呼吸が出来なきゃ、死んじゃうわ
深く息を吸って吐き出す。
呼吸というのは生きる上で必要なこと。
そして私にとって、私の中身の重みを消し去るために必要なことだった。
目尻に指先を添えて、ツボを押すように力を込める。
目の前には未だ手のつけられていないキャンバスがあって、他にも画材が散らばっていた。
散らかしたのは私だけれど、どこか他人事のように自分を見つめてるようだ。
ズキンッ、と脈打つような痛みを目に感じる。
いつからかこうして変な痛みが走るようになり、気付いた時には目に映る世界が全て灰色に変わっていて、色を認識することはなくなっていた。
「……やーめた」
どこか嘘臭い、他でもない自分に言い聞かせるような口調で呟けば、虚しくこの美術準備室に響く。
全てを投げ出すように、制服のままだらしなく床に転がる。
モノクロの世界にはすっかり慣れてしまった。
それがまた酷く虚しい気分にさせる。
床に転がったまま、顔だけ右に向けた。
爪の伸びた日焼けの少ない自分の利き手は、久しく絵の具で汚れるなんてことがない。
そのことに関する寂しさもあるが、描けないのだからどうすることも出来ないだろう。
「真白」
聞き覚えのある声が、ノックも了承も得ずに教室の扉を開けた。
この美術準備室はほぼ私専用となっているから、やってくる人間も当然のことながら限られている。
右手に向けていた視線を扉の方へ向ければ、そこにあるのは校内用の上履き。
声だけでも誰かなんて判断がつくので、わざわざ顔を見る必要もない。
静かに目を閉じて「どうしたの?」と問いかける。
はぁ、と短い溜息が聞こえて、続いて扉を閉める音。
上履きと床が擦れる音がしたけれど、私のすぐ近くで止まって無音になった。
すぐ近くにある人の気配に自然と目が開く。
「なぁに」
「……制服、汚れるわよ」
わざとらしく間延びした声を出せば、本当に言いたいことを言わずに、別のことを言う相手に笑みが溢れた。
仕方なく、よいしょ、と勢いをつけて腹筋の力で起き上がり、ブレザーを脱ぐ。
目の前の相手――幼馴染みは、慣れた手つきで私からブレザーを受け取って、パンパンッと音を立ててホコリやゴミを払い落とす。
健気な奥さんか、なんてツッコミはしたら怒られるので、口を真一文字に結んで言葉が出ないようにした。
「今年一度も出してないでしょう」
脈絡なく、唐突に話し出す幼馴染みに視線を向ける。
幼馴染みの方は、私のブレザー片手にそちらに視線を向けて、ホコリやゴミを落としながら話す。
大体の内容は理解しているつもりなので、やっぱりどこか他人事のように話を聞く。
高校三年生になってから、現在秋真っ盛りの十月まで、私は一度も美術部員としてコンクールに何かを出品することはなかった。
そろそろ描かなきゃマズイよなぁ、なんて頭の片隅で考えながら、こうしてキャンバスに向かっても手が動くことはなく、寝転がっていたわけだが。
「まぁた、何か言ってたんだ」
クスクスと笑いながらそう言えば、幼馴染みは僅かに整えられた綺麗な眉を寄せた。
眉間に小さなシワが寄るのを見ながら、あの居心地の悪い美術部を思い出す。
やっぱり向いてないんだよ、と自分に言い聞かせて、幼馴染みに笑いかける。
元々描くことだけを目的にしていたのだから、人間関係とかはぶっちゃけどうでも良かった。
結果として美術部が正式に活動をしている美術室ではなく、美術準備室を使っているわけだし。
一人でも大勢でも描けるのならば、一人の方が効率がいいとも思う。
「大丈夫だよ」
汚れが取れたであろうブレザーを、幼馴染みの手から奪い羽織る。
すっかり着慣れたそれは、新品の硬さが完全に失われていた。
それが何よりも年月を感じさせる。
『先輩なんて、努力もしていないくせに!!』
キンッ、と響く声は今でも鮮明に思い出せる。
涙を溜めて私を睨みつける目に、気圧されることはなかったけれど、困ったな、とは思った。
妬み嫉みの視線が突き刺さることなんていつものことで、決して努力を怠っているなんてことはない。
少なくとも私はそう思っている。
ただ描くことが好きなだけ。
ただ描くことだけを目的にしていた。
描ければそれでいい。
描く、を目的にしていた私は中学からずっと美術部だった。
高校でも美術部に入ってひたすらに描き続けたわけだが、ある後輩の言葉からキャンバスに向かっても、筆が動くことがなくなったのだ。
傷付いた、ってことは特にないけれど。
多分心の奥底で疑問が浮かんでいるんだろう。
私は何か間違っていたのかな、と。
描きたいだけ、って悪いことなのかな。
『先輩さえ、いなければ……』
ボロボロになったキャンバスを前に後輩は泣いた。
私はそのボロボロになったキャンバスを見ながら、描き直さなきゃ、なんて考えていて、どこか遠くからその状況を見ている気分だった。
確かにあの子は努力の塊だったなぁ。
いつもいつも鬼気迫る雰囲気で、キャンバスと向き合っているのを見ていた。
飄々と自由にやっていた私からすれば、あの勢いはある意味羨ましいものがあったけれど。
「でもさぁ、順位ってそんなに大事かなぁ」
描くだけ描いていて気にしたことがなかったそれを、あの日からずっと気にしていた。
目の前のキャンバスは、キャンバスとしての役割を果たせずにずっとここにある。
それと同じで筆もパレットも、ここしばらく役割を果たせていない。
静かに開きっぱなしのパレットを見下ろす。
モノクロの世界ではそれが何色なのか判断出来なくて、見ていて気持ちが悪い。
指先でそれを閉じて幼馴染みを見た。
幼馴染みは何も言わずに、私の続く言葉を待ってくれる。
「私が描かなければいいのかなって」
描けない、描かない、どっちにしたって色が戻って来ることはない。
描けたら戻って来るのか、と問われれば微妙だけど。
順位に固執した、結果に固執した後輩は、私を目の敵にした。
それ自体は別にいい。
私は気にしていないから。
『流石にやり過ぎだよ』
『ヒドイよね。大丈夫?』
『えー、でも気持ち分かるなぁ』
『努力してる感じないもんね。ズルイ』
色々な意見が出た。
結果として後輩を責める声が多かったのは、言うまでもないけれど、静かな水面に石を投げ込んだように波紋は広がる。
ボロボロになったキャンバスを見つめて、ジットリとした視線を私に向けながら泣く後輩の言葉を聞いた。
その日から、その瞬間から世界はモノクロになる。
そんなことがあっても、きちんと描き直した作品を提出した私は、相変わらず結果を取って、後輩が求めていた順位を奪い去っていた。
描きたいから描いてるだけ、なんだけど。
後輩が美術部から居なくなって、何となく皆がよそよそしくなって、まぁ、そんなもんかと思った。
居心地が悪いからこっちに逃げ込んで、描くことから離れられないくせに、描けないでいる。
あの後輩は今はどうしているのだろうか。
風の噂で転校したことを聞いた。
「大丈夫じゃないくせに」
幼馴染みに声に笑う。
目を閉じて色を思い出そうとしても、もうしばらく触れていない色。
黒と白以外の色には、どうしても手が届かない。
描きたいよ、と心が叫んだ気がしたけれど、深呼吸をして消し去った。