの前には彼のバイクと私のバイク。テーブルの上にはアイスコーヒーとアイスティー。陽射しが強く眩しい。二人だけの時間。

「ねえタカシ、就職はどうするの?」

「しないよ。このまま研究室に残る」

「嘘!」

「面白いんだよ。ウチの教授、ホントにハリウッド映画並みのアンドロイド創ってるからさ。俺だって役に立ってるんだぜ?」

「夏休みは? 今年は海外研修ないんでしょう?」

「院生に夏休みはないの」

「いやいやいや、それはないでしょ?」

「マジ」

「もうー。ムカつく。信じらんない」

「あ、でも遊びに来いよ。夜、一緒に過ごす時間はあるし。海の幸、こっちのとは一味違うよ」

 目線をバイクに変えて、

「ナツ、上手くなったなあ・・」

と呟いた。そうよ。師匠に教えてもらったから。基本、彼には隠し事はしない。バイクのこともツーリングのことも話している。だから赤いドゥカティのことも彼は知っている。でも師匠と二人きりで走ったことは内緒だ。事故のことだって、ソロツーリングで起きたことになっている。

「よし! 昼飯掛けて競争すっか?」

「ロクマルにニーゴーで勝てるわけないじゃない!」

彼はいつまでもやんちゃ坊主のままだ。師匠のどこまでも紳士な態度とは百八十度違う。つい彼と師匠を比較してしまう。ダメだ。自分を叱りつける。思い出しちゃダメだ。比較なんてしちゃダメだ。

 カフェを出て、バイクに跨る。シートが熱い。もう夏だね。彼が呟く。何言ってんの、まだ五月になったばっかりよ。



 21


 最初に四国・九州の梅雨が明けた。一週間後に関西が、その三日後には東海、関東、東北の梅雨が一斉に明けた。梅雨入りは早かったが明けるのも早かった。七月中旬。いきなり夏がやって来た。連日の三十度超え、朝晩はともかく、日中のバイクは厳しい。私は八月のシフトで月頭に三連休をもらった。八月の一、二、三。休みが確定するとホテルの予約を済ませた。バイクではあまり沢山の荷物は積めない。三日分の着替えとタカシへのお土産は事前にホテルに送ることにした。そうすれば手持ちはウェストバッグとレインウェアで済む。最初は大きめのバッグを買ってバイクに括り付けるつもりでいたけれど、洋子さんから後ろが重くなるとバランス変わるわよ、タンデムしているようなものだから、とアドバイスをもらった。ホテル決まっているなら送っちゃいなさい、その方が身軽よ、と。頼りになるなあ。

 朝六時、日焼け止めをしっかりと塗りつけて家を出た。この時間でも長袖長ズボンでは熱い。走っていないと熱気で苦しい。バイクに跨っていつもの儀式。エンジンを掛けるときは今でもワクワクする。そして私は眩しい陽射しの中にバイクで走り出す。ガソリンスタンドで給油してインターチェンジへ。高速道路の渋滞だけは避けたかった。走っていれば風が当たる。サマージャケットは通気がよく、走ってさえいれば涼しい。ところが一旦止まるととたんに汗が噴き出してくる。他に逃げ場のない高速道路では、ライダーはフライパンの上の目玉焼きだ。私は頻繁にサービスエリヤとパーキングエリアで水を飲み、塩飴を口にした。


 夕方まだ早い時間にホテルに着いた。チェックインを済ませ部屋に入ると、ガンガンにエアコンの効いた、乾いた空気が心地いい。荷物は既に運び込まれていた。早速タカシに、着いたよ、のメッセージ。服を脱いでシャワーで体の汗を洗い流す。化粧も落として、さっぱりした。私は裸のままベッドに倒れ込んだ。あれだけ日焼け止めを塗って、途中何度も塗り直したのに首と手首がヒリヒリする。顔もほてっている。エアコンで体を十分に冷やす。

 今日は平日なのに沢山の車とバイクがいた。赤いバイクを見ると、つい車種を確認してしまう。でもレトロなドゥカティはどこにもいない。あれから四ヶ月、私はスマホの、師匠の番号を押せない。ツーリングの報告をしたっていいはずなのに、躊躇いがある。例えば、SNSにツーリングの写真をアップする。フォロワーさんたちがそれを見て、いいね! をくれる。あるいは、タグ付けされたキーワードから誰かが見てくれる。師匠もSNSを見るのだろうか。私は他の誰でもない、師匠に、いいね、と言って欲しかった。四ヶ月経って、私は師匠をバイク仲間と呼べるようになった、と思う。だからツーリングの話、バイクライディングの話、今なら普通にできる、と思う。でもね、今はきっかけがない。勇気が出せない。


 白と薄緑のワンピースに着替えた。メイクにはいつもより時間を掛けた。足元はハイヒールのサンダル。サマーカーディガンを羽織って待ち合わせの場所に行くと、七時ぴったりにタカシはやって来た。晩御飯と一緒に少しお酒を呑んで。彼といると楽しい。でも彼とはバイクの話はあまりしない。私も彼の大学生活の方が聞きたいし、彼は今取り組んでいるプログラムの話を熱く語っている。私には難し過ぎて解らないけれど。楽しい時間はあっという間に終わる。ほろ酔いで気持ち良くなった頃、明日も朝早いからと彼は帰って行った。ごめん! 明日の晩は洋食でワインだから! そう言い残して。ばか。こんないい女が会いに来たのに。何百キロ走ったと思ってんのよ。

 ホテルに戻ってもう一度シャワーを浴びた。ベッドの上でマップを広げる。明日は海沿いを走ろうかしら。三陸海岸。複雑な海岸線を指でなぞる。それとも山形の山沿いを選ぶか。この暑さだ、山の方が涼しいでしょうね。私の名前は夏の海。夏は大好きな季節だし、海だっていつまででも見ていたいくらい好きだ。でも、夏にバイクで走るなら、海岸線は酷よね。マップの上を仙台から西へ指で探す。月山という文字に行き着いた。よし、こっちの方に行ってみよう。あとは風任せでいいや。


 朝、珍しく寝坊した。お酒のせい? 長距離を走ったせいかな、二日酔いはないし。寝坊はしたけれど、目覚めは良い。モーニングルーティンからメイクまで一気に済ませ、ホテルのラウンジへ行った。並んでいた朝食は思っていたより豪勢だった。私にしては珍しく和食と選んだのだけど、これは正解だった。お米が美味しい。しっかり食べよう。

 部屋に戻ってもう一度ルートの確認をした。国道でもいいし、県道でもいい。県道のクネクネが魅力的に見えた。カーブをおっかなびっくり走っていた初心者ライダーは、もうここにはいない。いるのは一人前のライダーだ。今朝も日焼け止めをたっぷりと塗り、バイク用のパンツに着替えてショートブーツを履く。ジャケットに袖を通し、ジッパーを上げる。ウェストバッグを締めて全身鏡の前に立つ。チェック。よし、行こう。グローブとヘルメットを持って部屋を出た。


 地下の駐車場は思ったより換気されていた。そこにたたずむ私のバイク。この子も私を待っていた。さあ、行こう。今度はバイクに話し掛ける。キーを差し込み、メインスイッチオン、呟いてキーを捻る。パネルが点灯し、タコメータの針が振れる。グリーンのランプ。エンジンスタート。セルの一押しでエンジンが掛かる。いい子ね。一旦グローブをトップブリッジに置いてヘルメットを被る。順にグローブを着ける。バイクに跨ってブレーキを掛ける。サイドスタンドを払ってクラッチを切り、ギアを入れる。駐車場を半周してスロープを上がる。もうこんな所でエンストなんかしない。日陰から陽射しの中に飛び込んだ時、一瞬目の前が真っ白になった。でも大丈夫。ちゃんと前は見えている。


 市街地の国道は混んでいた。やはり県道を使おう。初めて走る道は新鮮だ。時々バイクを止めてスマホのマップでルートの確認をする。私はスマホをナビには使っていない。ハンドルに留めて落とすのも怖いし、振動で壊れるとも聞く。バイクを止める度にウェストバッグからスマホを取り出し、現在位置を表示させ、県道の番号と行先の地名を何度も確認しながら走った。よし、ここから先は一本道。お楽しみはこれからよ。

 緩やかなカーブを二つ、三つとこなすと、気分が上がってくる。落ち着け、私。安全運転。カーブがタイトになってきた。肩の力を抜いて一気に倒し込む。いい感じ。今日も私は乗れている。でも慢心はダメよ。例え技量が上がったとしても、気持ちは初心者。慎重を重ねて悪いことはない。自分の気持ちもコントロールする。でも。楽しい。バイクを右、左、と倒し込む。路面との距離が近くなったり遠くなったり。私は今、ロードの上でダンスをしているの。下半身でしっかりホールドされたバイクは私と一つ。スローイン、バンク、そしてファストアウト。私の意思でバイクが動く。なんて楽しいの。アクセルを開ける、エンジンが吼える、加速する。目に映る物、全身で感じる全てが愛しい。そんな気分だ。もっと、もっと、と欲張りになる自分を抑えて、一回目の休憩。水分を補給して、ルートの確認。あら、ここまで一時間は順調だわ。あ、九十九折り、連続ヘヤピンはこの先ね。でももう怖くはない。むしろ待ち遠しいくらい。

 休憩をしていると、どこからかライダーが寄って来る。どちらからですか? ナンバーを見ながら二言三言。交わす言葉も今は余裕がある。でもね、一緒に走りませんか、は余計だわ。ごめんなさい。丁重にお断りする。でも、何故謝罪の言葉なのだろう? 私は何も悪いことはしていない。謝らなくてはいけない理由は、私にはない。


 休憩を終えてまた走り出す。ワインディングを楽しんでいるうちに、いつの間にか山形県に入っていた。市街地に近づくと車がどんどん増えていく。慎重に、慎重に。私たちだけじゃない、周りの車の動きにも気を配る。自分が追突するのも、追突されるのもごめんだわ。やがて市街地を抜けて、そこで二度目の休憩。コンビニでおトイレを借り、塩飴を買う。このまま直進でいいはずなのだけれど。あ、この道を走り続ければ湖に出るのか。よし、次の休憩はこの湖だ。塩飴をかみ砕き、水分も補給。忘れちゃいけない日焼け止め。ちょっとバイクを離れただけで、シートが熱い。跨るとお尻が火傷するのではないかと思うくらいだ。ふと思いついて、ハンドタオルを水で濡らした。緩めに絞ってシートを拭く。数秒で濡れたところが乾く。それを繰り返すとシートの温度が下がった。この隙にバイクに跨る。今度はタオルをきつく絞ってジャケットのポケットに入れた。ポケット越しにお腹が涼しい。我ながらいいアイディアだ。エンジンを掛けて、スタート。

 次の峠に近づくと気分が上がる。きっとヘルメットの中で私は笑っている。さあ、踊りましょう。この子に囁いてみる。ストレートが終わり、カーブが近づく。ブレーキを掛けてシフトダウン、エンジンの回転数を合わせてクラッチをつなぐ。フロントのブレーキは掛けたまま、アクセルを少しだけ開けて。ブレーキのリリースと同時に倒し込む。決まった。この快感は癖になる。峠も標高が上がってだいぶ涼しく感じる。どこかで停めて写真でも撮ろうかしら。でもなかなかパーキングの標識がない。パーキングを探しながら走っているうちにいつの間にか湖の近くに来ていた。標識に湖が書いてある。いいや、やっぱり湖の駐車場まで行ってしまおう。

 川沿いの緩やかなカーブを、リズムを作ることだけは忘れずに、それでもスピードは抑えながら走る。あ、ここね。駐車場に入ったが何もない。湖は見えるが、熱い陽射しを遮るものも、飲み物の自販機も、トイレもなかった。ちょっと違うなあ。一旦バイクを停めて、写真は撮る。でもこの炎天下では休憩にならない。スマホで周辺を確認すると、もう少し北へ走ればダム湖の駐車場があって、食事のとれる店もあるみたいだ。よしそこまで行って休憩を取り直そう。バイクを大きくUターンさせて、ダム湖に向かった。

 県道から国道に。トンネルの中はひんやりとしている。ヘルメットのシールドを少し上げる。冷たい風がヘルメットの中を流れた。気持ちいい。トンネルを抜ける少し前、暗い所から明るい所を見ると距離感が狂う。トンネルで視界が狭められているせい? トンネルの縁で切り取られた出口の向こうの山が、瞬間ズームアップする。それが出口に近づくに連れ、遠のいていくような錯覚が起きる。わっ、って感じ。


 トンネルを二つ抜けると店の看板が見えた。ここね、ダムの駐車場。Pのマークと白い矢印に招かれてバイクを入れる。そこに赤いバイクがあった。バイクの周囲に人はいない。徐行して赤いバイクに近づく。見覚えのあるフォルム。クラシックなロケットカウルとセパレートハンドル。ナンバーは、強すぎる陽射しの中で反射して見えない。

 どうしよう。胸が高鳴る。はやる心を懸命に抑える。また空振りかも知れないのだ。自分の中に予防線を張る。深呼吸。そうかも知れない、そうでないかも知れない。落ち着いて。ナンバーを見れば判ることだから。ね。まず、バイクを停めよう。赤いバイクの横に並ぶ。タンクにDUCATIの文字が見える。心臓が早鐘のように打つ。ものすごい動悸。落ち着け私。エンジンを切る。静寂の中で自分の心臓だけがうるさい。サイドスタンド。あ、その前に傾斜を確認しなきゃ。慎重にバイクをサイドスタンドに預けて、バイクを降りた。手が震える。グローブを外し、トップブリッジに置いた。ヘルメットを脱ぐ。体全体が震えてきた。ヘルメットを落としそうだ。風に煽られ、グローブが落ちた。それを見てヘルメットは地面に置いた。深呼吸。二回、三回。

 ゆっくりとバイクの後ろに回り込む。神戸ナンバー、その数字を見た瞬間、涙が溢れた。あとから後からとめどなく流れる涙。頬を伝わり、アスファルトの上に音を立てて落ちる。空を見上げた。どこまでも高く青い空。大きく白い入道雲。涙を拭って、ウェストバッグからスマホを取り出した。電話のアイコン、アドレス帳、涙で文字が滲む。田代夏樹、私は番号を押した。

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