みすぼらしい娘
ゴトン、と。
馬車の揺れに、アリアは目を覚ました。
首にかけていた古めかしいペンダントが、視線の端に揺れている。
誰に貰ったかよく覚えていない、月を模したペンダント。
思い出そうとすると、いつも靄がかかって記憶に蓋をする。
それでもアリアは、大事な物のような気がして、月のペンダントを肌身離さず持っていた。
馬車の木窓から、ファズラベル帝国の都イーゼラウムが見える。
イーゼラウムを囲う強固な城壁に、アリアは右手をかざした。
その右手の甲には、花の痣があった。
(……私が、聖女だなんて)
古来より、身体に花の痣が浮かびあがった者は、聖女とされていた。
アリアは聖女などに興味はなかったが、父に促され、帝都に向かっている。
揺れる馬車の中。
自らの姿を見て、何度も引き返そうと思った。
アリアは帝国辺境の貧しい家の生まれで、みすぼらしい服を纏っていた。
長い黒髪はざんばらで、垂れた前髪がアリアの顔を隠すほど。
およそ聖女とは思えない姿だ。
(……でも)
いかに自らを否定しても、聖女であることを隠して生きることは、罪とされていた。
聖女を選ぶのは、世界の意思。
世に邪悪の影が広がりはじめると、伝説の聖物「ゼハネの魔法人形」が覚醒し、七人の守護聖女が花の痣を受ける。
魔法人形と守護聖女だけが、世界を蝕む邪悪の怪物「ヴェムネル」を撃ち払える光となるのだ。
アリアには、帝都に向かう他に道はなかった。
帝都にある神殿には、聖女の真偽を見極める術があるという。
この花の痣が偽物と判断されれば、それでいい。
そう思っていた。
帝都イーゼラウムの門に辿り着くと、馬車の乗客は皆降ろされた。
アリアは城門と、高くそびえる城壁を見上げる。
高さだけでなく、異様な厚みと堅牢さ。
人の軍勢との戦いを想定しているのではないと、世情に疎いアリアでさえわかった。
邪悪なる怪物ヴェムネルの襲撃を防ぐための、堅牢な城壁なのだ。
「これが……帝都……」
思わず感嘆の声を漏れる。
厳めしい城壁の内にある帝都の華やかさは、別世界だった。
行き交う人々は垢抜けていて、アリアと同じ人間と思えないほど煌めいていた。
ふと、周囲からひそひそと囁く声が聞こえる。
右往左往するアリアを見て、人々が嘲笑っているようだった。
アリアを田舎者と見ているだけではない。
みすぼらしい姿に目を細め、蔑んでいた。
アリアは苦々しい表情で、好奇と嘲りの入り混じった視線へ睨み返す。
すると多くの者が怯えたようにぴたりと口をつぐんだ。
アリアは片眉を上げて鼻を鳴らし、意気揚々と帝都の只中を進んでいった。
「ロクナンド神殿、ですか」
聖女のための神殿について尋ねて回るうち、何人かがその神殿の名を口にした。
他にも神殿はあるらしいが、聖女の痣を持つ乙女は皆、そこへ向かうのだという。
アリアも同じようにその神殿へ向かおうと、足を進めた。
ところが神殿に近付くにつれ、これまでにないほどの厳しい視線がアリアに突き刺さる。
ロクナンド神殿の周囲は、帝都の外れよりもさらに華やかで、厳かな雰囲気を纏っていた。
そこに住まう人々もまた、身分の高さが窺える者ばかりだ。
アリアのような貧しい外見の者など、ひとりもいなかった。
ロクナンド神殿の荘厳な門前。
数えきれないほどの多くの女性が集まっていた。
人の多さを前にして立ち尽くしていると、甲高い声に呼び止められた。
「そこの貴女」
振り返ると、華美なドレスを纏った数人の女性が、アリアを指差していた。
彼女たちの目は、泥で汚れた犬か猫を見るような強い侮蔑を宿していた。
「どこか遠くの村から迷い込んでしまったのかしら」
「……違いますが」
「本当に? 貴女のような人は、ここにはひとりもいないのだけど?」
「……私は、聖女について話を聞きに来ただけです」
「聖女ですって?」
「……そう言いました」
「それは私たちのことです。なにか聞きたいことがありまして?」
甲高い声の女性が、アリアを見下すようにさらに目を細め、微笑みを浮かべながら、自らの右手を見せた。
彼女の右手の甲にも、色鮮やかな花の痣があった。
しかしよく見ると、それは絵の具のようなもので描かれた偽物だった。
「……これが、聖女の証ですか?」
アリアは訝しんだ表情を隠すことなく、唇をゆがめる。
すると甲高い声の女性が叫んだ。
「なんと無礼な娘でしょう! 聖女である私たちに、いえ、高貴な貴族である私たちに、そのような態度を取るなんて」
甲高い声の女性が、アリアの頬を打った。
突然の暴力に、アリアは防ぐ手も上げられずに倒れ込む。
石畳の地面に叩きつけられた頬が熱く、視界が歪んだ。
口の中に、鉄の味。唇の端から、一筋の血が流れ落ちる。
その光景を、貴族の娘たちは冷たい目で嘲笑っていた。
その時、彼女たちが、地に伏すアリアの右手を指差した。
晒されていたアリアの右手の甲には、聖女の証が浮かんでいる。
咄嗟に隠したが、彼女たちは声高に嘲笑いだした。
「あははは! なんて烏滸がましいこと! お前のようなみすぼらしい娘が聖女を自称するなんて!」
浴びせられる、悪意。
アリアは地面に伏したまま、奥歯を噛み締め、その屈辱に耐えた。
「お前のような粗野な娘が聖女になれるはずもないでしょう? 聖女に選ばれるのはね、相応しい乙女だけなの。私たちのように、高貴で、美しくて、慈愛に満ちている者だけが、ね?」
そう言い切って、甲高い声の女性がアリアの手に何かを握らせた。
固い感触。
見てみると、手のひらに銀貨が一枚。
「そのお金で、故郷へ帰りなさい。余りは差し上げるわ」
貴族の娘たちが再び声高く笑う。
その罵声に、アリアは顔を歪めた。
悔しさだけではない。
慈愛の欠片もない彼女たちが聖女を名乗っていることに、激しい嫌悪感を覚える。
しかし同時に、諦めに似た感情がアリアの心を縛った。
(……やっぱり、私なんかが……聖女だなんて)
視線の先に、右手の甲にある花の痣。
土に汚れ、薄っぺらく見えた。
アリアは立ち上がる気力を失い、頭を垂れた。
その様子に満足したのか、貴族の娘たちはアリアに背を向け、ロクナンド神殿の中へ消えていった。
(……もう、帰ってしまおうか)
アリアは項垂れたまま、目を閉じた。
右手の甲にある花の痣が、瞼の裏に焼き付く。
恨めしさに、右手を地面に叩きつけた。
直後、アリアの傍に誰かが駆け寄ってきた。
また性悪の貴族の娘たちだろうかと、アリアはぞくりと身震いする。
「……あ、あの……大丈夫ですか……?」
緊張するアリアに、ふわりとした優しい声が注がれた。
アリアは驚いて、はっと顔を上げる。
目の前に、心配そうな表情でアリアを見つめる金髪の少女がいた。
彼女も、身に纏う華美な服を見る限り、貴族の娘のようだった。
しかし先ほどの女性たちとは全く違い、慈しみが溢れでているような温かい雰囲気を感じた。
「あ、その……」
「け、怪我は、ありませんか??」
「え、いえ、はい……」
「あ……あ! 手、その手! 血、血が出てます!?」
「え、え……?」
少女の視線が、アリアの右手に向けられていた。
たしかに、アリアの右手は血が滲んでいる。
先ほど、怒りに任せて地面に叩きつけたからだ。
「こ、これは、自分で……」
「あの人たちがしたの??」
「え、や、違……」
「とにかく! 早く手当しないと!」
少女が慌ててアリアの腕を掴み、手を引くまま、ロクナンド神殿の前庭にある泉へ向かう。
そこにも多くの貴族の娘たちがいて、アリアを蔑むように見ていたが、どうしてか、先ほどのように突っかかってくることはなかった。
前庭の泉で、少女が水を汲んできてくれた。
アリアはその水で、右手の血と土汚れを洗い流す。
「……これ、聖女の痣……?」
少女が、アリアの右手の甲を見ながら言った。
今更隠しようもないと、アリアは小さく頷く。
すると少女は、「エリー」と名乗り、自らの右手を見せた。
エリーの右手のひらには、アリアと同じ花の痣があった。
「……それって」
「私も、貴女と同じなの」
「そ、そう、なのですか……」
「心配しないで。私はあの人たちみたいに、貴女に手を上げるつもりなんてない。むしろ、貴女の仲間だと思ってほしくて」
エリーの優しい声音が、アリアに触れる。
顔を上げると、エリーの澄んだ瞳と目が合った。
嘘偽りなどない。
本当に美しい心の持ち主なのだとアリアは知り、エリーに感謝するのだった。




