第一章 消えた姉-2
汗は急速に引いていった。
それが日陰とコンクリート壁の閉鎖空間のためだと幸人は思っていた。
最初は。
が、狭い階段を3階まで上がりきった時には、それ以外の原因があるのではないかと感じていた。
黒崎探偵事務所
明朝体で書かれたプレートが、目の前の扉に貼ってあった。
間違い無い、ここだ。
そして、一番冷気を感じるのもここからだ。
温度ではなく、何か別の感覚が皮膚に伝わってきた。
決していやな感じではないが、何か異質なもの。
(……昼から出ないよな)
何となしに数日前にテレビで見た心霊特集が頭に浮かんだ。
「まさかね」
そう言い聞かせるように呟いてから、幸人は脇のインターホンに手を伸ばした。
ドアの奥でチャイムが鳴る音が聞こえた。
「……」
十秒ほど待ったが、反応が無い。
もう一度手を伸ばしかけた時、ドアが音も無く開いた。
その唐突さに半歩退いた。
「え?……いない?」
誰もいなかった。半分開いたドアの向こうにすりガラスのついたて衝立が見えた。が、それだけだった。
またあの心霊特集が頭に浮かんで、幸人はさらに半歩退いた。
「……ここよ」
「ひっ!?」
下のほうから上がってきた声に、跳び上がりそうになりながら視線を向けた。
そこには――少女が立っていた。
自分から半歩と離れていないところで、少女が彼を見上げていた。
身長一八〇近くの彼の胸より下のところに、少女の頭があった――長い黒髪の。
黒髪は、持ち主の腰辺りに達し、ほんの少し天然パーマがかかっているのか、先に行くほどわずかにウェーヴを描いていた。その黒髪に埋もれるように何か細かい細工を施した銀色のカチューシャ。
よほどの色白なのだろうか、透き通るような白い肌と、それと対照的な深く黒い瞳。高くは無いが形の良い鼻と薄い唇、すっと通った眉。
絵に描いたような美少女――幸人にはそれしか表現が浮かばなかった。
身長からすればまだ小学校中学年ぐらいだろう。が、かわいい、というよりは美しい、という雰囲気が目の前の少女にはあった。
この暑いのに、膨らみを持たせた紺色のワンピースにフリルのついた前掛け。見ているこっちが暑くなる格好――のはずが、幸人にはその反対の感覚しかなかった。
ドアを開けてから、先ほどまで感じていた冷気が増したのを感じたからだ。冷房かとも考えたが、ここに温度計があったとしても外との差はほとんど無いだろう。それだけはわかった。
まさか、幽霊――
しかし、おろした視線の先には二本の足がついていた。途中、右手に何かフリルのついた白い布のようなものを手にしていたのが気になったが。
そういえば、この格好、どこかで見たことあるような――
「……あまり感心しないわね」
「え?」
視線がまた戻った。
「そうじろじろ見るものじゃないわよ」
「あ、す、すみません」
端から見れば滑稽だっただろう。大学生の青年が小学生の女の子に敬語で謝っているのだから。
だが目の前の少女の言葉使いはどことなく大人びていた。いや、大人そのものであり――そして有無を言わぬ冷たさがあった。
「用が無いなら閉めるけど」
素っ気無く放たれた言葉と同時に、ドアが閉まりかけた。
「あ、待って」
慌てて閉まりかけたドアを手で押さえる幸人。
その彼に向けられた少女の視線は――やはり素っ気無かった。
「ここ、探偵事務所だろ」
「表札が見えない?」
「だったら、依頼したいことがあるんだけど……」
少女の言葉を肯定と捉えた幸人だったが、そこで言葉が詰まった。
何で探偵事務所に子供がいる?
どうみても彼女は探偵には見えなかった。どこかのマンガではあるまいし。
「英治、クライアントよ」
幸人の疑問に答えるかのように、少女は奥に向かって声をかけた。
「……あ~? 沙羅? 何だって?」
ついたて衝立の向こうから聞こえた男――英治――の声は、明らかに寝ぼけていた。
「クライアント」
沙羅と呼ばれた少女が奥に視線を向けて答える。
「クライアント? じゃ、罰ゲームの見せしめにゃちょうどいい。ちゃんとあのカッコしてるだろうな?」
「……ええ」
無表情の中にもどこかいらだたしげに、沙羅は手にしていたものを頭に被せた。
「あ……」
幸人はようやく気がついた。どこかで見た格好だと思ったら、マンガやアニメで出てくる『メイドさん』の衣裳だったのだ。
しかし、罰ゲームっていったい? という幸人の疑問とは関係なしに少女と目に見えない相手との会話は続いた。
「それより、どうするの? クライアントが待っているわよ」
「パスパス、俺は忙しいの。新規の仕事はしばらく無し」
どう聞いても忙しくなさそうだ。単に面倒くさい、それしか口調からは伝わってこなかった。
「お願いします。最初に頼んだところからここを紹介されたんです」
幸人は見えない相手に訴えた。
「だったら余計やだね。そんな余りもの、俺によこすなっつーの」
「で、でも……」
「いいじゃん、他あたれば。ここに来たみたいに」
二人のやり取りを見守っていた沙羅が、幸人に向き直った。
「お兄さん、ちょっと……」
沙羅が人差し指で幸人を招き寄せた。そんな仕草、普通の子供がやれば生意気なだけだが、目の前の少女だけは別だった。
「何?」
少女に視線を合わそうと少し前屈みになった瞬間、幸人の視界がぼやけた。
「あっ……?」
眼鏡が外れた、と思った彼の眼前で、沙羅がその眼鏡を手に振っていた。
取られた瞬間が彼には全くわからなかった。
「ねえ、お兄さん、誰かに似ているって言われたこと無い?」
「え?」
返せ、というよりも先に投げかけられた質問に、眼鏡に伸ばした手を止めた。
「例えば、芸能人とか」
「え……と……」
ためらいながらも、幸人はたまに友達に言われる『似ている芸能人』の名前をあげた。某ユニットのボーカル。線の細い感じが似ていると前に言われたな、と思い返しながら。
がたん。
衝立の向こうで物音がした。
「あら、言われてみればそうね」
「そ、そうかな……」
いくら過去にいわれたことがあっても、自分から似ている芸能人の名前を挙げるなんて恥ずかしい。特に、ルックスが良ければ。
「そうね、英治のオリジナル美少年カテゴリの……B、ランクは2といったところかしらね」
「へ?……えっ!?」
最初の『へ?』は、沙羅がじらすようにいった意味不明の言葉に対して。
その次の『えっ!?』は、目の前に風のように現れたものに対して。
「ようこそ。俺の名前は黒崎英治、ここの探偵だ」
「は、はあ……」
幸人はそれしか言えなかった。奥にいた声の主が、瞬間移動でもしたかのように目の前にいて、彼の肩に手を置いていたものだから仕方がない。時間にして約〇.五秒。
彼――黒崎英治――はさっきとはうって変わってやたら力強い口調で幸人を見下ろしていた。幸人の身長を考えると、おそらく一九〇はあることになる。
歳は二十代半ばだろうか。少し野性的な感じもするナチュラルなヘアスタイル、日焼けした肌。いや、もともと浅黒いのか。身長の割りにあまり『ひょろ長い』というイメージが沸かないのは、Tシャツの上からも見える厚い胸板の体格のせいだろうか。
形のはっきりした眉の下の目が、熱い視線を幸人に送っていた。口調と同じ位しっかりと意思を持った目。仕事に誇りを持ったプロフェッショナルの眼差しか。いや、それだけではないような――
「さ、立ち話もなんだ、あがって。沙羅、お茶の用意」
それ以上考える暇も無く、幸人の体はドアの奥に消えた。