いつか、何処かで
ギッシリと本が詰め込まれている本棚を廊下から順繰りに眺めるのは思った以上に大迫力だった。いつもは自分が好きな雑誌売り場に真っ先に足を運んで、後は気が向いたところを舐めるようにしか見ない。だからこうして殊更ゆっくりと時間をかけてお店全体を観察するのは迫力満点と言うよりも、新鮮と例えた方が正確なのかも知れない。でも、その違いを吟味出来る精神的な余裕はない。
約束した時間前に待ち合わせ場所から離れてしまった軽率さを呪いながら、さっきまで立ち読みしていた雑誌売り場を未練がましく覗く。誰しも自分の好きな雑誌を熱心に読み耽っていて、見知らぬ他人の視線に気付いて顔を上げる人なんて一人もいない。もっとも、そこで目を合わせてもらっても逆に困る。用があるのはそこにいて欲しい別の誰かであって、気を利かせてそれに応えてくれたあなたではないからだ。
廊下に置かれたベンチに腰を下ろすと、空っぽのポケットに両手を突っ込む。そのままポケットの底の布地を摘んで引っ張ってみるけど、やっぱり何も出て来ない。不意に聞こえた楽しげな声に顔を上げると、制服姿の女子高生が携帯で話しながら通り過ぎて行くのが見えた。その背中をしばらく見遣りながら、空っぽのポケットを恨めしそうに睨む。携帯があれば、こんな時すぐに連絡が取れるのに。友達だって何人も持ってるから早く私にも買ってよ。何度そうせがんでも父は首を縦に振らなかった。子供にはまだ早いよ。食い下がる娘に、父は渋い顔をするだけでまともに取り合おうとはしなかった。
もう! 絶対後悔させてやるんだから!
思わず、拳を握って立ち上がっていた。そうやって適当にあしらったりするから年頃の娘に反発されるんだ。
気を取り直してもう一度本棚の間から店の中を覗き込む。はぐれたら下手にその場から動いちゃダメだ。昔遊園地で迷子になった時、父は泣き腫らした目をした娘に懇々とそう説いた。
来月から制服を来て学校に通おうとしているのに、週末のデパートで親とはぐれるなんて格好悪くて誰にも話せない。昔なら、涙も出ていたかも知れない。胸の中の大半を占めているのは情けなさと恥ずかしさで、残りは小匙一杯分くらいの動揺だった。少しだけ高鳴り始めた鼓動を抑えようと、わざと背中を反らす。
その瞬間、ふと我に返る。こういう時、息せき切って自分を探すのは、見つけた自分を抱き締めてくれるのは決まって父だった。その傍らに本来いるはずの人の姿は、いつもない。形のない寂しさが、ゆっくりと胸を埋め尽くしていく。唇から漏れた息はやけに湿っていた。
「淳子!」
驚いて顔を上げると、見知らぬ女性がこっちを見て心底安心した様子で頬を綻ばせていた。
女性はそのままこちらに駆け寄って来た。あまりに突然だったせいで、どう反応すればいいか解らない。心臓が大きく音を立てて跳ねた。
その脇を、彼女は勢い良く通り過ぎる。同時に、すぐ後ろから「ママ!」という声が響いた。目を大きく見開いたまま、背後を振り向く。五、六歳くらいの女の子が彼女の胸に顔を埋めて泣き声を上げていた。途端に気持ちが醒めて行く。後頭部をポン、と軽く叩かれたのはその時だった。頭に手を当てて振り向くと、手刀を構えた父が怖い顔をして仁王立ちしていた。
「こんな年にもなって、迷子は恥ずかしいんじゃないの? 淳子ちゃん?」
言葉を返す代わりに、おどけて笑って肩を竦める。案の定、父は仕方がないなあという顔をして針金のような毛の生えた頭をガリガリ掻いて見せた。
さっきの親子が、手を繋いで二人の脇を通って店の出口の方に歩いて行った。
「どうした?」
首を傾げてこちらを窺う父に、黙って首を横に振って見せる。この思いは、まだ父には知られたくない。
「チョコレートパフェ、おごってくれる約束でしょ? 早く行きましょ」
足取りの重い父の手を、心持ち少しだけ乱暴に引っ張る。そこに、もう一つ手が添えられる日が来る事を夢見て。