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2015年/短編まとめ

呼吸が出来なきゃ、死んじゃうわ

作者: 文崎 美生

深く息を吸って吐き出す。

呼吸というのは生きる上で必要なこと。

そして私にとって、私の中身の重みを消し去るために必要なことだった。


目尻に指先を添えて、ツボを押すように力を込める。

目の前には未だ手のつけられていないキャンバスがあって、他にも画材が散らばっていた。

散らかしたのは私だけれど、どこか他人事のように自分を見つめてるようだ。


ズキンッ、と脈打つような痛みを目に感じる。

いつからかこうして変な痛みが走るようになり、気付いた時には目に映る世界が全て灰色に変わっていて、色を認識することはなくなっていた。


「……やーめた」


どこか嘘臭い、他でもない自分に言い聞かせるような口調で呟けば、虚しくこの美術準備室に響く。

全てを投げ出すように、制服のままだらしなく床に転がる。

モノクロの世界にはすっかり慣れてしまった。

それがまた酷く虚しい気分にさせる。


床に転がったまま、顔だけ右に向けた。

爪の伸びた日焼けの少ない自分の利き手は、久しく絵の具で汚れるなんてことがない。

そのことに関する寂しさもあるが、描けないのだからどうすることも出来ないだろう。


真白マシロ


聞き覚えのある声が、ノックも了承も得ずに教室の扉を開けた。

この美術準備室はほぼ私専用となっているから、やってくる人間も当然のことながら限られている。


右手に向けていた視線を扉の方へ向ければ、そこにあるのは校内用の上履き。

声だけでも誰かなんて判断がつくので、わざわざ顔を見る必要もない。

静かに目を閉じて「どうしたの?」と問いかける。


はぁ、と短い溜息が聞こえて、続いて扉を閉める音。

上履きと床が擦れる音がしたけれど、私のすぐ近くで止まって無音になった。

すぐ近くにある人の気配に自然と目が開く。


「なぁに」


「……制服、汚れるわよ」


わざとらしく間延びした声を出せば、本当に言いたいことを言わずに、別のことを言う相手に笑みが溢れた。

仕方なく、よいしょ、と勢いをつけて腹筋の力で起き上がり、ブレザーを脱ぐ。


目の前の相手――幼馴染みは、慣れた手つきで私からブレザーを受け取って、パンパンッと音を立ててホコリやゴミを払い落とす。

健気な奥さんか、なんてツッコミはしたら怒られるので、口を真一文字に結んで言葉が出ないようにした。


「今年一度も出してないでしょう」


脈絡なく、唐突に話し出す幼馴染みに視線を向ける。

幼馴染みの方は、私のブレザー片手にそちらに視線を向けて、ホコリやゴミを落としながら話す。

大体の内容は理解しているつもりなので、やっぱりどこか他人事のように話を聞く。


高校三年生になってから、現在秋真っ盛りの十月まで、私は一度も美術部員としてコンクールに何かを出品することはなかった。

そろそろ描かなきゃマズイよなぁ、なんて頭の片隅で考えながら、こうしてキャンバスに向かっても手が動くことはなく、寝転がっていたわけだが。


「まぁた、何か言ってたんだ」


クスクスと笑いながらそう言えば、幼馴染みは僅かに整えられた綺麗な眉を寄せた。

眉間に小さなシワが寄るのを見ながら、あの居心地の悪い美術部を思い出す。

やっぱり向いてないんだよ、と自分に言い聞かせて、幼馴染みに笑いかける。


元々描くことだけを目的にしていたのだから、人間関係とかはぶっちゃけどうでも良かった。

結果として美術部が正式に活動をしている美術室ではなく、美術準備室を使っているわけだし。

一人でも大勢でも描けるのならば、一人の方が効率がいいとも思う。


「大丈夫だよ」


汚れが取れたであろうブレザーを、幼馴染みの手から奪い羽織る。

すっかり着慣れたそれは、新品の硬さが完全に失われていた。

それが何よりも年月を感じさせる。


『先輩なんて、努力もしていないくせに!!』


キンッ、と響く声は今でも鮮明に思い出せる。

涙を溜めて私を睨みつける目に、気圧されることはなかったけれど、困ったな、とは思った。

妬み嫉みの視線が突き刺さることなんていつものことで、決して努力を怠っているなんてことはない。

少なくとも私はそう思っている。


ただ描くことが好きなだけ。

ただ描くことだけを目的にしていた。

描ければそれでいい。


描く、を目的にしていた私は中学からずっと美術部だった。

高校でも美術部に入ってひたすらに描き続けたわけだが、ある後輩の言葉からキャンバスに向かっても、筆が動くことがなくなったのだ。


傷付いた、ってことは特にないけれど。

多分心の奥底で疑問が浮かんでいるんだろう。

私は何か間違っていたのかな、と。

描きたいだけ、って悪いことなのかな。


『先輩さえ、いなければ……』


ボロボロになったキャンバスを前に後輩は泣いた。

私はそのボロボロになったキャンバスを見ながら、描き直さなきゃ、なんて考えていて、どこか遠くからその状況を見ている気分だった。


確かにあの子は努力の塊だったなぁ。

いつもいつも鬼気迫る雰囲気で、キャンバスと向き合っているのを見ていた。

飄々と自由にやっていた私からすれば、あの勢いはある意味羨ましいものがあったけれど。


「でもさぁ、順位ってそんなに大事かなぁ」


描くだけ描いていて気にしたことがなかったそれを、あの日からずっと気にしていた。

目の前のキャンバスは、キャンバスとしての役割を果たせずにずっとここにある。

それと同じで筆もパレットも、ここしばらく役割を果たせていない。


静かに開きっぱなしのパレットを見下ろす。

モノクロの世界ではそれが何色なのか判断出来なくて、見ていて気持ちが悪い。

指先でそれを閉じて幼馴染みを見た。

幼馴染みは何も言わずに、私の続く言葉を待ってくれる。


「私が描かなければいいのかなって」


描けない、描かない、どっちにしたって色が戻って来ることはない。

描けたら戻って来るのか、と問われれば微妙だけど。

順位に固執した、結果に固執した後輩は、私を目の敵にした。

それ自体は別にいい。

私は気にしていないから。


『流石にやり過ぎだよ』


『ヒドイよね。大丈夫?』


『えー、でも気持ち分かるなぁ』


『努力してる感じないもんね。ズルイ』


色々な意見が出た。

結果として後輩を責める声が多かったのは、言うまでもないけれど、静かな水面に石を投げ込んだように波紋は広がる。

ボロボロになったキャンバスを見つめて、ジットリとした視線を私に向けながら泣く後輩の言葉を聞いた。

その日から、その瞬間から世界はモノクロになる。


そんなことがあっても、きちんと描き直した作品を提出した私は、相変わらず結果を取って、後輩が求めていた順位を奪い去っていた。

描きたいから描いてるだけ、なんだけど。

後輩が美術部から居なくなって、何となく皆がよそよそしくなって、まぁ、そんなもんかと思った。


居心地が悪いからこっちに逃げ込んで、描くことから離れられないくせに、描けないでいる。

あの後輩は今はどうしているのだろうか。

風の噂で転校したことを聞いた。


「大丈夫じゃないくせに」


幼馴染みに声に笑う。

目を閉じて色を思い出そうとしても、もうしばらく触れていない色。

黒と白以外の色には、どうしても手が届かない。


描きたいよ、と心が叫んだ気がしたけれど、深呼吸をして消し去った。

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