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十二月のプロンプト  作者: 三号


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第五話 錆びた時計と泣いたけど

 新宿駅新南口で降りた頃には既に日が暮れかけていた。

 初秋の風が思いのほか涼しく感じる。

 敦賀不由は家路に着く人々と新宿の街へ繰り出す人々が混ざり合った雑踏に紛れていた。人込みが好きではない不由にとってみればプライベートで来ることが少ない街の一つであった。然しながら、これから会う人間の勤め先が新宿であり、頼んで時間を割いてもらっている以上はせめて場所の都合程度は先方に合わせるべきであろう、という配慮の結果であった。つまるところ人に対して何かを求める時には、こちら側からも相手に何かを与えなくては人と人との関係が円滑に進まなくなるのであろう。

 改札を抜けて、記憶していた地図を頭の中で広げて確認する。地図の通り右にエスカレータがあった。不由はエスカレータを人の流れを止めないようにして降りた。左は国道陸橋下の通路になっていて、そのまま抜けると東南口前にある少しばかりの広場。降りて目の前に、アウトドアショップが一階の店子として入っているビルがあり、横並びに幾つかのビルが並んでいた。

 並んでいるビルのひとつに飲食店専用のビルがあり、不由はそちらへ足を向けた。入り口近くに各階で営業している飲食店の紹介板がライトアップして設置されている。不由は足を止めて視認した。沖縄料理、和風の居酒屋、韓国料理、串焼き屋などの店名が連なっていた。不由が訪れようとしている創作料理の店は地下一階にあり、店内で不由が呼び出した人物が既に待っているはずだ。

 不由はビルの入り口から直接地下へ降りられる階段に足を向ける。階段を降りると、大きな木製の扉がある。横木が渡してある。それを握って手前に押すと、ほの暗い店内から押さえ気味の音で奏でられているジャズの音楽が耳に入ってきた。

 案内のために近寄ってきた店員に先客が来ている旨を伝え、不由は店内に素早く視線を走らせながら先客を探す。まだ夜が更けているわけではない時間帯。客数はそれほど多くない。それでもテーブル席に三、四組の二人連れと、カウンタではカップルが寄り添うように席についていた。店内はその先も奥まで続いる。そちらには他の客がいたかもしれなかったが、奥まで確認する前に不由は先客を見つけた。

 男は一角だけ壁で仕切られてボックス席のようになっている二人席に腰かけていた。背を不由の方に向けているので男はまだ気づいていない。不由も顔を確認することは出来なかったが、後姿と、正しい姿勢など二百年前に忘れてしまったかのように特徴のある猫背でそれと判った。

「先に食べていれば良かったのに」

 不由はテーブルへ近づきながら男に声をかけた。テーブルの上には水の入ったコップしか乗っていない。灰皿には二本の吸殻が潰されていた、少なくとも十分、或いはそれ以上待っていたものと思われた。声をかけた不由が鞄を肩から外し、脇に置いてあるバケットに入れて席に着くまでの間、男は一言も言葉を発しなかった。しかし視線は不由を捕らえて離さず、かといって後ろから声をかけられたのに驚いた様子もなかった。まるで後ろから不由が来ていることを予め知っていたかのようであった。

「厭だ。物珍しそうに見ないでくれる」

「相変わらず別嬪さんだ、君には見られる価値がある」

「妻子持ちが言って良い台詞じゃあないわ」

 言った不由の言葉を鼻で笑った男、羽根木伸介は猫背をわずかに反らせた。

 ネクタイを締めていない半袖のワイシャツ、折り目が暗い店内でも見える黒いスラックス、そして幅広のビジネスシューズを履いている羽根木は、風景に溶け込みやすいサラリーマンという記号そのもののように見えなくもない。しかし、この男が見た目を意識的に周囲へ溶け込ませようとしているのを不由は知っていた。羽根木は学生時代から、そういった傾向があった。周囲に溶け込もうとする外見に反比例するかのように彼の中身は周囲から隔絶していた。ただし隔絶していた中身は過去においてのことである。今の彼がどうなっているのか、不由は知らないし、寧ろ意図的に避けてきた。

「妻がいようが、子供がいようが、言いたいことは言うべきだと思うね」

「佐織に刺されたくない」

「そんなこと言うとは驚いた。随分と世間擦れしたものだ。君の場合、成長っていうより退化だろうね」

 反論しようとした不由をかわすようにして後ろを歩く店員を振り返った羽根木は、そのまま注文をした。不由は何も言っていないのだが、羽根木は不由の意向を伺おうとすらしない。身勝手なところは相変わらずだと不由は嘆息していた。店員がオーダーを復唱してから薄暗い店内へ靄のように消えてしまってから、羽根木は不由を見て何かを気づいたように拍手を打った。

「私のことも、思い出した」

「ウィスキーで構わないね、俺と同じの。お腹空いてるだろうから、食べ物も適当に頼んだ」

「ご随意に」

「君に会うって伝えたら、妻も久しぶりに会いたいって言ってたな。息子から手が離せないから来られなかったけど」

 羽根木の妻である沙織とは学生時代の友人であった。というよりも、不由と羽根木、そして今は羽根木沙織となった羽根木の妻の三人は、学生時代の良き友人であった。そう、不由は思っている。友人という枠組みというものがどれだけ不確かなものであるか、痛いほど知悉してる不由ではあるが、それでも甘さを伴う幻想を信じていたかった。

「幸せそうね、佐織は元気なの」

「俺が彼女を不幸せで元気がないようにするはずがない」

 羽根木が言った言葉に、不由は微笑みで返した。それはそうだろう。この男が自ら娶った佐織を不幸にするわけなどない。であるからこそ不由は佐織を羨んだ。自分の感情とは逆の感情である微笑を巧く現せただろうか、と不由は不安になったが案じても仕方のないことでもあるし、或る意味で見抜かれたところで詮無きことである。二人の間に暫しの沈黙が流れたとき、間を計ったかのようにして店員がオーダーされていたものを運んできた。不由と羽根木の前に同じウィスキーが置かれた。暗い店内の中、消える一瞬前の太陽のような色をした照明から零れる光が、琥珀色を更に淡く染め上げていた。

「それで、今日はどうしたの」

 グラスの淵に唇をつけるかつけないかの距離において羽根木が言った。

「訊きたいことが、あって」

「児相のこと。捜査に関係することなら手続きを踏んだほうが良いな」

「プライベートなこと」

 言った不由を、羽根木は興味深そうな眼つきで眺める。

 児相とは、いわゆる児童相談所の略称である。児童相談所は児童福祉法第十二条によって、全ての都道府県と政令指定都市に一箇所以上は設置されている児童福祉の専門機関。〇歳から十七歳までの児童を対象として、養護や育成に関する相談。身体的精神的な相談などを受け付けている。具体的には家庭環境の欠落や非行、障害児童などの相談を受け付けており、ここ数年は増加する一方の児童虐待へ対応する為の機関としても注目を集めていた。謂わば、児童に関する問題の駆け込み寺のようなものである。羽根木は児童相談所に勤務している児童福祉司であった。

 羽根木は小さな音で口笛を吹いた。

「茶化さないで」

「君が他人の子供のことに首を突っ込むなんてね、信じられない」

「まだ突っ込んでない」

「でも、関わろうとしている。うん、やはり退化してるよ、君は」

 抗弁しようとする不由の切っ先を遮るようにして羽根木は「何が知りたい」と身を乗り出した。

「つまり、その、私は児童に対する虐待について詳しくない。それがどういった性格のものなのか、実の親からでも虐待を受けるものなのかを、知りたい」

「具体的なケースがあるわけだ」

「まだ、言えない」

「言わないのは駄目だぜ。児童虐待を発見したものは速やかに通告すべし、ってね。児童虐待防止法の六条に書いてあるんだな、これが」

 不由はそのことを知らなかった。しかし現時点であの子供が虐待を受けているとする確証は全くなかった。少し俯き加減で黙考していた不由の内心を見透かすかのように羽根木は続けた。

「まあ、そうは言っても、それらしい兆候を発見したって、これぞ虐待でございって確証は誰も持ち合わせちゃいないさ。こっちに連絡してきたうちの大体四割は誤報さ。でもな、半分以上は実際の虐待を行っている場合だ。少なくとも俺はその半分以上の被虐待児童を助ける為だったら、喜んで無駄足を踏むね」

「ごめん、まだ詳しくは言えない。ただ、どういったケースがあるのか教えて欲しい」

 不由の発言を値踏みするようにして、腕を組んだ羽根木が椅子の背もたれに猫背を預けた。そして口からゆっくりと息を吐き出す。

「児童虐待ってのは、凡そ四つに分類されることが多い。まず身体的虐待とされるもの、これは直接的な暴力を含めて飯を食わせないだとか家へ入れないだとかそういったのもあるな。逆に心理的虐待は児童を傷つける目的の言動を繰り返したりだとか、トラウマに残るような行動を見せ付けるとか、だ。酷いのには性的虐待ってのもある、まあ児童に厭らしいようなことをするっていう最低の話だな。で、最近多く耳にするのがネグレクトってやつ」

「ネグレクト」

「横文字にすると判りにくいけど、あれだ、児童に対する養育を放棄しちまうっていうこと。よくパチンコに夢中になった母親が暑い車内に幼児を放置したままで、結局殺してしまったっていうのは聞いたことあるだろう、そういった、子供が普通に成育していく為に必要な親としての義務を果たさないで虐待される児童がいる。それをネグレクトって言うのさ」

 不由からしてみれば、まるで異なる国での出来事のようにして耳に入ってきた。いま羽根木から聞かされた話よりも、まだ不由がいつも追っている犯罪者の方が理屈が通っているような気さえする。嫉妬、怨恨、金銭的欲求、復讐。そういったものであれば、人間のドグマとして存在することがあるだろう。

 実の親が自らの子供に、羽根木が言っていたような虐待を課すというのは心理状態が理解できない。理解できないことは、不由にとってみれば恐怖そのものであった。

「でも、それは、実の親が自分の子供を、虐待するっていうのは、稀なんでしょう」

「とんでもない。報告されているデータで判断するならば、だ」羽根木はテーブルに右手の片肘をついた。「……最も多いのは二十歳台と三十歳台の母親だ、それも血の繋がった」

 つまり自分と同じ年代の母親が、自分が産んだ子供を虐待しているのか。不由は戦慄に似た感情を抱いた。どうして自分がお腹を痛めて産んだ子供を虐待出来るのか。そういえば不由が部屋まで連れて行ったあの子供の母親も、不由と同年代のように見えた。つまり羽根木の言葉を信じるのならば、最も虐待の可能性が高い年代なのである。そのことは不由を不安にさせた。同時に、自分がもし子を持ったのならば、自らの子供を虐待する心理が芽生えるものなのだろうか。それは、なぜ。

「理由が、判らない」

「だろうね、俺だって正確に把握してるわけじゃあない。でもな、ひとつだけ言えるのは、虐待する母親自身の過去に基づいた素養の所為じゃあないってことだな」

「つまり」

「よく言われてるのがさ、アダルトチルドレンっていうのかな。幼児時代に親から虐待を受けた人間は大人になって自分の子供に同じことを繰り返す可能性が高いっつう、まあ、誤解だな」

「それも、データで出てるの」

「そりゃあ勿論」

 ということは、統計が取れるほどに児童虐待の事例が多いということであろう。その数を訊くことを不由は躊躇ったし、聞きたくなかった。

「じゃあ、どういった理由で、謂れのない虐待をされるのよ」

「煙草、吸ったら」羽根木も既にテーブルの上に載せてあったマルボロから一本抜き取り、口に咥えて火を点けた。少し遅れて不由も同じ動きをした。区切られたボックス席に紫煙がたちこめた。「望まない出産や望まれない子供への苛立ち、配偶者の出産や子育てへの不協力や無理解に対する怒り、育児に対するストレス、再婚者の連れ子に対する嫉妬や憎悪、それと人間関係からの孤立ってのが、まあ多いな。これは押しなべて虐待をする側の親が現在置かれている状況が原因だ」

「子供が何かをしたっていうのではなくて、子供自身の存在が問題」

「そうなるね、一般的にはね」

 不由はしばらくの間、言葉を失っていた。煙草が根元まで燃えるまでの時間、不由は羽根木から視線を逸らせていた。そうすると、もし仮に、あの子供が虐待を受けていたとするならば、どういったケースなのか。あの渡辺という名をした母親は、現在どういった状況に置かれているのか。仕事をしているのか、専業主婦なのか、父親は居るのか、それとも母子家庭なのか。子供が喋らないのは心理的な虐待を受けているからなのか、頬に見えた赤い腫れは身体的虐待の所為なのか、身体を覆っていた洋服の内側には更なる傷があるのか。あの子供は自分にどうして欲しかったのだろうか。

「仮に、例えばよ、私が虐待されているかもしれない子供を見つけて、そのまま虐待を見て見ぬ振りをしたとして、そうしたら子供はどうなるの」

「殺される」

「そんな」

「最悪の場合はな、だからさ、不由」羽根木はかつてそうしていたようにファーストネームで不由を呼んだ。羽根木の眼からは、天井から零れる淡い照明を貫くようにして真剣な光が出ていた。「もし不由が虐待されていそうな子供を見かけたら、些細なものでも不由の思い込みでも構わない、そのときには俺に声をかけてくれ。そうすれば俺が子供を助けてやれるかもしれない。いや、助けてやることができる。それに、もし虐待されている子供を見過ごしてしまったとして結果、子供が辛い目にあっていたとしたら、それは不由の負担にもなってしまうはずだ」羽根木は一旦、言葉を止めた。「だから約束してくれ、俺に必ず連絡すると」

「……わかった」

 不由は頷いて羽根木の言葉に返した。今までの話はこれで終わりとばかりに羽根木はタイミング良く煙草を灰皿へ押し付けた。殆ど吸っていなかったのではないか、と不由は思い起こす。

 それから少しばかりの食事と、もう少し多めのアルコールを飲んだ。二人が頻繁に会っていた頃の話をした。それは不由が自分でも驚くほどに、途切れることが無かった。懐かしさと同時に、どうして自分がいまこの男と一緒に居る事が出来なかったのだろうかと、苛むようにして思った。

 人生の中で幾つかの分岐点があったとして、そのうちの一つは、もしかしたら間違ってはいけない分岐だったのかもしれない。

 かといって現在の自分に対する不満があるわけでは無い。

 だからどうしたいとも、思わない。

 こうして、話を出来ることが、拒絶をされないで適度な距離を保っていることが、自分にとって満足すべき状況なのだろうか。そういった、謂わば人と人との距離を巧みにおける人間ではないのであるから、自分以外の力によって現在の状況になったのは、寧ろ好ましい事だったと言わねばならないのだろうか。

 会話をしながら自問を繰り返す不由は、では羽根木はどう考えているのだろうかと忖度したくなる気持ちを、かろうじて留めた。それは羽根木に対するものというよりも今は彼の妻になっている佐織への遠慮だった。

 帰り際、羽根木は、

「ひとつだけ、嘘を吐いた」

 と不由に言った。

 不由は視線だけで先を促した。

「佐織が、子供の世話で忙しいから来られなかってのは、違うんだ。俺の親と同居してるんだから母さんに預けてくればいい話なんだ。それよりも、やっぱり不由に会えないって、会うと辛すぎるから無理だって言ってた」

 恐らく昔から変わらない、今にも泣き出しそうな顔で言ったのだろう。

 そう言った佐織の感情も判らないではない。

 ただ不由は自分が、他人の感情を理解したところで何が変わるわけでもないのに、ひとりで得心して悦に入っているだけのような気がする。

 欺瞞だとも思う。

 羽根木とは地下鉄の大江戸線に乗る為に、店を出てからすぐに別れた。去り際の言葉は特になかった。

 僅かな時間、触れるか触れないかの握手をしただけだった。

 ただそれだけでも懐かしい匂いがした。

 不由から離れて歩いていく羽根木と入れ違うようにして、親子連れがこちらへ向かって歩いてくる。こんな時間に新宿を親子連れで歩いていること自体珍しいことではなかったか。母親に手を引かれて歩いている、まだ小学校にあがる前に見える子供を見て、不由はそこに先日手を引いて部屋まで連れて行った、あの佑介と呼ばれていた子供を重ねてしまった。自分は近いうちに再び羽根木へ連絡する事になるだろうことを、不由は予感していた。

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