第五章 変わるもの変わらないもの-5
「ほら、幸人、こっちこっち」
春の日差しの中で、姉さんが手招きしていた。
どこだっけ?
そう、確か花見代わりに行った横須賀の観音崎。
「幸人、向こうまで競争よ」
波打ち際で手を振る姉さん。夏の茅ヶ崎は、夕暮れになっても日差しがきつかったっけ。
「すいませ~ん、写真、お願いできますか?」
姉が道行く観光客の一人にカメラを手渡していた。
あれは――東京湾フェリーで行った、千葉の鋸山の頂上。紅葉で観光客も賑わっていた頃。
「ふふ……」
姉さんが、微笑をたたえて戻ってきた。
――どうしたの、姉さん?
「あのおばさん、私達の事、何て言っていたと思う?」
――え?
「とってもお似合いのカップルだって」
――はは、そんな……
確かにそんなに歳は離れてないけど……そう見えるのかな?
「……幸人」
――何?
「幸人は嫌? 私と恋人同士に見られること」
――? えっと……
「私は……」
――?
「ううん、何でも無い」
……
「ねえ、ゆき」
眼を開けると、同じ布団で寝ていた姉さんが自分を見つめていた。
そう、まだ自分が小学校に上がったばかりの頃はそうだったっけ。
――なあに、おねえちゃん
「ずっと、一緒だよね」
――?
「このまま大きくなって、結婚したら、ずっと一緒だよね」
――でも、きょうだい姉弟は結婚できないって、おじちゃんが言ってたよ
「ええ、そうなの?」
その時の姉の悲しそうな顔。
今更、思い出すなんて。
――でも、姉さんなら良いお嫁さんになれるよ
「またあ、おだてても何も出ないわよ」
高校の学生服の詰襟を調整しながら、台所に立つ姉さんが背中越しに答えた。
――本当だよ。姉さんくらい料理も家事も出来れば、誰もほっときゃしないよ。お見合いで予定表、パンクしちゃうんじゃない?
「そう……」
――姉さん?
その時の姉さんの背中は、とても悲しそうだった。
そう、あの時のように。
小さい時に布団の暗がりの中で見せたあの表情のように。
「幸人――」
――姉さん?
不意にあたりが暗くなった。
「幸人」
――姉さん、どうしたの?
「逃げて」
――え?
「……さん」
「……ん」
「幸人さん」
「え……」
目を開くと、幸人のぼやけた視線に何かの輪郭が映った。
「姉さん?」
「!?」
今度ははっきりと見えた。
上体だけ飛び起きた幸人の視界に飛びこんできたのは、深い黒い瞳が印象的な美貌の少女。
沙羅だ。
(……姉さんと間違えるなんて。そういや、姉さんの夢を見ていたような――)
「幸人さん」
「はい?」
「放してくれる?」
「え……あっ、ごめんっ!!」
幸人は慌てて手を放した。沙羅の両手を握っていた両手を。
「ごめん、沙羅ちゃん、寝ぼけていて」
「別に」
そう言って沙羅が窓のブラインドを上げた。
朝の柔らかい日差しが差し込む室内。
そこは、黒崎探偵事務所で幸人に与えられた部屋。
そう、あの襲撃を受けた――
「沙羅ちゃん」
「何?」
沙羅が背中越しに答えた。とりつくしまもないほど素っ気無く。
そう、まるで何事も無かったように。
あの襲撃も、胸に何発も受けたクロスボウも、何も。
――なるほど、そういうことね
祥子の声が胸に去来する。
――ようやく分かったわ。あの腕っぷしも、ぞっとする位の美貌も……
その先は――
私と同じだからなのね
「そ……の」
「知りたい?」
「え?」
沙羅の言葉には、決して拒絶の感情は込められていなかった。
でも。
「訊くだけの価値があると思えば……そうしてもいい」
「沙羅ちゃん……」
それ以上は言葉が続かなかった。
沙羅の言葉に感情は微塵も無かった。そう、機械のように。
まるで何度と無く繰り返されてきた質問に、無意識に応答するように。
そうなるまで、幾年という言葉をどれくらい重ねれば良いのだろう。
「ごめんなさい」
「え……」
「あなたを騙していて。でも、確実にお姉さんの居所を掴むためにしたことなのよ」
沙羅は昨夜の経緯を語った。
たった一つの事実を除いて。
「何?」
英治がデスクトップのモニタに向かって訊いた。
『嘘じゃないわ』
正確には、装着したマイクセットの向こう、加嶋冬美に対して。
『今、情報そっちに送ったわ。画面の左下』
テレフォニーシステムを使用した音声と画像他の電子データの情報交換。大企業のコールセンタ並の機能を流用して、英治と冬美は膨大な情報を共有していた。
「これは……」
棒グラフを波状に羅列したシンボル。その脇に配置された数値や記号の群れ。
『ゾンビ……あの元ハンターのゾンビの死体。残った肉片の血液検査結果。知っての通り、ゾンビを造った元の感染者の血液が僅かに混じっている。そこからゾンビを造ったものを割り出したの』
「この染色体はダブルエックスXX……女か」
『そう』
「ってことは、あの日高祥子って女王様か」
『……そう思うわよね』
「何?」
『私も、そう思って調べたの。でも……今、廻りに誰もいない?』
「? いないよ。幸人クンも、あんたの恋しい沙羅たんも」
『そう』
「突っ込みなしかよ」
『そんな状況じゃないから』
「どうした?」
『それは……』
その会話が終わったのは、幸人が目覚める二時間前だった。