第一話 遠い夏の日〜約束〜
夏なのに 蝉の声 聞こえないね
————彼女はそんな風に話し掛けた。
助手席に座る西来春歌は、彼が自分の話を聞き流しているだろうということを気にも留めず、時刻が表示されているはずの左手の電波式デジタル腕時計に目をやった。しかし画面には意味を成さない英数字だけが映っていた。
「昨日まで普通だったのになあ、変な壊れ方っ。いくらぶつけたってなんともなかったのに」
仕方なく車に備え付けられたアナログ時計に目を移すが、これはこれでデタラメな時間「八時十三分」を示している。正確な時刻は分からないが、正午を過ぎているのは確実だ。
(やっとかあ、嬉しいなぁ。私、期待しちゃってる)
七夕を過ぎたばかりで、願いを込めた短冊が残っているそんな時期。今日はふたりの交際一ヶ月の記念日だ。まだまだ日は浅く、そんな日にちゃんとしたデートが出来るものだから、春歌はその嬉しさを噛みしめていた。
朗らかな性格をしている春歌は、気やすく話しかけやすい。体を動かす事が好きで、子どもの頃からテニスや水泳などのスポーツを続けている。
そんな質だから、壊れにくい耐衝撃性能に優れた黒い腕時計を着けていた。黄色のワンピースに白のカーディガンを重ねたコーデで腕時計が一番目立っている。そういう気取らない所が彼女らしい。
「えっと、あれ? おかしいなあ」
ラジオの番組を受信するため、真は必死になってラジオデッキの周波数ノブをいじっている。トントンと叩いてみたり、曲がったアンテナを引き伸ばしたり、さっきから試行錯誤を繰り返していた。
「ねえ、大丈夫? 運転変わろっか?」
ハンドルを片手にそんなことをしているものだから、春歌は少し心配になったが、車線をふらふらと越えてしまうことはなく、対向車もほとんど来ないため、注意まではしなかった。見守ってしまうのは彼女の悪い癖かもしれない。
「大丈夫だよー。……そろそろ、聞こえくれても、いいだろっ」
ふたりの同僚かつ共通の友人から、彼女の趣味を教えてもらっていた真は、ラジオの調整に真剣だった。春歌は録音まで日課にするほどラジオが好きらしい。
電波が入らない所に住んでいる真にラジオを聴く機会はほぼ無いが、自身がオーディオやホームシアターを趣味にしているため、音を聴く、という所がふたりの共通点になっていた。
せっかくだから同じ趣味を持ちたいと、ふたりともに思う。
(だからって、無理しなくてもいいんだよ?)
春歌は焦っているように見える真の背中にそんな気持ちを投げかけた。
今日は急な休みになったが、普段ならきっと今の時間は仕事中だから、ふたり一緒に日曜の昼間にラジオを聴く機会は、滅多に訪れないはずだ。
(ちゃんとセッティングしときゃよかったなあ……)
この機会を逃すまいと春歌をドライブに誘った。これで、正式なデートは二度目になる。
急に決まったデートだったから、真はSTAFFという大きな文字が背中にデザインされた水色のポロシャツにベージュのチノパンという、職場の制服を着たままにする他なかった。
それに比べて春歌は、お気に入りの服をロッカーに揃えていた。
チラッと目を向けた真は、
(どうやってあの狭いロッカーの中へ詰め込んでいたんだろう)
なんてことを思う。
春歌の服にはシワの一つも無い。バッグはさすがに通勤用だったが。
同じ職場なのに休日の予定がなかなか合わない。これは、イナカの遊園地で働くふたりにとって宿命のようなものだ。
「私はこっちにあんまり来ないけど、セミが鳴いてないの気になるなあ。こんないい天気なのに休業だし、静か過ぎるし……。なんか不思議な感じがする。ね、真くん、聞いてる?」
春歌は真をシンくん、と呼ぶ。初めて名前で呼びかけた時、間違えてしまったのだけれど、親しい呼び名になっていた。
彼女はシン、という呼び方のほうがしっくりくるらしい。他の人からはふゆみちゃんとかまこと先生とかいうぞんざいな呼ばれ方なので、春歌だけがシンと呼んでくれることに、特別さを感じていた。
「うん、そうだね。もうちょっと、待っててね……」
普段はまったく使わないラジオを手探りに操作しているものだから、生返事しか出来なかった。ピーガー、なんて雑音しか聞こえてこないので、そろそろ諦めようと真は両手でハンドルを握る。残念だけど、一緒に聴くのはまたにしよう。
「ごめんね、春歌さん。ラジオ、聴けないみたいだ」
「いいよ、大丈夫、気にしないで。それにしても今日、暑いね。もう、熱い! って言い換えてもいいかも!」
「そうだなあ、この車エアコンだって壊れてるからね」
ふたりが乗っている車は古い。祖父から譲り受けたもので、真名義になった時点で製造から既に二十年以上の時が経っていた年代物だ。窓の開閉は手回し式だし、エアコンは部品の調達期間が過ぎているから、修理手段が無い。おまけにCDはもちろんカセットテープも再生出来ないのだから、この車で音楽を聴くことはなかった。
「毎年気温、高くなってるみたいだし。海にでも行きたいなぁ」
「いいね! 僕はもう何年も行ってないよ。……水浴びさせてやったら少しは気持ちいいかな?」
それでも、この車は大切にしている。祖父は齢六十を過ぎたのちに免許を取り、八十歳で免許を返上するまで事故も起こさなかった。形見だからというのもあるし、家族の歴史が詰まった車だ。最初からボロボロだったので、その草臥れ加減までも気に入ってる。
「ん? 何の話?」
「この車だよ。海の水はダメたけどね」
「ああ、おじいちゃんだもんね、労わってあげないと」
春歌は、全開にしたカーウィンドウから入ってくる風に深い色の黒髪をなびかせる。毎日炎天下のなか半袖で仕事をしているから、その肌は健康的な小麦色に染まっていた。
「今日、いきなり休みになっちゃったからびっくりしたけど、でもラッキーだったね、なかなか一緒に出掛けられないもん。だから、嬉しい。あ、でも遊びに来てくれてた子ども達は、ちょっとかわいそうだったけど……」
「そうだなあ。今日来てた団体さん、少し遠くから来てたみたいだし。売店のおばちゃんが、子ども会のイベントかなにかで来てたんだって言ってたよ」
ふたりの職場はサファリパークの中にある遊園地だ。
同期で入社し、同じ遊具係を担当したり、暇な時には雑談をして、すぐに打ち解けた。入社時、実は久しぶりの再会を果たしていたのだけれど、真はその事に気付かなかった。気付いた春歌から真に話し掛けていた。
「観覧車に乗れなかった女の子、泣きそうだったよ。あと二分早ければ乗れたのに。代わりにお母さんか誰かにソフトクリームを買ってもらってたみたいだけど。泣き声が聞こえてきたからなあ、残念だよ。また来てくれるといいな」
「そうね、これから夏休みだし、期待してもいいんじゃない? 」
春歌は一般的に見ても綺麗な顔立ちをしていて、スタイルだっていいから子どもから大人までウケがいい。だが、職場では少し浮いた存在だ。このイナカにおいては経歴がすこし特殊で、同じく浮いた真と気が合った。
春歌は、緑に満ちた景色を眺めながら話を続けた。
「遊園地、いつから再開するのかな 」
「えっ!? 臨時休業って今日だけじゃないの?」
「うん、そうみたい。動物課の人たち、エサだけでもあげに来ないと、とか言ってたし。あっちの方が情報早いよね、いつも。ウチの課長も連絡があるまで自宅で待機しててって言ってたよ」
「ここはイナカだからなあ。早く再開しないと本気で潰れるんじゃないかな?」
冗談混じりに真は笑う。
わざわざ自分の出身地をイナカだと強調するのは、就職するまで春歌が上京していたからだ。
東京まで行って大学を卒業したのに、実家から通えるという理由一つで就職先を決めてしまった。それでも実家から車で一時間弱は掛かる距離だが。
教師になる夢を諦めてまで。
「大丈夫よ、ウチだってサファリと遊園地だけが収入源じゃないし」
彼女なりの理由があることは少しは聞かせてもらったけれど、もったいないような気もする。
遊園地だから子どもたちと触れ合えて、それは本人にとっていいことだろうけど、こんなイナカに帰って来なくても。
でも帰って来てくれたからこそ、こうして一緒に居られる。お互い、そういう風に幸運を感じていた。
「んー、そう言われればそうかー」
適当に返事をしたが、そういう事情は春歌の方が圧倒的に詳しい。情報を仕入れる速さがまったく違う。頭の回転速度のせいだろうか。少なくとも、高校時代の成績には雲泥の差があった。もちろん真の方が下だ。記憶力とか情報量だとか、彼女との違いに真は少しだけ劣等感を抱く。
ふたりが出会ったきっかけはボランティア活動だった。通う高校は違ったが、活動にちゃんと出席していたおかげで、ちょっとした接点があった。その時は恋愛関係には至らずに、卒業してから会うことは無かったが、偶然にも就職先で二度目の出会い。これはちょっとしたキセキかもしれない。
「そういえば、今日の昼ごはんはひどかったな、焼きそーめんなんて聞いたことないよ!」
「ほんっと! でも意外と美味しかったのがくやしいところね。いつも不思議なメニューばっかりだからハズレかと思ったけど、あなどれないものね……」
真の場合、出身県内の大学を卒業し、そこの大学院まで卒業したのだけれど、祖母の世話をすることと、目指す道の両立が上手くいかず、結局方向性のまったく違う仕事に就いた。今ではこの仕事を気に入っているし、後悔もしていない。
そうした、些細でも似た経緯がふたりを近づけた理由の一つだ。少なくとも遊園地課の中で近年、大学を卒業してから係員になったのは春歌と真だけだった。それがふたりを浮いた存在にさせている原因である。
「ああ、そうだね。って美味しかったのか、あれ? 伊藤さんは半分も食べてなかったよ?」
「いいの! 舌が肥えてるほうが残念な思いをするだけよ」
遊園地には食堂もレストランもあるが、まかないが出るためわざわざ料理を注文しない。ただ、味に関しては商品とまかないとであまり差は無いのかもしれない。
「コンビニなんかも近くに無いからなあ、うらやましいよ、その味覚」
職場の周辺は、山に囲まれたまさに田舎と言うに相応しい。実を言えば遊園地自体、動物と触れ合えるサファリパークのおまけ程度の小規模なものだ。
「そうやってまた私の味覚をバカにするぅ。そんなことばっかり言ってたらお弁当一生作ってあげないよ?」
「わあっ、ごめんごめん! うん、たまにはいいよね、焼きそーめん!」
サファリも遊園地も老朽化していて、色褪せたところは何度もペンキで塗り重ねてある。遊具だって多くないから、閉園した所から安く譲ってもらったりして数を補っている。故障がつきものだから、ちょくちょく入れ替わっているが、頑丈なものだと三十年以上ずっと動いてくれている遊具もある。
見た目が古臭いので、来園者からの感想はあまり良くはないが、そういった長く働いてくれる遊具には、従業員みんなが愛着を持っていた。
「それだけ?」
「いや、味覚が変とか思ってないさ! まかないのメニューがおかしいだけだよ」
「うぅ、ん」
「ね、ごめん! だから手作り弁当だけはお願いします!」
「ま、いっか。美味しくなくても知らないよ?」
「春歌さんの手作りって思うだけで今でも美味しいです」
「なにそれっ」
からかいながらも春歌は微笑む。
「春歌さん、大学の時は自炊してたんでしょ? 期待してるよ」
「外食とか店売り弁当も多かったけどね。ま、シンくんのために頑張って作ってあげるよ」
普段は弁当を持参しないし、朝も早い。付き合い始めてふたりが最初に交わした約束が春歌のお手製弁当だった。春歌から言い出した、初めてのデートでの、約束。
「また忙しくなる前に作ってあげたいけど」
営業日にも関わらず休園を迎えた遊園地だったが、夏休みにもなるとお客でごった返す。普段なら遊びに来る客は少なく、週末でさえ人影がちらほらなんてこともザラにある。
しかし正月やお盆、長期休暇となると帰省してきた家族連れなどが暇を持て余して押し寄せてくる。そういう書き入れ時があるから運営が成り立っている。
そして、もうすぐ夏休みがくる。
ふたりのデートも次はしばらく先になりそうだ。
だから、今日を特別な日にしたい。日にちは過ぎたが、七夕に書いた願いは、きっと叶うはずだ。
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