第四話 ひび割れた胸の隙間に
敦賀不由と子供の二人が待っていたエレベータには誰も乗っていなかった。
空気が抜けるような音で開いた扉から不由が先に中へ入った。中にある扉を開く釦を押したまま、しばらく子供が中へ入ってくるのを待っていなければならなかった。子供はエレベータの入り口から半歩のところで動きを止めている。エレベータの室内が何か自分にとっての災厄へ入り口に感じていたのかもしれない。
不由は黙ったまま待ち続ける。声を発して促すほどお人よしではない、と心の中で自分への言い訳をしながら。しかし声に発しようが、自らの行動が子供からの翻意を待ち続けていることには違いが無いことも熟知しているつもりだった。
はなはだ居心地の悪い矛盾に、ならばもう少し素直になれないものかと自嘲する。ただし、そういった矛盾、或いは自家撞着というものこそが自分を形成している部分の最たるものであり、自分の内部を見つめ矛盾をすり合わせることによって生まれるものこそが、自分にとって甚だ生きていくことが辛い社会で生き残っていく術ではないだろうか。そのように達観している不由も、無くは無い。
子供は、ようやく足を踏み出してエレベータの室内に入ってきた。まるで足を踏み外せば、あらぬ世界に堕ちこんでしまうかのように慎重に。顔を俯けたまま、手を握り締めたままだった。子供の履いているのは白いスニーカーである。不由は右足のスニーカーについている汚れが目に入った。そうすると、その汚れだけが視野の中で拡大し、周りの風景を子供自らの身体をも視野から追い出してしまい、ただただ初めは芥子粒ほどの大きさだった汚れが、次第に拡大してゆき仕舞いには不由の視界の全てを覆ってしまう。
子供がエレベータに入り、不由と同じ行き先の階の釦を押したのを見て、不由は我に返った。どれくらいの間、自失していたのであろうか。子供が自ら釦を押さなければならないほどに時間が経ってしまっていたのであれば、甚だ恥じ入るべきことである。なぜ、子供の靴に付着した染みが不由の思考を奪ってしまったのか。見当もつかないことであった。さも重要なテーゼが隠されている隠喩であるとも思えるし、激務の疲れからくる幻覚であるような気さえする。そうした遠因がスニーカーの染みにあったのであろうか。それとも不由の中に眠っている何かしらの記憶を呼び覚ますものであったのであろうか。そう、どこかで見たことがあるような、デジャヴ。既視感を持ったのは確かであった。スニーカーの染みなどというものに象徴されるような過去の出来事が、あたかも不由の面前に繰り広げられようとした刹那、現実のエレベータの扉が開いた。不由はデジャヴを忘れた、否、忘れようとする。
止まったのは二人が住む部屋のある六階である。エレベータを出て左に曲がり奥まで進めば不由が住む六〇六号室へ、左に曲がれば子供が住む六〇四号室である。エレベータの位置は建物自体の中心線には沿っておらず、やや東側に設置されていた。因って、エレベータの左側に二戸、右側に四戸の部屋があることになる。子供の手を引いてエレベータを降りた不由の後ろで、扉が閉まり、再び下降していくエレベータの機械音が、それ以外の音のしないマンションの廊下に響いた。時折聞こえるのは、目の前の国道を走る車の音であり、ここまで聞こえてくる音の多くはエンジン音が大きな車、或いは二輪車の音と断定しても間違いではなかった。最近の車は清音であり、都内に住んでいる限りでは二輪車の暴走を旨とする集団に出会うことも少なくなった。つまり世の中から、それが大げさというならば日常という生活の場から、ある種の音というものが減じているようなものである。但しそういった、動きに合わせた音は減じているが、人が意識的に「音」として発するものについては増えてきているのではないだろうか、と不由は思う。いまこの廊下を囲曉しているのは、子供の意識が創り出した不気味なまでの静寂であった。子供の手には汗がに滲んでいた。それが意味するものを正確にはかることは出来ないものの、概論で言うならば自宅に帰りたくないということになるだろう。子供が住んでいる部屋の前まで着いた不由は子供へ久しぶりに問いかけた。
「ほら、着いたからお母さんを呼んで部屋に入れてもらいなさい。それとも鍵を持ってる」
不由の問いかけの後半に、子供は首を左右に振った。子供の軟らかい髪も拍子を外したように後から揺れて動いた。鍵は無い、ということであろう。ならばインターフォンを押して親を呼び出すしかない。しかしここまで来て、不由は自分が或る事を失念していたことに気づいた。そもそも親は部屋の中にいるのであろうか。それを確かめるためにも。
「ここの釦を押して、判るね。そうしたら中に入れて貰いなさい」
子供は先程よりも強めに首を振った。
「しょうがない、私が押すよ。いいね」
呼び鈴へ伸ばしかけた不由の手を、少年が掴んだ。想像以上に強い力であった。子供の意思の力であろうが、何故、ここまで来ても抵抗をするのか。止してほしいのであれば、どうして口に出して言わないのか、言えない理由は何か。
子供に掴まれたままの姿勢で一分ほど動きを止めていた。
そして今二人が立っている扉の向こう側から、人が足音を立てて歩いてくる音が聞こえた。そう、中に人が居るのであれば、自室の目の前での話し声や少しの動きでも聞き取ることが出来るであろう。テレビを見ていたり、洗濯機を回しているのでなく、なおかつ目を覚ましているのであれば。
室内からの音が聞こえた瞬間、子供の身体は俄かに蠕動し、そして、その後に硬直した。
不由の手を握ったままだった。
子供は相変わらず下を向いているために、表情を読み取ることは出来ない。それでも子供が先程来、部屋にたどり着くことを無言で拒否していた原因そのものが、歩いてくる足音にあるのか、さもなければ今から扉を開けるであろう人物にあるのは自明の理であった。母親か、それとも父親や家族か、全くの他人である可能性は否定できるであろうか。
不由はこれから開かれる扉を凝視しながら推測をした。扉の向こう側で金属が外される音がした。扉の際に縦に長い亀裂が入り、その亀裂が徐々に横幅を広げていった。室内に電気は点けられていないように見える。明るさが漏れるというよりも、廊下を照らす電灯の光が、扉の隙間からにじみ出る黒色に打ち消されていくように錯覚した。
やがて開かれた扉の向こう側に、不由も幾度か見かけたことのある中年女性の顔が覗いた。中年などとは失礼な話か。不由とほぼ同年齢のはずである。しかし女性は身体から活力と呼ばれるような、いわば不由がそれなしには刑事としての仕事をしては行けないであろうものが、欠落していた。それがために、女性は実年齢から十程度年嵩のように見えてしまっていた。
「あらこんにちは……ええと……敦賀さんでしたかしら」
どうやら女性、つまり子供の母親である渡辺は自分のことを知っていたようだ。それほど顔を合わせた事などなく、況してや会話など数える程度した交わしたことが無いのにも関わらず。このマンションには個人名と写真を記載した名簿でも出回っているのであろうか。想像した不由は寒気がした。
「敦賀です、何度かお目にかかっていたかと」
「そうですね、ご挨拶は。それで今日はどのような……」
渡辺の人のよさそうな顔が、困ったように眉根を寄せた。渡辺は肩甲骨あたりまである黒髪をひっつめにしている。化粧はしておらず、今日はこの時間まで外出はしなかったのであろうことが見受けられた。それは服装にも現れており、意味のわからない英語がプリントされているティシャツに薄い緑色をしたカーティガンを羽織り、鼠色をしたスウェットのズボンを穿いている。
渡辺の様子を観察していた不由は、彼女の様子に疑念を感じる。
どのような、と渡辺は言った。いま不由の手を握ったまま微動だにしない子供が、見えないとでも言うのであろうか。しかし渡辺が開いた扉は不由の全身も、その後ろに隠れるようにしている子供の姿も、渡辺の視界に入る程度に開かれていたはずであった。ならば突然に訪れた不由に対する驚きから、不由以外へ視線を転じることが出来ずに子供を見逃していたのだろうか。それについては不由は違うと断言出来た。扉を開けた瞬間、渡辺の瞳が下方へ転じ、子供を確認してから不由への挨拶を口にしたのを知っていたからだ。この女は何故、どのような等と口にしたのか。何かが、おかしい。間違い探しの絵で、最後の間違いのひとつがどうしても見つけられないような苛立ちを不由は感じた。
「詳しい事情は知りません。この子を商店街の交番で見かけたものですから、こちらのお宅まで届けるように警官に頼まれました。ご迷惑でしたでしょうか」
簡単に伝えた。それ以上でもそれ以下でもないのであるから、当然のことであった。子供を連れて来るまでに感じた様々な違和感は不由の想像の範疇を出るものではない。それを伝えることは、有りえない。
「まあ、そうだったんですか。ご丁寧に、さ、佑介お礼をして、ね。早くお家に入って」
言った渡辺に反応するかのように、佑介と呼ばれた子供の全身から力が抜けたようだった。先程まであれほど力強く不由の手を握っていた力は一瞬にして溶けた。子供の手は、不由の身体から離れ、そして玄関から手を伸ばしていた母親である渡辺の手によって繋がれる。
子供は俯いた顔を、一時だけ不由に向けた。
どうして欲しいんだ、して欲しいことがあれば、言えばいい、と不由は心の中で願ったが叶わなかった。
子供は「ほら、お礼して」と言った母親に頭を押さえつけられ、無理やりのような形で不由へお辞儀をした。そしてそのまま、不由の前では二度と顔を上げることもなく室内へ消えていった。渡辺はマニュアルでも用意していたのではないかと疑いたくもなる言葉でお礼を述べた。
この女の声が聞きたいわけではない。
子供が何を伝えたかったのか、それを不由は知りたかった。
母親によって無理やりにお辞儀をさせられる前の一瞬、不由を射抜いた子供の視線は、捉えようによっては不由の不作為を糾弾するものだった。
同時に、それを越えた懇願の瞳が混ざり合っていたようにも思えた。何を、自分に対して期待していたのであろうか。子供の瞳を追いかけたい不由の目の前で、扉は閉められた。そしてすぐさま、室内から鍵をかける音、チェーンをはめる音が聞こえる。
季節外れに、全身を覆うように着ていた服、何を隠したかったのか。外的要因によって出来たであろう頬の赤み。逃げ出すようにして交番に入った子供。家へ帰ることを拒否しているような態度。精神的なショックからか言葉を発せない、何のショックなのか。
閉じられた扉の前で動かずに居た不由の耳に室内から、まるで高所からボーリングの玉が落としたような音が聞こえた。間をおかずに女性特有の鼓膜を破るような高音の喚き声が聞こえた。だからといって、自分には何も出来ないはずだ。他人の、たまたまマンションで同階であっただけの家族の問題に自分が関わるべきことなど有り得ない。不由は扉の前を後にして、自分の部屋へ向かい廊下を歩いた。
このとき、不由の脳裏には既に「実親による児童虐待」という言葉が浮かんでいた。




