第五章 変わるもの変わらないもの-6
真昼だというのに、そのオフィスは闇に閉ざされていた。
パーテーションで仕切られたデスクの整然とした列。全ての机にはモニタとキーボードが備え付けられているところは、外資系かIT系の企業だろうか。
だが一つとして点灯しているモニタは無く、電話のコール音はおろか、ハードディスクの静かな唸りさえ聞こえない。
休日であればその静けさも理解できる。だが、今は平日だ。事実、ブラインドを降ろされたガラス窓の向こうでは、遥か三十階下の歩道をスーツ姿のビジネスマンが携帯電話片手に歩き回っている。
それでいながら、その異常に気付く者はいなかった――社員だった者を除いては。据付の電話機の代わりにPHSを社員にあてがい、外部とのやり取りの大半はメールで行う。そのような先進のビジネス形態が、ビルの一角を占める新鋭企業の『死滅』という異常事態に外部が気付くのを遅らせる原因となった。
「ひいいっ」
闇で何かが呻いた。続いてカーペットを何かが這いずり回り、僅かにドアの下の隙間から漏れる人工光が照らすエリアに移動した。
「わ、わたしだって一生懸命やったわよ」
尻を着いた姿勢で後ずさりしてた背中が、ドアにぶち当たった。
日高祥子だ。
「まさか、あんなガキがいるなんて……」
包帯で顔の左半分を隠した顔が、暗闇の中の存在を見上げていた。
「それに……」
続けて言い訳を口にしようとした祥子の口が硬直した。目の前の存在に圧倒されて。
どんなに目を凝らしても、常人にはその暗闇に居るモノが見えなかったであろう。だが、確実にそこに居た。そして、祥子はそれに怯えていた。
「つ、次こそは必ずやるから……」
怯えが、懇願に変わった。
いや、懇願と言うには表現が綺麗過ぎる。まるで捨てらるのに気付いた子犬が鳴く時のような悲痛さがそこにはあった。
言うなれば『哀願』か。
「お願い……私を捨てないでよ、ね? 何でもするから。わたしは……わたしだけはあんな風にしないで……お願い……」
その声に反応したのか。
あんな風に、と侮辱された事にはもはや永遠に気付かない存在が、闇の中で蠢いた。
祥子が怯える存在の背後で、ひとつ、ふたつ。
そして、数え切れないほどの存在が、呻き声を上げて。
死んでいながら死に切れないもの達の悲痛の叫びが、混声の合唱となって祥子を責めたてた。
だが、闇の中の存在が、気迫だけでそれを制した。
「……許してくれるの、ねえ、許してくれるのね?」
ほんの数時間前まで英治相手に鞭を振るっていたのと同一人物とは思えないほど、祥子の声は情けなかった。
部屋が一瞬明るくなった。
それが窓の外の強烈な稲光によるものだということは、一秒遅れて窓を振るわせた音で判明した。
「許して……くれるのね?」
雷光が再度部屋を明滅させた。
無数の虚ろな眼球と、一つのにやけた口元から覗く歯が暗闇に光った。
「何やってんだ?」
後ろ手に閉めた防音ドアに持たれかかりながら、英治はとりあえず訊いてみた。
「見て分からない? 射撃訓練」
まさしく英治が予想していた答えが返って来た。一発の銃声と共に。
「ま、ここは射撃訓練室だし、沙羅たんがそこで訓練するのはいつも通りだけど」
また銃声が響いた。
「けど?」
手ぶらの沙羅が英治に向き直った。
「だから、何で幸人クンが銃を握ってんだよ?」
乾いた音が二人のやり取りと関係無しに続いた。
黒崎探偵事務所の地下室。とは言っても、沙羅が尾谷相手に注射器を握っていた部屋とは別の空間。
地上にある建物が占める面積の約半分ほどの空間が、コンクリートと防音材の壁で区切られていた。
奥にはレールで前後できる標的が五枚吊り下げられ、反対側、一つしかない防音扉側には射撃台がパーテーションで仕切られている。
いつもなら沙羅以外は立つことの無いこの場所に立つのは、リボルバーを両手で支え、イヤープロテクターとゴーグルを装着した幸人。
集中しているためか、それともイヤープロテクターのためか、幸人は英治が入ってきたことに気付かずに黙々と標的めがけて引き金を引いている。が、その努力も空しく、標的の表面は綺麗なままだ。
「どういう風の吹き回しだ?」
「私も、最初は反対したわ。でも」
「でも?」
「え?」
幸人の言葉を聞いたとき、沙羅でさえ声に一瞬戸惑いが混じった。
「だから、僕にも銃の使い方を教えて欲しいんだ」
「なぜ?」
「僕も、姉さんを助けるために何かしたいんだ。なのに、あの女の人に捕まったり、英治さんが助けに来た時だって何の役にも……」
「そんなことは無いわ。言ったでしょう、あれも作戦の内だって。あの時だって、幸人さんが体当たりしてくれたおかげで英治も命拾いしたようなものよ。胸張って良いくらいだわ。むしろ、作戦とは言え黙っていたことを謝るのは私達の方」
「……だったら、その代わりに教えてくれないかな?」
幸人の幼稚ともシンプルとも言える交換条件を無視して沙羅が続けた。
「言わなかった? 武器を手にするのは臆病者のする事だって」
「それでも構わない。今は、それしかないから。少なくても、今はそれしか選択肢は無いって思ってる」
少し痛いところを突かれた。自分が過去に言った台詞で返されるとは。
何よりも、幸人の眼の奥に潜む決意の深さに負けた。その奥に、何か別の理由が――幸人本人でさえ気付いてないような別の理由が見え隠れしたような気がしたが、少なくともこのままでは引き下がりそうにないと踏んだ沙羅はとりあえず方法だけは教えることにした。
「まあ、本当に幸人さんに加勢を頼むつもりはないけど。ハワイにでも行って射撃体験しているのだと思ってもらえればいいわ」
「……」
「英治?」
「……」
英治は一心に標的に視線を送る幸人の横顔に見入っていた。
「う~ん、ああいう真剣で男らしい表情、いいねえ。いつもじゃなくて、時折見せる、ってのがいいんだよな~」
「……英治」
「おっと、どうした沙羅、怖い顔して?」
「別に。それよりも訊きたいことがあったんだけど」
「何だ?」
右の耳だけで沙羅の言葉を聞きながら、視線は幸人の方を向いている。
「ビッグサイトに行かせたの、なかなかうまい作戦だったわよ。あの時期、同人誌の即売会とかでコスプレ、っていうのかしら、個性的な格好している人が多かったし。バレットをケースに入れてうろうろしていても怪しまれないしね。でも、あの格好って何? あれも何かのコスプレなんでしょう?」
「は?」
「は、じゃないわよ。そうでもなければ、あんな恥ずかしくて目立つ格好させるわけないでしょ?」
「そっか、今、そういう時期だっけ。忘れてた」
「え?」
沙羅の声が強張った。
「いや~、あの格好、冬美さんが贈ってきた服の中にあったんだけどさ。どうせ沙羅のことだから着ないと思ったんだけど、この前の罰ゲーム、あれで終りってのは俺的に納得いかなかったからさ~。とりあえず嫌味のつもりでケースの脇に置いておいたんだけど、沙羅が律儀に着てくれるんで俺も驚いたよ」
「……」
沙羅のすぐ近く、いや沙羅の方から何かがちぎれたような音がしたが、彼女の表情は硬いほど変わらなかった。
「そっか、コスプレか。今度あのカッコして冬美さんところ行くか? そんで写真撮ってもらえよ。それをネットで掲載したら、結構人気出るかもな。結構マニア受けするかもよ、自分よりでかいビオラのケース持って、オーバーニーとめくれたスカートの間に覗くフトモモなんて、萌え萌え要素かもよ? な~んてな、ひゃははは……って、こら沙羅、何でこっちに銃を向ける?」
いつのまにか取り出したバレットの銃口を、沙羅は銃本体よりも冷たい視線と共に英治に向けた。
「どうせ練習するなら、動く標的の方が良くなくて?」
「おい、沙羅たん、何怒ってんだよ」
「私はいつでも冷静だけど」
どうみても後コンマ一ミリで引き金を完全に絞りきるところまで力を込めていた指が、不意に緩まれた。
「やった!!」
幸人がイヤープロテクターを外して歓声を上げた。
「見て、沙羅ちゃん、当たった当たった!! ど真ん中じゃないけど……あれ、英治さん、居たんですか?」
その英治の命を、図らずも救うことになったとは露知らず、幸人は英治にも最高の笑顔を送った。
「幸人クン、君は命の恩人だ……」
空気が抜けた風船状態でへなへな崩れる英治。
「え? そんな、昨日のお礼はもういいですから」
「いや、その……」
「呑み込み早いわね、幸人さん。お疲れ様」
「そうかな?」
そう言いながらも照れて頭を掻くところはどちらが年上か分からない――見た目の上では。
「まあ、区切りがついたところで風呂でもはいってくるかい? 沸いてるぜ」
「はい。じゃあ、ちょっとお先に」
余程嬉しかったのか、鼻歌交じりで地下室を後にする幸人。
「あら、後を追わないのね」
「あのなあ、俺のことをどう見てんだよ」
「ありのまま」
「どういう意味だよ」
「それより、何の用? ただ様子見って訳じゃないでしょう? 話でもあるの?」
「さすが」
「何年組んでると思ってるの。それくらいわかるわ。それに、幸人さんをさりげなく追い出したりして」
「そこまで分かってりゃいいか。ま、ここじゃ何だ、上に行こう。風呂から上がっても、まだ俺達二人が戻ってないんじゃ逆に怪しまれる」
「そうね」
階段を上がる二人。英治がいつも以上に慎重なせいか、どことなく緊張した雰囲気が流れた。
「ん?」
先にそれを解いたのは英治だった。
「雨が来るな」
雷光が一階の踊り場を照らした。程なく乾いたアスファルトに黒い染みが点々と広がり、面積を増した。
耳朶を打つ雨音。それが一層激しくなる頃には、英治と沙羅の姿は居間にあった。
「幸人クンの努力は無駄になるかもしれねえ。いや、無駄に終わるようにしなきゃいけない」
唐突に切り出す英治の声を、沙羅は窓を激しく叩く雨粒を背景に耳を傾けた。