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十二月のプロンプト  作者: 三号


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第六話 夢への扉があるの

 電車が速度を落としながらホームへ滑り込んだとき敦賀不由はシートに座っていた。七人掛けのシートには不由の他に座っている乗客は居ない。車内に到着を告げるアナウンスが流れ、待ちかねていたようにして扉が気の抜けた音を立てて両側へ開く。

 平日の日中であり疎らにしか見受けられない乗客達の中で、不由が降りるべきこの駅で下車する乗客も乗車する者もいないらしい。少なくとも不由がいま居るこの車両には。

 扉が開いてなお、不由は立ち上がる気力さえ無かった。このままシートに腰を落として、いっそうのこと終着駅まで眠り呆け折り返してまたここに戻ってきたとしても、誰にも文句を言われ筋合いはない。

 しかし不由は寸でのところで己の不甲斐無い両足に力を込め、そして既に発車のベルが鳴り響いているホームへ降りた。そうしなければならないことは無かったが、自堕落になりきれないこの辺りの性格が自分らしいな、と不由は内省しそうになる。不由がホームに足をつけてすぐに電車の扉が閉じた。そして車両に背を向けたまま立ち尽くしている不由の後ろで車両それ自体と、乗客を乗せた分の重さを無理やり動かすような駆動音を控え目に叫びながら電車は発車した。ホームから改札がある二階まで上がる気力すら途切れそうな自分を叱咤しつつ、久しぶりに部屋へ帰り泥のように眠る自分を想像しながら歩き始める。

 不由を疲労させていたのは今朝になって漸く捜査本部が解散した事件の為であった。

 今から約二週間前の夜半、東京都北区にあるアパートの一室で、揺籃から出でたばかりの幼児と、母親と見られる女性の変死体が発見された。発見したのは仕事から帰った幼児の父であり、母親の夫だった。幼児については頸部圧迫、及び頭部への打撃による頭蓋骨陥没。母親にも同様に頸部圧迫、首に索状痕が見られたことから現場に遺棄されていたネクタイで首を絞められたものと見られた。ネクタイは夫のものであった。

 特筆すべきは、母親は生前と死後、双方に渡って性交渉の跡が見られた。つまり強姦、及び死姦である。盗まれたものは僅かな金品だけだった。父親であり夫である男性から通報を受け所轄の刑事が現場へ到着したのが二十三時四十二分。翌日には所轄警察署内に合同捜査本部が設置され、そこへ不由も加わったのである。

 解決したのは、否、この手の事件に本質的な解決などが見込めないとするならば、犯人が逮捕されたのが今日の四時十六分のことであった。犯人は同区内に住む十八歳の少年だった。動機は今のところ不明だが、強盗及び殺人の一級犯罪である。事件の凄惨さや犯人の年若さを考えると、マスコミが騒ぎ出すのが目に見えていた。

 だが不由は、それらの面倒ごとは上司達に任せることとして割り切っている。不由にとってみれば犯人逮捕こそが自らの至上命題であり、妻と娘を失った父親の心情や、事件が世間に与える影響などを考えていたのならば、次の捜査に影響が出てしまうと考えている。その点、どうしても被害者に同情しがちな山木などは、今回の事件で相当に心理的なダメージを受けたらしい。勿論、山木のことであるからして表面上は飄々としているものの、彼のことを長年見てきた不由からしてみれば空元気以外の何物にも見えなかった。

 事件が発生したのは不由が羽根木に会った翌日のことである。不由がこの二週間の間、同じマンションの階に住む子供の事を頭の中から弾き出してしまっていたとしても、責めを負うべきものではないだろう。

 それでもこの日、駅の改札を抜けて商店街を歩いていた不由が子供の母親、渡辺に出会ったことが偶然と言いきれないとするならば、不由の中にある懸念が、不由が身体の自由を取り戻したときを見計らって具象化されたものだとも言える。だから不由は国道へ抜ける商店街の一角へ自分が向けた視線の先に渡辺が居たことにも、彼女が不由に微笑み返してこちらへ歩み寄ってきたことにも驚くことは無かった。ただ、このまま素直に自分の部屋へ帰ることが出来ないことで、徒労感が増しただけであった。

「こんにちは、先日はどうも」

 どうもこうもないだろう、と内心で毒づきながら不由も軽く会釈をする。いま目の前に居る渡辺は、先日に不由と子供の前で扉を開いた渡辺とは別人のように見える。活発とも溌剌ともとれる血色の良い表情、きちんと櫛で梳かし後ろで纏めた清らな黒髪、無地の白いティシャツの上に薄紅色の花が咲いた上着を羽織り、茶系の色をしたロングスカート、足元にはそれほどヒールの高くないパンプスを履いていた。

 どうだろう、新婚直後における新妻の幸せそうな姿のモデルを探し出したら目の前の渡辺が選ばれるのではないだろうか、と不由がその場で勝手に想像したほどの出で立ちと雰囲気であった。前に見た渡辺とのギャップに、不由はイメージを一致させるのに苦労する。

「今日はどうされたんですか、敦賀さん。お昼のこんな時間に」

「少し、仕事の事情で」

 渡辺には自分が警察当局に勤めていることは伝えていない。渡辺だけでなくマンションの住人には誰にも知られてはいないはずだ。自分の職業に対して誇りを持っていないわけでもないが、後ろめたさを感じているわけでもない。それでも警察という職業それ自体が特別な意味を持っており、付随する情報の為に自分が不利な立場に立たされるのは不由の好むところではなかった。

「そうですか、わたしの場合は仕事っていうよりもパートですけど」

「この近くで」

「ええ、そうなんです。少し離れたところにスーパーマーケットがあるでしょう。そこで」

 駅前は建築物が密集している所為で大型店舗が出店できる土地がなかった。それでなくても昔から自営業を営んでいる商店街の店主たちからしてみれば、大手のスーパーが自分達の街に出店することに対して否定的な感情を持つものだろう。不由が住む街のスーパーは駅から少し離れた、少しと言ってもせいぜい歩いても十分程度のものだったが、商店街とは距離と客層を分かつようにして店を構えていた。つまり、その店でレジや商品の陳列などをしているということであろう。

 そのとき、不由と渡辺が立っている舗道を自転車が通ろうとしていた。不由は反射的に身体を脇へ寄せた。しかし渡辺はそのまま動かず、「あら、お疲れさま」などと自転車に乗った中年の主婦へ声をかけた。中年の主婦は怪訝そうな表情で渡辺と不由を見渡した。渡辺は「ええ、同じマンションの」とにこやかな表情で中年の主婦へやや大袈裟な仕草で伝える。それから不由には内容が聞き取れない声音で二言三言交わしたあと、中年の主婦は自転車を漕いで二人の前から遠ざかっていった。

「ごめんなさいね、今のはパートでお友達の菊池さんという方なの。私のほうが随分と年下なのに仲良くしてもらってて」

 どこから見ても主婦が近所の友人と話をしているとしか観察できない。つまり羽根木から聞いた児童虐待の理由のひとつとして挙げられているような社会的に孤立をしている様子は目の前にいる渡辺からは今のところ感じ取れない。尤も、たった一人のパート仲間との会話でそこまで類推するのは浅慮であるかもしれないが。

「愉しそうに働いてる」

「ええ、そうね、仕事を愉しいなんて言ったらいけないかもしれないけど、毎日が充実してるわ」

「働いているのはあなたの希望、それとも旦那さんも含めた意見」

 不由は気になっていた夫のことを訊いた。まだ渡辺の夫を目にしたことは無く、母子家庭であれば児童虐待の可能性も強まってくるであろう。しかし渡辺は楚々と微笑いながら、

「働きたいって夫に言ったときは、初めは反対されたんです。収入は夫からのお給料で十分なんですから」

 と肩をすくめながら言った。つまり、お金の問題ではなく、生活に張り合いを求めてといったところなのだろう。そういった仕事の捉え方があることも不由は理解している。同意することはありえないが。

「旦那さんは何を」

「広告代理店、って言うのかしら。そこで仕事をしているの。先月、部長になったばかりで張り切っているんですけど、家に帰ってきて仕事の話をされても私にはわからないことばかりで困ってるわ」

「お子さんもいて、幸せそうだ」

 言った不由は、渡辺の言葉だけから感じられることをストレートに言葉にした。しかし、ならば何故、あの子供が百歩譲っても幸福そうにみえなかったのだろう。あの日、扉を開けた渡辺の凄惨な表情は幸せとは程遠かったはずだ。何を隠している、自分の罪をまるで糊塗しようとするかのように。

「あ、そうだったわ。そろそろ佑介のお迎えに行かなくちゃ」

「迎えに」

「ええ、保育園へ。いつもパートが終わってから迎えにいってるの。すぐ近くよ」

「お邪魔しちゃったみたいだ」

「そんなことないわ。佑介ったらね、ほら、もともと元気が過ぎるような子でしょ。だから保育園が大好きみたいで、友達が沢山いるし先生と遊んでるのも愉しいんですって。いつも帰りには愚図ついて、保母さんと私とどっちが母親だかわかないわ」

「じゃあ私はこれで」

「今度良かったらお茶でもしましょうよ。折角ご近所さんなんですから」

「そうだね」

 言った不由へ明るい笑顔を向けた渡辺は、マンションとは反対側に向けて歩いて行った。去り行く渡辺の後姿を見遣っている不由の中で警報機が先ほどから鳴り止まない。それは――それはというほど何事であるのかを掴みきれているわけではないのだが――それは嘘だ、と不由自身に告げていた。数百あるようなパズルピースの中に、数個だけ別のパズルピースが混ざっているような違和感。違和感は不由が現在、疲労の極地にあるために感じるものなのだろうか。いや違うであろう、たとえどれほど疲労していようとも、警報機のセンサーは誤作動を起こさない。そのことについては自信があった。つまり、このままでは終わらない何かが、不由の心中に微細な懊悩として残ってしまったのである。

 駅を降りたときよりも重さが増した足で不由は歩き出した。交番がある方の舗道は避けた。雨が降っていたあの日、交番へ引き寄せられることさえなければ、今現時点の頭の中に植わってしまったしこりは存在しなかっただろう。交番自体に咎があるわけでないのは重々承知の上だが、どうしても避けて通りたくなる。交番からの連想で、佑介という子供の姿が脳裡に浮かぶ。

 渡辺は保育園と言っていた。するとまだ四、五歳なのだろうか。いや、もう少し大人びていたように不由からすれば見えた。小学校低学年だと言われても納得してしまうだろう。それでも実際に渡辺は不由の前から、帰るべきマンションとは逆の方向へ歩いていった。不由にしても近辺の地理に明るくないわけではないが、果たして渡辺が歩いていった方面に保育園などあっただろうか。

 部屋へ戻った不由は、そのまま一直線にベッドへ倒れこんだ。久しぶりに帰ってきた部屋の中は、主人の不在に対する怠慢のようにして空気が淀んでいた。動かない空気にあって、不由がかき乱した空気の対流が渦となって埃を巻き上げる様子が見て取れるようだ。そうだ、寝てしまう場合ではないはずだ。まず、掃除をしなければ。そしてシャワーを浴びて、簡単な食事をして、そういえば冷蔵庫の中にあった食材はまだ期限切れになっていないのだろうか、食事する前に確認が必要だろう。そして、日中であることに不謹慎の謗りは免れられないかもしれないが、少しばかりのアルコールを飲んで、それからベッドへ横になろう。そうしなければならないのだ。

 しかし不由の思惟とは逆に、身体は動くことを拒否し続け、そしていつしか不由は自分に似つかわしくない自堕落な睡眠の淵に立ち、今にも睡眠という名の谷底へ転落をしようとしていた。


 半ば意識を失いつつあった不由の耳朶に空間すら断絶してしまうほどの悲鳴が響く。


 瞬間、不由はベッドから身体を起こした。

 どこから、聞こえた。

 そう遠くないはずだ。

 男性か女性か、聞こえたのは女性の声だ。

 外か、中か。

 外部ではないはず、外部であればいま不由が頭を向けていた硝子窓から聞こえたはずだ。

 むしろ今の声は、玄関の方向、つまりマンションの廊下から聞こえた。

 声量はどうだったか、声の大きさは紛れもないが、より近くから聞こえたのではなかったか。

 不由は今の声をどこかで聞いたことがなかったか。

 それも、至極、直近で。

 不由は、つい先ほどまで立ち話をしていた渡辺の声を、悲鳴に変換してリプレイする。そうだ、恐らくは渡辺の悲鳴だ。然し何故、彼女は今頃は子供を保育園へ迎えに行っているはずだ。

 何故、マンションの部屋にいる。

 それとも自分は横になっていたつもりで熟睡してしまったのか。

 時計を確認する、否、そんなことはない。自分が横になってまだ一分強だけしか時間は経っていない。

 また悲鳴。

 先ほどより近い。

 そして部屋の扉を叩く轟音、何度も繰り返し叩く音。

 誰の部屋の?

 これは自分の部屋の扉が、叩かれる音だ。

 不由はベッドから跳ね起きた。扉まで走った。その間も、扉を叩く音は続いていた。

 五月蝿い、五月蝿い、五月蝿い、不由は自分の置かれた状況に憎まれ口を叩く暇すらなく、扉に張り付き、覗き穴から扉の外を見た。

 扉の向こう側には髪を振り乱し己の全体までも振り乱し身体全体で扉を叩いている渡辺が居た。

 レンズを通して見えた渡辺は、不由が鬼かと見間違うほどの形相であった。扉を叩き続ける渡辺を意に介さずに、不由は内側から扉を開ける。反動で渡辺は廊下の中ほどまでよろめくようにして後退して、そして跪いた。

 壊れた人形のようでもあった。

 不由はちらと廊下の先にある渡辺の部屋へ視線を走らせた。彼女の、渡辺の一家が住まう部屋の扉は開け放たれたままであった。不由はかける言葉を知らなかった。そもそも渡辺がここに居る理由が判らない以上はまずその事を問いただしたい気持ちがあったが、問いかけを拒否するだけの鬼気が渡辺から出ていたからだった。

 凝然と見下ろしている不由を見上げながら渡辺は叫んだ。彼女の声は不由に蝉の鳴声を想像させた。

「助けて……佑介が佑介が佑介が死んじゃいそうなのっ」

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