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赤いオートバイ  作者: 田代夏樹
1/2

第一章 田代夏樹

 1


 片側一車線の峠道は路面が少し荒れていた。路肩に砂利が堆積しているだけではなく、所々に小さな陥没があって走行ラインの選択は思いのほか面倒だ。前を走るライダーは、後ろから見ていると肩に力が入った感じで、緊張しているのが手に取るように判る。初心者が走るには、このロードの難易度は決して低くない。事前にルートはよく検討しておいたが、この路面は想定外だった。私もこの峠を走るのは初めてだ。峠の入り口から休憩の取れるビュースポットのパーキングまで二十キロ前後あったはずだ。信号はない。

 走り始める前に、峠の入り口までは先導するが、そこからは先行するように伝えておいた。予定通り県道に入ってすぐ、私は左に寄って減速し、道を譲った。平日のこの時間の交通量は少なく、少なくとも乗用車やトラックに道を塞がれてノロノロ運転を強いられることはない。ライン取りさえ間違わなければかなり気持ちよく走れるはずだ。私自身、ペースは別にしてギアシフトを小まめに行い、加速と減速を繰り返しながらバイクをバンクさせてワインディングを楽しく走っている。前を走るライダーは楽しんでいるだろうか。

 道の両脇には幹の太い樹木が乱立していて木漏れ日を路面に映している。あの太さなら樹齢は二、三百年くらいだろうか。老木という感じはまるでしない。生命力に溢れ威厳を持ってそこに立ち並んでいた。この道ができて以来、無数のライダーのライディングをこの樹たちは見てきたはずだ。君は丁寧な走りだね、そう木々が囁いている感じがする。ありがとう、どういたしまして。

 先行するライダーとバイクの挙動を、私は走りながら観察していた。ブラインドカーブへのアプローチ、減速、倒し込みのタイミング、そして加速。教習所で習う、まさに教科書のような走り方ではあったが、何故か安定感が感じられない。時折ふらついている。後方から見て取れるヘルメットの向きから、なんとなく目線が近いのかなと感じていた。もっとアクセルを開けなきゃだめだぜ。私はヘルメットの中で呟いた。


 パーキングの看板に本線を離れて、私たちは誘導路へバイクを流し込んだ。十分に減速をして白い矢印が導くエリアへ。駐車場はほとんど空に近い。二輪車と書かれた場所にはバイクは一台もなかった。バイクを停めてメインキーをオフにし、ハンドルを左に切って、跨ったままサイドスタンド出して車体を預けた。ギアはローに入ったままだ。ほんの少し前下がりに傾斜している。私はサイドスタンドを出す前にバイクが前に進まないことは確認していた。長年の癖だ。ヘルメットのシールドを上げてからバイクを降りた。隣のバイクを見ながらグローブを外し、メータの上に置いた。サングラスに引掛けないように丁寧にヘルメットを脱いで、どうでしたか? と声を掛けた。既にバイクを降りてヘルメットを脱ぎ、前髪を描き上げたライダーは目を細めて言った。

「怖かった」

言葉とは逆に嬉しそうな笑顔だ。

「肩、凝っているでしょ?」

「判るんですか?」

「そりゃあね。肩回して、肩甲骨を動かした方が良いですよ」

 

「どうしたらいいのでしょう?」

ゴールデンウィークを過ぎて、バイクで走るには今が一番いい季節だ。自動販売機で買った缶コーヒーが冷たくて気持ち良い。私たちはベンチに並んで座わり、ゆっくりとコーヒーを飲んでいた。

 明るい日差しの中、山の緑が目に優しい。停めたバイクを視界に入れて、ぼーっと遠くを見ていた。不意に話し掛けられて、私は目線を遠くに置いたまま尋ねた。

「アドバイス、必要ですか?」

それからゆっくりと顔を向けてサングラスを外し、

「まさか人生相談ではないですよね」

と言葉を重ねた。彼女は笑ってくれた。ケラケラと聞こえてきそうな笑顔だった。

「人生相談、ではないです。ワインディングの走り方。もっとスムーズに速く走りたい」

私は黙って頷いた。

「田代さんは何も言わないんですね。私の友達はアドバイザーばっかり。マウント取りに来るし」

さて、どう言おうか。

「私はほら、おじさんだから。聞いてくれれば知っていることはお教えしますよ。でも聞かれてもいないことを自分から言うと、要らぬお節介になる。そうでしょう? だから基本、自分からは言わないスタイル」

 サングラスを畳んでケースに入れ、ヒップバッグを前に回して仕舞い込んだ。代わりにメモ帳とボールペンを一組取り出し、体を捻って彼女の方を向きなおした。

「今はまだ、峠道を速く走ろうとしなくとも良いです。それよりも一つひとつの操作を丁寧に、体に染み込ませましょう。アクセル、ブレーキ、シフトアップ・ダウン、ニーグリップとシフトウェイト。頭で考えるのではなく、体が反応するようにね」

そう言ってメモ帳を開き、右のヘヤピンカーブを一つ描き込んだ。

「コーナリングの二大鉄則って、知っていますか?」

「スローインファストアウトと、コーナリング中のブレーキの禁止、ですか?」

「コーナリング中にブレーキを掛けないためのスローインですから」

「分かった。コーナリング中のパーシャルアクセルだ」

「まあ、それも大切ですが・・」

一旦言葉を切って、彼女の顔を見た。女性とこんな風にバイクの話をすることがあるなんて。何とも楽しいものだ。

「二大鉄則とは【スローインファストアウト】と【ライン取り】です。サーキットじゃ、アウトインアウトって言いますね。聞いたことあるでしょう? ここは一般道なので基本対向車があることを想定して走ります。ですから道幅を目いっぱい使うアウトインアウトで走ることを意味するライン取りではありません。対向車とのマージンを保ちつつ走り易いラインを引くことです」

「スローインファストアウトとライン取り」

うん、と私は頷いて続けた。

「カーブに入る前の直線部分では、エンジンブレーキとフロントブレーキ、リアブレーキを併用して速度を落とし、シフトダウンでギアを選択、回転数を合わせてクラッチをミート、駆動力をリアタイヤに与えて置く必要があります。これは教習所で習ったでしょう?」

真剣な眼差しで私を見ている。一瞬ドキッとしてしまった。年甲斐もなく。

「カーブに進入するときのギアは高過ぎるより低い方がいいです。例えば・・」

メモ帳のヘヤピンカーブの絵を見せて、

「こんな低速で走るようなタイトなヘヤピンなら、貴女のバイクならギアはセカンド。上りや下りで勾配がキツイならローでもいいです」

「私、三速を使ってました。場所によってはシフトダウンできずにいたかも」

「速度に合ったギアを選択することは大切です。サード、フォースでは回転数が下がり過ぎてしまいますね。レースをしているわけではないので、カーブの進入でブレーキを遅らせたり、速いスピードで突っ込まなくていいです。むしろそれは危険なので、慣れないうちは遅いかな、くらいまで余裕を持って減速して下さい。それで構いません。その代わりシフトダウンはちゃんとして、立ち上りではきっちりアクセルを開けて下さい」

メモとペンを渡し、

「どこでバイクの倒し込みを始めるのか、どこでバイクを立てて加速し始めるのか、ポイントを描き込んでみて下さい」

彼女は二つの点を小さく丸で書き込んだ。

「ではこの区間はバイクがバンクしている状態、つまりアクセルワークがパーシャルな状態ですね? どんなラインでこの区間を走りますか?」

彼女が描き込もうとした手が止まり、少し考えて外周を沿うような半円を描いて二点を結んだ。私はメモとペンを受け取り、右ヘヤピンの先に左の直角カーブを描き込んだ。直線区間のほとんどない、変形S字カーブだ。

「今度は一つ目のカーブのアプローチとして減速開始から一連の作業の終了までの直線区間と、このカーブを出てから二つ目のカーブのアプローチライン、倒し込みのポイント、アクセルポイント、コーナリングラインと脱出ラインを描いてみて下さい」

彼女はメモとペンを取ると、まず、最初カーブへのアプローチラインを矢印で描き込んだ。次に左直角カーブの二点をマークしてコーナリング区間の走行ラインと脱出ラインを、最後に二つのカーブを結ぶラインを描き込んで呟いた。

「ここ、アクセル開けられるかしら?」

私は彼女の顔を覗き込みながら、素晴らしいと感嘆した。

「コーナリングを分割して考えられるのはすごいことです」

そうなるように誘導したのだけれど。

「実際にワインディングを走るときは、初見で先のカーブが判らないでしょうから、コーナリングスピードにも脱出ラインにも、余裕を持たせたいですよね」

私は彼女が描いたコーナリングラインの上に重ねるように描き記した。

「私なら・・」

倒し込みのポイントを奥へずらし、コーナリングラインはカーブの半径よりも小さな半円で、脱出の加速ポイントも手前に持ってきて加速ラインを長めに引いた。

「こんなラインを引きます。カーブの半径をイコール回転半径とはしないで、むしろタイト気味に小さく回る。で、往復一車線なら右カーブはアウトベタ、左はインベタですが、往復で車線が分かれていれば、状況によっては道幅を使って少し左右に振ります。対向車とのアドバンテージを確保するのが基本なので対向車線には寄り過ぎず、ですが。路肩は砂利が堆積していることもあるので、どこまで端に寄せるかは臨機応変に考えます」

メモを見つめていた彼女が頭を上げた。

「私はね、バイクライディングの楽しみは加速にあると思っています。減速もコーナリングも、加速脱出のためのアプローチにすぎない。偏った考え方かも知れませんが、スローインファストアウトをキッチリ行えば公道の安全マージンは担保できるし、十分な速さだと思うのですよ」

私を見つめる彼女の瞳に吸い込まれそうになる。慌ててメモに視線を変えた。

「カーブの出口と次のカーブが近いときは加速が十分にできないこともありますが、できればワンスナッチはしたいですね。ここが中途半端な距離ならシフトアップしないで引っ張るのもありです」

そして、ペンのお尻でラインをなぞる。

「ギュー、ペタン、クル、ガバッ! って感じです。この四つの工程を一つずつイメージして下さい。一つずつ丁寧に、でも連続して行います。これらの工程が繋がるとスムーズに走れるようになります。この練習をしましょう」

 私はメモを切り取って彼女に渡した。メモ帳とボールペンをヒップバッグに戻し、サングラスを取り出した。

「今度は私が前を走ります。下りが続きますから慎重に。あ、あと目線は遠くへ遠くへと流して下さいね」

「はい」

メモを丁寧に畳んで上着のポケットに仕舞い、彼女の返事は初夏の日差しに明るく響いた。



 2


 そもそものきっかけは、二ヶ月前に彼女のオートバイが高速道路のパーキングで立ち往生していたことだ。私はエンデューロレースの帰り道で、軽トラにレーサーを積んでいた。彼女は何故か二輪車用のパーキングスペースではなく、乗用車用のスペースに停めていた。私は軽トラを彼女のバイクの横、車二台分離れた場所に止めてトイレに歩いた。

 春の夕暮れは思っているより早い。まだ陽はあったが、既に気温が落ち始めていたと思う。日曜日だというのに車の数もバイクの数も少なかったのを覚えている。ライダーが女性だと思ったのは小柄だったのと、フルファイスのヘルメットから束ねた髪が見えたから。彼女はグローブをはめてバイクに跨るところだったから、休憩を終えて走り出す寸前だと思った。ところが私がトイレから出ると、遠目に彼女がまだいるのが判った。

 ホンダのクォーターレーサーレプリカ。黒をボディカラーのベースに、赤いラインが車体の斜めに引かれている。マイナーチェンジを重ねた、若者に人気のバイクだ。彼女はバイクに跨ったまま、メインキーを回し、戻し、また回し、セルを何度も押しているようだった。

「あのう、どうかしましたか?」

そっと話しかけてみた。近づくと彼女が焦燥しているのが判ったから。はっと彼女は顔を上げて、目には今にもこぼれそうなくらい涙が溜まっていた。

「エンジン・・・掛からなくなっちゃって・・・。どうしよう。どうしたら・・・」

消え入りそうな小さな声だった。

「バッテリー、上がっちゃったのかな。これ押し掛けですか? 押し掛けなんてできない」

「FI、でしょ? バッテリーが完全放電してたら、まず押し掛けは無理です。ちょっと降りてもらっていいですか?」

彼女はサイドスタンドを出し忘れたまま降りようとしてバランスを崩した。慌てて支える。

「まず落ち着きましょう。ね。バッテリーなら誰かブースタケーブルを持っている人がいるかも知れません」

サイドスタンドにバイクを預けて彼女に降りてもらい、その横に私は立った。メインスイッチをオフにして、キルスイッチがオンになっていることを確認した。ここに来る前、どのくらい走りましたか? 調子はどうでしたか? 尋ねても彼女は答えない。いや答えられないと言うべきか。

「貴女のオートバイ、ですよね?」

きっ、と私を睨んで。

「私のです」

「怒らないで下さい。確認したいのです」

「先週やっと納車されて。中古で買ったんです。初めてのバイクで。調子の良し悪しはよく判らないけど、普通に走っていました。今日はお昼から三時間くらい乗って・・」

言葉を切りながら話してくれた。

「一人で?」

「今日は一人です。来週友達とツーリング行く予定で、高速も慣れなきゃって、乗ってみたのです」

「ガスは?」

「高速に乗る前に」

「軽油、入れてませんよね?」

「ハイオクを入れました」

「解りました。ありがとうございます」

メインキーを回す。インジケータランプが点灯する。ガソリンの残量はある。が、何か違和感が。もう一度キーを戻してスイッチを入れ直す。

「あ!」

私の声に彼女が反応した。バイクは反応しない。メータの針が振れてないのだ。イニシャライズしていない。セルを押してみる。これも反応なし。キーを戻して、彼女に向き合う。ヘルメットを脱いだ彼女は美人だった。歳は、そう、二十代の半ばより若く見えた。

「ヒューズボックスの場所、判りますか?」

「判りません。あの・・」

「電気系のトラブルだと思いますが、もしかすると・・・」

私は言葉を探して、その先は言わなかった。シートを外してヒューズを確認したが、切れてはいない。フルカウルのバイクは配線ソケットの確認が容易ではない。外して見るには結構手間だ。最悪のケースかも知れない。

「ちょっと知り合いのバイク屋に電話してみます。保険、入っていますよね? 任意保険。レッカーを使うことになるかも」

彼女の目は再び潤んだ。私はスマホを取り出してバイク屋をコールした。

「毎度」

関西風に挨拶を交わし、バイクの症状を話す。テスターはなし。手持ちの工具で何ができるか、どこを見ればいいか、話ながら数か所チェックした。

「これ、FI交換しなきゃ駄目ですかね?」

「そうとも限らんよ。配線か、ECUか、FIか。見てみな判らんけど。引き取り、出す?」

「そんな距離じゃないから」

「どこなん? ああ、田代さんはまだ単身赴任、終わらないのか」

「独身生活を謳歌していますよ」

 少しだけ世間話をしながらバイクの周りを一周。後ろに回ってバイクのナンバープレートを見た。陸運局の管轄区は、今私の住んでいる地区だ。ありがとうと言って電話を切った。もう陽が傾いている。

「残念ですが自走は無理だと思います。バイクの購入店に引き取りに来てもらうか、保険のレッカーを使うか、JAFを呼ぶか、ですね」

「通販で買ったから、店、遠いんです。来てくれますか?」

「さあ。それは私に聞かれても」

大手の中古車業者だった。連絡を取ったが今日の引き取りはできず、後日自宅まで伺いますと言われたらしい。そうか、今どきはバイクも通販で買えるのか。私の若い頃にはなかったシステムだ。

 私の軽トラにバイクを載せてあげるスペースはあったが、見ず知らずの男のトラックに若い女性が乗るとも思えなかった。結局、任意保険のレッカーサービスを使うことになった。彼女は保険証書を見ながら担当者との電話を終えた。

「引き取り、一時間くらい待つように言われました」

「仕方ありませんね」

「いろいろありがとうございました。私パニくってしまって・・・。助かりました」

「いえ。特に何をしたという訳でもありませんから。困ったときはお互い様ですよ」

私は軽トラに乗り込んだが、念のために聞いてみた。

「話し相手、要りますか?」

「大丈夫です」

だろうな。私はエンジンを掛けてクラクションを小さく一つ。彼女はお辞儀をした。


 通信販売か、しかし買ったあとのメンテナンスはどうするのだろう? 私は馴染みのバイク屋を思い出した。彼らは整備のプロフェッショナルだ。自身のプライドを掛けてマシンを整備する。私も自分で簡単なメンテナンスするが、プロに頼らざるを得ないことの方が多い。さっきもそうだが、彼らの知識と経験は、あらゆるトラブルに対処する。私は彼らの技術に敬意を払っているし、信頼もしている。それはきっと、どこのバイク屋とライダーでも同じ関係なのだと思う。なのに安いからといって通販で購入したら、バイクの面倒は誰が見てくれるというのだろうか。自分自身でできるライダーならそれもよかろう。でも車検のあるバイクの整備や、自分自身では手の余るトラブルの場合は・・・。全てのライダーが全てを対応できるとは思えない。まして今のバイクは電子制御なのだ。知識や経験だけではなく、診断装置がなければどうにもならない。

 しかしこれが時代の流れ、変化というのであれば、バイク屋もきっとそれに順応して変化するのだろう。私のように頭が古くて、旧態依然とした思考に囚われているのでは生き残れないのだ。販売店と、修理整備に特化したエンジニア集団に分担されるのだろうか。それとも。バイクそのものの価格が桁外れに下がって、使い捨ての時代が来るのだろうか? 私は苦笑いした。そんなバイクに愛着も思い入れもできるものか。バイクとライダーは一心同体、人馬一体とならなければ、あの素晴らしい世界は手に入らないのだから。

 私は先ほどの女性ライダーを思い浮かべた。免許を取ったばかりの、初心者ライダー。きっかけは何であれ、バイクとバイクが与えてくれる世界に足を踏み入れた新しい住人。願わくばどうか、このバイクという素晴らしい乗り物を楽しんで欲しい。マシンを操る快感、カーブを脱出する加速、山から見下ろす風景、峠道、生い茂る木々の木漏れ日、光と影、草や木や潮風の香り、夏のむせ返るような熱気、陽炎と逃げ水、雨の匂い、夕立、燃えるような極彩色の夕焼け。それらを全身で感じ取って欲しい。そう思った。



 3


 このところ林道ばかり走っていてロードはご無沙汰だったから、ドゥカティを出すのは二ヶ月ぶりになる。走り出す前にタイヤのエアをチェックし、暖機運転中にブレーキパットの確認をした。リア側がそろそろ交換時期だった。オフ車を覚えてからドゥカティのリアブレーキパットの減りが速くなった気がする。以前はリアなんてほとんど踏まなかったのに。


 ひとしきり海岸沿いを走ってから峠に折れてスカイラインを走るつもりでいた。ゴールデンウィークまであと一週間。期間中の混雑を避けて私はこの週末、ドゥカティとワインディングロードを楽しむつもりでいた。ワインディングという場所で愛車と過ごすひと時は、私にとってとても大切な時間だ。感性を研ぎ澄ませ、エンジンの鼓動を聞きながら一番パワーの出るところを使って走る。フルバンクでブーツを削り、タイヤのグリップを感じながらアクセルを開ける。軽やかにステップを踏んで、タンクを抱きしめて。そう、ダンスを踊るように私たちは向き合い、走りながら会話を交わす。マシンは何も言わないはずなのに、私に話し掛けてくる気がする。久しぶりじゃないか、ビビるなよ、カットインはもっと奥だぜ。私もマシンに語り掛ける。もっと寝ろよ、このラインをトレースするんだ。愛車は私の相棒であり、ライディングのコーチだ。会話はやがて無言になり、私は相棒と繋がった気がした。シンクロすれば転ぶことはない。

 スカイラインをノンストップで走り抜け、そのまま県道を進んだ。いくつかの峠を跨ぐ気持ちの良いいコースだ。途中の展望台のパーキングには車も人もまばらだった。展望台といってもパーキングと併設しているわけではなく、確かパーキングから遊歩道を歩かなければならなかったはずだ。だけど休憩の時に少しだけ歩くのは腰や膝に良い気がする。クラウチングスタートのようなライディングフォームならなおさらだ。よし、次で休憩を入れよう。


 砂利の引かれた駐車スペースには誰もいなかった。出入り口から少し奥に入った傾斜の少ない場所にバイクを停め、サイドスタンドに車体を預けて降りた。標高で八百メートルを超えるワインディングは思ったより寒く、下界は春らしく二十度近くまで気温が上がっているはずだが、バイクをそれなりの速度で走らせていると体感温度は五、六度かも知れない。冬用のグローブをしてきたが、それでも指が冷たい。

 グローブを突っ込んだヘルメットを持って遊歩道を歩いた。時折四方から風が吹き抜け、冷たい風が、しかし優しく頬を撫でた。高原の丈の低い植物の間を、踏み固められた土が幅一メートルほどの道を作る。傾斜の所々に石段があって歩き易い。展望台には何もなかったが、海が一望できた。パノラマというヤツだ。手前に若草、草原、緑の森が幾重に重なり、その向こうに港町と海岸線が見える。柔らかな光が風景を包み、パステルカラーのフィルターを掛けたようだ。ここからの景色を切り取ると冬から春へ、季節の移り変わりが撮れそうな気がした。スマホを取り出し写真を一枚。画像を確認すると普通の風景写真だった。残念だけれど、私には感動を写真に取り込むスキルがない。パーキングにも展望台にもトイレはなかったので遊歩道を引き返し、途中で茂みに入って用を足した。


 早めの昼食を取るために海岸線に降りてきた。町中を流すとウィンタージャケットでは少し熱い。小さな漁港の定食屋にバイクを止めた。元々は漁業者向けの食堂だったに違いない。数年前にこの店を見つけたときには観光客はまばらだった。今はSNSの影響か観光客しかいない。皆、定食の写真を撮ってから食べる、おかしな流行病に侵されているようだ。私は漁師定食を食べ、ゆっくりとお茶をおかわりしてから店を出た。

 バイクに戻ると、二台のバイクが駐車場に入ってくるところだった。リッタークラスの大型排気量バイク。カラフルなスーパーバイクとカラフルなフルフェイスのヘルメットを私は漠然と見ていた。ここ数年の新しいモデルのようだ。自分のバイクに目を移す。真っ赤なタンクは日に焼けている。細かい傷も目立つほどではないが結構ある。大事に扱ってきたけれど、ボルトの頭やエキパイ周りの錆はどうしても出てしまう。旧車であることを認めざるを得ない。DUCATI900SS。私が相棒と選んでもう三十年くらいの付き合いだ。

 真新しいバイクを見ると何故か少しセンチになる。昔、バイクが買えなくて雑誌の写真をひたすら眺めていた頃を思い出す。欲しいバイクが沢山あって、いつか買えるようになったらと、モデルとスペックを暗記するまで目に焼き付けたあの頃を。そして働くようになってローンを組み、何台か乗り継いだあとに900SSに辿り着いた。空冷デスモドロミック機構864ccL型ツイン。ハーフのロケットカウルと遠く低いセパレートハンドルは古き良き時代のレーサーを彷彿とさせる。フルカウルのレーサーレプリカが嫌いな訳ではない。最新のスーパーバイクが嫌いな訳ではない。それでも、私は辿り着いたこのバイクからは乗り換える気がしないだけだ。

 ライダー達が煙草に火を付け、一本吸い終わる頃に三台のバイクが入ってきた。今度はクォーターサイズだ。その内の一台に目が留まる。見覚えがあるような気がした。ヘルメットにもジャケットにも。あれ?どこかで見たな。どこだっけ?

 先行者が誘導して五台の色とりどりのバイクが店先に並んだ。スマホを構えて写真を撮る青年。五人がパーティを組んだツーリンググループだ。男性三人と女性二人。談笑している彼らを横目に私はヘルメットを被った。サングラスを掛けてグローブをはめ、バイクにまたがってエンジンを掛けた。キックスタートで目覚めたL型ツインの咆哮に誰もが目を向けた。ガラガラガラと乾式クラッチが音を立てる。そうさ、君らのバイクとは違うだろう?声に出さないようにそっと囁く。古いバイクなんだ。比べるのは勘弁してくれ。バイクに跨ったまま慎重にバックし、向きを変えてスタート。彼らの後方を徐行し、ナンバープレートを見た瞬間、記憶が蘇った。あ、あの女性だ。ブレーキを掛けてギアはローに入れたままエンジンを切った。バイクを降りて彼らの方にゆっくりと歩きながらサングラスとヘルメットを脱いだ。そうだ、間違いない。彼らは全員私を見ている。黒いホンダの傍らに立っている女性に声を掛けた。

「バイク、直ったのですね?」

いぶかしげに私を見ていた彼女の顔がパッと明るくなった。

「あ。高速道路の! あの時はありがとうございました」

すぐ横の女性に話し掛ける。

「この前、高速でトラブった話したでしょう? その時声を掛けて頂いた方」

ああ、と納得したようだ。

「今日は軽トラじゃないんですね」

「そう、今日はオンロードバイク」

私は彼らの顔を見渡した。皆若い。二十代半ばからせいぜい三十には届かないくらいだ。

「いや、失礼しました。バイクに見覚えがあったから、つい。あと一週間遅ければ忘れていたと思うけど」

「忘れないうちに声を掛けて頂いて良かったです」

「気を付けて」

私は軽く手を振ってその場を離れた。彼らが見送る中、バイクをスタートさせた。


 海岸線から再び峠へ目指した。田舎の国道はどこでスピードの取り締まりをしているか判らない。怪しいのは往復二車線、ブラインドカーブ後の直線とか、植木が遮蔽物となる見通しの良い長い直線とか。ついライダーが本能的にアクセルを開けてしまいがちな場所を狙って彼らは潜む。それを嫌って私はいつも県道を選んで走る。

 集落と集落を結ぶその道は、最近舗装し直したようで路面の具合は良かった。パワーの出る回転域をキープしたまま小まめにギアをシフトし、丁寧に一つひとつのカーブをクリアして行く。見通しの良い右カーブのその先に対向車が見える。そこに先に進入したのは対向車の方だ。出口で大きく膨らみ、こちらの車線にはみ出してきた。カーブの入り口でついハードブレーキになる。ドクン! 心臓が強く胸を叩く。運転席のドアミラーギリギリをかすめてすれ違い、バイクを倒し込もうとしてもバイクはバンクしない。くそ、倒れろ! 必死の思いで出口を向いてフロントブレーキを緩めた瞬間、一気にバイクが倒れ込んだ。これ以上バンクするな、今度は左のステップに力を籠める。フロントタイヤが砂を噛んで外に流れた。耐えろ、耐えろ。なんとかバランスしているうちにグリップを取り戻した。大丈夫、ラインは外れていない。カーブの出口でアクセルを捻った。


 ワインディングを走り、海岸沿いに出ては峠に戻るというルートを繰り返しているうちに陽は西に傾いていった。コーナリングの最中に西日が直接目に入り、ターンの途中で日陰に飛び込むとカーブの先が全く見えない。もし対向車がいたら一発でアウトかも知れない。これなら陽が沈んでしまった方がいっそ楽だ。楽しくない。峠の気温が急速に下っている気がした。陽が落ちる前に帰ろうと思った。

 海岸線の、夕日の見えるパーキングは結構混んでいた。ここからは太陽が海に沈む風景がよく見えるはずで、皆、その瞬間を待っているのだ。バイク用の駐車エリアがなかったが、奥まった海側の歩道前にバイクが十数台並んでいる。その横に私は置くことにした。端に近いところだったので前下がり右下がりの傾斜だった。私はバックで入れ直し、ギアはローギアのままでエンジンを止めた。ヘルメットを脱いで歩道に上がり、西日を浴びてたたずむ愛車を眺めていると、後続のバイクが五台入ってきた。彼らは車用の場所に停めたが、最後の一台だけがこちらに近づいてきた。彼女だ。フルフェイスのシールドを上げて、目が笑っている。ゆっくりと徐行しながら、ドゥカティの横に並ぶように前からバイクを入れ、体を起こしてエンジンを切った。

「また会いましたね!」

さわやかな声だった。それから車体の下の方を見て、跨ったまま左足でサイドスタンドを出した。

「あ。だめっ!」

私は慌ててバイクに駆け寄った。彼女がバイクを降りた次の瞬間、スタンドが外れてバイクがふらついた。彼女は慌てて立て直そうとするが既にバランスを崩している。ゆっくりとバイクは倒れ込み、彼女は自分のバイクと私のバイクに挟まれてしまった。ドゥカティは揺れて、パキッと乾いた音がしたが倒れずに済んだ。私は彼女のバイクの右側に回り込み、ハンドルを持って引き上げた。

「体、抜けますか? 痛いところ、ありませんか?」

「ごめんなさい。あの、大丈夫です」

彼女がすり抜けたスペースに体を入れてバイクを引き起こし、そのまま百八十度方向転換した。向こうから彼女の仲間がやって来るのが見えた。彼女は肩を落としたまま、うつむいたままだ。

「本当に大丈夫?」

私は彼女のヘルメットの中を覗き込んだ。彼女の足元にはドゥカティのウィンカーのレンズカバーが落ちていた。彼女が拾い上げる。リアのウィンカースティが折れ曲がっていた。さっきの音の正体だ。

「ごめんなさい。貴方のバイク、壊しちゃいました。私、直します。弁償します」

「私は、貴女が怪我をしていないかどうかを聞いているのです」

バイクとバイクとは直接接触してはいない。将棋倒しで彼女の体がドゥカティにぶつかったのだ。背中か、腰か、あるいは肩か。強くぶつけたのではないか。

「体は・・・」

手足を振って確かめた。

「大丈夫です。本当に何ともありません」

「そう? バイクはいくらでも直せるけど、体はね・・・」

彼女の友達が周りを囲んだ。口々に、大丈夫? 怪我しなかった? すみません。大丈夫でしたか? 彼女と私に話し掛けた。

「こういう右下がりの路面では、サイドスタンドを掛けても車体が垂直に近いので車重がスタンドに乗りません」

「それから前下がりの場所での駐車では、ギアを抜くと前進してしまうことがあります。そうすると、サイドスタンドが外れて倒れてしまう、今のようなことが起きてしまうのです。だから、ギアを入れて前に進まないことを確認するか、後ろ下がりの傾斜で停めます。後ろに下がる分ならサイドスタンドは外れませんからね」

私は彼女のバイクのスタンドを出した。

「ここは右下がり前下がりなので、後ろ向き、バック駐車が正解ですよ」

「ごめんなさい」

「怪我がなくて何よりです」

彼女は神妙にしている。

「すみません、偉そうに言い過ぎました。ギアが入っていますから、スタートの時は気を付けて下さい」


 それから少し、彼女と彼女の仲間たちと話をした。彼女が半年前に普通二輪の免許を取ったこと。バイクで走るのが嬉しくて楽しくて仕方がないということ。そして、今日のツーリングは自分が仲間に迷惑を掛けているということ。話を聞いていると、初々しい感じがして新鮮だった。そうだ、私にもそんな時代があった。初めてのバイクが嬉しくて、少しでも速く走らせられるよう、わずかの時間も惜しんでバイクに乗っていた頃を懐かしく思い出した。

 車載工具からスパナを出して、折れたウィンカースティをビニールテープでぐるぐる巻きにして固定した。応急処置をしている最中ずっと、どうしても弁償したいと熱心に言われ、彼女と電話番号を交換することにした。城田夏海という名前と一緒に番号を教えてもらった。スマホに登録をしてワンコール。

「田代夏樹です。田んぼのだい、夏の樹木」

「似てますね、名前。田代と城田、夏樹と夏海」

そう言われて、私は笑った。


 夜の遅い時間、ビールを飲みながらインターネットでパーツを探してみた。古いモデルだが、何故か新品のパーツをストックしている業者があった。探す度にいつも不思議に思うのだが、中古品に混じって新品が存在するのは何故だろう。ディーラがオーバーストックしたせいか、それとも倒産した業者の処分品なのか。生産終了から何十年も経過しているから、私としては有難いけれど。まあ急がずとも売り切れるものでもあるまい。他にも取り扱っている所はないか探しているうちに眠くなってきた。テーブルの上のビールを飲み干し、空のビール缶を片付けて、歯を磨いてベッドに入った。すぐに意識が遠くなるように眠りに落ちた。



 4


 インターネットでオーダを入れてから二日で部品が届いた。依頼通り、送料込みの領収書が同梱されていた。その翌日、会社から戻るとすぐ作業着に着替えて、ウィンカーと工具とライトを持ってマンションの駐車場に降りた。バイクカバーを外して作業を始める。二十分ほどで交換は終わった。イグニッションを回してウィンカーの点滅を確認する。よし、完璧。

 キーをオフにしてそのままバイクに跨り、カウルの中に身を伏せた。大きなS字カーブを想像してみる。ロードを疾走するマシンは空気を切り裂き、すぐにカーブが迫ってくる。ブレーキを操作しギアをシフトする。逆ハンを当てて一気にマシンを倒し込む。出口を睨んでゆっくりとアクセルを開ける。マシンを引き起こし、アクセルを全開へ。すぐ全閉でフルブレーキ、ハーフアクセルで反対側へマシンを倒し込む。二つ目のカーブが一つ目のカーブのRより大きければ、アクセルのオンーオフーハーフオンとマシンの引き起こしー倒し込みはブレーキを掛けなくてもイケそうだ。私は想像の中でワインディングをシュミレーションした。


 バイクのカバーを丁寧に掛け、部屋に戻って手を洗うと、冷蔵庫からビールを出した。国産のラガービール。部屋の真ん中で仁王立ち、ロング缶の半分の量を一気に喉へ流し込んだ。窓際のリクライニングチェアに腰掛け、スマホを手に取った。城田夏海の名前から番号を呼び出し、そのままコールのアイコンボタンを押した。三度目の呼び出し音の途中で彼女が出た。簡単な挨拶のあと、用件と部品の料金を告げた。

「代金は振込で構いません。ショートメールで口座をお知らせします」

「田代さんは、どちらにお住まいなのですか?」

「N市です」

「私もです。田代さん、神戸ナンバーでしたから、どこかなって思っていました」

「無精なので変えていないのです。それに、神戸ナンバーってカッコいいでしょ?」

「こっちでは珍しいですよね、神戸ナンバー。お仕事で来られたのですか?」

「ええ。いわゆる転勤族ってやつでね。日本各地を転々としています」

「私はずっとここです」

「いいところじゃないですか。海も山もあって。走るのに気持ちのいいワインディングロードが近くで沢山ありますよ」

「好きですよ、生まれ育った場所ですから。でも山道は怖いですね。車の運転で山道を走るの、だいぶ慣れたつもりだったのですが、バイクだとやっぱり怖いです」

私は残りのビールを飲み干した。

「まだ半年でしょう?」

「それは免許証が取れてからの期間で、バイク歴はひと月です」

「怖いと感じることは大事ですよ。貴女のセンサーが危険を教えてくれているのですから」

「そういうものですか?」

「私はそう思います。怖いと感じることは無理しないことです。そのうち慣れますよ」

 彼女は少し黙ったあと、声に勢いを着けて、

「あの、再来週の週末は何か予定はありますか?」

「予定はありませんが、天気が良ければ何処かを走っていると思います」

「もしよろしければ、一緒に走りませんか?その時に代金もお支払いできますし・・」

 私は立ち上がって冷蔵庫を開けた。ロング缶をもう一本、取り出して口を付けた。少し考えてから言った。

「あまり大人数のマスツーリングは、正直言うと苦手なのです」

「そうなんですか?」

「ソロでばかり走っているもので。それに、こんなおじさんが一人、若者のグループに混ざるのも躊躇しますね」

「ダメですか?」

「駄目、ではありませんが・・」

「では是非行きましょうよ。集合の場所と時間は、また後日連絡をしますから」

電話を終えて、手に残ったビールも飲み干した。押しの強い女性だ。さて、シャワーを浴びて晩飯にしよう。


 ゴールデンウィーク中はもっぱら林道を走り回った。暑くなると運動量の多いオフロードランはきつくなるから、午前中だけ、と決めてほとんど毎日走った。雨の日は避けて、それでも雨の降った翌日はわざわざぬかるみの多そうな支線を選んで走り、タイヤが滑るのを楽しんだ。そして午後の早い時間に戻ってきては、洗車を済ませ、私自身もシャワーを浴びて、まだ陽のあるうちからビールを楽しんだ。近場に遊び場所があるというのは贅沢なものだ。都心に居たら、こうはできない。

 連休が終わった日の夜、彼女、城田夏海から電話が掛かってきた。連休中のツーリングで仲間が事故を起こした、という電話だった。先頭集団の一人がカーブを曲がり切れず単独事故を起こしたところに後続の二台が突っ込んでしまい、先行のライダーは軽傷だったが、後続のライダーの一人は肋骨を折る重傷だという。誘っておいて悪いが、来週末のツーリングは延期にして欲しいということだった。

「救急車を呼ぶ騒ぎになって。大変だったのです。警察は来るし、レッカーを呼ばなきゃならないしって・・」

「貴女は無事だったのですね?」

「私は一番後ろを走っていましたから。距離も離れていたし」

「巻き込まれた人がお気の毒ですね」

「そういう訳で。申し訳ありませんが、今回は中止ということでお願いします」

「構いませんよ。一人で走るだけですから」

「田代さんはいつも一人で走るのですか?」

「九割方、ソロです」

「一人で、どんなところを走るのですか?」

「走ることそのものが目的なので、気持ちよく、楽しく走れそうなところを適当に選びます」

「今回のツーリングは、渋滞だらけ、でした。どこに行っても渋滞していました」

「ゴールデンウィークと盆、正月は日本民族の大移動ですから。どこも混みますね」

「田代さんはどのように過ごしていたのですか?」

「私は山の中、林道を走っていました」

「わ! 楽しそう!」

「楽しいですよ、オフも。森の中で、一人でコーヒーを沸かして飲むの、病みつきになります」

「そういうのも、やってみたい」

「オンロードのバイクでも、舗装林道なら行けますよ。ダートはキツイですが」

「私には無理です。オンロードで安全に走ります」

「そうですね。お友達には悪いけど、先行車の転倒を避けるだけのスキルは必要だと思います。テクニックだけではなく、自分が回避できる車間距離を見極めるという意味でもね」

「どうしたら身に付きますか?」

「走る、止まる、曲がるの基本操作の反復でしかないでしょうね。自分のバイクの性能も踏まえて、最短制動や急減速ができれば回避運動ができます。その上でツーリングは上手い人に付いて行って、どこで減速するとか、どこで加速するとか、真似するのもいいです」

「私、遅いから置いてきぼりにされちゃいます」

「上手い人が貴女のペースに合わせてれば良いのです。初心者をリードするのはベテランの役目ですよ」

「・・・私も日曜日、一緒に走っていいですか?」

「構いませんよ。元々来週はそのつもりでしたから」

「ありがとうございます」

「どこへ行きましょうか? 何時に何処で待ち合わせしましょうか?」

「田代さん、決めていただけますか?」

同じ市内と言っていたが、N市は結構広い。県を横断する国道には、N市から東西に二か所、道の駅がある。どちらが近いか尋ねたら東側の方が近いと言う。

「ではそこの駐車場にしましょう。朝の九時で大丈夫ですか?」

「もっと早くでも大丈夫です」

「じゃあ、八時にしましょう」

「はい」

「参考に教えて下さい。どのくらいの距離、何時間くらいのツーリングなら大丈夫そうですか?」

「二百から二百五十キロくらいかな? 三百キロくらいになるときついです」

「解りました。それではルートを考えておきます」

「お願いします」

そこで電話は終わった。しかしその翌日にもう一度彼女から電話があって、土日に仕事の予定が入り、行けなくなったと言う。

「本当にごめんなさい」

「仕事なら仕方がないです。ところで休日出勤なんて、何のお仕事をされているのですか?」

「公務員です」

何故か瞬間的に警察官を想像してしまった。警察の方ですか? と聞きたい気持ちを抑えた。もしかしたら警察とは言い難いのかも知れない。

「本当にごめんなさい」

何度も謝る彼女に、気にしないで下さい。と重ねて言った。

「週を明けて、水曜日が代休なんです。その次の週も。どうせなら月曜日に代休をくれたら連休になるのに」

「来週の水曜日、ですか? それは奇遇ですね。その日は私も休みなんです」

電話の向こうで彼女の声が華やいだ。

「それでは、週末ではなくて水曜日に行ける、ということでしょうか? あ、ごめんなさい、予定があってお休みされるのですよね?」

「いえ、予定はないのです。強いて言えば衣替えをするくらいで」

「それでは?」

「はい。行けますよ。行きましょう」

こうして彼女とツーリングの予定が決まった。



 5


 平日だというのに蕎麦屋は混雑していた。待ち時間の間、そして蕎麦を食べながら私たちはライディングの話をしていた。バイクはステアリングで曲がるかバンクで曲がるか、とか。コーナリングのステップ荷重はアウトかインか、とか。彼女は面白がって聞いてくれた。初めて会った時は美人だ、と思ったけれど、こうして話をすると美しさと可愛さが半分ずつ同居している感じだ。歳は二十代半ば前半という読みは間違いがなさそうだ。

「田代さんの後ろはとても走り易いのですが、何故でしょう?」

大盛のもりそばを平らげ、蕎麦湯を飲んでいると彼女が聞いてきた。

「それは、自分が前を走ると走り難いという意味ですか? それとも、別の人の後ろが走り難いという意味ですか?」

「両方です」

「そもそも先行車が居てくれた方が後続車は走り易いのです。先行車のカーブへの進入速度から大まかにRのきつさも判るし、カットイン、つまり倒し込みを始めるポイントも、前に倣えば済みますから。その点、単独で走るときはそれらを自分で見極めて判断しなければなりません」

「そうか、自分の判断が甘いからカーブの出口で外に膨らんじゃったり、スピードを落とし過ぎて進入したりするのですね」

「そのカーブを曲がるのに適切な速度、ギアの選択は経験を積まないと難しいのです。路面の状況や勾配も関係しますから。それと目線ですね」

「目線?」

「先行車を追いかけるときって、大抵その人の背中を見ていますよね。そうすると単独で走っているときよりも、目線は上がっているのではないですか?」

「私、いつも路面ばかり見ています」

「目線は、走行ラインをなぞりながら、先へ先へと送ってなるべく遠くを見るのです」

「常に一定距離の先を見ているってことですか?」

「そうでもありません。カーブの入り端、カットインのポイントは見定めなくてはならないので、アプローチではカットインのポイントを見ています。いざそこに来たらそこからラインをなぞってカーブの出口を見ます。そこまで来ると一定距離の先を見ている形になりますね。路面ではなく、目線を上げて全体視野でラインを見るようにすれば、次のアクションのための情報を取り込むことができますから、自然とライディングに余裕が生まれます」

「先行車がいるのに走り難いのは?」

「先行車と貴女のリズムの違いでしょう。走行ラインもそうですが、ブレーキポイント、カットインポイント、クリッピングポイント、アクセルを開けるタイミングは人それぞれ違うものです」

「クリッピングポイントって何ですか?」

「バイクが一番深くバンクするところ、あるいはアウトインアウトのインの一点、と言えば解りますか?」

「バンク角って入り口から出口まで一定じゃないんですか?」

「そういう走り方もあるってことです。コーナリングは奥が深いです。走り方は一つではありません。いろんな引き出しを持っている方が走り方にも幅が広がります。でも貴女は、まずは基本を重視しましょう。スローインでパーシャルアクセルならバンク角は一定で旋回しますよ」

「田代さんが私のリズムを作ってくれているのですね」

「前走車は初心者の前では先行車ではイケないんです。先導車でないとね。さあ、そろそろ行きましょうか」


 次の峠は勾配のきつい峠だった。彼女は、上りはともかく下りではかなり怪しい。というより、危なっかしい。途中のヘヤピンでは大きく膨らんでしまった。次の休憩で、下りのタイトなカーブが一番苦手なんです、と彼女は私に打ち明けた。下りはどうしても重力の影響で加速してしまう。ギアは上りと同じか、一つ下を選択する。思っている速度よりさらに下げてカーブに進入する。クラッチは切らず、アクセルはパーシャルで駆動力は抜かない。パーシャルでも加速してしまうのでバンク角を徐々に深くするか、上半身を内側に入れてバランスを取る。難しいようなら軽くリアブレーキを引きずっても良い。出口でのアクセルオンは想像よりも加速するので慎重に行う。下りは目線も下がりがちなので意識して上げる。一つひとつの説明を真剣な眼差しで聞いていた。彼女の目はクリっとしている。

「どうしてリアブレーキを引きずるのですか?フロントではなく?」

「リアブレーキを使うとリアのサスペンションが沈むでしょう? 下り坂でのバイクの前後角度が浅くなるのです。逆にフロントだと前が沈んでロックしやすくなります。貴方のバイクはABS装備車ですからロックの心配はないと思いますが、下りのコーナリング中でも基本、フロントブレーキは使わないようにした方が良いですね。ハーフアクセルとリアブレーキを併用すると車体は安定しますよ。ただ、多用するとべーパーロック現象を起こすのでほどほどにね」

「べーパー・・・?」

「ブレーキフルードが過熱して気泡が発生し、ブレーキが効かなくなることです」

「ブレーキが効かなくなるのですか?」

「もしそうなったら、落ち着いてエンジンブレーキとフロントブレーキを使って減速し、停車できる場所になるべく早くバイクを停めて、フルードが冷えるのを待ちます。パニック厳禁です」


 こうして小まめに休憩を挟みつつ、私たちはワインディングを走った。休憩の度に彼女は何かしらの質問をぶつけてきた。きっと走りながら自己分析を繰り返し、考えながら走っているのだ。四時を回って気温が下がり始めてきた。オドメータを見ると、今日の走行距離は百五十キロを超えていた。彼女の自宅から道の駅まで距離はわからないが、ここから市内までは五、六十キロくらいだ。

「そろそろ帰りましょう。市内に入る前の国道のコンビニで解散にしましょう」

 コンビニまではどの信号も止まらずに済んだおかげで、二十分ほどで着いた。バイクを停めて、ヘルメットを脱ぐタイミングが二人同時だった。私はサングラスも外し、お疲れ様でした、と言った。彼女のお疲れ様でしたと言う声は、やはり少し疲労感が漂っていた。私は店舗のトイレを借りて用を足し、ホットコーヒーを一つ買って外に出た。彼女はスマホを操作していたから、友達か家族に連絡していたのだろう。


「私も買ってきていいですか?」

「どうぞ」

しばらくしてからコーヒーを手に出てくる彼女を制して、店内に戻った。イートインの設備があって、椅子に座れることが判ったから。私が椅子に座ると彼女が私の右側に腰掛けた。

「本当に今日はありがとうございました。いろいろ教えて頂きまして」

「どういたしまして」

「あのう、もう一つお聞きしていいですか?」

「何でしょう?」

「どうして私に対して敬語を使ってくださるのですか?」

「・・・私には貴女が大人の女性に見えます。成人に対して敬語を使うのは至極当然だと思いますが」

「オートバイに乗っている人って、皆フランクなのかと思っていました。馴れ馴れしいというか。田代さんはおいくつなんですか? 失礼ですけど」

私は巳年だと答えた。

「四捨五入したら還暦ですよ」

「もっと若く見えます」

「年配だからといって、バイク乗りだからといって、皆が馴れ馴れしい訳ではないですよ。それに、まだ友達と呼べる仲でもないでしょう?」

「友達ではないのですか?」

「バイク仲間、かな」

「先輩。先生。師匠・・」

彼女は呼び方を探した。

「先生とか師匠は止めて下さい。私より上手い人は沢山いますし、お教えできることなんてほとんどありません」

彼女は微笑んだ。

「また一緒に走っていただけますか?」

「勿論です」

「ありがとうございます、師匠!」

言われて少し照れた。

 コーヒーを飲み終わって外に出た。

「今日はこれで解散しましょう。たぶん、ご自分で思っているより疲れが溜まっていると思います。市街地は交通量が増えますから集中して行きましょう。途中まで先導します」

頷くとヘルメットを被り、グローブを付けてキーを回した。私たちは西日の中に走り出した。


 いくつからの交差点を越えて、私のマンションに近づいて来た。手信号で私は右折することを示し、ウィンカーを点けた。交差点の右折レーンに入り減速、彼女はこっちに入って来ない、直進だ。私がホーンを二度鳴らして、彼女は手をあげて走り去った。


 ふう、とため息一つ。距離的に走り足りない物足りなさと、若い女性とのツーリングの嬉しさが自分の中に同居していた。しかし。ああは言ったものの、若い女性がこんなおじさんと一緒に走ることはもうないだろうと思った。あれは単なる社交辞令だ、と私は反すうした。


 そもそも彼女は、何故私をツーリングに誘ってくれたのだろうか。ウィンカーを割った引け目だろうか。初心者をリードするのはベテランの役目と言ったからだろうか。いや、あれは誘われたあとの電話で言った言葉だ。友達が事故を起こし予定が空いたせいか?いや彼女の周りには他にも友達ライダーがいたし、だいたい、彼氏だっているはずだ。若い女性がバイクに乗りたがる理由は、大方彼氏がバイク乗りでその影響を受けた結果だ。彼氏の趣味に合わせる、彼氏のバイクについて行きたいなんて、健気じゃないか。

 まあ中には片岡義男の小説を読んで、三好礼子に憧れてバイクに乗りたくなったという女性もいるかも知れないが。だからこそ、ツーリング先で女性ライダーをナンパしても成功するはずがないのだ。小説の中の女性ライダーはいつでも凛としている。そしてバイクで走るという行為に集中し、それ以外不要なものを徹底的に排除している。彼女らにとってナンパをしてくるライダーはライディングの不純物、それ以外の何物でもない。

 頭の中でいろいろな考えが巡り、まとまらないうちにマンションに着いた。そういえば、女性と二人でツーリングしたのは初めてだな。若い頃は憧れたシュチエーションだったが、私には縁がなかった。それがこの歳になって実現するとは。まあいい。もうないことだろうがいい思い出になった。さあ、ビールの時間だ。私は呟いた。



 6


 城田夏海とツーリングに出掛けてから一週間が過ぎた水曜日、私は定時に仕事を終え、マンション近くのスーパーマーケットで買い物をしていた。私は一人暮らしだ。ビールやウィスキーなどは重いので通販でまとめ買いにしているが、食料品は定期的にスーパーで補充している。

 レジに並んでいると不意に電話が鳴った。城田夏海からだった。少し驚き、そして不思議な気がした。もう彼女から連絡が来ることはないだろうと思っていたから。と同時に、嬉しさも自覚した。嬉しいと思った自分にも不思議な気がした。通話のアイコンを押してスマホを持ち直すと、彼女が話し始めた。

「夏海です。今、お時間よろしいでしょうか?」

何の用だろう?

「すみません、今はちょっと・・・。あ、あとでかけ直します」

「そうですか、では、お願いします」

レジを終えると袋に食料品を詰め込み、マンションに戻った。袋から取り出した野菜たちを冷蔵庫に入れ、さて今日は何にしよう、とメニューを考え始めて、思い直した。電話が先だ。スマホを取り出し、電話ー受信履歴ーダイヤルとアイコンを押す。

 彼女が自分のことを城田とは言わずに夏海、と言ったことを思い出した。性ではなく、名を名乗ったのは意味深に思えた。いや考え過ぎか。二回目のコールで彼女が出た。

「城田です」

「田代です。すみません、お電話を頂きまして」

「いえ、お仕事中に失礼しました」

彼女は私が仕事中だと思ったらしい。

「今日の仕事は終わっていました。食料品の買い出しでレジに並んでいたものですから」

「お買い物、されるのですか?」

「・・・。しますよ。私は一人暮らしですから、自分の食べる物は自分で用意しないと誰も準備してくれません。で、何でしたか?」

用件を促すとツーリングの誘いだった。六月の梅雨に入る前に南アルプスを走る計画らしい。まだ少し先だ。同僚と行き先を決め、参加メンバーを募っているとのこと。あまり大人数でなければ、と承知した。

「それから。今日も一人で走って来たのです。先週の場所」

「そうですか。頑張り屋さんですね」

「田代さんに教えて頂いたこと、少しできた気がします」

「城田さん。バイクは楽しく乗って下さいね。もし怖いと思うことがあれば、それはその時点での貴女の限界だと思った方が良いです。無理に恐怖心を抑え込んでも良いことはありませんよ」

「とっても楽しいです。バイクも、先週よりも私の言うことを聞いてくれた気がします」

そうか、彼女もバイクと会話するようになったのか。

「週末はまた、お一人でツーリングですか?」

「今週は雨予報ですね。部屋で大人しくしてます」

「そうかあ、そうですね。ではまた、連絡します」


 南アルプスへのツーリングは、六人パーティになった。城田夏海、彼女の同僚の女性、真鍋洋子。その彼氏、坂本健二。坂本の友人、相川優と榊原亮、そして私だ。私的にはマスツーリングはこのぐらいが限界だ。人数が多いと前後にバラけてしまう。バラけると先頭集団は後続を待って度々停止することになるか、あるいは少人数グループに分断してグループ毎の集団となるか。最悪なのは後続のグループが無理をして先頭集団に追いつこうとすることだ。その結果が事故に結びついた例を、私はいくつも知っている。

 ツーリングは大人しいものだった。主要幹線道路を車の後ろについて走り、すり抜けはおろか、追い越しもなかった。マスツーリングならきっとこれが正解なのだろう。高原の牧場が最初の目的地だった。市街地を抜け、山の裾野から県道になると一気に交通量が減った。信号がなくなり、ペースが上がってきたが、しかし長続きはしなかった。牧場に近づくと車もバイクも再び増えた。ペースダウン。車の後ろについて行くのは退屈だった。彼らはヘルメットにインカムを付けていて走っている最中も会話をしているようだった。私はソロライダーだからインカムは持っていない。休憩の時も明らかに年齢層の違う私は、彼らと無理に話そうとはしなかったが、それでも彼らの方が気を使って話し掛けてくれた。男たちはバイク屋のツーリングクラブ繋がりらしい。クラブの会長はバイク屋の店長ではなく、現役最年長者がなるのがそのクラブのしきたりだという。

「今の会長、七十二歳なんすよ」

笑って教えてくれた。

 昼食の時に今までバイクで一番怖かったとき、という話題になった。一人は高速でフェラーリに煽られたときの話。一人は橋の上で強風にあおられて反対車線まで飛ばされた話。真鍋洋子は怖かったことなんてない、と言い切り、それはスピードが出てないからね、と彼氏に茶化された。

「田代さんはどうです?話せる奴で構いません」

「じゃあ、昔の話になるけれど・・」

水を一口含んで、

「まだ私がバイクに乗り始めた頃の話なんだけど、昔のタイヤは今より全然グリップしなくてね。コーナリングの最中にフロントが滑って転倒したことがあるんですよ」

「うわー」

「バンク中にいきなり体の下からバイクが消えてしまってね、バイクが消えたって思った瞬間、路面に転がってました。あれは怖かったですね。いきなりバイクが消える恐怖」

「解ります、フロントのスリップ、あれは怖いですよね」

うん、と頷いた。だけど転倒でダメージが大きかったのはハイサイドを起こしたときだ。カーブの出口でパワーを掛け過ぎてリアタイヤが大きく滑ったとき、慌てた私はアクセルを戻してしまった。急激にグリップを取り戻したタイヤによって、バイクは暴れ馬のように跳ねまわり、私はバイクから放り出された。握っていたハンドルがむしり取られ、私は宙を舞って路面に叩きつけられた。右腕と肋骨を二本折り、当時乗っていたカワサキは廃車になってしまった。

 次の目的地は、この高原を抜けて河を渡った向かいにある山の展望台だ。ツーリングの予定を聞いて、私が一番楽しみにしていたルートだ。混雑していなければ快適に走れそうだ。そしてその予想は当たっていた。駐車場を出る前に、展望台集合で構わない、各自のペースで走りましょうと真鍋洋子から一言添えられた。河を越えて山に入ると、相川優と榊原亮はここぞとばかりにすぐに消えていった。坂本健二も徐々にペースを上げて、やがて見えなくなった。真鍋洋子の走りは決して遅いわけではないが加減速にメリハリがない。いいスピードでカーブに入っていくが、出口であまり加速してしない。城田夏海のペースに合わせてくれているのだろうか。しかし彼女のリズムとはまるで違う。カーブのアプローチで二人は離れ、脱出の加速で追いつく。後ろから見ていると城田夏海の方が、ライディングにメリハリが効いていてバイクらしい走りだ。前走者のリズムではなく、ちゃんと自分のリズムを作って走っている。今はまだ、コーナリングの適切な速度が判らないから必要以上に減速させているけれど、それでいい。二人は任せてもよかろう。私は慎重に彼女らを抜き、ペースを上げていった。私と相棒との会話が始まった。

 いくつかのカーブを抜けたとき、先行していた坂本健二のバイクが見えた。そこからカーブを曲がる度に差が詰まった。彼も気が付いたようだ。すぐ後ろまで来たとき、左に寄って道を譲ってくれた。右急勾配上りのヘヤピン、アウト側からカットイン、タイト気味に回ってセンターラインに寄せる。クリッピングポイントで慎重にアクセルを開けてマシンを立てる。マシンが垂直に近づくに連れアクセルの開度が大きくなる。次の左のヘヤピンのために一旦右に振って、一気に倒し込んだ。アクセルを捻るとドゥカティは後ろから蹴り飛ばされたような加速感を味あわせてくれる。バックミラーに見えていた彼のヘッドライトは徐々に小さくなり、見えなくなった。


 展望台にバイクを入れると、眼下にさっき渡った河と遠くに牧場が見えた。先行した二台のバイクのとなりにドゥカティを置いた。少し遅れて坂本健二が入ってきて、さらに遅れて彼女たちのバイクがやって来た。

「田代さん、速いですね」

坂本健二がびっくりしたように言った。私はありがとうと応えた。展望台には気持ちのいい風が吹いていた。

「写真撮りましょう。バイクが入るように、後ろに並んで下さい」

真鍋洋子がタンクバッグからミニサイズの三脚を出してセットしていた。彼女は腰を屈めてファインダーをのぞき込み、左手を上げた。

「はーい、撮りまーす」

この風が写ればいいのにと、私はカメラに顔を向けて笑った。


 それから十日に一回は城田夏海から電話が入るようになった。何処を走ったとか、ツーリング先で見つけた風景のこととか、次のツーリングの計画とか。梅雨に入って、走れない週末が続いても、彼女からの電話は途切れることがなかった。

 私は嬉しい反面、心のどこかで理由を探した。何故彼女はこんなおじさんに電話を掛けてくるのだろう。彼女の愛くるしい目を思い出す。私は好意を持たれている? そう考えるのが一番自然な気がしたが、すぐに否定した。私は、たぶん彼女の父親と同じくらいの年齢だ。三十も違う初老を相手に恋心を抱くものか。それに。そうだ、彼女にはライダーの彼氏がいるはずなのだ。

 では、何故・・・。バイク仲間。歳の離れた友人。二人の関係を言葉にしてみた。南アルプスのツーリングからこっち、彼女のことを考えている時間が増えた。もしかしたら、彼女には父親がいないのではないか。だから私に父親の面影を求めているのではないか。あるいは、私がバイクに乗るしかない、寂しい孤独な中年に見えて放っておけないとか。

「夏海」

名前を口に出して言ってみた。そうか、私は彼女に好意を持っている。彼女の気持ちは判らないけれど、私は・・・。いい歳のおじさんが、いったい何を言っているんだ。自分の気持ちに気が付いて、しかしそれも否定した。違う、私のそれは、彼女を女性として見ているのではない。娘を応援する父親の立場だ。娘の成長を願い、でも今はまだ手を引いている父親の心境だ。そうか。きっと二人の関係を表すのは、親子というのが一番近いのかも知れない。私は納得して、しかし妙にくすぐったい気持ちになった。私にあんな娘がいたら、そう思うとやはり嬉しい。



 7


 城田夏海は頻繁にツーリングに私を誘ってくれた。彼女は月二、三回のペースでツーリングに出掛けているようだったが、私を誘うときはいつも二人だった。彼女が私をツーリングに誘う理由は相変わらず解らなかったが、彼女と一緒にいるのは楽しい。娘とデートする父親はきっとこんな気持ちなのだろう。私は自分の気持ちを悟られないようにして、ツーリングに出掛けた。

 七月に早過ぎる台風が来て、八月の盆を過ぎると、急に太陽が遠のいた気がした。今年の夏は短かった。九月になると残暑はあっさりと終わり、いきなり秋になった気分だ。毎年のことだけれど、夏が終わる度に悲しい気持ちになる。五月くらいから夏の準備をして、気持ちの上では十月の中旬まで夏のつもりでいる。だけど今年は九月になってすぐ、終わってしまった。

 名前のせいかも知れないけれど、私は夏と言う季節に特別の思い入れがある。だから季節が秋になるといきなりトーンダウンするのだ。空冷のドゥカティにとっては、夏より秋の方がよっぽど走り易いのだけれども。

 気分の落ち込みがちな晩夏に、彼女の電話や彼女とのツーリングは私の救いだった。いつも夏のことばかり考えていて、いっそ沖縄まで夏を追いかけようかと思う気持ちを、現実に引き戻してくれる。夏を惜しむのではなく、気持ちを切り替えて秋を探そう。どうせ夏はまた来る。


 九月初めの彼女とのツーリングは、ちょっと不思議だった。彼女の電話では、何処かに行くという目的地ではなく、曖昧な誘い方だったからだ。

「走るのは別に構いませんが、逆に珍しいですね。城田さんが行きたい場所を言わないとは」

「すみません。できればあまりアップダウンのきつくない、中速のカーブが続くような道を走りたいのですが、ご存知ですか?」

 言葉を聞く限り、走ることそのものが目的で何処かに行きたい、というのではなさそうだ。私は笑った。

「それは難しい注文ですね。一般道はクローズドサーキットとは違って、カーブが連なる道というのは峠道ですから、上りも下りもありますし、中速カーブだけというわけにもいきませんからね」

おそらく何かにトライしてみたいのだろう。彼女は今、自分のライディングと向き合っている、そう思った。山を周遊するようなコースなら高低差は少ないかも知れない。高速カーブを避けた方がいいなら河川沿いの道は選択肢から外れる。過去に走った道を思い浮かべたが、そのまま彼女の希望に沿う道は思い浮かばなかった。

「探してみます」

「すみません、変な注文を付けて」

「構いませんよ。走るルートを選んで、どんな風に走るのかを考えるのも楽しい作業ですから」

 私は電話を終えると、バーボンのボトルと氷を入れたロックグラスを手に、作業デスクに座った。琥珀色をした液体をグラスに注ぐ。甘い香りが漂うのを一口含むと、氷で冷やされたバーボンは喉を焼きながら胃に落ちて行った。少しだけ氷が解けた分だけ口当たりが柔らかい。

 デスクの上にマップを広げ、ツーリングの情報と土地の高低差が判るものを見比べながら、いくつか候補を上げた。その中からセンターラインのない、往復一車線をなるべく除外して選択すると、県境に近い国道と、それに交差する県道が見つかった。それとこれは広域農道だろうか、番号の振られていない、やや広めの道が見つかった。

 マップを広げたまま、今度はインターネットで先ほど選んだ道やその周囲は通行止めになっていないことを確認して、コースを選定した。途中の勾配やカーブは無視して、ある程度区間を絞れば彼女のリクエストには応えられそうだ。

 彼女が練習目的なら、もしかしたら同じ場所を何度も往復した方がいいかも知れない、ふとそう思ったが、すぐに否定した。彼女はその手の走り方を望んでいるとも思えないし、そのレベルだとも思えない。私は彼女の走り方を思い出した。コーナリングの四つの工程を、今はだいぶ上手く繋いで走れるようになった。もし今の彼女に足りないものがあるとするならば、その一つは倒し込みの決断、思い切りだろうと思う。そしてもう一つは、加速のときに車体を起こすというアクションだ。まだ今はバイクなりに走らせているから、バイクを操っている感が薄い。しかし。

 彼女が上手くなることは私にとっても喜ばしいことだ。しかし、彼女の理想が見えない。どこまでを望んでいるのだろうか。私は昔の自分を思い出した。私はどうだったのだろう? バイクを乗り始めた頃はひたすら速さを追い求めてはいなかっただろうか。無茶をしたのは若気の至りと、今なら言える。でも当時はスピードの恐怖心を無理やり抑え込んで、ただ、アクセルを開けている時間を少しでも長くすることだけと考えていた気がする。少しでも早く、アクセルをワイドオープンにすることだけを考えていた気がする。走行ラインも、ブレーキングも、車体のコントロールも滅茶苦茶で、ただ怖さを克服することだけがバイクという乗り物を楽しむことだと勘違いしていた、そんな気がする。


 翌日、自分の考えたルートをもう一度おさらいしてみた。自分で楽しむ分ならもう少しタイトなカーブが適度にあった方がいいが、今回は彼女希望に合わせよう。もしこのルートを走って、もっと変化があった方がいいと彼女が言えば一本西の県道に移ればいい。もっともこちらの県道はかなり大周りになるから時間との兼ね合いだ。ルートを決めると、私は彼女に電話を掛けた。待ち合わせの場所と時間、それから大まかにルートを話した。

「ありがとうございます。素敵な道を選んで下さって」

「素敵かどうかは判りませんよ。私も途中からは初めての道ですから」

「田代さん、初めての峠道でもスイスイ走れちゃうんですね」

どう言えばいいのだろう。

「例えば、ですね。百のスピードで回ることができるカーブがあったとします。でも百一のスピードではオーバーランしてしまう、百というのは理論上の限界値です」

「はい」

「そのカーブに百五十のスピードから減速を始めて、百でカーブに進入するとします。余裕はありませんが、曲がれる速度です。問題はありません」

「はい」

「でも私なら八十とか七十とかの速度で入ることを心掛けます。二割、三割は安全マージンです。緊急回避ができるための余裕です。人によっては九十でも余裕があると言えるのかも知れません。どの程度をマージンとして残すかはその人次第です」

「つまり田代さんは、初めての峠道でもカーブの進入速度に対しては余裕がある、ということですね?」

「初見の道ではそのカーブの限界値が百なのか八十なのか、判りませんよね。ですから、余裕を持ったスローインなのです。ライダーとしての経験値が増えれば、峠の山側の突き出し具合とか、カーブミラーの位置とか、いろんな情報である程度の推測は立ちますよ」

「なるほど」

「カーブの大きさが同じでも、見通しが良いか悪いか、路面状態が良いか悪いかで判断すべき条件は変わりますから、経験の浅い方が、百のカーブを二十、三十で入っていっても問題はないのです。その人にとっての二十や三十は、もしかしたら限界値に近いものなのかも知れないからです。それを遅いと言ってはいけない。私はそう思います」

はっと気づいて。

「すみません。偉そうに言い過ぎました」

「とんでもないです。貴重なお話です」

「あ、今言った数字は時速のことではありませんからね」

彼女は笑った。


 峠に着くと、その入り口の路肩に一旦バイクを停めた。後ろについていた彼女がハザードを点ける。私は彼女に近づくとこう言った。

「ここから先は、あまりアップダウンのきつくない、中速カーブが続く道です。ヘヤピンカーブが出てきたらそこから先は低速カーブが混じりますが、そこまでですね。先を走りますか?」

「できれば田代さんに引っ張って頂きたいのですが。あの、その前によろしいですか?」

「なんでしょう?」

「田代さんは、ハングオフってされないんですか? ここに来るまでも、今までも田代さんの後ろ走ってきましたけど、お尻、落していませんよね?」

「私はしませんね・・・。城田さんはしたいですか?」

「いえ、したいと言うか・・。あの、私の友達が、ハングオフした方が車体は安定するって教えてくれて・・・」

「ケースバイケースだと、私は思います。カーブの大きさ、路面の状況、カーブへの進入速度、バイクの特性、諸々の総合的な状態でその方が良いケースもあるでしょう」

これから走る、その先を眺めた。

「取り敢えずやってみますか。ハングオフとリーンウィズを織り交ぜて走ってみます。真似してみて下さい」

「ハングオフのやり方がわかりません」

 私はその方法を教えた。本当なら直線の減速区間で曲がりたい方のお尻を半分、シートの角にずらすだけだが、今の彼女の走り方ではニーグリップができなくなる。私はブレーキの後、アクセルをパーシャルにした段階でお尻の位置を移動させることにしてもらった。その状態でバイクを倒し込めばハングオフになる。バンク角が深くなければ膝を擦ることはないだろう。

「やってみましょう」

頷く彼女を見て、私はバイクをスタートさせた。


 中速カーブの区間が終わって九十九折りを抜け、峠をそのまま越えて見晴らしの良い駐車場にバイクを入れた。少し標高が上がっただけで涼しく感じる。

「どうですか?」

彼女がヘルメットを脱ぐのを待って尋ねた。

「よくわかりません」

珍しく表情は曇っている。悩んでいる顔か。

「今度は前を走ってみていただけますか。この峠を一旦下りて、川沿いに出て、信号のある交差点まで」

「はい」

 後ろから彼女の走りを観察する。ブレーキング、シフトダウン、お尻をずらしてカットイン、パーシャルで旋回して出口に近づき、旋回区間が終わってアクセルを開ける。一連の動作に継ぎ目が感じられない。が、なんだろう、バンク角が落ち着くまでひどく不安定な時がある。彼女はほとんどのカーブでハングオフをしていた。たぶん、自分の走り方に納得がいっていないのだ。

 目的の国道を走り、県道に曲がって私たちは走った。県道からは私が前を走り、二度目の休憩のとき、彼女は言った。

「あー、もう判んない!」

ヘルメットを脱いで、半ば叫ぶように彼女は呟いた。

「城田さん。今のコーナリングスピードでは、はっきりとした明確な違いは体感しづらいと思います。少し考えてみましょう、四つのフォームの違いを」

「・・・四つ、ですか?」

「教習所では、基本としてリーンウィズ、そしてリーンインとリーンアウトの三つを教わったはずです。それプラス、ハングオフ」

 私は一つずつ、コーナリングフォームの違いを解説した。彼女がワインディングランにスピードを求めたとしても、今はリーンウィズで十分なのだ。そしてハングオフは限られた条件での限定テクニックであることも付け加えた。必ずしもハングオフが優れているわけではない。

「城田さんのフォームはきれいですが、通常はどちらかというと、ウィズよりアウト気味なの、気が付いていましたか?」

彼女は少し驚いたようだ。

「私の体、立っていますか?」

私は頷くと、これも説明した。ワインディングではブラインドのカーブも多い。目線が下がると更に見通しは悪くなる。少しでも遠くを見ようとして目線を上げると、無意識のうちに頭が上がって、体が車体の軸線を外れて起きてしまうのだ。

「気が付きませんでした」

「カーブを同じスピードで旋回するとき、バンク角はイン、ウィズ、アウトの順に深くなります。各々のフォームにはさっき話した特徴があって、カーブによって使い分けるといいですね。ちなみに白バイさんたちは、小道路旋回、つまりUターンだけはリーンアウトですが、緊急走行でスピードが上がるに連れ、リーンインになりますよ」

「何故です?」

「彼らは滑り易い路面でもバイクを転倒させることはできないんです。転倒、イコール事故ですからね。ですからバンク角は極力残しておきたい。白バイさんたちの競技会ではステップやスタンドを接地させると減点なんですよ。かと言ってハングオフは絶対にしない、彼らなりの理屈というか、信念なのかも知れませんね」

私はヘルメットを被った。彼女もそれに倣う。

「この先の道は広域農道になります。そこではリーンイン、ウィズ、アウトを意識的に使い分けてみて下さい」

グローブを着けてエンジンを掛ける。私のバイクのエンジン音に彼女のバイクのエンジン音が重なる。ギアを入れて発進し、彼女が続く。私はオーバーアクション気味に体をカーブの内側へ入れ、曲がって行った。

 左、右、カーブの度に減速のタイミングを計り、エンジン回転数を高めに維持して、それでもアクセルのオープンだけは彼女に合わせてゆっくりめに捻る。途中、彼女に前に出て貰った。彼女のリズムワークは決して悪くない、四つの工程は繋がっている。彼女のライディングを見ていて、急に気が付いた。そうか。バイクなり、車体なり、だから操作感が薄いのだ。どうしよう、言うべきだろうか。


 昼食を取るために国道に戻り、看板に大きくカレーライスと書かれた、民芸風の造りの店に入ってみた。

「ここでいいですか?お昼は」

「私もこの看板見て、胃袋がカレーになっちゃいました」

彼女が笑う。いつもの素敵な笑顔だ。

 席についてカレーを注文すると、店員が下がるのを待って、彼女が話始めた。笑顔が輝いている。

「田代さん。私、二つ、解ったことがあるんです」

「なんです?」」

「一つ目は、さっき田代さんから教わった通り、私にはまだハングオフは早いってこと。リーンウィズが一番走り易いです。比べてみて解りました。やっぱり教習所で教わることって、基本なんですね」

うんと頷いた。

「二つ目は、でも、リーンウィズよりリーンインやリーンアウトの方がバイクを倒し込み易いんです。これはなんか矛盾しているようですけど」

彼女は気が付いていた。私は嬉しくなった。

「何故だと思いますか?」

「意地悪ですね。それを教えて頂きたいんです」

私は小さく笑った。意地悪なんかしませんよ、そう言った。

「城田さんは、バイクの倒し込み、カットインのきっかけはどうしていますか?」

「えー? あまり意識していませんよ?体重移動、かな?」

「そうですね。たぶん無意識に体重移動をして曲がり始めのきっかけにしているのだと思います」

私は水を飲んだ。

「リーンウィズでは無意識にやっていることを、リーンインやアウトでは意識的に体を使ってやっている、ということです」

あ、と彼女は小さく言った。

「バイクを倒し込むには大別して二つの方法があります。一つは体重移動、もう一つは逆ハン、逆操舵という方法です。逆ハンは取り敢えず置いといて、体重移動の話をしますね」

「はい」

「バイクが直立している状態で、上半身を曲がりたい方に入れる、曲がりたい方のステップに荷重する、曲がりたい方に腰を捻って膝で車体を押し込む、この三つが体重移動です。これらの動作を一つ、あるいはいくつかを同時に行います」

私は体を揺らし、捻った。

「私のやり方ですけど。イン側のステップ荷重と上半身をインに入れるのは同時にしています。そしてバンクが始まるに連れ、腰を捻り込みます。決めたいバンク角になったら腰の捻りは止めてステップの荷重をイン側からアウト側に変えます」

彼女の、私を見つめる真剣な眼差しが眩しい。

「ただこれは私のドゥカティでの話で、今のバイクはそれほど強く、曲げを意識しなくても曲がるとは思いますが。ただ、きっかけ作りを意識するのは大切なことですよ」

「それ、やってみたい、試してみたいです」

「ご飯、食べてからにしましょう」

「あと、カーブの出口、立ち上がりで早くアクセルを開けるにはどうしたらいいのでしょうか?私、ファストに抜け切れていない気がするのですが」

「バイクを意識的に寝かすのと同じように、意識的に起こす、というアクションが必要ですね。バンクしている状態で大きくアクセルを開けると、タイヤがスリップしたり、オーバーランする可能性があります」

「それは出口に近づいたら外側のステップにもっと強く荷重を掛ける、ということですか?」

素晴らしい!私は上半身もね、と付け加えた。



 8


 十月になって、また彼女からツーリングの誘いがあった。第二週に信州に紅葉狩りに行くという。まだ早いかなと思ったけれど、行きましょう、と簡単に返事をした。あのツーリングの後半から、彼女はライディングが上手くなっていた。低、中速のカーブでは、かなり思い切りのいい倒し込みをするようになった。コーナリング中のスピードも乗っていて、もう初心者レベルではない。ただ、例えばカーブに飛び込んで、その先に想定外の事態が起きたときの回避はどのように対処するのか、できるのか、未知数だ。これまではコーナリング中のスピードそのものが低かったから心配しなかったことが、今はスピードが上がったことで不安要素となった。しかし、これは公道では教えられない。転倒のリスクもあるし、何より彼女が望んではいないことかも知れない。

 彼女と走るとき、私は自分からは教えようとはしなかった。彼女が聞いたことだけを答えるようにしていた。お節介は嫌われる、それは五十数余年の人生で私が得た教訓だ。私は彼女に嫌われたくない一心で、そのスタイルに徹した。


 待ち合わせを一時間繰り上げて、場所も変更してもらった。市内の運動公園の駐車場だ。彼女は理由を聞かずに承諾してくれた。私はさらに一時間早く、駐車場に着いた。駐車場には誰もいなかった。500mlペットボトルの水が二本、250mlの缶コーヒーを二本。適当な間隔でほぼ正方形に置いた。水とコーヒーは各々対角線だ。グランドの入り口手前にある用具入れから竹箒を引っ張り出してきて、ペットボトルや缶コーヒーの周りを丁寧に掃き、浮いた砂を飛ばした。

 さてと。こんな練習は久し振りだ。ドゥカティに跨りエンジンを掛ける。コケるなよ、と相棒に囁く。ゆっくりとスタートして、まずはオーバルに左回転。途中で切換して右回転。数周回ってコーヒー缶二本で8の字。何回目かに回ったとき、フルロックフルバンクになった。ハンドルは切れ角いっぱいまで切れて、車体は最大バンクまで倒せた。ザッ、ザッ、っとブーツが削れる。そこに彼女がやって来た。バイクの傍らに立つ彼女を視界に入れつつ、さらに数周回って彼女の横にバイクを停めた。

「何をしていたのですか?」

「練習です。たまに練習したくなるので、本当はいけないのですが、誰もいない駐車場をこっそり借りてやっています」

「面白いですか?」

「練習だから面白いという訳ではありませんが。8の字はライディングの基本です。ジムカーナの選手も8の字の基礎連だけは欠かさない、という人は多いですよ。城田さんもやってみますか?」

頷くと彼女はバイクを静かにスタートさせた。最初はぎこちなく大回りだったが、自分なりに工夫を凝らして小回りするようになった。しかし納得が行かないのか、途中で止まった。

「何か田代さんのと違いますよね。何が違うんですか?」

「城田さん、教習所で教わったパイロンスラローム、覚えていますか?ターンの入り口でパイロンに寄せるのではなく、出口側で寄せるようにラインを引くのです」

「やってみます」

「半クラを使って回転数を上げるのもアリです。ある程度パワーが載っていないと車体が安定しませんから。速度はリアブレーキで調整して下さい」

 何周かするとフルロックではないが、一定のアクセルとバンク角で安定した8の字を描くようになった。

「いいですね。では次は、立ち上りでは思い切ってアクセルを開けてみましょう。そしてアプローチではガツンとフロントのブレーキを使って、サスを縮めて下さい。ブレーキは倒し込みの前にフルリリースするのではなく、半分引きずるイメージで、倒し込んでから完全開放」

大きく頷くと再スタート。段々と思い切りの良さが出てきた。何回目かのターンでいい感じで小回りできた。私の横で止まり、嬉しそうに言った。

「今、いい感じで回れましたよね? でもどうしてですか?」

「フロントが沈むと相対的にキャスターが立ちます。キャスターが立った方がタイトに曲がれるのです。ほんと、いい感じでしたよ」

 彼女の笑顔を見るのは気持ちがいい。こっちも嬉しくなる。ちょっと休んでもらい、ペットボトルと缶コーヒーを近づけた。今度はこんなのどうです? と、私は変形の8の字を描いた。ペットボトルに近づいてカットイン、バンクしながら減速、缶コーヒーの横でタイトに回り、加速する。数周回ってマシンを停めた。

「奥に行くほどRがきつくなる複合カーブを想定しています。ペットボトルを回るバンクより缶コーヒーを回るバンクの方が車体を倒し込みます。大きく入って小さく出るってヤツです」

 だが、さすがにこれは難しかったようだ。缶コーヒーを大回りしてしまう。彼女は何度も挑戦してみたが、上手く回転できなかった。残念だが、まだ彼女にはコーナリング中にラインを変えることはできない。そこに乗用車が入って来た。私は手を振って彼女を止めた。

「車が入ってきました。練習は終わりです」

私は竹箒を片付けて、缶コーヒーとペットボトルをタンクバッグに仕舞った。

「・・・難しいですね」

「コーナリング中のバンク角をコントロールするテクニックです。上級テクになるのかな」

「曲がっている最中に、さらに倒し込むってことですよね?」

「やり方はいくつかあると思います。コーナリングの回転半径は、スピードとバンク角とハンドル角のバランスですから、そのバランスを変えてやれば大回りにも小回りにもなります」

「バランスを変える、ですか」

「簡単に言えば、定常円で回っているときは既にバランスが取れている訳ですが、そこでスピードを落とす、体を内側へ入れる、バンク角を深くする、ハンドルの切れ角を深くする、を行います。そこで新たなバランスが保たれようとするとき、回転半径は小さくなっているという訳です」

私は右手を立てたり寝かせたりして説明した。

「今は体重移動でよりバイクを倒し込もうとされていましたが、あれで良いと思います。バンク角を増やすとハンドルの切れ込み量は連動して増えます。するとフロントタイヤの抵抗が増加し、速度が落ちますから、結局は同じことなんですね」

「全然簡単じゃないです、チンプンカンプンです」

「無理にハンドルをこじると一気に転倒しますから、それだけは忘れずにいて下さい。あとは理屈じゃなく、感覚で覚えましょう」

「あ、練習に付き合ってもらって、ありがとうございました」

私は頭を下げた。

「私は田代さんと一緒にいると、いつも新しいことを教えて頂いています。こちらの方こそ、感謝、です」

まぶしい笑顔だった。いい娘だなあ、しみじみと思った。素直で礼儀正しい。明るく、チャーミングで、頑張り屋。もしかしたら彼女は気が付いているのだろうか。私の意図を。気が付かないはずがない、そんな気がした。

 彼女はさっきまでペットボトルと缶コーヒーを置いてあった場所を、両手を前に突き出して歩いている。イメージトレーニングをしているのだろう。ふっと肩を落とし込んでいる。彼女にとって、あそこがカットインのポイントなのだ。で、次はどうする?そこから更に深くバイクを倒そうとして、彼女は悩んでいるようだった。

 私が三十若かったら、いや二十若かったら・・・。彼女と同世代でないことが、口惜しい。私はいつの間にか父親としての立場を忘れていることに気が付いた。そうか。いや、もういい。無理に父親ぶるのはよそう。私はこの目の前にいる女性に対して好意を持っている。否定する必要はないのだ。ただ、これは悟られてはいけない。私は彼女から目線をそらした。

「さあ、紅葉狩りに行きましょう」



 9


 高速道路も使って概ね三時間、休憩を挟みながら私たちは走った。陽が上がるに連れて気温も上がり、ジャケットの中が少し汗ばんできた。走りながらジャケットのジッパーを少し下ろして風を入れる。秋の空気が湿気を取り除く。爽やかだった。ツーリングにはうってつけの天気だ。空は高く、空気が澄んでいる。高速から国道、そして県道へと進み、川沿いの里山の道を上がっていく。落葉樹で赤茶けた山の景観を遠くに見ながら走ると、街道沿いの街路樹が桜から銀杏、楓、紅葉に変わった。目に飛び込んでくる黄色や赤が鮮やかだ。その先に湖があり、湖畔にはすっかり色づいた楓と紅葉が所々に点在している。

 私たちは駐車場にバイクを停め、湖畔を散策しながらカメラとスマホで、思い思いのフレームで写真を撮った。食堂と土産物が併設されている建物には表からは見えないが湖側にテラスがある。私たちはそこで紅茶を頼み、お互いの写真を見せあった。彼女のそれは、明らかに私の写真とは違う。

「構図といい露出といい、・・・完璧ですね」

正直に褒めた。私には撮れない写真だ。

「ありがとうございます。嬉しいです。そう言っていただけると」

彼女はカメラを持ち上げると、今日はミラーレスですけれど、と言った。

「実は学生時代、写真部だったのです。人物写真が専門なので風景はそれほど上手に取れないのですが」

「いやいや、素人でも判りますよ。いい写真です。私のは駄目ですね」

「田代さんのは・・・」

私のスマホを取って、画面を操作した。

「例えばこの写真なら、大胆に空を広げて紅葉を端に持ってくると、こんな構図ですが、コントラスト的に紅葉が引き立ちます。端に置いても主人公は紅葉なのです」

「なるほど」

「見たままの美しさを撮り込むだけでなく、テーマを持って何を主張するか、を考えると良いと思います」

「それは人を撮るときでも同じですか?」

「同じです」

「例えばどんな写真を撮っていたのですか?」

「女性の友人がほとんどでした。何かに集中している、その集中力や緊張感の一瞬を切り取って一枚、それが解けた瞬間を一枚。二枚の連作が好きでした」

「連作ですか。それは珍しいのですか?」

「二枚の連作を好んで撮る部員は居ませんでしたね」

紅茶を飲みながら続けた。

「友達のリラックスした顔、それがテーマでした」

「普段の顔ではダメなのですか?」

「普段着の顔は、リラックスをしているように見えても、やはりカメラを向けるとつい意識してしまいます。何かに集中したあとの、緊張感からの解放感がその人の素なのです」

 私は望遠レンズを片手に遠くからシャッターチャンスを狙っている彼女を想像した。そして二度目のシャッターを切ったあと、カメラから顔を離した彼女が浮かべる微笑みも。なるほど。


 湖を、来た方向と反対に抜けると渓谷沿いの峠道がある。この湖の上にダム湖があって、そこで県道は行き止まり、ダム湖までの往復を走ってから帰るのが今日のプランだ。

 店を出ると二台のスーパーバイクがやって来た。排気音がとんでもなかった。背の高い、体格の良い二人。二人とも使い込んだ革つなぎを来ている。走り屋であることは一目瞭然だ。彼らは何も言わずに店に入っていった。

「すごいバイクですね」

「うん。随分とお金の掛かったチューンをしているみたいですね」

それは一目で判る。マシンのたたずまい、雰囲気が、彼女のホンダとも私のドゥカティとも違う、独特のものだ。後ろに回った。タイヤの縁までキッチリ削れていた。しかも熱で溶かしたように、だ。フロントタイヤを見ると、フロント側も同じように縁まで削れていた。高速カーブをフルバンクで走らないとこうはならない。サーキットでも走っているのだろうか。

「もしこんなバイクが後ろから来たら、慌てずキープレフトで先に行かせて下さい。上手い人は勝手に抜いて行きますから、抜かれるときにパニくらなければ大丈夫です」


 ジャケットのジッパーを上げ、ヘルメットを被り、グローブを着ける。彼女の何気ないしぐさが様になっている。私はバイクに跨ってキーを回し、始動はキック一発。私が先行して走り出した。

 峠のカーブを攻めるでもなく、流すでもなく、ただ、リズムを作ることに専念して丁寧に回った。片側一車線、センターラインはイエローだ。センターライン付近と路肩に砂があったが、それ以外は概ね快適な路面状況だ。バックミラーに映る彼女は車間距離を詰め気味に走っている。この速度のクルージングなら遅れることなくついて来る。今の彼女ならもう少しペースを上げても離されずに走るだろう。少しペースを上げると車間距離は伸びたが彼女はへっちゃらのようだった。カーブの入り口で車間距離は詰まり、立ち上りで開く。よし、それならこのペースで走ってみよう。いいリズムだ。私はアクセルのオンとオフを繰り返しながら車体を右へ左へと倒し込んだ。

 ダムの駐車場が見えてペースダウン。ミラーの中の彼女が近づいて来る。以前彼女が言っていた、スムーズな走りは、もう十分できている。

 コンクリートで固められた駐車場の奥に、管理事務所があるだけの何もないところだった。駐車場の入り口に、釣り禁止と書かれた看板があるだけだ。停まっている車もバイクもなかった。湖からここまですれ違った車もバイクもいない。追い越した車両もなかった。観光客はここに何もないことを知っていて、下の湖までしか来ないのだ。入口から徐行し、管理事務所の前で止まった。

「何もない所ですね? 引き返しましょうか?」

バイクからは降りずに話し掛けた。ふと思い直して、

「今、湖から大体十五、六キロくらい走ってきました。いいペースですが、疲れていませんか?」

「全然!」

「じゃあ今度は貴女が前を走って下さい。さっきの湖まで」

 彼女が爪先で地面を蹴りながらバイクをバックさせ、切り返して前に出た。私は白バイがやる小道路旋回をやって見せた。何のことはない、ただのUターンだ。

 走り出してしばらくすると、四気筒の排気音が近づいて来るのか判った。瞬間的に湖の駐車場で見掛けた二人組だと思った。対面走行だからものすごい勢いで迫ってくる。ストレートに近い緩やかなカーブですれ違った。彼女の体が強張るのが十五メートル離れている私からでもよく解った。私の横をすれ違ったとき、空気がビリビリと震えているかのような音と風圧を浴びた。これでは彼女は怖かろう。しかしすぐに落ち着いたようだ。ダム湖の縁を離れ、川沿いに走るときは普通に走っていた。倒し込みの思い切りもいい。立ち上がりでは意図的にマシンを起こしているのが判る。加速もできている。いい感じだ。彼女が彼女のリズムでワインディングを楽しんでいる。うん、いい感じだ。


 私が彼女の後ろについて上達ぶりを見ていると、四気筒エンジンを高回転まで回している独特の排気音が近づいて来るのに気が付いた。集合管から吐き出される音色はレーシングマシンそのものだ。あの二台が折り返して戻って来たのだ。

 私は一旦彼女との距離を詰め、パッシングをしてから再び距離を取った。ヘッドライトがバックミラーに映る。速い。私は左の緩いカーブを抜けるとアクセルから手を離し、手首を回した。二台が続けざまに私を追い越して行く。彼らが彼女と私の間に入り、次は右カーブだ。彼女も気が付いていて左に避けている。一台目が直線で彼女を抜き去り、そのままのラインで豪快に右に倒し込んでいった。前走者のラインを気遣ってくれている。

 私は、二台目はてっきりカーブを抜けたあとに追い越すものと思い込んでいた。だが、そいつはあろうことか、右カーブの手前で抜きに掛かり、彼女と一瞬並走してカーブに入っていった。馬鹿野郎! 私はヘルメットの中で怒鳴った。一瞬のことだが、彼女はカットインのタイミングを失ってしまった。フロントブレーキはパニックを起こし、タイヤが砂を噛んだ。こうなるとABSは効かないのも同じだ。マシンはコントロールを失いフロントからスリップダウンした。彼女はバイクの右側に落ちて転がった。

 私は彼女の右を通過しマシンを左に寄せて停めた。落ち着け! 自分に叫び、彼女に駆け寄る。

「城田さん! 城田さん! 夏海さん! 大丈夫ですか? ちょっと待って、まだ動かないで!」

私は自分のヘルメットは脱いで地面に置いた。甲高い排気音が遠のいて行く。あいつらは気が付いていないのか。目をやると右カーブの先は左に回り込んでいた。右ー左の連続したカーブだった。二つ目の左カーブに入ると、こちら側は完全な死角だ。右のカーブの入り口で転倒した彼女に気が付く間もなく、あいつらは次の左カーブに飛び込んで行ったに違いない。

「どこか痛いところはありますか? 無理して立たないで」

ジャケットの右腕の部分が肘から肩まですれていた。ヘルメットも右側が傷付いていた。

 彼女が小さく頷く。大丈夫、小さな声が聞こえた。両手をついて立とうとするのを制し、脚を延ばした姿勢で座らせた。ヘルメット、脱がしますから、痛かったら言って下さい、そう言って彼女の顎紐をDリングから外し、左右に引っ張って慎重に脱がせた。頬が涙で濡れていた。目と鼻が真っ赤だ。

「大丈夫、痛いところはありません」

「いや、今は興奮しているから痛みは感じないのかも知れない。しばらくこのままでいて下さい。いや、ここじゃまずい。少し移動しますね」

私は彼女を抱き上げ、数十メートル来た道を戻った。直線でどちらからも見える路肩に彼女を降ろして座らせた。一旦ドゥカティに戻り、Uターンして彼女の元へ。タンクバッグからペットボトルの水を取り出して彼女に渡した。

 彼女のバイクはスリップした場所から七、八メートル滑って山の手前で止まっていた。倒れたバイクのメインスイッチをオフにし、バイクを引き起こして跨ぎ、左側に立ち直してサイドスタンドを掛けた。バイクの周りを一周する。

 きれいだったフルカウルは、その右側を擦り傷だらけにし、ウィンカーは割れ、バックミラーも割れ、ブレーキレバーは曲がっていた。二本出しのマフラーもひどい傷だ。反対車線で転倒していたらガードレールにぶつかっていたかも知れない。最悪は崖の下だ。山側の車線だったからダメージはこれくらいで済んだのかも知れない。改めてキーを回し、ギアをニュートラルに戻してセルを押した。なかなかエンジンは掛からない。何度目かにセルと押すとマシンは目を覚ました。アクセルを煽ってレーシング、反応が悪い。二度、三度と繰り返すとリニアに吹け上がった。いい子だ。私はタンクに手を置き、そう呟いた。

 ヘルメットは被らず、彼女の前まで徐行した。ハンドルも曲がっていない。フロントブレーキ、リアブレーキ、順番に掛ける。タイヤもブレーキも問題なさそうだ。ダメージは最小限で済んだ。ラッキーだと思った。

 それから彼女の横に腰を下ろしてこう言った。

「カウルは傷だらけになりましたが、エンジンは掛かりました」

彼女は震えているようだった。

「寒いですか? どこか痛みますか?」

「・・・怖かった」

絞り出すようにそう呟いて、彼女は少し、泣いた。私は彼女の横で黙って座っていた。

 しばらくして彼女はそっと立ち上がった。私も立ち上り、彼女に尋ねた。

「気分、悪くはないですか? では、頭、首、胸、お腹、背中、手、足、順にセルフチェックしてみて下さい。痛みや違和感はありませんか?」

彼女は手足を振って、体を動かした。

「右肩と右肘がちょっと・・・でも、大丈夫です」

病院に行くほどではなさそうだった。私はほっとした。彼女のダメージも最小限で済んだようだ。とは言え、あとになって痛みが出てくる可能性もある。

「保険会社に電話して下さい。警察も呼んだ方が良いかな?」

彼女が保険会社に事故の報告をし、私は警察に電話した。悪質なライダーにラインを塞がれて転倒したというと、やがてミニバイクに乗った警官とパトライトのついたワンボックスカーがやって来た。彼女と私から話を聞いて、事故の現場でブレーキ痕や転倒した位置を確認し、繰り返し状況を確認した。メジャーで位置を計測し、写真を数枚撮って、事故の調書を作った。

「自損事故、ですね。接触した訳でも幅寄せをされた訳でも、煽られた訳でもないのでしょう? イエローラインも越えてなかったと言うし。追い抜かれただけなら、そのバイクのライダーに責任を問うのは難しいと思います」

「そんな」

「そのバイクがあなたを追い抜いたことと、あなたの転倒との因果関係は立証が難しいんです。ま、安全運転義務違反か、速度違反でしょうが、どのみち現行犯じゃないと捕まえられないし。あなたたちも、速度超過、してたんじゃないんですか?」

カチンときた。クソ、これだから警察って奴は。

「で、あなた。怪我はどうなの? 病院行くの? バイク乗れるの?」

「病院に行くほどではないと思うので、このまま帰ります」

「そう。じゃこれにサインと拇印押して」

彼女に書類とペンを渡した。もう一人の警官は箒で路面を掃いて破片を集め、ビニール袋に入れてワンボックスカーに仕舞った。

「ウィンカー、割れているみたいだから、曲がるときは手信号でね。安全運転で帰って下さい」

 私はご苦労様でした、と嫌味たっぷりに言ってやった。一人は私を睨みつけ、もう一人は知らん顔で受け取った書類をもう一度チェックし、車に乗り込んだ。

「安全運転でね」

そう言って、ミニバイクとワンボックスカーは去って行った。腕時計に目をやるともう二時を過ぎていた。

「町へ降りて、ご飯食べましょうか。お腹空いたでしょう?」

「ごめんなさい。食欲なくて、食べれないと思います」

彼女は肩の痛みよりも転倒そのものにショックを受けているようだった。自分のバイクの擦り傷を見て、すっかり落ち込んでしまった。

 私はなんと声を掛けていいものか、迷った。でも、結局何も言えなかった。思い付いた言葉は全部陳腐だ。私は自分自身に言い聞かせる。いつだって自分で立ち上がるしかない、自分で立ち直るしかないのだからと。



 10


 信州のツーリングから帰ってきて、彼女からの連絡が止まった。あの日、別れ際に、ごめんなさい、と謝られたのが彼女の最後の言葉だ。

 彼女からの電話がなくなって、私は淋しさを感じていた。私の方から掛けようとしたこともあったが、それは止めておいた。父娘ほども歳の離れた女性に、何を言えるだろう。慰めや励ましの言葉の一つも思いつかなかった。そして、立ち直るのは自分自身の力でしかないんだ、とストイックに考えていた。私にできることは何もない。二週間が経ち、三週間が経ち、一ヶ月、二ヶ月と連絡が途絶えたまま時間だけが過ぎていた。いや、その間も私はワインディングを走り、海岸線を走り、いつでも彼女をエスコートできるように準備だけはしていたのだけれども。

 年末の休日、私は冬枯れの山中にいた。オフロードバイクで林道からその支線に入り、行き止まりまで行ってバイクを停めた。そこから獣道を少し歩いて切り株に腰を下ろし、まだ熱いコーヒーを飲んでいた。万が一があってはいけないので、コーヒーは朝、保温ボトルに入れて来た。蓋をカップにして注ぐと、香ばしい香りと湯気が立ち上った。風もなく、ひと気もなく、静まり返った林の中で、ただ自分がコーヒーをすする音だけがあった。見上げると空はどこまでも澄んで高い。周りの木が、見上げた空を小さく切り取って単眼の望遠鏡で覗いているようだ。

 城田さん、どうしているのだろうか、一人でぼーっとしていると、彼女のことばかり思い出されてしまう。怪我は治っただろうか、バイクは直しただろうか、何処かを彼氏と一緒に走っているのだろうか。もしかしたら、バイクを降りてしまったのだろうか。

 気になるのなら、電話一本掛ければ良い、と思う。しかし彼女から連絡がないのは、彼女が私に対して連絡を取りたくないという意思の表れだ。バイクで走るのが怖くなったのか、バイクが嫌になったのか、あるいはもう私と走る必要がなくなったのか。

 結局のところ、私には何も解っていなかった。彼女が私と走った理由も、そして連絡が途絶えた訳も。解らないことをいつまで考えても仕方がない。私はコーヒーを飲み干すと、カップを二度振って残ったコーヒーを飛ばし、ボトルに締め込んだ。それをバックパックに仕舞うとバイクまで戻った。

 ヘルメット、ゴーグル、グローブ、順に身に付けてエンジンを掛ける。アクセルターンで向きを変え、来た道を戻って行った。支線の途中に広場みたいなところがあって、そこはオフロードライダーにとっての格好の遊び場だった。誰が持ち込んだのか大小の丸太があり、フロントアップや丸太越えなど、ちょっとした練習ができた。広場にはやはり誰も居ない。私は端の方にバックパックを置いて、一人で丸太越えの練習を始めた。

 前後の体重移動でフロントフォークを伸縮させ、タイミングを合わせてアクセルと開けてクラッチをつなぐ。フワッと持ち上がったフロントのタイヤを、一度丸太に当ててさらに大きくアクセルを開ける。フロントタイヤが上がり過ぎた気がしたが、上手く乗り越えられた。二回目、今度は失敗。フロントの上昇角がコントロールできない。三回目も四回目も失敗。フロントタイヤが丸太に乗らない。乗せる? 当てる? 五回目は成功。そのあとも繰り返して練習したが、なかなか安定しない。

 ひとしきり繰り返していると、今度はアクセルの開け過ぎで捲れてしまった。慌てて後ろに飛びのくが、着地を失敗して尻もちをついた。ちっ、舌打ちをしてバイクを起こす。そこへ本線の方からバイクが数台上がって来た。下手を見られたな。

「こんにちは!」

「こんにちは」

林道ライダーは登山者と似ているのかも知れない。山では誰とも気兼ねなく挨拶をし、話し掛ける。一人の青年が話し掛けてきた。

「この先は抜けていますか?」

「いえ、この支線は行き止まりです。あと五、六百メートルくらいかな。この先はちょっと荒れてますよ」

 林道本線はコンクリートや砂利で整備されていることも多い。元々林道は林業のため、伐採の工事や車両のためのものだ。だが支線は整備されずに土が剥き出しで、深い轍が掘られていたり、あるいは大小様々な岩が、そう、まるで湧き水が枯渇した渓流のような岩場になっているところもある。岩場はガレ場と呼ばれ、そこを好んで走るオフロードライダーもいる。

「ガレてますか?」

「ガレてます。」

「この先、ガレ場だってー。」

嬉しそうな歓声と、私、もう無理ーという女性の声が聞こえた。女性も混じっているのだ。

「ちょっと間隔広めでお願いします。吉田君、詩織さんをサポートして上げて!」

「初心者にはきついんじゃないの? 詩織さん、今日が林道二回目でしょう?」

「ダイジョウブ、イケルイケル」

誰かがイントネーションを消した言い方で皆を笑わせた。そう、林道では何の根拠もなくイケるイケると場を煽るベテランライダーが居て、初心者がそれを鵜呑みにして撃沈するというパターンだ。本当は危険極まりない、無責任な発言なのだが。

 とは言え、彼らの力量も全く判らないし、結局のところ、バイクは自己責任でしかない。自分が危険だと思ったら、引く勇気も本人に託されるのだ。だから本人がダメだと判断したら、その判断を受け止めて、ルートを変更する決断力がリーダーには必要なのだ。

「取り敢えず行ってみましょう。行ってみて、ダメだと思ったら引き返しましょうよ」

先頭の青年が会釈をして走り出した。次々に続くオフローダー達。・・・五、六、七と、彼らを見送って、私は練習を再開した。

 しばらくは練習に没頭した。上手く丸太を越えられるとフロントは浮いたままリアが丸太に当たって小さなジャンプをし、リアから着地する。そしてフロントを地面に落とす。三回連続で成功したら休憩しようと決めて、何度もトライした。そしてようやく休憩ができたときに三台のバイクが戻って来た。

 詩織さんと呼ばれた女性は、どうやら途中で断念して戻って来たようだった。バイクを降りて、その傍らでペットボトルのお茶を飲みながら、悔しい、を連発していた。その横で青年が二人笑っている。私はコーヒーを飲みながら彼らに背を向けて、谷の方を見ていた。

 初心者にはガレ場は難しいよね。できないって諦めてたら、できないまま終わりますよ。ガレ場は速度がスロー過ぎると逆に走り難いんですよ、いやスローでもいいんですが、前輪が岩に当たったらアクセルを開けないと、失速してガシャンです。断片的に彼らの会話が聞こえてくる。そうだ、バイクという乗り物は危ないと思ってアクセルを閉じてしまったら、返って車体が安定しない。オンロードでもオフロードでも、上半身は柔らかく、常にアクセルを開けて、バランスを取ることが必要なのだ。だから危険を感じたときこそ、冷静に対処しなければならない。そして体を使うことは何にしても練習をしなければ修得できないのだ。

 しかし。バイクは手取り足取り教えてあげることかできない。手本は見せることができても、実際に動かすのは本人でしかない。バイクで転倒するリスクは、イコール怪我をするリスクだ。怪我をするかも知れないリスクを承知の上で練習しなければならないは、バイクくらいかも知れない。だから本当は、公道ではなく設備の整った場所、きちんとした指導者が必要なのだ。勿論自分の運転能力の限界を探るようなことをしなければ、それはそれで済むのだろうが。

 私が保温ボトルをバックパックに仕舞うと、グループの本隊が戻って来た。彼らと入れ替わりに広場をあとにした。片手を上げて挨拶すると、向こうも手を振ってくれた。私はスタンディングのままバイクを操って支線を下る。

 バイクに乗るということは、競技でなくともスポーツに近いと思う。ダイジョウブイケルイケル、という掛け声は、昔の、根性論だけの運動部のそれと同じだ。でも練習無くては上達しない。私は彼女に無意識に練習を強いたのだろうか。

 彼女は、ワインディングをスムーズに速く走りたいと私に言った。私はその思いに応えることができたのだろうか。自分に問いてみた。私は正しかったのか、彼女の望まない速度領域まで彼女を連れて行ったのではないだろうか。あの転倒の理由は、本当はレーサー気取りの走り屋にあるのではなく、バイクを操るということをきちんと教えきれなかった自分にあるのではないか、そう思えた。


 林道の本線はフラットな砂利道だ。考えごとをしていたせいでブレーキが遅れた。カーブに入るスピードが速過ぎる。まずいと思った瞬間、タイヤが滑ってそのまま転倒。

 ちっ。教えるなんて、何様のつもりだ。こんな簡単なカーブでコケるくせに。自分に悪態をついた。でも、倒れたバイクを引き起こすのも、再び走り出すのも、全て自分でしなければならないことなのだ。バイクを降りるのも、乗り続けるのも、自分で決めるしかない。


 年が明けると慌ただしくなった。転勤の辞令が出たのだ。今度は東北支店へ異動、三月いっぱいでこの街を離れることになった。一月、二月があっという間に終わり、転居先も決まり、仕事の引継ぎも一段落した頃、心残りは彼女のことだけだった。転勤すればもうここに戻ることはないだろう。つまり、もう恐らく彼女と会う機会はない。そう思った。いや私たちはライダーだ。いつかどこかのツーリング先で、ばったりと出会うことだってあるかも知れない。勿論それは、彼女がバイクに乗り続けていれば、の話だが。そんな淡い期待をするくらいなら、電話を掛ければいいのだ。そんなことは解っている。しかし、今更。


 三月も後半に差し掛かった。私は自問自答を繰り返し、何もできずにいた。せめて彼女がバイクに乗り続けているのかどうか、知りたかった。でも仮に電話を掛けて、もうバイクはこりごりだと言われたら、そう思うと彼女の番号を押す気になれない。転倒、怪我、あの時の恐怖を私は思い出させてしまうかも知れない。このまま引っ越してフェードアウトするのが一番良いようにも思える。いい加減彼女のことを考えるのは止めよう。忘れよう。私は彼女と初めて走ったあのロードを走ることにした。それで自分の気持ちにけじめを着けよう、そう考えて会社に水曜日の休暇を申請した。


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