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LIKE A ROSE

作者: こなひき

徹夜明けの昼下がり、さすがに重くなった瞼を無理やり開くため、私はベランダに出てポケットの中から新品の煙草を取り出した。慣れた手つきで火をつけ一度ふかし、もう一度大きく吸い込んで肺の中にしっかりと煙が行き渡るのを感じてから、ゆっくりと吐き出す。

紫煙が青い空に漂っていくのをぼんやりと目で追っていると、向かいのマンションの一室の窓から大きなピアノを懸命に弾いている少女が見えた。その音色は道を隔てたこちら側まで微かに漏れ聞こえてきた。私はピアノの楽曲には詳しくなかったが、この曲には聞き覚えがある。


「オーボエ協奏曲ハ長調K.314」


私は、なんとなく楽器の構えをとり、煙草を咥えたまま曲に合わせて指を動かした。頭の中で、ピアノとオーボエのデュオが鳴り響く。

まだ中学生だった頃、私は地元でちょっとだけ名の知れたオーボエ奏者だった。吹奏楽部に入部して始めて、順調に上達し、吹奏楽コンクールやアンサンブルコンクール、ソロコンクールなどとにかく沢山のコンクールに手当たり次第参加し、中学の三年間で多くの賞を受賞してきた。いろいろな楽曲に触れてきたがその中でも「オーボエ協奏曲ハ長調K.314」という曲は私の十八番だった。

いずれは、音楽専攻の高校や大学に進み、オーボエ奏者として生きていくのだと周囲の人たちも私自身も信じて疑わなかった。

その信念が幻想だと知ったのは中学三年生の春だった。進路希望調査書を出すために何の気なしに調べた高校の募集要項を見て愕然としたのを覚えている。

音楽専攻のある高校では通常、専門楽器の他にピアノの実技試験が必須になることが多い。私はオーボエは吹けても、ピアノは弾けなかった。今からはじめても受験日までにある程度のレヴェルまで上達できるはずもない。楽器を演奏する難しさは、誰よりも私が一番知っていた。私の心は、いとも簡単に折れてしまった。

それから私は、日に日にオーボエから距離を置いた。あの時、もう少し頑張って縋り付いておけばよかったと、今になって思う。


「…あちっ!」


長く連なった煙草の灰が手の甲に落ちた。

「嗚呼、…何やってんだろ」

運指をやめ、手の灰をはらう。


あの頃、持ち歩いていたお気に入りのリードケースは、いまやシガレットケースにすり替わり、毎日吹き鳴らしていたリードは煙草の灰となって消えてしまった。

ふと、灰皿の横に置いた煙草の箱に目をやる。「EVA ROSE」と書かれた薄ピンク色のパッケージからは、文字通り、ほのかな薔薇の香りが優しく香っていた。その昔、オーボエの音色は、「薔薇色」だと比喩した文豪は一体誰だったか。ゲーテ?ディケンズ?トルストイ?いや、誰だっていい。誰だって一緒だ。


漏れ聞こえるピアノの音色が先ほどよりも小さくなった気がした。

オーボエの音はもう聞こえない。


「…さて、仕事すっかね。」

私は、一つ背伸びをしてから、紡がれるピアノの音色を遮るように窓を閉めた。

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