第二話 遠い夏の日〜さいしょで、さいご〜
エアコン代わりに窓を全開にした真のオンボロ車は、法定速度を越すことが無い。そもそも六十キロ以上のスピードを出そうとすれば、エンジンが悲鳴をあげる。安全運転が過ぎるのはたまに傷だ。ふたりともそんなことで苛立つような性格ではないで、他愛もない会話を続けていた。
髪が風になびく度、彼女は
(せっかくセットしたのに)
と夏の暑さをうらめしく思う。当の彼氏は、春歌が髪をかき上げる度に、女性の香りに色を感じていた。
時間を置きながらラジオを調整する真を見て、春歌はふと同僚に聞いた話を思い出し、話題にした。
「そういえば、今日なんで急に休みになったか知ってる?」
「いいや、全然。春歌さんは何か知ってるの?」
真は、毎日きちんとセットしていたはずの携帯電話のアラームに裏切られていた。時間が来てもうんともすんともいわなかったため、仕事に大遅刻したのだ。それでもまかないが出たから律儀な職場だ、と思う。しかも咎められることもなく、三十分も仕事をしたかというところで閉園になったのである。
「うーん、伊藤さんから聞いた話なんだけどね。今日、電話とかぜんっぜん繋がらなかったの」
と春歌はダッシュボードに置いてあった真のケータイを手に取ってみるが、それは電源さえ入っていない。
真の携帯電話はいわゆるスマートフォンだ。有機ELの画面と物理キーボードを搭載したEl -デバイスモデルZという機種で、二〇〇九年現在最新のデジタルガジェットだ。そういったものに目がない真は発売時、無理をしてまで即座に手に入れた。ただ、ネットワークサービスエリアが狭いため着信することもままならず、上司からは不評を買っている品だ。そのため職場からの連絡は固定電話に掛かってくる。
「そうなん?」
「うん、時計だってこんな調子だし。そのせいで事務とかほとんど出来なかったんだって。ほら、伊藤さん案内係でしょ? どことも連絡繋がらないし、そのせいかもだけどあの団体さん以外お客さんも来ないから、営業出来ないって、しょうがないって」
伊藤はふたりの二年ほど先輩に当たる歳の近い同僚で、高校を卒業してすぐ遊園地に就職していた。ふたりの良き友達であり、真にとっては春歌についての重要な情報源でもある。三人は、二歳ずつ差があり、真が二十四、春歌が二十二、伊藤が二十歳。正確には春歌は今日が誕生日なので、今は二十三歳ということになる。
「そうだったんだ。連絡来ないし、出勤したらいきなり休みだとか言われてびっくりしたよ」
春歌はクスクスと笑い、
「あんな時間に来るなんて! 社長出勤だっていうのよ、それ。今日じゃなかったら大叱られされたかもよぉ」
と茶目っ気たっぷりに皮肉り、
「ひどいなぁ」
と真も反応する。
「目覚まし時計くらい別で用意しときなさいよ」
「うん……、あ、でもそうか! アラームが鳴らなかったのはそのせいだったんだ! 電波障害だよ、きっと。ん、でもなんで固定電話までダメだったんだ?」
さすがにそこまては知らないだろうと思い、少し意地悪に聞き返す。
「噂だと、人工衛星がぶつかったとか、太陽面爆発があったとかだって。テレビまで映らないんだよ」
今朝の事なのに、なぜあんな小さな職場でこんな大きな噂が出てくるんだ、と真は呆れ気味だ。
(噂って、伊藤さんから? いやこれ多分発信源は春歌さん自身だな)
でも、太陽面爆発は近々起こるかもしれないと前にテレビで見た気がする。
「本当にそんな事が起こってたら……、ワクワクするなー!」
真のこんなところにはついていけない、とばかりに春歌はタメイキを吐く。
「不謹慎ねぇ、本当だったら大惨事かもしれないのに。……ラジオが入らないのもそのせいじゃないの?」
春歌の言葉を聞いてようやく合点のいった真は、
(そっか、なるほどね)
と口には出さず呟き、ついにラジオのチューニングを完全に止めた。春歌からの気遣いと優しさを受け取り、自分の不甲斐なさも改めて噛み締める。
「あーあ、こんな事なら私も寝坊すればよかった!」
本気の口調で冗談を言う春歌に真は苦笑した。
「はは、らしいね! 春歌さん!」
春歌の冗談を聞く度に真の心は暖かくなる。
「そうでしょだって! 遅れてきた誰かさんは怒られもしないでそーめんちゅるちゅるするだけーでいいもんね。毎日ちゃーんと登校する私は、きっと寝坊なんかしたらイヤミを言われちゃうもんね。良い事を真面目に続けてる人は、ちょっと失敗すると余計に悪く言われるんだからっ」
「あっ、それはひどい発言だなあ! 僕だって真面目にやってるじゃん」
実際、真も春歌も当番制のちょっとした掃除やゴミ捨てなどを、担当以外の日も手伝っていた。担当者が一人でやっても十五分も掛からない仕事だ。
それでも遊びに来た人たちが去った後の、カラスの鳴き声が聞こえて来る薄暗い遊園地は物寂しい空気を醸し出す。そんな時間にはやはり誰かと一緒に居たくなる。
だからふたりはそんな仕事は早く片付けて、お疲れ様という言葉を数人で分かち合ってから帰宅する。そうしてまた次の来園者に向ける笑顔の準備をしているのだ。
「わかってるよ! ……だってそういう所が好きなんだから」
真には聞こえないように春歌は囁いた。
「なに? 聞こえないよ」
「なんでもないよ! ほーらヨシヨシ」
春歌は頬を染めながら真の頭を少し強めに撫でた。
「!」
真が動揺するのも無理は無い。春歌にそんな事をされたのはこれが初めてだったからだ。当の春歌自身、真っ赤にした顔を必死に窓の方へ背けてしまっている。無言の、甘ったるい時が流れる。
気付けば陽が少し傾いて来た。ふたりを乗せた車は、その恋愛の葛藤を示しているかのように、目的地を決めかねている。
春歌の実家は海沿いで、歴史ある城下町だ。職場に繋がる電車などは無いため、車で通勤している。
一方、真の家は内陸地にあり、海など全く見えない。四方を低い山に囲まれた閉塞感の漂う土地で、盆地と言うのが正しいだろう。田んぼだらけでコンビニはあっても二十一時までの営業だ。
職場を発ってから三十分くらい、車はちょうど真の家あたりに差し掛かっている。春歌の帰路とは反対の南へと進んでいた。
「なんだか本当に静かだね。もともと人少ないけど。空気が張り詰めている感じがするな」
真も、春歌と同じ気分を味わっていた。
気温が高く、風さえ止まっているかに感じるほど。車内は蒸し風呂状態だ。だから春歌はいつも準備している水筒から一杯分のお茶をコップに入れ、真に渡した。それを彼が一気に飲み干すと、自分も同じようにコクコクと喉で小さな音を立てて渇きを癒した。
春歌はこの暑さの中で、冷や汗をかいていた。
「私、少し怖いみたい。ねぇ、……シンくん」
春歌はハンカチで額を拭う。
「はは、大丈夫だよ。ホラー映画だって僕より好きじゃない」
手を握ろうかと思い付いたが、真はそこまで気持ちを踏み込ませられなかった。彼女はそれを求めていたのだけれど。甘い空気だけではなく、春歌は本当に緊張していた。
(チャンスかもしれない)
真には考えていることがあった。ポケットの中を探り、箱の存在を確認する。交際一ヶ月記念の彼なりの証として指輪を用意していたのだ。あまり高価ではないが、小さな宝石をあしらった指輪だ。
そして、それは春歌への誕生日プレゼントでもある。サイズが合わなかった時のために、店員に勧められてペンダント代わりになるようチェーンが付けられていた。たまたま今日、昼間からデートになったことは幸いだった。
「お茶、もう一杯もらえる?」
「いいよー」
春歌に入れてもらった麦茶を一口飲む。さっきは少し甘いくらいだったのに、今はなぜか苦いくらいに感じられた。
いつ渡そうか、真は心の中で呟く。どの指輪を買おうかと迷っていた時、宝石には一日ごとに決められた誕生日石というのがあることを店員から聞いた。今日渡すことだけは決めていたので、七月十二日の誕生日石を選んでいた。
「あのさ、今日が何の日だか分かる?」
そう切り出してきたのは春歌のほうだった。何かに対する恐怖を振りほどくように。
「えっ!? えっと、何の日だっけ? 海の日じゃなくて、あれ、なんだろう?」
たった今、口に出そうとしていたセリフを先取りされて、真は焦った。その動揺を見て、春歌は真が『分かっている』ことに気付いた。
「分からないの? ……じゃあ、思い出すまで、んー、どうしようかな」
こういうイタズラが好きな女性なのだ。次に出す言葉に困りつつ、真は彼女の可愛らしさを感じる。
ようやく一ヶ月。ふたりにとっては大事な日。これからの未来を想像する。不安もある。相手の気持ちを試したり、確かめたり。彼らの関係には、そういう遊びがまだまだ必要だし、それ自体が楽しみでもあった。
思いついた春歌が張り切って言う。
「……そうだ、流れ星!」
「流れ星?」
「そう、一緒に流れ星を見ようよ。今日だけは、絶対見るまで一緒に居る!」
それは望みであり、願いであり、ワガママでもあり、ふたりともに同じ想いだった。
「……! それって思い出すとか関係無くない? 時間制限ないじゃん!」
真は自分の本心に力の限り抵抗した。
「じゃあ、何の日か思い出した時は……?」
気持ちを隠そうとするが、それはまったくの無駄な努力だった。こんな時、男は情けない。余計な一言で雰囲気を壊す。すべて見透かされているのにも関わらず。
「思い出さなくていいの! そんなのあとまわし!」
「……分かったよ、うん、流れ星見に行こう! それから、ちゃんと思い出すよ」
彼女を愛おしく想う。このまま、こんな時間が、ゆっくりと過ぎていけばいいのに。
「春歌さん、どこで流れ星をみようか?」
「そうだね、えっと、うん、海がいいな」
「ああ、いいね! 星も綺麗に見えるだろうし」
「だって、今日は『海の日』だもんねっ」
「あー! そういう事言っちゃうの?」
「そうなんでしょ! それとも、思い出しちゃったの? 今日が何の日か。ねえ、……今、思い出しちゃうの……?」
春歌がこんな、切なさが混じる声を出す事に真は驚きを隠せなかった。鼓動は早くなり、少しでも春歌の近くに寄りたくなる。
真はそっと、春歌の手を握った。少し汗ばんだ暖かいその手は、待ち兼ねていた時間を表すように真の手を強く握り返した。強い力でも、それは女性の手だった。春歌は一度結ばれた手をそっと離し、真の心に触るかのような姿に、繋ぎ直した。
真の顔をちらりと見てから、春歌はフロントガラス越しに空を見上げた。車の中から眺めた空は雲ひとつ無く、斜陽からか少し黄金色が混ざって、とても綺麗だった。
眺めているうちに、こんな天気で降るはずのない雨。
「わあ」
狐の嫁入りだ。
春歌は真に声を掛ける。運転席に座る真は、スピードを緩め、愛車を道路脇に停めた。
虹が見えないか、ふたり一緒に空を探す。すぐ近くの山に掛かる虹。はっきりと見える鮮やかな二重の七色が真たちの感情を高めてゆく。
「きれいだね」
「うん……」
こんなこともあるものなんだ。真は今日一日をこれまでの人生最良の日かも知れないと思う。
ふたり揃って見惚れていると、虹よりも美しい輝きが降って来た。
繋がれた手を握りしめ合う。
「流れ星だ!」
長く尾を引く流星。こんな時間に見られるなんて……。期待とは裏腹にふたりの希望は叶った。海はまだ遠い。早すぎる流れ星。こんなことなら別の約束にしておけば良かったかも。
「私、願い事言う前に叶っちゃった……」
今しかない。春歌の手を握るのと反対の手から指輪の入った箱を取り出す。流れ星を機に、真はプレゼントとともに自分の気持ちを伝えようとした。
「春歌さん、誕生日おめでと……」
ただ、その流れ星は消えることがなかった。それは願いを叶えるようなものではなく、凶兆と表現するのが正しいかもったかも知れない。
「え……?」
そんな言葉にすらならない声が、真の聞いた春歌の最後の、声、だった。
頭上へと迫ってくるその星は、ふたりを閃光の中に堕とした。
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