第二章 隠れた存在-1
「部屋を出たほうが良い」
「え?」
幸人の先を行く英治が振り返らずに言った。
あの夢の中のような乱闘を繰り広げた展示場から走ること三分、幸人は英治の猛烈なスピードについていくのがやっとだった。体力の限界を感じ始めた瞬間、英治は初めてその脚を止めた。
息を整えてから胸中の数々の疑問を口にする前に、先手を打たれて幸人はその一単語を言い返すのがやっとだった。
「そうね」
次は声を返す余裕がなかった。幸人が振りかえるとそこには沙羅が立っていた。幸人が膝に手をついて肩で息をするほどの全力疾走だった。前を行く英治が涼しい顔をしているのはともかく、目の前の少女は汗一つかいていない。直接確かめたわけではないが、沙羅も自分の後ろからついてきたはずなのに。
「……あ、あの、君達はいったい……それに、あれは……」
まだ激しい息を整えながら声を絞り出す幸人。
「いずれゆっくり話す。先に、部屋に行って荷物を取りに行く」
「それと、調べ物も」
二人はそれきり口をつぐんで歩き出した。幸人は何か言葉を返そうとした。実際、口だけは開きかけたが、それはすぐにあきらめのようなため息に変わった。沙羅はともかく、いつもは軽い口調の英治が目つきまで鋭くなっていたからだ。
一分もせずに自宅アパートに着いた。
二階建ての階段を上がって一番奥が幸人と姉の部屋だ。
「鍵を」
それだけ言って英治は幸人の差し出した鍵を受け取る。
ノブに軽く触れ、それからゆっくりと鍵を差し込んで廻す。
その間、沙羅は扉に背を向けるようにして周囲をうかがう。
幸人はただ見守るしかなかった。自宅でありながら、入り込めない雰囲気があった。
「一分待って」
声だけを残し、ドアをほんの少し開けた状態で英治が踏み込んだ。入る、と言うより踏み込むという表現が適切だった。
「OK」
きっかり一分後、英治の声が聞こえた。幸人よりも先に沙羅がドアを開け、首をかしげて部屋に入るように促した。普通なら小生意気にも見えるその仕草に押されるように幸人が部屋に入り、最後に沙羅が周囲を一瞥してから部屋に入った。
昼間だというのに薄暗い。出る前にかけておいたベランダのカーテンを引けば良いのだが、そのカーテンの下で英治が膝をついて床に視線を走らせている。
近寄りがたい雰囲気に躊躇している間に、沙羅が声をかけた。
「着替えと身の回りの物を用意して。バッグ一つに納まるようにね。出来ればデイバッグで。なければショルダーバッグでもいいから。十分以内に」
「う……ん」
幸人の返事を待たずに、沙羅は台所に面した窓を調べ始めた。
二人に声をかけることはあきらめて、幸人は自室で荷物をまとめ始めた。
着替え、洗面用具、筆記用具などを押入れにあった少し大きめのデイバッグに詰め込む。
まだ何か用意する物は、と部屋中に視線を巡らした時、本棚の一番端に収めている物で視線が止まった。
「アルバム……」
アルバム、と言っても家庭で保存するようなハードカバーの大判ではない。焼き増しの際に店からもらえる安物のフォトアルバムが一冊。
幸人はほぼ無意識にそれを手にとった。さほど観光気分で写真を撮ることも少なかったため、今まで撮影した写真がこの一冊に収まっているはずだ。
姉と自分の思い出が。
「幸人さん」
アルバムを開こうとした指は、感傷にひたる前に背後からかけられた声に動きを止められた。
「用意、出来たよ」
時間が来たのかと思い、急いでアルバムをバッグに押し込んで返答した幸人。
「こっちへ」
しかし、沙羅の言葉とかしげた首は玄関とは別の方向を指していた。
バッグを手に向かった先に、英治の直立不動の姿があった。
電話を見下ろしたままで。
「幸人君」
視線は下を向いたままだ。
「はい」
「留守電、クリアしてないよね?」
「ええ」
姉の声を消したくなかったから、と心の中で付け加えた。
「あれ以来、留守電は?」
「いえ、全然」
「留守中に入ったようだ」
「あ……」
電話の液晶ディスプレイを見た。
留守電件数が三件に増えていた。
確認を、と横にいた沙羅の視線がそう言っていた。
幸人は再生ボタンに触れた。
一件目。
姉の『帰りが遅れる』と言う伝言だ。元気な姉の声。懐かしくさえ感じる声。
二件目。
『逃げて』の一言。今まで幸人も聞いたことのない切迫した姉の声。
そして、三件目。
『……幸人』
「姉さん!?」
間違えようが無かった。それは姉の声だった。
そして、先の二件とも違う姉の声が聞こえてきた。
『御免ね、心配かけて。でも、もう大丈夫だから。それより、大事な話があるの。明日、夜十時に、横須賀の久里浜港に来て。一度、ドライブで行ったことあるでしょう……詳しくは着いたら私の携帯に電話して……待っているから』
そこで録音は終わった。
ディスプレイに表示されたのは、間違い無く姉の携帯の番号。
「ちっ」
受話器を取りながら幸人は自分の運の無さを呪った。もう少し早く帰って着ていれば姉と話せたのに。
リダイヤルしたが、また電話は繋がらなかった。ついさっきなのに、なぜ? という疑問ともう一つの疑問が頭に浮かんだ。
間違い無く姉さんの声だ。でも、どこか雰囲気が違っていた。最初に自分の名前を呼んだ個所では、なんとなく姉の安堵のため息が聞こえてきそうな口調だった。なのに、それ以降はまるで感情がこもっていなかった。
姉さんは一体――
「時間よ」
沙羅の声が幸人の思考に突き刺さった。
その声は、姉の声と同じく無感情だった。