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十二月のプロンプト  作者: 三号


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第七話 優しく友達迎える様に微笑うわ

 渡辺はまるで醒めたばかりの悪夢からでてきたかのように、敦賀不由の目の前で打ち震えていた。膝を折り、マンションの廊下に腰を降ろして両腕で肩を己の肩を掻き抱いている渡辺は、咽喉から搾り出したような嗚咽に合わせて「佑介が佑介が」と呟いていた。彼女の姿は、基督に懺悔を請う咎人にも似ていた。

「泣いてても判らない、ほら、立って」

 肩を抱いていた右腕の手首を持ち強引に立たせようとした不由に対し、渡辺はまるで駄々を捏ねる幼児のように逆らった。埒が明かない、不由は何度か渡辺を立たせようと試みた後に、彼女の事については諦めた。

 それよりも先ほど耳にした渡辺の言葉を信じるのであれば、子供の命を優先すべきである。不由は床に蹲って立ち上がろうとしない渡辺を置いて、扉が開いたままの渡辺の部屋へ向かった。扉は人が一人通れる程度に開いている。それは、不由を招きいれようとしているのか、それとも不由が近づけば閉じてしまう準備をしているのだろうか。果たして不由が扉のノブに手をかけるまで扉はそのままであったが、同時に部屋の中からも物音ひとつ聞こえてくることはなかった。

 不由は部屋へ入る前に心構える。いま渡辺が出てきたこの部屋には、彼女と息子の佑介しかいなかったのではないか。ならば、立ち話をしていたときに渡辺が不由へ嬉々として話した保育園へ迎えにいくであるとか、諸々の事象と辻褄が合わなくなってくる。二人以外に例えば父親であるとか、他の人間が存在しているのか。

 不由は室内にあるもの、或いは起こっていることに対して用心を怠らぬ足取りで玄関へ足を踏み入れた。そこには乱暴に脱ぎ捨てられている幾つかの靴が散らばっていた。一見した限りでは、子供用の靴と女性用の靴だけである。玄関でサンダルを脱いだ不由は周囲を見渡す。玄関から少しばかりの廊下が奥へ続く。左手にある二つの扉は手洗いと風呂場。右手にも扉が一つあって、そちらは寝室用の六畳間になっている。そして廊下の突き当たりは扉の中心部を縦長の硝子が嵌められている扉であり、その向こうにはリビングとキッチン、そしてリビングとも繋がっていて、キッチンとはカウンタで隔てられているスペースがあるはずだった。つまり部屋は不由の部屋と同じ間取りである。

 不由は手洗いと風呂場の扉を先ず開けて一瞥した。異常は無い。次に寝室の扉を開ける、ベッドの上に多少の乱れがあるものの異常は見受けられない。すると、あの子供はリビングに居るのだろう。不由はリビングへと続く扉に手をかけて、一瞬躊躇した。どうして自分はこんな事をしているのか、関わるべきではないのではないか。しかし不由は自分の中に生まれそうになった逡巡を押し殺した。人が生きていくにあたって、重要な決定をしなければならない場面というのは幾つかある。しかし、その決定を下すべきときには最早それを避けようが無い。実際に重要なのは、既にそこに至る過程にこそある。この時の不由にとってみれば、既に現在の状況に至る種を育てていて、いまこの時に種が萌芽するだけのことであった。不由は扉を開ける。

 部屋の中は、嵐の後といった感だった。戸棚やそれらの引き出しにおさまるべものは全て床に散乱しているようだった。床に敷かれたカーペットは半分ほど裏返り、赤いチェック柄のカーテンも半分ほど引きちぎられたような恰好だった。窓脇に置かれていたであろう背高の観賞植物は横倒しになり、植物の幹は折れて葉が一枚、二枚離れた場所にある。植木鉢からは土が零れてフローリングの床に同化しようとして失敗したようだった。その床の上、カウンターの向こう側に、むき出しになった人の足があった。ズボンも靴下も穿いていない裸のままの足が二本、不由の立っている場所から見える。

 足音を忍ばせて不由はカウンターの向こうへ近づいていった。なぜ自分が足音を忍ばせたのか、自分自身ですら理由が判らない。もしかしたら、本来は自分が居るべきでは無い場所へ足を踏み入れていることへのささやかな罪悪感から出た無意識の行動だったのかもしれなかった。しかし、そのような事を言っている状況ではなかった。

 カウンターの影に隠れていた子供、佑介は右側を下にして倒れていた。見えていた両脚同様に、そこから上にも服を着ていなかった。全裸である。横顔だけの彼の顔は両目を眉根に皺を寄せてきつく瞑り、口は永久に開かれない天国への門であるかのように閉じたままだった。この前、雨に濡れていた少し長めの髪は局所的に抜け落ちていた。顔にも、身体にも、否、子供の表面を構成する全ての部分に、殴打された痕が見られた。紫色と赤黒と赤のグロテスクなグラデーションで覆われている子供の身体は、小刻みに震えていた。震えているというよりも、寧ろ痙攣と言った方が正確な表現だろう。殴打の痕に混じって、蚯蚓腫れのような痕もあった。そこから滲むようにして流れている子供の血は、きつく閉じてしまった目から流れない代わりに流れている子供の涙のようでもあった。

 不由は暫らくの間、身体を動かせなかった。凄惨な現場ならば幾度も見たことがある、もっと目を覆うような人の仕業とも思えない死体も見慣れたものであった。しかし、それらとは、どこか異質の、人としての感情が乗り移りすぎてしまった傷跡は、不由の思考を一瞬だけでも奪うことに成功し、奪われた不由を嘲笑って目の前に厳然と横たわっていた。「これが現実だ」と吠えているように見えた。全ての傷跡から、流れ出ている血から、彼の周りに振り落ちて抜け落ちた毛髪から聴こえてくる声だった。不由は耳を覆いたくなった。

 実質、不由が自失していたのは、ほんの十数秒だけであっただろう。不由は我に返った。

 まだ、生きている、死んでなどいない、殺されてなどいない。

 間違っている、これは間違っている。

 子供の脇にしゃがみ、不由は子供の頬に片手を触れた。子供の痙攣していた身体が、一度大きく波打った。もしかしたら、更なる傷を負わされることを恐れたのかもしれない。それとも、この小さな身体ながらに、最早これ以上は耐えられないことを知っていたのかもしれない。

「もう大丈夫だ」

 不由は落ち着けた声で子供に語りかけた。反応は無かった。まず、どうすべきだろうか、やはり治療が優先だろう。誰がやったのか、何をしたのかは、それからでも構わない。子供の身体を優先すべきであり、そうだ、救急車を呼ぼう。電話を求めて視線を走らせた不由の視界に人影が映った。


 先ほど廊下へ置いてきた渡辺が視界の先に立っている。


 渡辺は、墓から出てきたばかりのアンデッドのように、力なく立ち、両腕を脇に力なく垂らし、首の支えを失って今にも落ちてしまいそうな顔から、混濁した目線を不由と子供へ向けている。しかし、何も見えていない可能性もあった。目は死んでいた。


 ――いつから、居た。


 不由の皮膚は粟立つ。玄関から入ってくる音も、廊下を歩く音も、扉を開ける音も聞こえなかった。それだけに不由とっといま目の前にいる渡辺は、理不尽な場に現れてしまった幽霊を見るようだった。幽霊は、渡辺はこちらへ向けて歩いてくる。足音がしない理由が判った。足裏を床から離れさせず、摺り足のような足取りで進んでいた。不由は横たわっている子供の上半身を胸元に抱え上げ、守るようにして抱く。子供は抗議も感謝の声もあげず、紫色に変色した唇は閉じたままだった。

「あんたが……あんたが、やったのか」

 不由の声に反応することなく渡辺は近づいてくる。それほど距離もなく瞬く間に不由と子供の前まで来た渡辺は、突然、膝の力が抜けて、床に崩れ落ちた。室内に響いた音に不由は首を竦める。自分の網膜へ映っている映像と己が置かれてている状況を、たちの悪い悪夢にしてしまいたかった。

 崩れ落ちた拍子に不由から見えなくなった渡辺の顔がゆっくりと、不由へ向けてあげられる。何も読み取れない表情、だらしなく半開きになった口元から、舌を使わないで発音したかの如き渡辺の声が聞こえてきた。始めはくぐもっていて何を言っているのか判らなかったが、次第と聴き取れるようになる。同じ、言葉を、繰り返しているだけだった。

「あなた誰あなた誰あなた誰あなた誰あなた誰あなた誰あなた誰あなた誰あなた誰あなた誰あなた誰あなた誰あなた誰あなた誰」

「ちょっと、冗談じゃない、さっき話したばかりでしょうが」

 言った不由を無視して子供へ視線を転じた渡辺は、初めて子供を見つけたように目を見開くと、

「厭ああ」

 と頭を抱えて絶叫した。それから不由を睨み、

「助けて、この子を助けてあげて」

 と甲高く叫び、子供を抱えている不由と、先ほどから動かない子供の間に腕を割り込ませて、二人を引き離しにかかった。

 不由は、完全に飲まれていた、渡辺の常軌を逸した言動に飲み込まれていた所為で、腕に力が入らず、子供を取り落としてしまった。渡辺は子供へは手を差し伸べず、不由の肩にその両腕を置いた。

「ねえ、敦賀さん、死んじゃう、佑介が死んじゃうから」

「……それは」

「だから、助けて、佑介をこんなにした人から佑介を守ってあげて、病院に連れてって」

「あんたじゃな……」

 不由は言葉を最後まで続けることが出来なかった。

 両腕を不由の両肩から外した渡辺は拳を形作った右手を「助けてあげて」の声と同時に、床に倒れている子供の腹部へ振り落とす。

 力加減の容赦など無かった。

 鳩尾にのめり込んだ拳の所為で子供の咽喉から空気が洩れ出たような音がする。

 子供は悲鳴すらあげなかった、

 苦悶の表情を浮かべただけで、助けを求める声すら出さなかった。

 子供から引き剥がされ、両腕を後ろについたまま呆けたようにして座っている不由の目の前で、二度、三度と「助けて助けて」と叫びながら渡辺が子供を殴打していた。


 ――狂ってる。


 不由は子供を撃ち続けている渡辺の手を強引に掴んだ。

「止めろ」

 制止の声を叫ぶ不由の力に抵抗して渡辺は力任せにもがく。不由は動き出しそうだった左手も同時に掴んだ。

「あんた、おかしいよ」

 掴まれた両手を払い除けようとして動かし、そして失敗した渡辺の口から言葉が接ぎ穂になって溢れ出す。

「敦賀さん、この子、何も、言って、くれないの。この子は助けて欲しいとか、言ってくれないの、佑介」

 渡辺の瞳からは涙が流れていた。その涙は、不由にとって美しいものでなく、汚水のように見えた。

「ハンバーグが食べたいとかカレーが好きとかお外で遊びたいとかママとゲームがしたいとか寒いから炬燵から出たくないとかカブトムシが欲しいとかお風呂に入りたくないとかお友達と縄跳びをして遊んだのとか千恵ちゃんが好きなんだとか先生が優しいのとか抱っこしてよママとかママが大好きとか言ってくれないの」

 渡辺は両腕を掴まれたまま、不由へ項垂れかかってきた。

「言ってくれないの、言ってくれないのよ」

 だから、どうしたというのだ。渡辺の言動は不由の理解の範疇を遥かに超えていた。もはや、つい十数分前に会った渡辺とは全く別の人間であるかのようだった。不由の嫌悪感は沸点へ達した。それは嫌悪というよりも寧ろ、自分とはあまりに異質な物に対して人間が抱く原初的で根源的な恐れだった。

 自分に項垂れている渡辺を不由は突き飛ばした。床に跳ねた渡辺は、そのまま上半身を軟体動物を想像させる動きで横たえさせる。

 不由の息は荒くなっていた。

 自分は、何をしようとしている。

 そう、これから何をすべきなのか。

 考える暇すら無く不由は、母親から呵責され続けた子供の背中に片手を添えて抱き上げた。想像以上に軽かった。骨と僅かな肉だけではなく、子供の心さえも削ぎ落とされてしまわなければ、ここまで軽くなることはないのではないかとさえ不由は思った。

 床に横たわったまま動かない渡辺を尻目に、散乱したリビングを抜け、扉を開け、廊下を歩き、玄関でサンダルに足をかけて、部屋から出る。

 部屋の扉を閉めるときに、不由は聞いた。

 未だ少しだけ開いていた扉の隙間から、

 「厭ああ、厭だあ」

 と聴こえたそれは、渡辺の鳴き声だったか、断末魔の叫びだったか。不由はそのまま玄関の扉を閉める。

 子供を抱いたまま自分の部屋へ戻り、一度深呼吸をしてから羽根木伸介へ電話をした。羽根木は三コール目で電話に出た。羽根木の声を聞いてようやく、不由は耳朶に残っている渡辺が叫んだ声の残滓を取り除くことが出来た気がした。

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