巣箱
ある日私が対面したのは、私の背丈とそれほど変わらない木の巣箱である。
公園の一角に設置されていたそれは、昨日までは無かった筈なのに、まるで何十年も前から存在した風体で、腐りかけの木枠を露呈していた。
地面から伸びる細い角材、その上に組み立てられた木箱。木箱の上部には木製の鶏らしき首が取り付けられていた。半径の異なる円板を重ねただけの簡素な目玉が両側に突き出し、珍妙な形の鶏冠が天を突いている。何年も風雨に晒されたのか表面は黒く褪せ、板の接着面には苔が生していた。
始めに注目したのは鶏の首だったが、本体の木箱の方がおかしな造形をしている事に気が付いた。
木箱は真ん中が大きく円く刳りぬかれていた。始めは、鳥が出入りするための穴かと思っていたが、内側から細かい網が張られている。また、網の向こうが真暗であった。昼時であるから、たとえ五方を囲まれた木箱とて、薄暗くも内部が窺えてもいい形なのだが、全くの闇であった。
私は、網を指で押してみた。網は歪曲し、復元力を指の腹に仕向けている。
ここまで怪しい物体を、私は見た事がなかった。
ふと、私はその中に声を入れてみた。あー、と実に間抜けな声である。
不思議と、反響はしなかった。篭った声にはならなかった。
益々私はこの物体を訝しげに思った。
たった今日現れたこの木箱は、いったいどのような物なのか。網があるから巣箱ではない。刳りぬかれた穴の向こうは、木肌も見えない真暗闇である。
私は黒く褪せたその木箱の両側を手で押さえるように触れてみた。
〈ォアーーー〉
途端、私は驚き、両手を離した。
木箱が突然声を発したのだ。それも、聞いたことのないような音色。雑音に近かったが、私はそこに、人が聞き取るような、漠然とした音素が潜在しているよう思われた。
再び私は、木箱の両側を押さえてみる。
〈ォアーーーー〉
両手を押さえている間、木箱は声を発し続けた。手を離すと、ぴたりと止まる。私はできる限り、その木箱を押さえ続ける事にしてみた。
何分間と押さえ続けて、私はある事に気が付いた。雑音らしき声が、時間の経つにつれて、はっきりとした輪郭を帯び始めているのだ。どう言う事かと言えば、始めは雑音と相違無い音だったのだが、今は、まるで沢山の人間の声を重ね合わせたような音になっている。もう少し、押さえ続けてみると、十分ばかし経った頃だろうか、それは完全に人の声に変わった。
聞いたことのないような言語だった。が、アクセント、息継ぎ等を鑑みてみるに、どうも人が話しているとしか思えない。
その後も、何度か押さえては離し、押さえては離しを繰り返したが、結果は同じだった。『ォアーーー』と空耳するような雑音から始まり、次第、何十人もの重なる声に推移する。そして、終盤になると、未知の異邦人が一人、淡々とこちらに何か告げている。
ある時、私は重なり合う声の中に、英語らしき言語が混じっている事に気が付いた。何度も傾聴して、他の異国語を排除しながら、理解しようとした。
〈ノーノ―、アイドンワナビーアバード。アイドンワナビーアバード。〉
うろたえる声だった。
『嫌だ、嫌だ。鳥にはなりたくない。鳥にはなりたくない。』
辛うじて聞こえた英語をそう翻訳したが、私はこの言葉の意味を解せなかった。鳥になりたくないとは、どう言うことか。比喩的な表現なのか、それとも彼の体が実際に――考えられないが実際に――鳥になろうとしているのか。
何れにしても、この木箱に関して、謎は深まるばかりだった。
どんな意図があって、この木箱は、このような音声を再生しているのだろうか。
私が以上の経験で立てた仮説は、
一、この木箱の穴はスピーカーである。
二、再生時初期の雑音は、膨大な数の人間の声が重なってできた産物である。
と言う事だけである。
一に関しては、ほぼ確定である。なぜなら、音声はこの網の張られた穴から聞こえてくるから。それに通常のスピーカーには網状の物が張られているし、それに類似するものであると考えるのが順当である。強いて不可解なことと言えば、スピーカー特有の、再生された時に生じる細かな振動が伝わってこなかったということである。しかし、これがスピーカーの様な、音声を発するために作られた穴であることには変わりない。
二に関しては、これが一番妥当な考えと思ったからである。時間の経過につれて、言葉が聞き取れるようになり、だんだんそれを発しているらしき人の人数が減っていると言う事は、逆に考えて、初期の音声は、たくさんの人間の言葉が流されており、それが余りに多いので、結果的に雑音として聞こえてしまう、とする方が自然である。私がこの雑音に音素の存在を漠然と感じ取ったのも、これに起因しているのではないか。
しかしこのように考えたとしても、私はこの木箱の実質的な謎を、何ひとつ解き明かすことはできていない。いつまで経っても、奇妙な、珍妙な、直立する木箱である。
色々思惟を巡らす内に飽きてしまったのか、それともこの木箱の難解さに、無意識的に辟易してしまったのか。その日私は、この木箱を訝しがりながらも、考えないことにした。考えても無駄だと結論付けた。誰の悪戯であるか知らないが、公共の場にこのような腐朽の木箱を放置することは、どこの条例にも認められていない。明日には、この木箱も消えてなくなっている事だろう。
次の日公園に訪れた時、その考えは的中していた。木箱が合った場所には『撤去しました』というプレートが、市の局番と共に、赤いコーンに掛けられていた。コーンを斜めにしてみると、その下に支柱が抜かれた跡が残っている。私は当然だと鼻を鳴らして、もう二度とあの木箱を思う事はないだろうと、その記憶を頭の片隅に追いやった。
再び、あの木箱の事を思い出す事になったのは、初めて木箱を見てから一週間と経たない頃である。
朝目覚めて窓を開きがてら、爽やかな空気を吸い込むと、向こうの電線に雀が三羽、チュンチュンと囀り飛び回っていた。何気なくそれを眺めている内に、私の視界は一変した。
私は、公園の真中に立っていた。何が起こったのか分からず周囲を見渡すと、ベンチに座るカップルや、ジョギングの途中だったのだろうか、足を止めてタオルで顔を拭う年配の人々が、訝しげに私を見ていた。
訳が分からなかった。ふと時計台を見やると、正午近くを指している。
いったい何が起こったと言うのだろう。
茫然としていると、誰かが私の背後から声を掛けてきた。それは、五歳ほどの少女であった。
「おじちゃん、鳥さんの真似しないの?」
理解が全く追い付かない。少女は何を以て、このように訊ねるのか。
「ねぇ、ねぇ。おじちゃん。鳥の真似して。鳥の真似して。」
そう言いながら少女は、私の周りを駆けている。口を尖らせているのは、嘴を真似ているのだろうか。やがて、彼女は、チュンチュンと言い始めた。
私は何もできず少女を見つめていると、今度は彼女の両親らしき夫妻が駆けてきて、彼女の右手を掴んだ。
「何をしているの。近づいちゃいけません。」
小声で言ったつもりなのだろうが、生憎、その言葉は私の胸を強く打った。彼等夫妻は、最後の良心なのか、軽く半笑いで私に会釈をし、そそくさと立ち去ってしまった。
私は少女の言葉を反芻した。鳥の真似とはいったいどういう事なのか。この時、かつて聞いた言葉が脳裏を一閃した。
〈I don't wanna be a bird.(鳥になりたくない)〉
この奇妙な言葉と、その時私を取り巻いていた奇矯な状況が相俟って、私は困惑した。
この二つの出来事には、何か繋がりがあるのだろうか。そのような疑念が脳裏を埋め尽くし、私は貧血に倒れそうだった。
その時私は、公園近隣の幹線道路に伸びる大道を駆けてくる二人の警官を見た。彼等は、こちらを見るや否や、焦った様子で近づいてきた。
「君、君。こんなところで何をしているんだい?」
彼等は私を取り囲み、尋問するように問い掛けてくる。
私がうろたえると、彼等は事情を話し始めた。
「実はね、この付近で、鳥の真似をして走る不審者が現れたと通報を受けてね。いろんなところを訊きまわってたんだ。そしてさっきまた、君に似ている人が、ここで鳥の真似をしていると、別の人が通報してきたんだ。君、何か知らない?」
私は、知らないと言う他が無かった。実際にその様な記憶は無く、むしろあって欲しくないと願うばかりだった。
その後私は、近所の交番に連れて行かれ、職務質問や、目撃者との確認の後に、精神科医に訪れることを推奨された。私を連れた警官らは心底心配して提案したようだが、私は腹が煮えくりかえる思いだった。私は正常である筈なのに、どうしていきなりこのような事になってしまったのか。全てが疑わしくて仕方が無かった。
私は結局、精神科には行かなかった。
三日後、私は更なる奇妙な事に対面した。
目覚めると、潮の匂いが鼻を突いた。いくら茫漠とした意識でも、その異常さは明瞭だった。私は跳ね起き、周囲を確認する。そこは、私の家ではなかった。若い伊草の畳が敷かれた、六畳間の部屋だった。私はそっと障子を開け、廊下に出る。そこがいったい何処なのか、不安に駆られた心を鎮めるために、一刻も早くそれを知りたかった。
床の軋む音に気付かれたのか、一人の老人が後ろから話しかけてきた。老人は私の体を、爪先から頭頂部に至るまで、舐めるように見まわし、怪訝な目で「飯、持ってくるから。部屋に戻ってろ」と言って立ち去った。
心休まらないまま、私は例の六畳間に戻った。布団で胡坐をかいて座っていると、外から波の音が耳打つ。障子とは反対側に備え付けられていた壁の窓を覗くと、左方に砂浜が伸びていた。波打ち際には、周期的に小波が押し寄せている。
暫くすると、先刻の老人が片手に粥を持って、部屋に入ってきた。
私は彼を見るや、何故自分がここにいるのかを、問うてみた。
「うるせえ、こっちがききてえ。さっさとこれ食え」
老人は、面倒がった素振りで、湯気の立つ粥を押し出す。本来なら、見ず知らずの人間の食事に易々と手を付けるような性分では無いのだが、その時は、何とも腹が減り、全身が栄養の失調を訴えていたので、渋々それを啜った。
啜りがてら、私は再び今の自分の境遇を訊ねてみた。
老人は答えた。
「てめえが海で溺れてる所を助けてやったんだ」
私は混乱した。直前の記憶には、海に訪れるようなことなど一切無かった。そのきっかけになる記憶すらも皆無である。
「何でてめえは海にいやがった。夜の海は危ねえぞ、上下すらわかんねえのに。始めは自殺かと思ったが、船に引き揚げるとへらへら笑ってやがるし、気味悪いったらありゃしねえ。そんで、また海に飛び込もうとするから、腹殴って気絶させちまった。んでよ、今日の所は俺ん家に泊めてやったが、なんでてめえは、あん時海にいた。」
老人の質問に、私は何も答える事ができなかった。全てが未知の出来事だったのだ。どうして私が夜の海を遊泳するなど、危険な事を考えるだろうか。方向感覚云々の話は知っていたし、自殺行為であることもわかってる。だが、私にはそんな自殺に考えつくような状況には陥ってないし、そもそも、この海に訪れたような記憶が全く無い。全ては突然であり、むしろその理由を聞きたいのはこっちである。
「てめえ、何で自分がここにいるのかわかってねえのか? 怪しい奴だな。 笑う時も、海鳥みてえに鳴きやがって、どっかの病院にでも送り付けた方がいいのか?」
海鳥。私はその言葉に反応した。脳裏に押し寄せる過去の記憶。木箱が再生した『鳥にはなりたくない』という狼狽。少女が問い掛けた『鳥さんの真似しないの?』という期待の眼差し。そして、海鳥の鳴き声。そういえば、件の鳥の真似のときも、このように記憶が大きく欠落していたのだ。
冷や汗をかきながら、私は黙りこくっていた。
「何かいいやがれよ」
老人はしつこく訊き立てるが、何も言えない。私は頭の整理がしたかった。
押し寄せる不安感の折に、私は無意識のうちに左手の袖をまくって掻き毟ったらしい。その時、老人は素早く私の左腕を掴んだ。
「てめえ、なんだそれ」
どきっとして左腕を見ると、そこには白い羽毛のような物が肘あたりに生じている。
私はこの時、ある仮説に至った。
これを考えつくや否や、私は老人に帰りますと告げて、腕を振り払い、一礼して家を飛び出した。
背後から老人の怒号が聞こえたが、そんなことを気にしている余裕は無かった。将来起こってしまうであろう事に、私はこれまでになく恐怖し、戦慄していた。
電車で二時間かけて自元に戻り、すぐに私は市役所に訪れた。
受付に押しかけ、例の巣箱の在り処を訊く。彼が、巣箱の回収された日時を問い掛けてきたので、日にちを答えると、彼はこう言った。
「だったら、もう恐らく業者の手に渡って廃棄されてしまっているかと」
クソッタレと大声で悪態を付き、私は市役所を出た。
どうしたらいいのだろう。このままでは、私は鳥になってしまう。〈I don't wanna be a bird.〉あの外人の証言は真実だったのだ。
私はどうしようもなく、自宅に戻り、部屋の隅で膝を抱える。もし仮説通りに行けば、私は鳥になり、人の意識を手放すことになってしまう。そうなれば、どうして私は生きていると言えようか。鳥の知能などたかが知れており、人間の肉体を失ったとなれば、もはやそれは私が死ぬということと同等。
私は恐る恐る左腕をまくる。羽毛は腕の半分ほどを覆い始めていた。反対の腕も同様に侵食されている。
あの木箱にさえもう一度縋さえすればれば、何か有効な解決法を望めたかもしれないのだが、その希望も潰えた。辛うじて残っている手段と言えば、病院に訪れることぐらいである。
しかし、このような奇異現象を、病院が解決してくれるとはとても思えない。むしろ、からかうんじゃないと、門前払いを食らいそうなものである。だが、これ以外に何か望みがあるのかと言えば、頭を振るのみ。私は保険証を手にし、今にも泣き叫びたい思いで、病院に向かうことにした。
その道すがらだった。私は、私の末路を目の当たりにした。
その時、私の腕は大部分が羽毛に覆われ、少しずつ縮み始めているのを自覚し始めていた。これはもう救急車を呼ぶしかないと、携帯をポケットから取り出したが、海に浸からせてしまったのが原因だろう、使い物にならなくなっていた。仕方なく、病院に急ぎながら公衆電話を探していると、上空に一羽のカラスが通り過ぎた。
私もあのような存在になってしまうのだろうかと、胸の内が締め付けられたその時である。
カラスは近くの畑に舞い降り、変身した。
私はそれを見た事がある。
紛れもない、例の木箱だった。
私は、足を止め、愕然としてその木箱に近寄る。他人の畑に踏み入っただとか、そんな瑣末なことは始めから考えず、ただ、その木箱に吸い込まれるように近づいていた。
真正面からそれを見て、先日に見た木箱とは細部が異なっているが、大かたは同じ造形をしていた。
私はその両側を、産毛に塗れた両手で押さえる。
〈ォアーーー〉
幾多の人間の言葉。やはり雑音じみていたが、何度目かの見聞で耳が慣れていたのか、少しばかり人間の声らしく思えた。
時間が経つにつれて、それぞれの声が分解されていく。私の腕もだいぶ縮み、羽らしく変化し始めていたが、私はただ、木箱から流れる音声を聞いていた。
〈No,no. I don't wanna be a bird. I don't wanna be a bird.〉
例の外人の声が聞きとれた。今までの中で一番はっきりと聞こえた。私は彼の言葉の雰囲気を、これまで狼狽と表現していたが、今のを聞いて、悲哀に満ちた懇願の方が多く占めているように感じた。私も、いづれ彼のようになってしまうのか。
それからも、多くの言語が木箱から流れてくる。殆どは知らない言語だったが、そのどれもが悲哀を表しているように感じる。
私は新しい仮説を立てた。
もしかしたら、この混沌に入り混じった音声は、これまで全ての木箱に向けられた言葉を、一斉に流した結果なのかもしれない。始めに音声が集中しているのは、何気ない会話――『なんだこの巣箱?』のような独り言――が一斉に再生された結果であり、時間経過に従って、言葉を発す人間が減少していくのは、<I don't wanna be a bird.>の男のように、明確な意思を持ってこの木箱に話し続けた人間ばかりの声が再生されているからではないのか。
私は聴き続けた。多くの人間の悲哀を耳に入れながら、音声の果てを目指そうとした。
そして何分経った頃だろうか。遂に一人の人間だけになった。
木箱から再生される、淡々とした一人の人間の声。それは、聞いたことも無い言語であった――筈だった。
わかるのだ。彼が何を言っているのか。確かにそれは馴染みのない言語だったが、何かしらのシンパシーが生じたのか。明瞭な意味が頭に流れ込んでくる。
〈ようこそ。私達は鳥になります。自由な鳥になります。これを聴いた貴方は自由な鳥になります。おめでとう。自由です。貴方は自由。自由を広げましょう。世界に平和を。巣箱は世界を救います。巣箱にもなりましょう。鳥になって巣箱になりましょう。うんと遠くに行って、巣箱になりましょう。巣箱は貴方を自由な大空に飛翔させます。巣箱は人々を自由な大空に飛翔させます。おめでとう。自由です。おめでとう。ようこそ。私達は鳥になります。自由な鳥に――――〉
木箱はそのように言っていた。私は、その言葉を延々と聴いていた。いや、もうその木箱から離れるという知恵を失い始めていた。
そうだ、巣箱にならなくては。人々に翼を。人々に自由を。
鳥になって、山を渡り、海を渡り、遠くへ、遠くへ、巣箱を立てに行こう。
私の両手は白い翼になっていた。
私の両足は細い足になっていた。
体は縮こまり、服は自然と脱げ落ちた。
横に移動した両目は、鋭く伸びた嘴をとらえている。
私は、鳩になっていた。真っ白な、世にも珍しい鳩。
しかし、そんな事はどうでもいい。
遠くへ行かねば。この自由の羽をはばたかせ、うんと遠くに行かねば。そして、巣箱になって、人々を自由にするのだ。
私は、鷹揚と羽ばたいた。軽い体は浮き上がり、高く飛翔する。畑の巣箱は点の如く小さくなった。全てが小さく見えた。
〈ああ、自由!〉
私は、青い空を仰ぎながら、ずっと遠くを目指していた。
今日見た夢を書きました。
読んでいただき、ありがとうございました。