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潰れた

作者: 雨咲まどか


 ポン酢が潰れたの。

 なんていうかこう、「ガシャン!」でも「ガチャ!」でもなくて、「ぐしゃ」って音がして、潰れたの。

 冷蔵庫を開けたらポン酢が飛び出てきて、そのまんま足下に落ちちゃった。一瞬何が起きたかわからなくて、下を向いたらポン酢のビンが粉々になってた。割れた、でも壊れた、でもなくて潰れたんだよ。

 ビンってあんな見事に粉々になったりするんだね。床に広がったポン酢の中でガラスがキラキラ光って綺麗だったなあ。

 それでまあ、それからずっとリビングがポン酢臭いんだけど、見えるんだよね。ポン酢の霊が。







 テーブルに両肘を付き、組んだ手に額を押し付けて私はごくりと唾を飲み込んだ。手の陰から目の前に座るミキちゃんの表情を伺う。

 黙って私の話を聞いていたミキちゃんの皿からは、ガレットが消えている。よくもまあ、こんなに熱く語っている人を前にして食が進むなあ。

 二つ年上で私とはまるで違う人生を歩むミキちゃんは、私の姉だ。

「とうとう頭がおかしくなったの?」

 たっぷりとした沈黙ののちにミキちゃんは眉と眉を寄せた。まあそうなるよな。我が姉ながら、至極全うな意見だ。

「とうとうとは失敬な。まるで頭がおかしくなる前兆でもあったみたいな言いぐさじゃない」

 私は顔を上げて、ミキちゃんの隣に視線を滑らせる。

 ミキちゃんの家から程近い場所にあるこのカフェは、住宅街やタワーマンションが周囲にあっていつも混み合っていた。今だって、木曜日の真っ昼間だというのに女性客でほとんどの席が埋まっている。喋り声が反響して、店内のお洒落なピアノの曲がよく聞こえない。

「ちなみに、今もすぐそこにいるよ、ポン酢の霊」

 ミキちゃんは私の目線の先を追いかけると眉間の皺を深くした。

井芹いせりくんに見限られてショックなのはわかるけど」

「……まだ見限られたかわからないし」

 憐憫がふんだんに混ぜられたミキちゃんの目付きと声色は、私の心を貫いた。もごもごと反論すると男性の低い笑い声が聞こえてきて、私は唇の端を噛む。

 ミキちゃんの横で、黒ずくめの男がダークブラウンのソファに腰掛けて頬杖をついている。

 いわゆる忍び装束に身を包んだ彼は、アンティーク調の内装の中でどうしようもなく浮いていた。口当てで隠されて目元以外は見えないが、目尻に寄った皺と揺れる黒い瞳から笑っているのはよくわかる。

 ほんとうに私にしか見えてないんだなあ。私は彼を睨めつけてため息を吐いた。やっぱり私、おかしくなったのかもしれない。

 すっかり冷めてしまった、半分しか減っていない生クリームまみれのパンケーキがテーブルの上で私のことを責めている気がする。お前なんかただ生クリームが乗っただけのホットケーキだよ。私は内心でパンケーキに悪態をつき、口をひん曲げた。

 ミキちゃんが言うに、この丸くて甘いスポンジは、豆乳とヨーグルトを使っていてモチモチとした食感が人気のパンケーキらしい。ようするに牛乳の味がしなくてふわふわしてないホットケーキじゃない。そう思ったけど、口にはしないでおいた。適応能力がないのだとパンケーキにまで説教されている気分だった。

 私はチョコレートは固い方が好きだし、プリンはとろとろしていないのが好きだ。ポテトチップスは塩味、アイスはバニラ、ホットケーキにはメープルシロップ。それでいいのに。どうしてそれ以上を求めるんだろう。

「――美奈子、聞いてるの?」

 なにか話していたらしいミキちゃんが、急に声を鋭くした。正直なところ、全く聞いていなかった。

 複雑な香りのするフレーバーティーを前にして、彼女は腕を組んでいる。そのすぐ隣で忍者みたいな男が同じように腕を組んで首を傾げていた。不可思議な光景に吹き出しそうになり、私は神妙な顔をしてみせる。

「なんだっけ」

「井芹くんのこと。あんたには勿体ないような人だったんだから、今すぐにでも全面的に謝罪して来なさいよ」

「……だからこの後話し合うんだってば」

 私はなんの変哲もないアイスコーヒーをやけに細いストローで吸い上げた。溶けた氷ですっかり薄くなったコーヒーを飲み干すと、ずこ、と音が鳴る。

 井芹くんとは、付き合いだしてもう六年になる。気が付いたときには私は二十八歳という年齢になってしまっていた。一つ年下の井芹くんは二十七歳。アラサーともなると、今までと同じ様には付き合えない。私はそんなことないと思うけど、どうにも世間はそうらしい。

「悪いけど私、もう行かなくちゃ。定期検診の日なの。あんまり辛いなら知り合いのカウンセラー紹介するから連絡して。……今日は奢るわ」

 ミキちゃんは静かに立ち上がり、薄手のコートを羽織ると伝票を手に取った。小さな声で礼を言う私に肩を竦めて歩き出す彼女の大きなお腹を、高そうなマタニティウエアが包んでいる。染めたてのグレージュの髪が揺れて、フリージアの香りが鼻腔に届いた。

 ミキちゃんは一昨年結婚した。二年間二人きりの新婚生活を楽しんで、三十歳で妊娠。旦那さんは年上で、綺麗な広い新築のマンションに暮らしている。

 きっとミキちゃんこそが、いわゆる「幸せ」なのだと思う。

 私はナイフとフォークを持ち上げると、細かく切り刻んではパンケーキを胃に押し込んでいった。

「ここ、落ち着かないな。早く帰ろう」

 頭上から声がして見上げると、忍び装束の男が空中であぐらを掻いていた。私がポン酢の霊だと呼んでいる彼は、現れて以来片時も離れずに私の側にいる。

 辺りを見回して、私は声を潜めた。

「カフェ、苦手なの?」

「どうにも、甘い物と洋風の物とは相性が悪いんだ」

 憮然とするポン酢の霊に、私はそりゃあそうだろうなと大きく息を吐いた。





 ポン酢が潰れたのは、昨晩のことだ。

 昨日私は、一体何度目になるのか数えたくもないボツをくらって、酷く落ち込んでいた。今回こそはと練りに練った、力作だった。

 私は売れない漫画家をしていた。学生の頃に少女漫画雑誌の新人賞で受賞して、就活をせずに漫画一本に絞って頑張ろうと決めた時に、支えると言ってくれたのが後輩の井芹くんだった。

 初めて貰えた連載は瞬く間に終わった。単行本で言うと二冊弱。その後はぽつぽつと読み切りを載せて貰って、気付いたらもう、六年だ。

「今はこういうの、ウケないんですよ」

 そう私に告げる担当編集は、いつの間にか年下になっていた。まだ若いんだからもう少し頑張ってみて、と口にする彼女の方が若いのが、おかしかった。

 美大を卒業した頃、私の目の前には確かに希望が広がっていた。友人達も私を羨んでくれて、憧れの職業につく自分が誇らしかった。

 それが今や漫画家と言えるのかも怪しい仕事量になって、友人達ともなんとなく疎遠になってしまった。

「そんなに辛いなら、休んでもいいんじゃないかな」

 社会人も五年目になり、仕事の忙しくなってきた井芹くんは待ち合わせに少し遅れてやってきて、私の愚痴を一通り聞き終わるとそう言って微笑んだ。着始めたばかりの頃はなんだか不恰好だったチャコールグレーのスーツがすっかり板についている。ピンストライプが入った大人っぽいスーツ。もうとっくに大人だから、大人っぽいって言葉はおかしいのかもしれない。

 私はちょうど枝豆を口に入れた所で、噛まずに飲み込んでしまい大粒の豆が喉を下ってゆく感覚に顔を顰めた。

 この大衆居酒屋は、付き合いだした頃からよく通っている場所だった。ミキちゃんにはもういい歳なんだからデートくらいもっとお洒落なところでしなさいよと呆れられているけれど、私は何が駄目なのかあまり理解できなかった。

――今はこういうの、ウケないんですよ。

 編集者の台詞が反芻される。私は六年間、何も変わらずに今日まで辿り着いてしまった。

 胃の中で、井芹くんが来る前から飲み続けているビールがぐるぐると回っている。

「……休んで、どうするの?」

「一緒に暮らそう。僕だけの稼ぎじゃ厳しいから、事務の方は続けて欲しいけど、少しのんびりしてみたらどうかな」

 私は小さな食品会社で事務員のパートもしていた。今となってはむしろそっちの方が、主な収入源になっている。

「そう言ってくれるのは嬉しいけど」

 泡の消えたビールの琥珀色に、私の情けない姿が映っている。美容院に行くお金をケチっているせいで変な長さまで伸びてしまったショートカットの、くたびれた女だ。

 井芹くんは以前から同棲を提案してくれていた。私の住んでいるマンションは狭くほとんどが作業部屋で生活もろくなものではなかったから、家賃を折半して良い部屋に住もうと言ってくれていたのだ。二人で新しく部屋を借りる。それは結婚の準備のようで、彼が私なんかをそこまで想ってくれていることが嬉しいのは確かだった。

 だけど私は、何かと下らない理由をつけてはそれを断り続けていた。

 井芹くんは疲れた目つきで、黙り込む私の顔を覗き込んだ。

「辛そうな美奈子さんを見るのは僕も辛いんだよ」

 私は唇の端っこを噛みしめた。唇を噛む癖がもうずっと抜けないから、私の唇の左端はいつも腫れて膨らんでいる。甘噛みでも、噛み続けたらこんなになるなんて知らなかった。

「井芹くんも、才能ないんだから漫画なんかやめればいいって思ってるんでしょう」

 ああ、馬鹿なことを言った。言葉が自分の口から離れた瞬間、全て回収したくなった。井芹くんの大きな耳に届く前に。

 残念ながらしっかりと聞いたらしい彼は、丸っこい目をゆっくりと瞬きさせた。

 みぞおちが一瞬で冷たくなる。違うの、こんな事、言うつもりなかったの。弁明したい私の声は喉で引っかかって上手く出てこずに、店内の喧騒に飲み込まれてしまった。

「思ってないよ」

 井芹くんは私の求めたとおりの返事をくれた。彼は随分と落ち着いた声音を出すようになった。少し派手な色だった髪も、就活を期に真っ黒にして以来ずっと染めていない。私の、ただずぼらなだけの黒髪とは種類が違う。彼の黒髪は、社会で生きてゆくための努力の一つだ。

「嘘」

 やめろ、言うな。脳の片隅に追いやられた冷静な自分が、警告を鳴らしている。

「嘘じゃないよ」

「嘘だ」

 井芹くんが困っている。困っているだけじゃない。きっと面倒な女だと呆れている。

 私は彼の方を見れずに俯いたままぎゅっと唇を噛んで、それから逃げ出すことにした。

「ごめん、一人になりたい。帰るね」

「――美奈子さん」

 五千円札をテーブルに置いて席を立つと、井芹くんは私の腕を掴んだ。どこまでも優しい人だと思った。

 もう一度「ごめん」と言うと、ゆっくりと手が腕から離れて自由になる。ああもうほんとうに、私は最悪の女だ。





 マンションに着いた私は、散らかった部屋の真ん中で倒れ込んだ。スイッチを入れたストーブが、じわじわと部屋と私を暖める。

 誰からも連絡のないスマートフォンを眺めて、浅く呼吸をする。時計はいつの間にか夜中を示していて、なんだか少し、泣きたくなった。

 温かいものでも飲もうと私は起き上がり冷蔵庫へ向かった。牛乳を温めてココアでも作ろう。私が好きだからと井芹くんが買ってきてくれた高いココアパウダーが少しだけ残っている。

 冷蔵庫を開けた瞬間、扉の内側に付いている棚から何かが飛び出してきた。黒っぽい陰が鼻先を通り過ぎて、

――ぐしゃ。

 何かが潰れる音がして、反射的に下を見やる。つま先のすぐ側で、ガラス瓶が茶色い液体の中で粉々になっていた。特徴的な酸っぱい匂いがする。ポン酢だ。

「ポン酢って潰れるんだ」

 しゃがみこみ、私は見事に跡形も無くなったポン酢を眺めた。中身がたっぷり残っていたから、床に大きな水たまりが出来ている。

「よくも潰してくれたなあ!」

 不意に背後からおどろおどろしい声がして、私は飛び上がった。振り返ると、漆黒の忍び装束を着た男が天井から逆さまにぶら下がっている。頭巾と口当てでほとんど顔がわからない。暗殺者、泥棒、変質者。様々な可能性が脳裏を過ぎっては困惑を増長させる。

「――ひっ」

 息を飲み後退ろうとすると、彼はくるりと肢体を捻って床に降り立った。

「後ろ、危ないよ」

 言われて、ガラスの破片を踏みかけたことに気が付いた。動けずにいる私に、忍者みたいな男はずかずかと近付いて来て目を細める。

「今潰されたポン酢です。どうぞよろしく」

「ポン酢……」

 ポン酢って、こんな忍者みたいなのか。私は彼の姿を観察して眉根を寄せた。黒い羽織に黒い袴。足袋も頭巾も真っ黒だ。背はずいぶんと高いようだが情報が少なすぎて年齢は推測出来ない。

「潰されたので、化けてでてみました」

「……ふ、不可抗力です。ポン酢が勝手に飛び出てきたから」

「しまう位置が悪かったんだよ」

「そう言われても」

「まあ過ぎたことは仕方ない。案外俺は懐が深いんだ。それより、片付けた方がいいんじゃないかな? それ」

 私は訳がわからないまま頷いて、近くに落ちていた紙を手繰り寄せるとガラスの欠片を拾い集めた。あまりに細かくてほとんど指では摘まめず、タオルを持ってきてポン酢ごと拭き取るようにしてかき集める。

 片付けの間、黒ずくめの自称幽霊は「ああ可哀想に」「なんと痛ましい」とぶつぶつ言いながら私のまわりをぷかぷかと浮いていた。

 一通り拭き終わると、私は少し悩んで丸めた紙とタオルを空箱に入れてベランダに置いた。掃除機もしたいけど夜も遅いから明日しよう。面倒なことは全部明日に。

 私は改めてココアを入れることにした。まだポン酢臭いキッチンで、深い色をした粉に砂糖を混ぜ合わせ、温めた牛乳とお湯を注いでかき混ぜる。

 不思議と私の心はすっきりとしていて、この意味のわからない状況を受け入れ始めていた。

「俺の分もある?」

「飲めるの?」

「飲めない。そんな変な臭いのやつ、不味いに決まってるしな」

「じゃあなんで聞いたの」

「気持ちの問題だ。用意してくれるぶんにはやぶさかじゃない」

「ふうん」

 私はソファに座って、ココアの入ったカップを両手で抱えた。そのすぐ横にポン酢の霊が腰を下ろす。甘い香りの湯気がのぼっている。一口啜るとやっぱり美味しかった。これを買ってきてくれたときの、井芹くんの大型犬のような笑顔が脳裏に浮かぶ。

 何で私、こんな夜中にポン酢の横でココア飲んでるんだろう。

「どうして忍者なの?」

「君はなぜ自分が自分なのか答えられるか?」

「……答えられないけど」

 そういう事ではないような気がするんだけど、どうなんだろう。もうどうでもいいか。

 ポン酢の霊はソファの上であぐらをかいた。

「君、ポン酢好きじゃないだろ」

「よくご存じで」

「俺、井芹とかいう奴にしか使われたことないからな」

「そもそも井芹くんのために買ったしね」

「焼き魚には醤油、鍋はごまだれ、お浸しさえ出汁と醤油だもんな。俺は悲しかったよ。めんつゆにさえ笑われる日々だった」

「なにその調味料間での争い」

 私はこくりと喉をならした。熱いココアが胃に届いて身体が中心から温まってゆく感覚がする。

 この部屋は、井芹くんの形跡で溢れている。同棲こそしていないけど、世話焼きの彼は何かとここを訪れては料理を作ってくれたり、ココアを入れてくれたりした。ココアに至っては、最早自分で入れるよりも彼が入れた方がよっぽど私好みの配分で美味しいのだ。

「井芹はどうして君みたいなのと付き合ってるんだろうなあ」

「……はっきり言い過ぎじゃない?」

「ポン酢好きに悪いやつはいないんだ。井芹には幸せになって欲しいんだよ」

 使っていたのが井芹くんだけたったせいか、ポン酢はやけに井芹くんの肩をもつ。私は井芹くんのことを思い出してみて、最近彼の困った顔ばかり見ていることに気がついた。

 息を吹き掛けるとココアはくるくると渦をつくる。

「井芹くんは変わり者なの」

「へえ」

「あの人、下の名前が雷蔵っていうんだけど」

「古風でいい名前だ」

「似合わないからってみんなに苗字で呼ばせてるの。恋人の私にまで」

「別段似合わないこともないと思うが」

 私は頷いてソファにもたれ掛かった。

 まだ付き合い始める前、「結婚したときはどうするの? 奥さんが苗字で呼ぶのは変じゃない?」と私が聞くと、井芹くんはうーんうーんと悩み抜いた後で、ぱっと笑ってこう言った。

「奥さんにはらいぞーくんって呼んで貰います。両親と妹からは呼び捨てなので、くんづけで呼ぶのは奥さんだけ!」

 彼の発音はどう聞いても漢字ではなく平仮名の「らいぞーくん」で、その唯一の場所に収まるのは私がいいなあと思った。らいぞーくん。心の中では何度もそう呼んだ。私が彼に「美奈子さん」と呼ばれる度に胸の奥がくすぐったくなるみたいに、私の「らいぞーくん」が彼の心を優しくさせることが出来たらいいのに。

 私はカップを置いて膝を抱えた。

「結婚したいよお」

 ポン酢がため息を吐く気配がした。

「すればいいだろ。結婚してくれそうな今の内に判子押させとけ」

「だって今結婚したら、井芹くんを逃げ道にしてるみたいじゃない」

 散々支えてもらって、やっぱり無理だったからとなんの恩も返せないまま家庭に入って養ってもらおうなんて、虫が良いにも程がある。家事もろくにできないし可愛くもないし年上なのに頼りないし、井芹くんのためを想うなら身を引くべきなんじゃないだろうか。私は彼と、対等な結婚をしたかった。人助けみたいな形じゃなくて。

「物事を悲劇的にするのが得意な人だな。良いように言ってみても、君のそれはただの臆病と傲慢だ」

「……どういう意味」

「そのまんま」

 臆病と傲慢。私、臆病で傲慢なの? やっぱり好きじゃない。ポン酢なんて。

 ふいに短い着信音が鳴って、私は顔を上げた。すぐに手を伸ばしてテーブルの上のスマートフォンを取ると、通知に「井芹」の文字が見える。

『落ち着いたら連絡下さい。ちゃんと話し合おうよ』

 瞬きも忘れて、私は繰り返しその一文を読み続けた。

「良い彼氏じゃないか」

 私の手元を覗き込んでポン酢が囁く。

 何も言えずに私はただただスマートフォンを見つめた。返事をしなくちゃ。早く、返事をしなくちゃ。

「なんで泣いてるんだよ」

 ポン酢はそう言って笑って私の頭を撫でた。幽霊なのに、触れるんだね。そんな下らないことにしか、思考が巡らない。涙がぼたぼたと落ちて、画面が歪む。

 井芹くんがこんな風に、静かな言葉を私に送ってくるのは、初めてだった。いつもなら、ごめんねと何度も言って、しつこいくらいに部屋まで押しかけてくるのに。

 私は臆病で傲慢だ。ようやくどういうことか、飲み込めた。井芹くんに見捨てられるのを何よりも恐れていたくせに、彼は私にそんなことしないってどこかで信じ切っていた。なんて横柄で、なんて醜いんだろう。




 翌朝になっても、ポン酢の霊は相変わらずそこにいた。そのまま寝てしまった私はポン酢臭の充満した部屋で目を覚まして、昨日の出来事が現実だったことを思い知った。

 そうしてミキちゃんに連絡をして、一時間だけ、と話に付き合って貰ったのだ。

 私は胸焼けを抱えてカフェを後にするとスーパーに向かった。三月とはいえ風はまだ冷たくて、ストールを首に巻き付ける。

 スーパーに着いてもポン酢は私のすぐ側に張り付いたままだった。忍者に護衛されているみたいで悪くない気がする。

 籠を手に調味料の棚へゆくと、彼は怯えた様子を見せた。

「まさかたった一晩で新しいポン酢に乗り換える気か」

「そりゃあまあ、潰れちゃったんだし」

「使わないだろ」

「……井芹くんが使うかもしれないじゃない」

 ふと視線を感じて横を向くと、品出し中の店員と目が合った。このポン酢忍者、他の人に見えないんだった。見えても困るけど。

 私はにこやかに店員に会釈をして、新品のポン酢を一つ籠に入れる。

 起きてすぐ私は、井芹くんに短いメッセージを送っていた。

『仕事が終わったら、私の部屋に来て』

 それに対する彼の返事は『急ぎます』だった。井芹くんは未だに度々敬語を使う。私はその入り交じった関係が好きで、彼に敬語をやめろとは言わない。

 急いで来てくれる井芹くんの為に私はお鍋を用意しようと思っていた。料理の下手な私でも、水炊きくらいなら用意できる。鶏肉と野菜を買って、ゆっくり準備をしよう。彼が来るまでの時間を、私はどうにかして埋めなくてはならなかった。

 買った物を袋に詰めてスーパーを出る。高い所にある太陽に照らされて、眩しいくらいだった。人通りの少ない道をポン酢の霊と並んで歩く。

「名前でも付けようか」

「俺に?」

「うん。新しいポン酢買っちゃったし、ややこしいでしょ」

「酷いやつだ。俺にとっては持ち主は君だけなのに、君にとってポン酢は俺だけじゃないっていうのか」

「その通りだけど」

「しくしく」

 口に出してわざとらしく泣き真似をするポン酢は、コスプレをした大の大人にしか見えなくて笑ってしまう。

「なんかキャラぶれぶれじゃない?」

「そりゃあそうだろ」

「そうなの?」

「君も少しは成長してるってことだ」

 わけがわからない。私はポン酢の言っていることが検討もつかず、首を捻った。

 両手に下げたビニール袋が重い。いつの間にかあれもこれもと買い込んでしまっていた。好物を買い与えたくらいで気持ちを取り戻せるような子どもじゃないとわかってはいるのに。

「ぽん助にしよう」

「……アラサーでそのネーミングセンスはないだろ。それでも漫画家か」

「どうせ人気ないよ。いいじゃんぽん助。忍者だし」

 私はぽん助の顔を覗き込んで笑った。彼がいてくれて良かった。一人なら、きっとあんなに早く井芹くんへ連絡することすら出来なかった。

 マンションの部屋に付き、食材を冷蔵庫にしまうと私は大きく深呼吸をした。腰に手を当て、気合いを入れる。

「よし」

 まずはガラスの処理だ。それから散らかった部屋を整頓して、掃除と洗濯。明日は事務のパートが入っているから、今日中にみんな片付けてしまおう。

 私は部屋を掃除していって、最後に作業机に向かった。

 ごちゃごちゃと汚い机の中央に、大きな封筒が乗っている。中身は昨日「こういうのウケないんです」と言われたばかりの、漫画だ。

 なら一体、どんなものならウケるんだろう。私にはもうわからない。やめようかなあ。井芹くんに謝って一緒に暮らして、事務の正社員を目指そうかな。

「掃除、しないのか」

 暇そうにソファへ転がっていたぽん助が、いつの間にかこちらを見ている。私はその視線から逃げるように俯いた。

 作業机の周りだけは片付ける気になれなくてキッチンに移動する。大きな鍋を戸棚から取り出した。二人分よりも大きいこの鍋は、私が景品で当てたものだった。大きすぎるからミキちゃんにでもあげようかと思ったら、井芹くんに止められた。使い勝手は決してよくないのに、彼はこの鍋をいたく気に入っていた。

 鍋の季節ももう終わりだな。ストーブも片付けなくちゃ。

 春が来ている。希望に満ちたあの頃の私は、今の私を見たらどんな顔をするだろう。

「漫画を描き始めたのって、いつ?」

 白菜をざく切りにしてゆく私の横で、ぽん助が口を開いた。ちらりと横目で見やると、空中であぐらをかいて腕を組んでいる。

「いちばん最初は中学生のとき」

「へえ。どんなの?」

 私は白菜をざるに移しながら、小さく笑った。

「すっごく下らない話。主人公の女の子は超能力が使えて、幼馴染みの男の子とその秘密を共有するの。たしか、全く完結せずに投げ出しちゃった」

「面白そうじゃないか」

「嘘、ほんとに? ……もしそうなら、昔の方が話つくる才能あったのかも」

「今もあるよ、才能は」

「……やめてよ」

「誰よりもそれを信じているのは、君の筈だ」

 手を止めて前を向くと、暗闇みたいな黒色と目が合った。思わず逸らして、私は鍋の準備を進める。

 才能がある。そう信じて、私は東京まで来た。引き留める父親を振り切って、希望だけ持って、東京まで。大学にいる四年間の間に少しでも芽が出なければすぐに田舎へ帰ることが条件だった。だから死にものぐるいで四年間、私は漫画を描き続けた。

 実家は何代も続く農家で、父は私とミキちゃんのどちらかだけでも実家に残らせて婿を取ることを強く希望していた。けれどミキちゃんは田舎なんて嫌だと言って上京して、見事に都会のサラリーマンと結婚した。私は私で漫画家になりたいなんて言って家を出た。

 井芹くん、農家は嫌かなあ。私は随分と老け込んだ両親の顔を思い出して、唇の端を噛みしめた。

 カセットコンロを用意してお椀も並べる。時計を見ると七時半を示していた。

 そろそろ来る頃だろう。私は鍋を火に掛けて、じっと見つめた。しばらくするとぐつぐつと音がし始める。

「君が潰しちゃったのは、ポン酢だけじゃないよ」

 ぽん助は私の耳朶に口元を寄せて、掠れた声でそう言った。

「――え?」

 聞き返そうとした私の言葉はチャイムの音に遮られた。慌てて玄関へ走り、ドアを開くとばつの悪そうな井芹くんが立っている。普段は綺麗に整えている髪がふわふわと広がっていて、彼の余裕の無さを感じさせた。それが、今の私には嬉しかった。

 いたずらがバレた時の犬みたい。私はしょぼくれた様子の彼を愛おしく思った。

「井芹くん」

 どの挨拶もふさわしくないような気がして、私は彼の名前を口にした。

 井芹くんは頭を掻いて上目遣いに私を見る。

「鍋!」

 不意に後ろでぽん助が大声を出して、私は瞬きをした。

「ああああ!」

 急いでキッチンに戻り、コンロの火を消す。吹きこぼれた汁が音を立てて蒸気が上がっていた。

 くすくすと、小さな笑い声が聞こえてくる。

「変わらないね、美奈子さんは」

 私を追ってきたらしい井芹くんが可笑しそうに目を細めていて、私は頬が熱くなるのを感じた。





 正方形の低いテーブルを三人で囲う。そのうち一人はポン酢の幽霊で、私にしか見えていない。井芹くんは正座をしていた。

 真ん中ではぐらぐらと鍋が煮えていて、沈黙が流れている。

「食べようか」

 私は思いきって開口して井芹くんに真新しいポン酢を差し出した。自分の方のお椀にはごまだれを入れる。

 野菜とキノコを箸で摘まみ、たれをつけて口に運ぶ。熱さと緊張で味がまるでわからない。

 少しの間、私たちは無言で鍋を突いた。

「昨日はごめんね」

 下を向いて私が言うと井芹くんは首を横に振った。

「僕こそ、タイミングが悪かったです」

「違うの、井芹くんは何も悪くない」

 言い淀んで唇を噛む。すると隣に座るぽん助が顎をしゃくって、続きを言うよう促した。胃の奥から息を吐き出すと、信じられないくらいに熱かった。

「私、意地になってた。何も持っていない自分が悔しくて、井芹くんに優しくされると嬉しいのに苦しかった。漫画で成功して、胸を張って井芹くんと付き合いたかった。井芹くんが自慢できるような奥さんとして、結婚したかった」

 みるみる声をくぐもらせる私に、井芹くんはカセットコンロの火を消した。ゆっくりとこちらへ寄ってきて、膝の上で握りしめた私の右手を彼の左手が包み込む。

「馬鹿だなあ」

 井芹くんはそう言ってふにゃりと笑った。「美奈子さんは馬鹿だなあ」

 全くもってその通りだ。なんの反論も出てこない。私は馬鹿で臆病で傲慢だ。

「ごめん」

「……僕も焦ってた。周りがどんどん出世して結婚していくから、不安になったんだ。先走ったことばかり言って、ごめんなさい」

「私、井芹くんの事らいぞーくんって呼びたい」

「結婚してくれるなら、いいですよ」

 鼻先を私の肩に寄せて、井芹くんは目を閉じた。男の人にしては長い睫毛が頬に影を落としている。

「してくれるの?」

「美奈子さんとなら、いくらでも」

 井芹くんだって大馬鹿だ。私なんかと結婚する気だなんて。

「――よかったなあ」

 私ははっとして横を向いた。すぐ目の前に、端正な若い男の顔がある。口当てを下ろしたぽん助が頬杖を付いて笑っていた。

 目を見開く。見たことがある。私はこの顔を、見たことがある。

 瞬きをすると、ぽん助の姿は消えてしまった。最初から、ポン酢の霊なんていなかったみたいに。

 呆然として、私は心臓が押しつぶされる感覚に胸を押さえた。昨日私が潰したのは、ポン酢だけじゃない。私の目の前で潰れたのは。

「美奈子さん?」

 井芹くんが怪訝そうにしている。私は立ち上がって寝室に走った。クローゼットを開けて中身をひっくり返し、奥から段ボール箱を引っ張り出す。

 大量のスケッチブックやノート、原稿用紙が詰まった箱を引っかき回して大きな茶封筒を探し出した。染みが出来ている封筒を開けると、中には下手くそな漫画の原稿が入っている。最初の数ページに茶色の染みが付いてしまっているこの原稿は、私が生まれて初めて完成させた漫画だった。

 中学三年生の時の事だ。少女漫画雑誌の新人賞へ応募するために、私は夢中になって描き上げた。完成した夜は眠れなくて、早く送りたくてしかたなかった。

 学校へ行く途中でポストに入れようと思い、リビングのテーブルに置いておいた朝のほんの短い間の事だった。封筒を見つけた父は私を問いただそうと自分の手元に引き寄せて、焼き魚用のポン酢の容器を倒してしまった。こぼれたポン酢は封筒にもしっかりと染み渡り、中の原稿まで汚れてしまった。

 リビングに戻った私は取り返しの付かない状態になった原稿を見て泣きじゃくり、父と口論になった。漫画を描くこと自体をよく思っていなかった父は私を怒鳴りつけ、私は学校を休んで泣き続けた。結局汚れた原稿を送ることは出来なくて、私はそのまま封筒ごとしまい込んだ。捨てられずに上京する時も持ってきて、クローゼットの奥に入れっぱなしにしていたのだ。

 茶色くなっている表紙を眺めて、私は唇を噛んだ。表紙で微笑むヒーローは、ぽん助の素顔とよく似た顔をしていた。

 あの頃はこれが、最高にかっこいいと思っていた。主人公の先輩で、大人でぶっきらぼうだけど優しくて、でも面白くて頭が良くてスポーツも出来て。思いつく限りの夢を詰め込んだ、誰にも読まれることのなかった漫画のヒーロー。

「キャラ、ぶれぶれだ」

 私は笑いながら嗚咽を漏らした。私が潰したのは、ポン酢だけじゃない。

 父親に反対されてもポン酢で原稿を台無しにされても学費をほとんど送って貰えなくても、これだけはずっと潰れなかったのに。

 潰さないために、私にはもっと出来ることがあった。不可抗力だ仕方ないと、言う前に。

 井芹くんは困惑していたけれど、やがて泣き止まない私の肩を抱いた。

「ごめん井芹くん。私、やっぱり漫画、続けたい」

「じゃあ家事を折半にしよう。僕が料理と掃除をするから、美奈子さんは皿洗いと洗濯」

「……料理は私も練習する」

 私は鼻を啜って、井芹くんのシャツで目元を拭った。変わらないといけない。私と、井芹くんのために。

「なら僕も、洗濯物は手伝うよ」

 胸が苦しくて死んでしまいそうだ。

 井芹くんの薄い唇が私のと重なる。少しだけポン酢の味がして、腫れた唇の端っこがほんのちょっとだけ染みた。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 満点つけました。とても良かった。
2017/10/31 10:20 退会済み
管理
[良い点] ラストにほっとしました。 美奈子さんのような女性は、きっと世の中にたくさんいると思いました。 夢を諦めるかどうかは自分で決めたいですが、理解者(協力者)がいると最強ですね。 ぽん助~。 […
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