ヴェムネル
聖女の秘術は、原初の魔法。
魔法使いたちの魔法とは違い、原初の魔法は「七つの属性」を扱う。
「その七つの属性は、火、風、水、土、雷、そして光と闇です。そこまでは学んでいますわね」
サンクトロ王国へ向かう馬車の中。ネフェリの艶っぽい声がひびく。
出立式前日の約束通り、ネフェリはアリアのために授業を開いてくれていた。
おかげで、サンクトロ王国までの長い旅の最中、暇にはならない。
隣で疲れて眠っているエリーには、酷なようであるが。
「わたくしの属性は『水』です。ほら、このように」
そう言ったネフェリが、両手のひらを広げる。
すると手のひらの上に、水の球体が生まれた。
ネフェリの思う通りに操ることができるという。
「……すごいです。これが、聖女の秘術……」
「これはコツさえつかめれば難しいものではありません」
「そうみたいですね……エリーも神殿での授業ですぐに『土』の力を使えるようになっていました。……でも、私は」
「上手く力が使えなかったと……?」
「……はい」
アリアは声を沈ませる。
未だアリアは、聖女の秘術を使えずにいた。
訓練用の杖を光らせることはできても、それ以上のことがどうしてもできない。
ところがエリーは、神殿での五日間の授業ですぐに土の塊を生みだし、操ることができていた。
「……生まれの違いが、関係するのでしょうか……」
「そんなことはありませんわ。もしかすると、属性に問題があるのかもしれません」
「属性に……? それって、どういう――」
アリアは首を傾げた、直後。
馬車が大きく揺れた。
同時に、御者が叫び声をあげる。
「わ、きゃ、あ!!?」
眠っていたエリーが座席から転げ落ち、目を覚ました。
アリアはエリーを抱き支え、馬車の窓に目を向ける。
「あ、あれは!?」
「いったい、どうしたのです!?」
ネフェリもいつもの落ち着きはさすがに無く、慌てて窓の外を見る。
遠くに、土煙が上がっていた。
その土煙はひとつではなく、ふたつみっつと増えていく。
土煙が増えるたび、大地が震え、馬車は大きく揺らいだ。
「……ヴェムネルだ!」
御者台にいたユーリが立ち上がり、声をあげた。
アリアたちは驚き、ユーリの目線の先へ向く。
遠目からでもわかる、異様な猛獣の姿があった。
禍々しい狂気を放つそれは、人よりも大きな身体で、一歩踏み出すたびに地を揺らす。
全身から無数に生えた角は、悪意そのもののように天を衝いていた。
爪と牙は赤黒く、大きな口から吐きだされる赤い息は、大地を焼いているように見えた。
「あそこ! ヴェムネルが馬車を襲っているのではありませんか!?」
ネフェリが声をあげた。
見ると確かに、ヴェムネルからやや離れたところを駆ける馬車が見えた。
「助けなくては……!」
アリアは窓から身を乗り出す。
しかしすぐに、馬車の外にいたフィナスに押し留められた。
「危険です、アリアさま!」
「ですが……!」
「あのヴェムネルはまだ小さい。それでもあの大きさで、村ひとつくらいは滅ぼせるのですよ」
「……そ、そんなに……なら、なおさら、あの人たちを助けないと!」
アリアはフィナスに向かって叫ぶ。
ヴェムネルを撃ち倒す力があるのは、魔法人形と聖女だけなのだ。
しかしフィナスが顔をしかめ、首を横に振った。
「危険とわかっていて、行かせられません」
「今一番危険なのは、あそこにいる人たちです!」
「アリアさま……わかってください」
フィナスが再び首を横に振る。
彼は知っているのだ。
旅の出立が急遽早まったことで、ユーリとアリアたちの実力が乏しいことを。
本来であれば、出立の前に、聖女の秘術の訓練が十数日と行われるはずだった。
そうすることで、ヴェムネルと戦えるほどの実力を備えることができる。
しかしアリアたちが聖女の秘術の訓練をしたのは、五日間の授業の中でたったの一日。
属性の力をわずかに扱える程度の未熟さで、旅に出たのである。
「……アリア、私たちでは……まだ……」
エリーが不安そうに声をこぼした。
その声は、諦めに似た感情を宿している。
瞬間、アリアは馬車の扉を開け放つ。
「それでも、私は……!」
恐怖を押し殺し、アリアは駆ける馬車から飛びだした。
馬車が速度を保ったまま走る中、足元に砂利が走る。
転がった石が馬車の車輪に弾かれ、頬をかすめた。
かまわす、アリアはヴェムネルに向かって走った。
ヴェムネルを追い払えるかどうかなど、考えてはいない。
ただ、助けたい、その一心だった。
「あいつ、イノシシかなにかか!?」
御者台にいたユーリが叫んだ。
まさか単身で勇ましく飛びだしていくとは思わなかったのだ。
車内に残っていたエリーとネフェリも、ぽかんと口を開けている。
ユーリはすぐさま、馬車の向く先をヴェムネルへ向けさせた。
「アリアの後を追う! エリー、ネフェリ。突然で悪いが覚悟を決めてくれ!」
「戦うの!? ヴェムネルと!?」
「やるしか、ない。俺の……魔法人形の力で、なんとかする……!」
ユーリは、拳を握り締めて言う。
それならと、エリーとネフェリは意を決して頷いた。
それを確かめて、ユーリは馬車の速度を上げさせる。
先に駆けて行ったアリアの姿は、すでにヴェムネルへ迫っていた。
(……間に合って……!)
アリアは、祈りながら走っていた。
目の前に、ヴェムネルと、ヴェムネルが襲う馬車の姿。
馬車の後ろには、護衛らしき男がふたり、馬で駆けていた。
しかし彼らの目にはすでに、戦意がなかった。
襲いかかるヴェムネルの禍々しさに気圧され、屈している。
「もっと速く、逃げて!!」
アリアは叫んだが、その声は虚しく掻き消えた。
ヴェムネルが振り降ろす腕に、護衛の男たちは一瞬で叩き潰される。
その光景を目の当たりにして、馬車の中にいる人々が悲鳴をあげた。
「……っ、う」
アリアは顔を歪ませる。
大地に、潰れて息絶えた男たちの、無残な死体。
一撃も抗えなかった剣が、血肉の中に転がっていた。
アリアはその剣を拾い上げ、ヴェムネルに向かって叫ぶ。
馬車ではなく、こっちを向けと、懇願するように。
それでも、ヴェムネルはアリアに向かなかった。
再び腕を振り下ろし、馬車の車体後部を抉るように破壊した。
「……あ、あ!」
破壊された車体の破片の中に、人の姿があった。
絶望に満ちた目が、アリアに向けられていた。
目が合った瞬間、ヴェムネルの非情な追撃が、その人の身体を叩き潰した。
「や、やめ、て!!」
アリアは必死に駆けながら、剣を構えた。
ようやく追いついたヴェムネルの背に斬りつける。
「ギ、ガ、ガギャ、ガガ!!」
ヴェムネルの叫び声が、鼓膜を震わせる。
しかし、剣はヴェムネルの全身を覆う角に阻まれ、深くは斬れなかった。
ヴェムネルが睨むようにしてアリアに振り向く。
瞬間、寒気が全身を駆け巡った。
異形で巨躯の怪物を前にして、はっきりとした恐怖が、鉛のようにアリアの全身を重くする。
手足がすくみ、呼吸すらままならない。




