ナインイレブン妄想部支店 卯堂シフト
あなたのコンビニ、ナイン・イレブン。
それが僕のバイト先だ。
え? もっと他にいいバイトはなかったのかって?
……ほっといてくれ。
22時を過ぎた深夜の店内は客の入りも悪く、店員も奥に引っ込んでいることが多い。
しかも今日は6月特有のひどい雨。
とうぜん訪れる客の姿もなく、僕達は暇をもてあましていた。
英語では6月をJuneと言って、ローマの結婚の女神ジュノーに捧げられた月だと言うが、この天気から察するに女神は夫婦喧嘩の真っ最中だな。
旦那の浮気現場でも目撃したのだろうか?
僕の不埒な想像に神が抗議でもしたのだろうか、遠くでチカチカと稲妻が瞬いた。
さて、いくら暇だからといっても、店員が雑誌の立ち読みをしたりテレビを見たりというわけにはゆかず、僕はスマートフォンで携帯小説のサイトを呼び出し、目が痛くなりそうなほど細かい文字を目で追い続けている。
別に楽しくて見ているわけではない。
他に暇を潰すものも無いので、とりあえず見ているだけだ。
そんな僕の退屈を知ってか知らいでか、隣でメールをしていた相方の杉野がやたらと甘ったるくて媚びた声で話しかけてくる。
「ツネちゃまー お願いがあるんだけど、聞いてくれない?」
「とりあえず却下。 人をそんなスネ夫みたいな呼び方するヤツは死ねばいいと思う」
こら、その呼び名はやめろっていっただろ!
いつもシフトが同じになるこの男は俗に言うリア充と言うヤツで、ヤンキーみたいな派手な衣装に金髪に染めた派手な頭。
さすがに仕事中は控えているようだが、帰る時にはピアスや指輪、腰から下げたチェーンやらネックレスといったアクセサリーを山ほどつけ直すので、歩くたびにジャラジャラとうるさい。
おまえはクジャクの雄か! それともリオのカーニバルにでも出るつもりなのか!?
ついでにこいつは、イケメンと言うこの世から抹消したほうがいい生き物の一種だ。
ま、話をすれば気さくでいいやつなんだけどな。
ちなみにこんなナリでも、実はけっこういい大学の……しかも経済学部の学生らしい。
「そんなぁー 明日、デートの予定入ってさ。 頼むよぉー 恒夫様!」
そういいながら、両手を顔の前で合わせて拝み倒す。
まぁ、そこまで言われたら考えなくも無いのだが……
「まぁ、別に予定もないから構わないけどさ……」
あいにくと、こんなときにかぎって急ぎのレポートも溜まっていないし、いちおう杉野は友達だからな。
仕方が無いとばかりにその願いを引き受けると、杉野は満面の笑みで僕の肩を叩いた。
「さんきゅ! やっぱり持つべきものは友達だよな!」
「黙れ、リア充! 誰が友達だ! 彼女持ちは爆発して挽肉になって死ね!」
ガチャリ ザアァァァァァ ザアァァァァァ
そのとき、杉野への悪態をかき消すように、勝手口のドアが開いて雨の音がしのびこむ。
あぁ、もう交代の時間か。
勝手口に続く銀色のドアに目を向けると、次のシフトのバイト――大木が、ちょうどその長身を屈めてのそりと入ってくるところだった。
こいつ見上げるような身長と、面長で知的な容貌は、いつも僕の羨望の的だ。
ついでに最近は別のシフトの女の子といい雰囲気らしく、バイトの仲間の間ではカップルが成立するかどうかで賭けが盛り上がっている。
ちなみに杉野は成立に5千円、僕はフラれるに2千円賭けているので、不本意ながらヤツの恋愛事情から目が離せない。
……たぶん、あの様子だと告白できずに自然消滅だと思うんだがな。
それにしても、なんでこのコンビニのバイトは僕以外こんな背の高いイケメンばっかり揃えてるんだ?
店長、ホ○だろ!
いや、エロ本好きの変態だっけか。
それにしても、こいつら見ているとつくづく神様って不公平だと思うよ。
恨みがましい目で二人を睨み、ブツブツと嫌味をぶつけると、大木はフッと笑って肩をすくめた。
「……それは内藤が悪いと思うぞ? 顔は別に悪くないんだし、お前の場合は単に自分から彼女作ろうとしないだけだろ。 それで逆恨みされてもなぁ」
「そうそう。 どうせ告白してもフラれるだけだと思ってんだろ? いかんねー ツネちゃま。 そんなんじゃ一生彼女できねぇぞ」
ぐあぁぁっ! その呪われた台詞を言うか、このやろう!
こいつらがそろうと、いつもこの話題だ。
「だまれ、この彼女持ち、もしくはその候補生! 二次元かロリに目覚めてフラれちまえ! 特に大木!!」
悔しまぎれに放ったそんな台詞も、イケメン二人の面の皮をすべるばかり。
いや、大木には少しダメージがあったようだ。
あぁ、ヤツは保育士の卵だから、ロリは禁句か。
別に大木の未来をけなしたかったわけじゃないんだけどな……
僕はイライラとしながらユニフォームを脱ぎ捨ててサマージャケットをTシャツの上から羽織っって外に向かった。
「先に帰る! またな」
気まずさをごまかすためにバックヤードに続くドアを勢いよく開け放つと、後ろから何か杉野が呼ぶ声が聞こえる。
途中まで一緒に帰ろうとでも言ってるのだろうか?
だが、僕はそれを無視して外に出る。
その途端、顔にかかる細かな水しぶき。
あいにくと、その日の夜は観測史上の記録に残るような豪雨だった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「くうーん」
へし折られそうな傘を必死で支えつつ外に出ると、雨が地面を叩く轟音に紛れてか細い声が僕を呼び止める。
それはバックヤードのそばに置かれたダンボールの中。
濡れそぼった厚紙の傘から顔を出し、僕の顔を見上げて甘ったるい声で鼻を鳴らしていた。
フサフサとした白い毛並みに茶色のブチ模様。
やや距離の離れた黒い瞳はクリクリとしていて、まるで熟れたブドウの粒のようだ。
伏せたままの耳が寂しげにうごめく仕草は、こちらの庇護欲を刺激してやまない。
――僕を呼び止めたその魔物の名前は『子犬』。
うわっ、勘弁してくれ!
僕は昔からこの手のシチュエーションが大の苦手だった。
犬が嫌いなのではない。
むしろ犬は大好きなのだが、拾ったところで飼う事が出来ないと言う事実が、僕の器の狭い心を意味もなく締めあげる。
そして、とどめとばかりに『誰か拾ってください』と子供が書いたようなたどたどしい文字。
こ、こら! お前は俺を鼻血で失血死させる気か!?
そもそも、誰かに拾って欲しいなら、もっと人目につくような場所に置けばいいだろ!
もしかして、ここならコンビニの残り物がもらえるとでも思ったのか!?
「ご、ごめんな。 僕、アパート暮らしだから犬は飼えないんだ」
や、やばい! このままここにいたら拾って帰りたくなる……本能でそう察した僕は、犬に言っても判るはずも無い言い訳を口にしてその場を去ろうと足を急がせる。
だが、その時ヤツはピンと耳を立て、ダンボールの壁を乗り越えようとしはじめた。
こ、こらっ! ダメだって言ってるだろ!!
しかも、ヤツはこともあろうに僕の足元にまっすぐかけより、細かい砂粒のついた靴を躊躇せずにぺろぺろと舐めはじめる。
よせっ! そ、そんな汚いものを舐めたら病気になるだろぉっ?
取るに足らない子犬を前にアタフタとする僕の姿は、傍からみればさぞ滑稽だったであろう。
しかも、そんな僕の後ろから、聞きたくも無い声がする。
「お前……何してるんだ?」
確認するまでも無い。
その声の主は杉野だった。
なんでお前がここにいるんだよっ!
……仕事が終わったからですよね。 あぁ、わかってるよ!
「お、かわいいなー」
幸いな事に、杉野は僕の痴態には言及しようせず、足元でじゃれ付く子犬に目を向けた。
子犬はターゲットを杉野に切り替えると、この雨模様にもかかわらず、飛び跳ねるようにして駆け寄ってゆく。
「うわっ! よせっ!!」
杉野はズボンに泥がつくのをひどく嫌がったが、子犬が遠慮するはずもなく、ヤツのジーンズに肉球がたの茶色いシミがついた。
ふっふっふ、ざまーみろイケメンめ。
そう思っていたら、急旋回した子犬が、こんどは僕の足に飛びついた。
くっ、人を呪わば穴二つかよ!
笑うな、杉野!!
「これ、雑種かな」
濡れそぼった子犬の背中を撫でながら、ふと、犬の種類が気になりはじめ、思わずそんな疑問が口をついた。
「たぶんな」
残念な事に、僕も杉野もペットに詳しい人間ではない。
首を捻る僕たちの前で、ふと子犬が首を軽く左右に振った。
……あ、やばい! この動きは!
僕たちが危険を感じて逃げ出すよりはやく、子犬はブルルと体を震わせて水しぶきを撒き散らす。
数秒後、どちらともなく頷いた僕達は、濡れた服を乾かすために二人そろって職場に逆戻りした。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「これって、テリアってやつかな?」
「いや、俺も犬の種類には詳しくなくって……」
コンビニの中に逃げ込み、鞄の中に入れておいたタオルで髪や服をぬぐうと、僕は備え付けのティッシュペーパーで犬の体も拭いてやる。
さすがににドライヤーまではないので、哀れな子犬は半乾きのまま放置だ。
ちなみにタオルを持っていなかった杉野は、店でタオルを買うハメになったが、売り物のタオルを購入する際に、大木に大声で笑われていた。
実にいい気味だ。 イケメンめ、もっと恥をかくがいいさ!
「そういえばさ、この犬……首輪してるぞ?」
ティッシュでぬぐって気づいたことだが、子犬の首には細い紐と小さなプレートが付けられていた。
犬の住所でも書いてないかと思ったが、鉄か何かで出来たプレートは錆びがひどく、何が書いてあったとしてもかさっぱり判別できない。
「捨てる犬に首輪か? いくら首輪をしていても、保健所は遠慮してくれないと思うぞ」
杉野も隣に座って首を捻る。
ちなみに僕たちの現状は、大木が『濡れた服で椅子に座るな!』と念を押したので、二人そろってヤンキー座りだ。
疲れた背骨がキシキシと痛むものの、大木を怒らせると後で何をされるかわからない。
……くそっ、友達甲斐の無い陰険樹木め! 貴様の血はヤニ色か!?
「もしかしたら、あのダンボールの中に捨てられていたのって、この犬じゃなかったのかも?」
「なんだよ、その紛らわしいフェイントは!」
軸足を交互にかえながら、そんな取りとめの無い会話な花を咲かせる僕たちを、子犬は真っ黒な瞳で無邪気に見上げる。
その顔は、まるで笑っているかのようだった。
いいな。 お前は悩みがなくて。
きっと、僕みたいに腹黒いグチなんて考えたこともないだろ?
カクリと小首をかしげる表情があまりにも可愛くて、僕は子犬を無理やりかかえて抱きあげる。
ごめんなー でも、ちょっとだけ我慢してくれ。
お兄さんは心が乾いてるんだよ。
「とりあえず、ダンボールの中に何か入ってないかな?」
そんな僕を呆れたような目で見つめながら、杉野はそんな疑問を口にした。
「あるわけないだろ。 捨て犬か迷い犬だぞ?」
我ながらいいわけがましいとは思うのだが、外はまだ雨。
迂闊に頷いて、外へ出る羽目になるのは嫌だ。
それでも、そのダンボールの主が、本当に犬だったのか確かめなくてはなるまい。
もしかしたら、餌か何かが入っているかもしれないだろう?
いやがる僕を、杉野はそう言って雨の降る外へと追いやった。
だったらお前が行けばいいだろ? 僕に言うなよ!
しかたなく僕は、傘を手に取りつつ勝手口のドアを開け、犬の入っていたダンボールを調べるために外に出る。
僕が外に出るなり、少し小降りになっていた雨はふたたび土砂降りへと切り替わった。
おのれ雨雲め、何か恨みでもあるのかよ!
「どうだ? 何かあったか?」
「あるにはあったんだが……」
ガサゴソとダンボールの中を探ると、濡れて雑巾のようになった毛布の隙間から出てきたのは、ネコ用のペットフードだった。
あぁ、やっぱりこのダンボールの本当の主は子犬じゃなかったか。
じゃあ、このダンボールの主はどこにいったんだ?
周囲を見渡す僕の視界に、散らばるカラスの羽が引っかかる。
……まさか。
脳裏に浮かんだ不吉な予感を、僕はかぶりをふって吹き消した。
「帰ろうか、」
「……あぁ」
確証は無いんだし、嫌な事は考えないのが一番だ。
僕は無言でその場を後にした。
店のバックヤード戻り子犬の姿を探すと、聞こえてきたのは廃棄予定のコンビニ弁当の傍で小さく鼻を鳴らす音。
「お、こいつ腹減ってるのかな?」
呟きながら、杉野が犬の餌になりそうなものが無いかと廃棄商品用のダンボールの中を探し回る。
やがて杉野は、すっかり乾いて食欲をそそらなくなったミートパスタを拾い上げた。
そして中に入っていた具のハンバーグを拾い上げると、犬の前に広告の裏を広げ、ケチャップの色も生々しいそれをひょいと置く。
ちょ、ちょっとまて!
「馬鹿! 犬にハンバーグなんて食わせるヤツがあるか! 死んじまうぞ」
「なっ、何もそんな怒らなくてもいいだろ。 ……犬飼ったことがないんだよ」
拗ねる杉野だが、悪いのはお前だろ?
犬やネコにタマネギを与えるなって言うのは、常識だと思うぜ?
「いろいろと食わせちゃいけないものがあるんだから、気をつけろよ?」
頭は人一倍いいくせに、杉野には時々常識というものが抜け落ちている。
しかも当たって砕けろとばかりに、行動力だけは人一倍なのだ……変なところで薩摩隼人の気質なんだよな。
このチャラい外見とは裏腹に、杉野は生粋の鹿児島県民である。
「しかし、あのダンボールに入っていたのがネコだとすると、こいいつは迷い犬かな?」
「たぶんな……交番に届けるか?」
いや、こういうときは保健所か?
どちらにせよ、この時間帯ではどうすることも出来ないだろう。
よしんばそれが可能でも、押し付けられたほうはいい迷惑だ。
「……とりあえず、それまではどっかで預かるとして」
「あ、ウチは無理。 下宿先の大家がネコ飼ってるし」
僕が何か言う前に、杉野があっさりと断りをいれる。
「ウチもアパートだからペットは無理だぞ?」
僕も困った顔をするが、杉野もまたその気はなさそうだ。
ゴメンよ、ワンコロ。
誰もお前の引き取り手はなさそうだ。
「じゃあ、しばらくはここにおいとくか。 ダンボールの小屋は隣の材木置き場にこっそり置かせてもらおう。 ……エサやっている時に店長に見つかったら、ちゃんと言い訳しろよ?」
「とりあえず、呼び名がいるな」
杉野の提案に、僕はいやおうなく頷くしかなかった。
しかし、名前か。
名前を考えるのは苦手だ。
ブチ? ポチ?
いいや、この犬の模様は……
「そうだな。 ……『ののじ』さんでどうだ?」
「なんだよ、そのネーミング」
僕のつけたネーミングに、杉野は眉で富士山を描きながら呆れた声を出した。
なに、文句あるの? だったらお前がいい名前つけてみろよ!
「そもそも、なんで『ののじ』なんだよ? おかしいだろ、そのネーミングセンス」
「だっ、黙れ、杉野! ほら、この背中の模様、平仮名の『の』に見えるだろ」
「あ、ほんとだ」
僕が子犬の背中を指差して、その由来を短く説明すると、やつも感心したように頷いた。
よし、今日からお前の名前は『ののじ』さんな!
悪いけど、反論は認めないから。
それからしばらく……ののじさんは、僕らバイトのアイドルになった。
賞味期限間近な商品を、わざと人目につかない場所においてエサをこっそり確保したり、杉野が薄めないまま牛乳を飲ませようとして大木に拳骨をくらったり。
店長にも見つかりはしたものの、実は大の犬好きだったらしき店長は、早く飼い主を探すと言う約束を条件に、店の隣にある自宅の庭で、ののじさんを預かってくれると言ってくれた。
だが、それから一週間ほどたったある日。
のの字さんは突然いなくなった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
それは6月も終わりに近い月曜の朝の事。
大学に向かおうとした僕は、張り紙をする女の子を見つけた。
あ、かわいいなー 好みかも。
そんなことを考えながら作業を見守っていた僕の目は、その張り紙の写真に写っているものに釘付けとなる。
「あのー この犬、どうかしたんですか?」
彼女の手にした張り紙に写っているのは――間違いない。 ののじさんだ。
「あ、はい。 この犬……少し前にウチにいたんですけど、急にいなくなって……もしかして、どこかで見たんですか?」
「えっと、知っているというか…… その犬、つい先日まで、僕のバイト先のコンビニの裏にいたんですよ」
彼女は心配げに尋ねてくるが、すでにののじさんは僕達の所にもいない。
僕は曖昧な笑顔でそう答えるしかなかった。
「そっかー ののじさん、そんなところにいたんですね」
「ののじさんって……君もあの犬にその名前つけていたの?」
ふと彼女の漏らした台詞に、僕は驚いてそう聞き返した。
「君もって、じゃあそっちでも?」
「だって、背中に『の』って書いてあるし」
「ですよね」
あまりにも意外な偶然に、僕らは見詰め合ったままどちらからともなく笑いあう。
「よかったら、探すの手伝おうか? きっと、まだ近くにいると思うんだ」
その日、僕は予定していた抗議を全てボイコットし、彼女と一緒に街のあちこちをうろついた。
あんな特徴的な犬、すぐに見つかると思っていたのが正直なところだ。
けど、結局ののじさんは見つからず、僕達はお互いの連絡先を交換して別れた。
「で、その犬を探していた女の子と仲良くなったって? ざけんな! なんでお前だけそんなおいしい目にあうんだよ!!」
翌日のバイトの日の休憩時間。
僕は杉野といつものように無駄話に花を咲かせていた。
「もしかしたら、いわゆるキューピットってやつだったのかもな。 きっと、恒夫の恋を成就させたから、次の人の所に行ってしまったんだろう」
バイトでもないのに近くにきたから顔を出したという大木が、柄にも無いことをいいながら店長の淹れたコーヒーの残りをカップに注ぐ。
愚か者め……おまえ、店長のコーヒーのまずさをしらんな?
特にそのポット、味よりも利便性を追求したアウトドア用の簡易式コーヒーメイカーなんだぞ?
案の定、口の中を酸味とエグ味で蹂躙された大木は、味をごまかすためにミルクと砂糖を増量し、今度はその甘さにむせ返る。
……サルかおまえは。
「あーぁ。 のの字さん、俺のところに来てくれないかな?」
大木のために廃棄の山からペットボトルのお茶を探す僕の横で、杉野が肘を突いてため息をつく。
「何言ってんだよ、杉野。 おまえ彼女いるだろ?」
「別れたの! この間の日曜、データ中に別の男とダブルブッキングが発覚してさ……」
そのままヤツは、机に突っ伏したままくぐもった声でうめく。
おーい初耳だぞ、杉野。
なんでそんなおもしろそうなネタを真っ先に俺に話さない?
「なに、二股かけられてたわけ?」
「おうよ! だから、二度と顔見せるなっていって別れてきた!」
テーブルをドンと叩いて抗議するが、おまえ、ほんと芝居下手だね。
そう言う台詞は、携帯から彼女の番号削除してから言えよ。
「で、それから向こうは何か言ってきた?」
「……なーんにも」
僕がちょっと探りを入れてみると、杉野は再び力なく机に沈没した。
「あー それ、向こうが本命だな。 ご愁傷様」
さらに大木がトドメの一言を加える。
「う、うるせぇ! あんな女、こっちから願い下げだよ!」
まぁ、杉野の事だ。
どうせすぐに別の女とくっつくさ。
でも、大勢の女友達よりも、やっぱり一人だけの運命の人だよな。
そう呟く僕に、大木は真面目な顔でウンウンと頷き、杉野は『男のの夢はハーレムだよ。 なに女みたいなこと言ってるんだよ』と冷ややかに笑う。
人の幸せに形というものが無いように、恋愛の形は実に様々だ。
……今度、渡辺や前田にも聞いてみるか。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
それからさらに一週間がすぎ、僕は杉野と彼女を誘って電気屋へと足を伸ばしていた。
何のことは無い……彼女のテレビが壊れたというので、下見にきているだけだ。
杉野が横にいることからもわかるように、これはデートではない。
まぁ……その、杉野は途中で用事が出来て抜ける事になっているけどな。
なぜ杉野が横にいるかと言うと、こいつは家電マニアで色々と詳しいからだ。
今も店員を相手に、最新のテレビ事情について熱弁を振るっている。
ついでに商品の値切りもヤツにお任せだ。
僕は特にする事もなく、まるでトンボの視点のように並んだモニターを見て、下らないテレビ番組に目を通す。
あ、これ、ウチの市の特集だ。
特におもしろい番組じゃなくても、自分の地元がテレビに映ると反応してしまうのは、きっと僕だけじゃないはずだ。
「ん? これって」
その、何気なく見ていた放送の途中、ふと街角リポーターの足元に、一匹野犬が映りこむ。
――ののじさん!?
「おい、見ろよ! ののじさんがテレビに……」
「「……あ!」」
振り返って呼びかけた僕に、杉野と彼女以外に、もう一人声が声をもらした。
みれば、大学生ぐらいの、見知らぬ女性が驚いた顔で同じテレビを見ている。
「ののじさん……」
彼女の口からこぼれた台詞に、僕たちは思わず目を見開いた。
「もしかして、貴女もののじさんを見たことあるんですか?」
「は、はいっ! もしかして、貴方たちも?」
むしろ、この人も同じ名前で呼んでいた事に、僕は驚く。
いいよ。 どうせ僕のネーミングセンスは平凡さ!
「俺、この場所知ってる! ちょっと行って来るわ!!」
「ま、まってください! 私も!」
そのまま、テレビを買うことも忘れて駆け出してゆく杉野と女性。
こら、さりげなく手とか握るな!
って言うか、テレビ買うための値切り交渉、まさか俺にやれってのか?
となりにたたずむ店員さんのニコニコ顔に、僕の背中はなぜか汗ばんだ。
おーい、杉野。
僕が悪かったから帰ってきてくれ……
まぁ、いいか。
どうやら、ののじさんのご利益はわが友人にもあったようだし。
そんなことを考えながらテレビ画面に目を向けると、のの字さんはまるで笑っているかのような顔をこちらにむけてしっぽをふっていた。
ふと、その背中のマークが画面に映る。
あぁ、そうか。
あれは、『の』ではなくて、ちょっと書き損じたハートマークだったんだ。
いまさらながらそんな事に気づいた僕を尻目に、のの字さんはとことこと画面の端から消えてゆく。
きっと、新しい恋人たちの縁を結びに行くんだな。
願わくば、できるだけたくさんの人がののじさんと出会えますように。
祈る僕に答えたかのように、その時雲の隙間から一筋の光が差し込み、店のブラインドを通して地面に縞模様をくっきりと描いた。
同時に、テレビの画像も結婚式場のCMにかわる。
そういえば――英語で6月はJuneだっけ。
僕は、6月がローマの結婚の女神ジュノーにささげられた月であることを再び思い出していた。
そうだね。 もしかしたら、ののじさんはその女神様からの使いだったのかもしれない。
そんなことを考えながらまだ水滴が残る窓から空を見上げれば、強い季節風にあおられた厚い雲は大きく千切れ、その向こうに青い夏の空が覗いていた。
外から差し込む明るすぎる日差しに、横で彼女がそっと目を細める。
――どうやら、梅雨はそろそろ終わるらしい。