薄闇の向こう
王都ケテルゼナンテに着いたのは、翌日の夜明け前だった。
帝都と同様、重厚なうえに異様に高い城壁。
上空には、結界の光がかすかに瞬いている。
見るかぎりでは、結界に綻びはない。
「ペトロトリを確認しなければはっきりとは言えないが、この結界ならばヴェムネルの爪牙を通すことはないだろう」
結界を見上げるユーリが、力強く言う。
その言葉に、アリアたちは心の底から安堵し、解放感に包まれた。
聖護騎士と、王国騎士たちも歓喜の声をあげる。
先刻までの緊張感はすっかりと溶けて消えた。
ところが、その歓喜は長くつづかなかった。
ヴェムネルの群れを見るために城壁を登ると、衛兵たちが騒いでいる。
衛兵のひとりがアリアたちに気付き、薄闇の北東を指差した。
「……あれ、山……ですか?」
衛兵が指差した先を見て、皆が息を呑む。
ヴェムネルの群れが見えるはずの方角に、山のような巨大な影が見えた。
しばらく見ていると、その山がわずかに左右へ揺れる。
山の周囲もなにかが蠢き、慌てて飛び立つ鳥の群れが、異常のすさまじさを宣わっていた。
「衛兵! あの山はいつからあそこにある!?」
王国騎士のひとりが叫ぶ。
衛兵たちが慌てふためき、首を横に振った。
「昨日は確かに在りませんでした! 夜闇が薄れてようやく今、気付いたのです!」
「まさか、ヴェムネル……か? あれが!? これまでの報告では、あんなもの聞いていないぞ!」
慌てふためく騎士たちが、顔面蒼白となっていく。
わずかに理性を保っていた何人かが、報告のために王宮へ駆けていった。
アリアたちは、辺りをより広く見渡せる城壁の高楼へ案内された。
そこからの景色は圧巻で、ケテルゼナンテの周囲をぐるりと見回せる。
巨大ヴェムネルらしき山も、先ほどよりはっきりと見えた。
するとネフェリとエリーが首を傾げる。
「どうかしたか」
気になったユーリが、ふたりに声をかけた。
するとふたりは首を傾げたまま、巨大ヴェムネルらしき山を指差した。
「ほんの少し、角度が違う気がして」
「なに?」
「真っ直ぐこちらへ向かっているようにも見えるけど、あの山の左右の揺れ……ちょっとズレてるというか……」
エリーの言葉に、ユーリとアリアは改めて巨大ヴェムネルらしき山を見た。
言われてみれば、たしかに真っ直ぐこちらへ向かっているようではない。
わずかだが、東側へ傾いている。
「……もしや、ヴァントールに……?」
高楼へ案内してくれた王国騎士が、呟いた。
「ヴァントール?」
「旧王都の、ヴァントールです。ケテルゼナンテのすぐ南にあるのですが」
答えた騎士の指差す先に、薄闇の森と霧に包まれた街があった。
王都ケテルゼナンテとは、短い街道で繋がっている。
旧王都なだけあってずいぶん広大だと、アリアは思った。
聞けば、まだ千数百もの人がそこで暮らしているという。
「……あれって」
ヴァントールの姿を見て、アリアは眉根を寄せた。
アリアだけではない。
ユーリも、エリーたちも同様だ。
「……結界が、ほとんど……ない」
エリーが声を震わせる。
それほどに、ヴァントールを包む結界の状態は劣悪だった。
綻んだ結界の特徴である波打つような煌めきが、ひどく歪んでいる。
ところどころに穴が開いているのか、結界の光がそこから溢れ、空に向けて拡散していた。
「あれでは、道中にあった集落のほうがマシですわ……」
「……普通のヴェムネルでも、耐えられないかもしれないのに」
翻り、北東を覗く。
巨大ヴェムネルらしき山と、その周りにいるヴェムネルの群れ。
仮にあの山がヴェムネルでなかったとしても、その周りにいる群れがヴァントールを踏み砕くだろう。
そうならないよう、できることはないのか。
「……不幸中の幸いというべきか、あの群れの進みは遅い。あのデカいやつの足に合わせているんだろうな。とはいえ……なにもしなければ、日が高くなる前にはケテルゼナンテ前まで押し寄せてくるだろうが」
そう言ったユーリが、周りの騎士たちを下がらせるようネフェリに伝えた。
現状を考え、最悪の決断を下す可能性もあるからだ。
騎士たちが皆去ったあと、ユーリが目を細めて小さく唸る。
「はっきりわかっていることは、今の俺たちの実力で、あの山みたいにデカいヴェムネルをどうにか倒すというのは無理だということだ」
「追い払うのも……」
「無理だろう。足を鈍らせる程度ならできるだろうがな」
断ずるようにユーリが言った。
アリアは顔をしかめる。
「王都の結界は……あの巨大なヴェムネルを防げるでしょうか?」
ヴァントールの人々が危機を察して逃げる先の候補は、当然ケテルゼナンテだ。
ケテルゼナンテの結界が耐えられなければ、すべての人々は森の中へ散り散りに逃げる他ない。
「俺の見立てでは、おそらく耐えられる」
「本当ですか……!?」
「無論、結界の更新は必要だが……この王都の結界は元より強固だ。まず間違いない」
そう答えたユーリの視線が、ケテルゼナンテの王宮へ向いた。
王宮には非常に高い塔がひとつ建っていた。
その塔の先端に、紅く輝く光がある。
間違いなくあの光が、この都市のペトロトリだろう。
「でしたら、今すぐにヴァントールの人々を避難させるべきですわ。あの地で結界を張るには、おそらく時間が足りないのでは?」
ネフェリがユーリに向く。
ユーリは顔をしかめ、頷いた。
「あれを完全に直すには、少なくとも二日はかかる」
「完全でなければ……?」
「不完全な結界で、あの巨体を防ぐのは無理だ」
期待を砕く、ユーリの冷徹な言葉。
不明瞭な返答では判断を鈍らせると、あえて強くひびかせたようだ。
すると、エリーが顔を青くさせた。
「……もし避難が間に合わなかったら……?」
エリーの声が、震えて落ちる。
逃げ遅れた人々は見捨てることになるのか、と。
その声を掬いあげるように、ネフェリが首を横に振った。
「上手く避難が進めば誰も死なずに済む」と、エリーを宥める。
ところがエリーに、ネフェリの言葉は届かなかった。
むしろ頑なになり、避難以外の道を探そうと必死になっている。
その様子は、ひとりの犠牲者も出したくないアリアの目から見ても、少し異様に映った。
ここではない、どこか別のものを見て怯えているようにも見える。
エリーの様子に、皆を助けたいというアリアの想いは強くなった。
アリアは青ざめるエリーにそっと寄り、手を握る。
「……見捨てないです。エリー。絶対に」
「でも、アリア……」
「倒せばいい。……倒してみせます、私が……あの怪物を」
アリアは目を見開き、迫りくる山のような巨大ヴェムネルを見据えた。
目端に、ユーリの姿を映して。
未だユーリとは、不和な関係がつづいている。
しかしアリアは心のどこかで、彼を信じていた。
ユーリは冷徹だが、残酷なわけではない。
強い正義感を持ち、多くの人を救いたいという想いは持っている。
(……だからきっと、みんなを救えるって、言ってくれるはずよ)
アリアは願った。
ヴァントールの人々を救うあらゆる手段を、ユーリが示してくれることを。
(……そうしてくれたら、この命を懸けてでもあの巨大ヴェムネルに立ち向かってみせる)
祈るように剣を握った、次の瞬間。
アリアの期待は、ユーリの短い言葉によって砕かれた。




