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蒼い鞄と、世界で一番嫌いな人  作者: 乾為天女


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第33話 ヒルドバーグの眠る日

 翌朝、喫茶「ペアカップ」の扉には、紙が一枚貼られていた。


 白い便箋に、太い黒のペンでこう書かれている。


 本日、店主が眠ります。


 以上。


 開店前の商店街に最初に来たのは、パン屋の老店主だった。いつもならヒルドバーグが店先の鉢植えに水をやり、暖簾を出し、通りを歩く人に「足元、まだ濡れてるよ」と声をかける時刻である。


 老店主は紙を読んで、しばらく動かなかった。


 それから、隣の八百屋の若い夫婦を呼び、金物屋の店主を呼び、新聞配達の少年まで呼んだ。


 「眠ります、って何だ」


 「倒れたんじゃないか」


 「昨日まで普通に茶を出していたぞ」


 「普通に見えて、普通じゃなかったのかもしれない」


 小さな人だかりが、朝靄の残る通りにできた。


 その輪の外から、オリーンが大きな紙袋を両手に提げて駆けてきた。紙袋の中には、昨日のうちに仕込んだサンドイッチ用のパンと、喫茶店の鍵が入っている。彼女は張り紙を見るなり、目を丸くした。


 「わあ。ついに宣言しましたね」


 「ついに?」


 金物屋の店主が振り返る。


 オリーンは、紙袋を片方の腕へ寄せた。


 「ヒルドバーグさん、昨日の夜に言っていたんです。『人に座れと言う者が、座る稽古をしないのは筋が通らない』って」


 「それで、眠るのか」


 「はい。今日は奥の部屋で眠ります。昼になっても起こさないで、と」


 老店主は張り紙を見上げた。


 「それは、店を休むという意味か」


 「休みません。私が開けます」


 オリーンは胸を張った。


 その瞬間、商店街の空気が別の意味でざわついた。


 オリーンは、よく動く。皿も早く出す。常連の小さな喜びも逃さない。だが、早すぎる。砂糖を頼む客に塩を渡したことがあるし、昨日は「休憩所札」と書くはずの紙に「休憩所祭」と書いて、サポナーラを十分間踊らせた。


 老店主は、やや慎重に尋ねた。


 「コーヒーは、淹れられるのか」


 「もちろんです」


 オリーンは満面の笑みで答えた。


 「昨日、ヒルドバーグさんに教わりました。粉をけちらない。湯を急がせない。自分も息をする。以上です」


 商店街の全員が、三つ目だけを心配した。


 青鞄電子堂のシャッターが半分上がり、ガニーロが顔を出した。手には、昨夜遅くまで磨いていた小型誘導灯の試作品がある。


 「どうしたの?」


 オリーンが張り紙を指差す。


 「ヒルドバーグさんが眠ります」


 ガニーロは紙を読み、一度まばたきをした。


 「……よかった」


 その言葉に、周囲の顔が一斉に彼へ向いた。


 「よかった、なのか」


 「うん。昨日、少し無理をしていたから。休むなら、よかった」


 ガニーロは店の奥へ戻ろうとして、すぐに足を止めた。


 「手伝うことある?」


 「あります」


 オリーンは即答した。


 「コーヒーが濃くなりすぎたときの薄め方を教えてください」


 「薄める前提?」


 「備えです」


 その言い方があまりに堂々としていたため、サポナーラが通りの向こうから拍手しながら現れた。


 「備えある濃厚コーヒー! 目覚めたい者に眠気の避難指示!」


 「貼り紙の前で変な売り文句を作らないでください」


 レトリスの声が、後ろから飛んだ。


 役所へ向かう途中の彼女は、黒い書類鞄を肩にかけ、もう片方の手で蒼い鞄を押さえていた。昨日の地図の続きを確認するため、出勤前に商店街へ寄ったのだろう。張り紙を見ると、眉間のしわが少しゆるんだ。


 「ヒルドバーグさん、ご自分で休むと決めたんですね」


 ロシルドゥアも、少し遅れてやって来た。手には高齢者宅を回る予定表がある。彼女は張り紙を見て、胸のあたりに手を当てた。


 「よかった」


 ガニーロと同じ言葉だった。


 オリーンはにこにこしながら鍵を開けた。


 「では、開店します。ヒルドバーグさんは眠ります。私たちは、眠っている人を起こさずに店を回します」


 「それは、なかなか大きな実習です」


 レトリスが呟く。


 「大丈夫です。皆さん、今日は小声でお願いします」


 オリーンが扉を開けると、いつものコーヒー豆の匂いが薄く流れてきた。店内はきちんと整えられている。カウンターには、ヒルドバーグの大きな字で指示が置かれていた。


 一、奥の部屋の扉を開けない。

 二、転びそうな客には先に椅子を出す。

 三、コーヒーは濃くなったら笑って謝る。

 四、自分の茶も飲む。

 五、失敗したら紙に書く。あとで直せる。


 オリーンはそれを声に出して読み、最後の一行で胸を張った。


 「失敗が許可されています」


 「許可ではなく、記録です」


 レトリスが訂正する。


 「でも、許された気がします」


 その言葉に、ロシルドゥアが小さく笑った。


 店の奥には、暖簾の向こうへ続く細い廊下がある。その先がヒルドバーグの休む部屋だ。いつもなら、皿の音や低い声がどこからともなく聞こえてくる。今日は何も聞こえない。


 聞こえないことが、店に妙な重みを作っていた。


 常連客たちは、最初の一時間、恐ろしく静かに過ごした。椅子を引く音にまで気を使い、カップを置く時には布巾を下に敷く。サポナーラは声を落とそうとして、なぜか芝居の悪役のような低音になり、レトリスに一度睨まれた。


 そして、問題はコーヒーだった。


 オリーンは粉をけちらなかった。


 まったく、けちらなかった。


 最初の一杯を飲んだアリシャーは、資料を見ていた手を止めた。目を閉じ、しばらく黙る。彼は普段から言葉数が少ないため、店内の全員が判断を待った。


 「どうですか」


 オリーンが両手を握る。


 アリシャーは湯気の立つカップを見た。


 「強い」


 「おいしくないですか」


 「強い」


 「もう少し詳しく」


 「橋脚のようだ」


 オリーンは嬉しそうに頷いた。


 「しっかりしている、ということですね」


 「水位が上がっても流されない」


 「それは褒めていますか」


 レトリスが横から尋ねる。


 アリシャーは少し考えた。


 「眠気には勝つ」


 店内の誰かが吹き出した。


 サポナーラは胸を押さえた。


 「すばらしい。これは、台風前夜の見張り番用に売れます。名前は『徹夜橋脚ブレンド』」


 「売りません」


 レトリスとオリーンが同時に言った。


 ガニーロはカウンターの内側へ入り、湯の量と粉の量を確認した。メモ用紙に、丸い字で書く。


 粉、少し少なめ。

 湯、少しゆっくり。

 息、忘れない。


 「三つ目、やっぱり必要なんですね」


 エメットが、店の隅から言った。今日は青鞄電子堂で作業する前に、記録係として喫茶店の休憩所札を見に来ていた。彼の手帳には、昨日の避難経路の続きが丁寧に書かれている。


 オリーンはエメットにカップを差し出しかけ、レトリスに止められた。


 「子どもにその濃度は出さないでください」


 「では、ミルク多めにします」


 「ミルクで解決する濃さか確認してからです」


 ガニーロが小鍋に牛乳を温め始めた。エメットは少し残念そうに、でもほっとしたように座り直した。


 店は、だんだん通常の音を取り戻していった。ただし、奥の部屋を起こさない音量で。


 常連が一人、また一人と来るたび、張り紙の話になる。


 「ヒルドバーグさん、具合が悪いのかい」


 「今日は眠る日です」


 オリーンが毎回同じように答える。


 「眠る日?」


 「はい。眠るのも仕事のうちです」


 その言い方は少し大げさで、少し照れくさい。けれど、何人かは黙って頷いた。商店街には、休むことに理由が必要な人が多い。店を閉めれば客が離れる。人に頼れば迷惑をかける。そんな思い込みを、皆それぞれ持っていた。


 ロシルドゥアは、カウンター端の席で予定表を開いていた。


 高齢者宅訪問。

 避難支援名簿の確認。

 車椅子経路の再調査。

 雨天時の休憩場所候補。

 見守り連絡の分担。


 びっしり詰まった項目の横に、彼女は鉛筆で線を引いていく。


 レトリスはその手元を見て、声をかけた。


 「今日は、全部回る予定ですか」


 「そのつもりでした」


 ロシルドゥアは予定表を見たまま答える。


 「でも、ヒルドバーグさんが眠っているので」


 「なので?」


 「私も、午後の三件を明日に回します」


 その言葉は、とても小さかった。


 けれど、レトリスには大きく聞こえた。


 「明日で間に合いますか」


 「間に合うように、人に頼みます」


 ロシルドゥアは、別の紙を取り出した。そこには、昨日作り直した分担表がある。一人で抱えないための表。彼女はその空欄に、町内会の名前と、商店街の若い人たちの名前を書き込んでいた。


 「今までは、頼む説明をする時間が惜しくて、自分で回っていました。でも、それだと私が転んだ時に、誰も続きがわからない」


 ロシルドゥアは苦笑した。


 「支える側の地図も、必要だったんですね」


 レトリスは、自分の胸にその言葉を置いた。


 支える側の地図。


 危険箇所、避難経路、休憩所、灯り。昨日まで地図に書こうとしていたものは、すべて住民のためだった。けれど、支える人の体力や休む場所を書き込まなければ、その地図は途中で破れる。


 奥の部屋で眠っているヒルドバーグは、何も言わない。何も言わないまま、皆に一つの線を引かせている。


 レトリスは、蒼い鞄を膝に置いた。


 基板は停止したままだ。勝手に詩を出すことはない。なのに、今日はやけに静かな紙が多い。張り紙、分担表、コーヒーの調整メモ、ヒルドバーグの五つの指示。


 どれも誰かの心を読んではいない。


 けれど、心が倒れないための位置を示している。


 ガニーロがカウンターの向こうで、小さな休憩所札の試作品を作り始めた。木の板に反射材を貼り、角を丸く削る。文字はロシルドゥアが考えた「ここで息を整えられます」。下には、青鞄電子堂の小さな灯りを取り付ける予定だ。


 彼は板の角を撫で、少し削って、また撫でる。


 レトリスは、その手元を見ていた。


 ガニーロは、いつも何かを直している。壊れたもの、危ないもの、気づかれていないもの。頼まれていない部分まで見つけてしまい、予定を崩してでも動く。その姿を十年前の彼女は知らなかった。知ろうともしなかった。


 それは、彼のせいだけではない。


 自分が待っていたことも、本当だ。


 怖かったことも、本当だ。


 でも、彼が誰かを背負っていたことも、本当だ。


 本当が一つではないと知るのは、こんなにも疲れるのかと、レトリスは思った。


 カップが置かれる音がした。


 見ると、オリーンが彼女の前に薄めのコーヒーを置いていた。


 「これは、橋脚ではない方です」


 「その説明は商品名としてどうかと思います」


 「では、『川辺の普通ブレンド』」


 「普通を前面に出すのも、どうかと思います」


 レトリスはそう言いながら、カップを手に取った。


 熱すぎない。濃すぎない。いつものヒルドバーグの味ではない。けれど、飲める。むしろ、少し落ち着く。


 「おいしいです」


 オリーンは目を輝かせた。


 「本当ですか」


 「はい。粉をけちらず、少し減らせています」


 「それ、褒めていますか」


 「改善点込みの評価です」


 「レトリスさんらしいです」


 オリーンは嬉しそうに笑った。


 その横で、サポナーラが自分の手帳に何かを書いている。


 レトリスは嫌な予感がして覗き込んだ。


 徹夜橋脚ブレンド。

 川辺の普通ブレンド。

 眠る店主の守り珈琲。


 「消してください」


 「まだ誰にも見せていません」


 「見せる前に消してください」


 「でも、失敗したら紙に書けとヒルドバーグさんが」


 「これは失敗ではなく、余計な発想です」


 サポナーラは真剣に悩んだ。


 「余計な発想は、失敗に分類されますか」


 アリシャーが、表から目を上げずに言った。


 「場合による」


 「救われる余地がある!」


 「今の場合は消せ」


 「はい」


 サポナーラは素直に消した。店内に小さな笑いが広がる。


 その笑いで、奥の部屋が起きないか、皆が一斉に廊下を見る。


 何も聞こえない。


 ヒルドバーグは眠っている。


 昼過ぎ、店は少し混み始めた。


 雨が降る前に買い物を済ませようとした人たちが、通りを行き交う。空は朝より白く、湿った風が坂の下から上がってくる。まだ豪雨ではない。けれど、現町に住む人間なら、遠くの雲の積み方で気持ちが重くなる。


 ガニーロは店の前に出て、休憩所札の取り付け位置を測った。エメットが記録する。レトリスは危険な高さにぶつからないか確認し、アリシャーは庇の角度を見る。ロシルドゥアは椅子を置いた時、車椅子の邪魔にならない幅を測った。


 オリーンは、店内で皿を運びながら、時々外を見ていた。


 「店主不在でこんなに人がいると、ヒルドバーグさんが起きた時に驚きますね」


 「起こさなければ、驚くのは夕方です」


 レトリスが言った。


 「夕方まで眠れるでしょうか」


 その問いに、誰もすぐには答えなかった。


 ヒルドバーグは、誰かの困った顔に敏い。カップの置き方一つで、客が言えない悩みを察する人だ。そんな人が、店の音を聞きながら本当に眠れるのか。


 ロシルドゥアが、静かに言った。


 「眠れなかったとしても、起きてこない練習をしているのかもしれません」


 その言葉に、レトリスははっとした。


 休む練習。


 昨日、ロシルドゥアが喫茶店の椅子に座らされた時、ヒルドバーグは自分の湯飲みに先に茶を注いだ。支える人が倒れないための姿を、見せてくれた。


 今日は、その続きなのだ。


 何もしないこと。


 心配でも、任せること。


 自分がいなくても誰かが店を開け、皿を運び、失敗し、直し、笑うのを、廊下の向こうで聞くこと。


 それは、眠るより難しいかもしれない。


 オリーンは、カウンターに手を置いた。


 「では、私たちは任される練習ですね」


 「そうです」


 レトリスは頷いた。


 「任された人間は、騒ぎすぎず、隠しすぎず、失敗を記録して、あとで直す」


 「五番ですね」


 エメットが手帳を持ち上げる。


 「失敗したら紙に書く。あとで直せる」


 ガニーロが、その言葉に少し目を細めた。


 「いい言葉だね」


 レトリスは、彼を見る。


 ガニーロの声には、ただの感心ではないものが混じっていた。


 十年前のことも、紙に書ければよかったのだろうか。


 行けなかった理由。


 待っていた時間。


 割れたカップ。


 助けた子ども。


 言えなかった謝罪。


 紙に書いて、あとで直せるなら、どれほど楽だっただろう。


 でも、十年たっても、完全には直らないものがある。金継ぎの跡のように、そこに残るものがある。


 それでも、壊れたまま捨てるより、今の形にできる。


 レトリスは、蒼い鞄の金具を指で撫でた。


 午後三時を過ぎた頃、奥の廊下から、かすかな音がした。


 全員が一斉に止まった。


 サポナーラは口を開けた姿勢で止まり、オリーンは盆を持ったまま固まり、アリシャーは測量メモを閉じかけて止めた。ガニーロは工具を持ったまま、レトリスはカップに手を伸ばしたまま動かなかった。


 暖簾が少し揺れた。


 ヒルドバーグが、寝癖のついた髪で廊下に立っていた。


 いつものきちんと結んだ髪ではない。肩には古いカーディガンを掛け、片手で額を押さえている。目は半分しか開いていない。


 「……騒がしいね」


 店内の全員が、申し訳なさそうに背筋を伸ばした。


 ヒルドバーグは店を見渡した。


 カウンターには濃すぎたコーヒーの記録がある。休憩所札の試作品が二つある。テーブルには常連客が座っている。外には長椅子の位置を測った印があり、レジ横には「川辺の普通ブレンド」と鉛筆で書かれた紙が、誰かに消されかけた跡を残している。


 ヒルドバーグは、そのすべてを見た。


 そして、低く笑った。


 「思ったより、店だ」


 オリーンの目に、ぱっと光が戻る。


 「はい。店です」


 「コーヒーは?」


 「一杯目は橋脚でした」


 「何だい、それは」


 アリシャーが、まじめな顔で言った。


 「構造物としては強かったです」


 ヒルドバーグは眉を上げ、次に声を出して笑った。


 その笑いを聞いて、店の緊張がほどけた。


 オリーンは急いで椅子を引こうとしたが、ヒルドバーグが手で止めた。


 「自分で座る」


 彼女はゆっくりカウンターの内側へ入り、自分の湯飲みを出した。いつもの場所に湯を注ぎ、少しだけ茶葉を入れる。


 誰も手を出さなかった。


 ヒルドバーグは、自分で茶を淹れ、自分で椅子を引き、自分で座った。


 湯飲みを両手で包み、ひと口飲む。


 「眠れましたか」


 ロシルドゥアが尋ねた。


 「半分はね」


 「もう半分は?」


 「起きない練習をしてた」


 ロシルドゥアは、ゆっくり頷いた。


 「難しかったですか」


 「難しいに決まってる」


 ヒルドバーグは、眠そうな目で店内を見た。


 「皿の音は大きいし、サポナーラは小声でもうるさいし、オリーンは三度走ったし、ガニーロは途中で釘を落としたし、レトリスは客に注意する時だけ声が通る」


 全員が、それぞれ少しずつ目をそらした。


 「でも」


 ヒルドバーグは湯飲みを置いた。


 「起きなくても、店は壊れなかった」


 その言葉は、誰かを褒めるだけではなかった。


 自分に言い聞かせる声でもあった。


 オリーンはカウンターの向こうで、唇をきゅっと結んだ。大げさに喜びそうな彼女が、その時は何も言わなかった。ただ、ヒルドバーグの前に小さな皿を置いた。皿には、端が少し焦げたトーストが乗っている。


 「休んだ人用です」


 「焦げてる」


 「少しだけです」


 「少しじゃない部分もあるね」


 「失敗したら紙に書きました」


 オリーンは、焦げたトーストの横にメモを置いた。


 トースト、二分長かった。

 次は一分半短く。

 でも、バターはおいしい。


 ヒルドバーグはその紙を読み、また笑った。


 「じゃあ、直せる」


 「はい」


 その返事を聞いて、レトリスは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


 失敗したら紙に書く。


 あとで直せる。


 それは、防災のための言葉であり、店のための言葉であり、十年前から続く自分たちのための言葉でもある。


 ヒルドバーグは、焦げたトーストをかじった。


 「うん。焦げてる」


 「そこまで正直に」


 「でも、食べられる」


 オリーンは胸を押さえた。


 「合格ですか」


 「明日も焼きな」


 それだけで、オリーンは泣きそうな顔になった。けれど、泣く前にガニーロが差し出した休憩所札を見て、すぐに目を輝かせる。


 「ヒルドバーグさん、これ見てください。店の前に置く札です」


 ヒルドバーグは木の板を受け取った。


 ここで息を整えられます。


 その文字の下に、小さな青い灯りがついている。強すぎず、暗すぎず、足元と椅子の位置がわかる程度の光だ。


 ヒルドバーグは、灯りをじっと見た。


 「いいね」


 短い言葉だった。


 けれど、ガニーロの肩が少し下がった。緊張していたのだと、レトリスはその時知った。


 「雨の日、外に出しても大丈夫なようにします」


 「壊れたら?」


 「直します」


 「直せないくらい壊れたら?」


 ガニーロは少し考えた。


 「作り直します」


 ヒルドバーグは頷いた。


 「それでいい」


 店の外で、ぽつりと音がした。


 雨粒が一つ、庇に落ちた。


 皆が窓の方を見る。


 まだ小雨だ。通りの石畳が点々と濡れ始めただけ。だが、遠くの雲は昨日より低い。台風の気配は、少しずつ現町へ近づいている。


 レトリスは立ち上がった。


 「午後の確認を続けます。長椅子の位置、札の固定、庇の雨の入り方。雨が強くなる前に、測れるところまで」


 「行くなら、三人以上」


 ヒルドバーグが言った。


 「一人で走る人がいるからね」


 視線は、ガニーロに向いていた。


 ガニーロは工具箱を持ちかけた手を止めた。


 「……三人以上で行きます」


 「よろしい」


 レトリスは、少しだけ笑いそうになった。


 ヒルドバーグは眠った後でも、やはりヒルドバーグだった。ただし、今日は少しだけ違う。すべてを自分で支えるのではなく、支えられる側へ一歩だけ足を置いている。


 その姿が、昨日のどんな説明よりも、ロシルドゥアの分担表を強くした。


 ロシルドゥアは、自分の予定表に新しい欄を書き込む。


 支援者の休憩確認。


 その横に、少し迷ってからもう一行。


 自分の休憩確認。


 レトリスはそれを見て、何も言わず頷いた。


 オリーンは、二杯目のコーヒーを淹れ始めた。今度は粉を少しだけ減らし、湯をゆっくり落とし、自分も小さく息を吸っている。


 サポナーラは手帳を開き、今度は勝手な商品名ではなく、雨の日に椅子を出す手順を書いていた。


 アリシャーは外へ出て、長椅子と道幅の関係を測る。


 エメットは、彼の横で数字を記録する。


 ガニーロは休憩所札の角をもう一度撫で、工具箱を閉めた。


 レトリスは蒼い鞄を肩にかける。


 鞄の内側で、基板は沈黙している。


 今日は、超絶赤面ポエムは出ない。


 それでよかった。


 言葉は、機械が勝手に拾わなくても、少しずつ外へ出ている。


 眠ります。


 失敗したら紙に書く。


 ここで息を整えられます。


 起きなくても、店は壊れなかった。


 どれも短い。大げさな詩ではない。けれど、現町の地図に新しい印を増やすには、十分な言葉だった。


 店の扉を開けると、小雨の匂いが入ってきた。


 ヒルドバーグはカウンターの椅子に座ったまま、湯飲みを持ち上げる。


 「行っておいで。戻ったら、橋脚じゃないコーヒーを出すよ」


 「普通ブレンドですね」


 サポナーラが言った。


 「その名前は消しな」


 「はい」


 店内に笑いが起きた。


 外の雨は、まだ優しかった。


 レトリスは庇の下に立ち、青い休憩所札を見た。小さな灯りはまだ点いていない。けれど、そこにあるだけで、道の途中に息をつける場所ができたように見える。


 十年前、あの雨の中に、こういう場所が一つでもあったら。


 そう思った瞬間、胸が痛んだ。


 でも、すぐに顔を上げる。


 十年前にはなかった。


 なら、今つくる。


 ガニーロが隣に立った。


 「雨、強くなる前に終わらせよう」


 「はい」


 レトリスは頷き、地図と記録板を持つ。


 「ただし、息を整えながらです」


 ガニーロは一瞬きょとんとし、それから休憩所札を見て笑った。


 「わかった」


 二人の後ろから、エメット、アリシャー、ロシルドゥアが続く。店の中では、オリーンの二杯目のコーヒーが静かに落ちている。サポナーラは濡れた床に滑り止めを敷き、ブルグリンデはいつの間にか店の入口で傘立ての位置を直していた。


 ヒルドバーグは、奥へ戻らなかった。


 今日はもう起きていることにしたのだろう。


 けれど、誰かが皿を取ろうとした時、彼女は立ち上がらなかった。オリーンが先に動くのを見て、静かに茶を飲んでいる。


 それもまた、休む練習の続きだった。


 小雨の商店街に、青い灯りを入れるための小さな穴が、ひとつずつ測られていく。


 現町の地図には、危険な赤い線だけではなく、休める青い点が増え始めていた。



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