第五章 変わるもの変わらないもの-4
既に夕陽に照らされ始めた東京ビッグサイト。
帰り始めた参加者のざわめきに混じって、時折重く乾いた音が響いていた。
幾ら騒々しいとは言っても、何人かはこの異音に気づいていた。だが、それはどこかでバックファイヤが鳴っているのだろうと自分の都合の良いように考えるのが普通だった。
その音源が自分達のすぐ上にあるとは。
ビッグサイトの屋上で蠢く二つのもの。
風になびく見事な黒髪と、夕陽が作り出すのその影。
アルミ蒸着シートに腹ばいになり、自分の身長ほどの狙撃銃のスコープを覗く少女。
沙羅以外にそんな存在は無かった。
引き金を引いた。
爆音と共に銃身に反動が伝わったが、二脚架が接地面からずれないのは見事というしかなかった。
排出された薬莢が四つから五つに増えた。
狙うは一キロ以上先。
普通なら考えもつかない距離の狙撃を可能にしたのは、狙撃銃の性能と沙羅の腕によるところだった。
バレットM82A1。口径12.7ミリのこの狙撃銃は、銃というより砲に近かった。元々対人ではなく、対物または旅客機のキャノピーなどの障害物越しに狙撃する目的で開発された。弾丸も軍の重機関銃に使用されるものと同じ。事実、湾岸戦争では二キロ以上先の装甲車両を撃破したとも言われている。
しかし、その性能を引き出すのは引き金を絞る人間であった。とは言え、それが年端も行かないような一人の少女が成し遂げていると想像できる者はいるだろうか。
『沙羅、ラストワン』
「ええ(yeah)」
再び銃口が火を吹いた。スコープ越しに、沙羅は障害物の向こうの男が手にするショットガンが弾けたのを感じた。
『へへ、沙羅たんお上手お上手』
「……」
『そう怖い顔すんなって』
どうやったら二キロ先でイヤホン越しの相手の顔が見えるのか、英治の言葉は当たっていた。
「ほら、後はあなたの番よ」
『へいへい。じゃ、早めにこっちに来いよ』
「な……何なのよ……これ」
「……」
祥子だけが声を出せた。傍らの幸人は声も出なかった。
五人のうめき声が聞こえた。みんながそろったように右手を押さえて。
無理も無い。撃ち抜かれたのは銃本体だけとは言え、装甲車も撃破するような銃弾の衝撃がグリップ越しに伝わったのだ。何人かは指や腕を骨折しているに違いない。
「狙撃だってのを見抜いたのはすごいけど、それを躱す余裕はお仲間に無かったみたいだな」
停車したバイクから英治が降りた。
「ズルイわよ、狙撃させるなんて」
「あのさー、人質とってタコ殴りにしようってのはずるくないのか? それに俺は約束やぶっちゃいないぜ。ここに来たのは俺一人。沙羅がいるのは二キロ先」
「沙羅?」
「え?……」
英治の言葉に幸人も反応した。
「ふふふ……」
最初怪訝な眼が、次の瞬間意味ありげな光をたたえた。
「なるほど、そういうことね。ようやく分かったわ。あの腕っぷしも、ぞっとする位の美貌も……私と同じだからなのね」
「え? え?」
「ま、美貌ってのは言い過ぎかもな」
幸人だけが状況を把握しかねている。
「でもよ、あんたがそうだってのは見た瞬間に分かったぜ」
「あら、そう? だったら早く手を引いたほうがいいんじゃない?」
「そうはいかねえ。俺はあんたら専門なんだよ」
銀の切っ先が祥子の鼻先にベクトルを合わせる。
「へえ、そこまで言うんなら、こっちも本気でお相手しようかしら」
祥子のジャケットの袖から何かがするりと右手に落ちた。
右腕を振ると同時に空気が悲鳴を上げた。
地を叩く音に遅れて、祥子が右手に下げた物の正体があらわ露になった。
「うわ~、男の趣味が悪いだけかと思ったら、女王様だったの。あんたも人のこと言えないね」
「ふふん、粋がっているのも今のうちよ」
祥子は右手から垂れ下がる自分の身長ほどのそれ――表面が銀ラメのように光る黒い鞭を後ろ手に廻した。
刹那――
「!?」
英治はバックステップで半歩分下がった。結果は後から訪れた。
英治が先程まで立っていた地が土くれを巻き上げた。それは爆発したとも言って良いほどの激しさであったのに、破砕音は後から聞こえてきた。
「あら、惜しい」
祥子が抜け抜けと台詞を吐いた。亜音速と化した鞭の先端で土をえぐる。常識を超えた技能を彼女は右腕一本でやってのけた。
「へへ……感染者だから出来るって芸当じゃないな。感染する前からピシピシやってたんだろ、女王様」
「抜かせ!!」
英治の言葉に激昂した祥子が右腕を立て続けに振るう。
感染者の卓越した運動能力により、祥子の右肘から先は残像としか映らなかった。更に常人でさえ音速を超えることもある鞭の先端は、祥子の手によって無数の超音速飛来物として英治を襲う。
それを右に左に前後にと躱し続ける英治だったが、時間にして三秒が限界だった。
「ぐっ……」
超音速の先端が英治の右脚を掠めた。掠めただけなのに、飛び散ったのは表層のジーンズの生地よりも鮮血が大半を占めていた。
「どう? 表面に工業用ダイヤモンドをちりばめているの。掠っただけでも肉ごと持っていかれるわよ」
その物騒な代物を右手に戻し、祥子は艶やかとも言える笑みを浮かべた。この後に飛び散る血肉の量に酔いしれながら。
「さあ、あと何秒もつかしら?」
祥子が小刻みに腕を振るう。それにつれ空気を切り裂き、時折英治の四肢を掠める音が混じる。祥子の手には明らかに加減がされていたが、それでいても亜音速の先端を完全とは言わないでも躱す英治の動体視力と運動神経は賞賛に値すると言えた。
だが躱しつづける事は体力の消耗を意味する。ましてや相手が感染者で手加減を加えているとなると、時間の経過がどちらに味方するかは明らかだった。
「ち……」
「息が上がってるわよ。そのナイフは飾り?」
返答は無かった。祥子の指摘は正しかった。どんなに有効な対抗手段を持っていても、それを打つためには間合いが遠すぎる。今こそ遠距離狙撃によるサポートが有効となるはずなのだが、祥子一人を残した時点で沙羅をこちらに呼び戻したのは失敗だった。
「じゃあ、そろそろ楽にしてあげる!!」
沙羅のサポートが無いのを悟ったのか、祥子は右腕を大きく振り上げて必殺の一撃を構えた。
「うわあああっ!!」
「!?」
予想外の攻撃に祥子の反応が遅れた。
いや、それは攻撃と言っていいのか。
後ろ手に縛られたままの幸人が、祥子に向かって闇雲に突進してきた。
前さえ見ていないようなそのタックルは、逆に不意をつくのには効果的だった。
「ちっ」
「うっ……」
難なくそれを半身で躱し、通りすぎる間際の幸人の後頭部に手刀の一撃。幸人は意識を失いながら地に伏した。
だが、幸人の行動は英治が間合いを詰めるには充分過ぎるほどの功績だった。
「もらった!!」
「!?」
振り向いた祥子の眼前に英治の顔が。
そして切っ先が祥子の左胸を狙う。
二人の体が重なった。
抱擁とも言える姿勢で、先に動いたのは英治だった。
「ちっ」
続いて祥子が後方にステップ――英治の間合いの範囲外に。
「今度こそ誉めてやるわ、深追いしなかったことに」
祥子は左腕上腕を英治に誇示するかのように上げた。上腕からは鮮血が滴り落ちていた。
祥子は急所への一撃を、左腕を犠牲にすることで防いでいた。さらに左腕に突き立てたナイフを絡めとり、反撃の一手を加えるはずだった。
が、瞬時にそれを察知して一歩退いた英治も見事であった。
「さすがに血が止まらないわね……これじゃ吸血鬼と言えども傷が残っちゃうじゃない。どうしてくれるの?」
「知るか」
「こういうのはどう? 腹いせにあなたにお仕置してあげるの。この鞭でね」
「さすが女王様。やっぱ本性はそれか。でも、俺がおとなしく従うと思う?」
「これならどうかしら」
「何!?」
祥子の鞭がしなった。しかし、それは英治とは別の方向に走って祥子の元へと戻った――お土産を持って。
「幸人クン!?」
祥子の鞭は器用にも後ろ手に縛られた幸人の縄だけを絡めとり、大人一人の体重を引き寄せたのだった。
「そう。あなたが抵抗すれば、この美少年の顔が整形でも戻らなくなるようになるわよ」
気絶したまま、力なく祥子の足元にうずくまる幸人の背中を、それこそ女王様気取りで押さえつける。
「さあ、どうする?」
「卑怯な……」
「何とでも言いなさい」
そういって高笑いする祥子。
歯噛みする英治。
だが。
「うがあぁっ!!」
高笑いは中断され、悲鳴と絶叫の混声へと変わった。
一発の銃声をトリガーに。
「沙羅」
「間に合ったようね」
「いつもおいしいところとりやがって」
チェロのケースを左手に抱えたまま、沙羅の右手のパイソンが硝煙を上げていた。
祥子が左眼を押さえながら地べたを転がっていた。鮮血が転々と土を染める。
「醜いのはその心? その赤い血? それとも両方?」
沙羅が謎めいた言葉で歩み寄る。
「こ……の……」
祥子は何とか立ちあがったが、左眼だけは押さえたままだ。
「どう? 炸裂式水銀弾頭の味は?」
「私と……同族のくせに……なぜ……」
「今のあなたには理解できないでしょうね。まあ、語る気もないけど」
「……ふふ……気が変わったわ。先にお仕置しなければいけないのは貴方の方ね、気取ったお嬢さん」
「出来る?」
「やってやるわよ……次の機会にね!!」
「!?」
祥子が後ろ手にしていた右手を前に突き出した。瞬間、手に持っていたモノが閃光と轟音を撒き散らした。
「……スタングレネード」
「だな……逃げられた」
二人が眼を開けたのは五秒後。だが、それは深手を負ったとはいえ感染者の祥子が逃げるには充分過ぎる時間だった。
スタングレネード――対テロの特殊部隊等が、テロリストが篭城した建物や乗り物に投擲し、その閃光と轟音で相手をひるませて突入するための標準装備とも言えた。おそらくゾンビ化させたハンターの装備だったのだろう。
「お、タイミングぴったり、かな」
倒れた幸人を抱え起こそうとした英治が、工事現場入り口から射し込むヘッドライトに眩しそうに眼を細めた。もっとも、英治も沙羅も近づく前からその車のエンジン音で気づいていたが。
黒塗りの大型バンが二台、続けて急停止した。
その後部ドアから全身黒ずくめの男達が足早に降り立った。
ケプラー製フード、強化樹脂ゴーグル、防弾ベスト、そして手にしたサブマシンガン『MP5』――典型的な特殊部隊の出で立ち。
その中にあって最後にゆっくりと助手席から降りてきたのは対照的な存在の女性。
「沙羅ちゃ~ん!!」
声だけで誰か理解できた。厚生労働省・吸血症候群対策課の加嶋冬美。
が、その経歴しか知らない特殊部隊装備の猛者たちは、黄色い声をあげて沙羅に駆け寄る冬美にどんなテロリストよりも不意をつかれた格好になった。
「も~ん、沙羅ちゃん大丈夫?」
「……」
飛びついて膝立ちになって頬擦り。もちろん沙羅は逃げることもあきらめている。それをゴーグルの奥から横目で見ながら、冬美の脇の二名以外はまだ倒れたままの祥子の手下達を捕縛しにかかった。
「まあ~ん、沙羅ちゃん、今日はドレス着ていてくれたの? やっぱり私が思ってたとおり、とお~ってもよく似合うわよ。写真に撮らなくっちゃ」
「お~い、冬美さん、俺にはねぎらいの言葉も無しかよ」
きゃあきゃあ一人で話を進める冬美に完全に無視された形の英治。
「あら、いたの」
本当に今気付いたというように名残惜しそうに沙羅から離れて向き直る。
「結構大変だったんだぜ」
「そうみたいねぇ」
いつものトゲはどこへやら、妙に愛想良く笑って冬美が歩み寄る。
「そうそ……」
最後の言葉が途切れた。いや、揺れた。
英治にも、冬美の脇の特殊部隊員二名も眼で追うことは出来たがその行動の意味はすぐに理解できなかった。
冬美の強烈な右フック。
プロボクサーでさえ惚れ惚れするような速度と重さで英治の左頬を直撃。英治でなければ3カウントKOだっただろう。
「なっ!?」
反射的に掴みかかろうとする英治を、両脇の隊員が銃口で制止した。
「ぐっ……、冬美さん、どういう……」
「あなた、自分が何したかわかってるの!?」
怒気を含んだ、では表現に足りないほどの激昂。
「言ったでしょう、慎重に行動しろって。焦っても失敗するだけだって。なのに、確証もないまま単独行動して空振りしただけならまだしも、その隙に事務所を襲われてクライアントを誘拐されるなんて、最低もいい所ね」
「……」
「それに、沙羅ちゃんにあんな危険なマネをさせるなんて……あの子ならちょっと位は大丈夫だと思ったわけ? 沙羅ちゃんを囮にしたって言うの? そんな危険な眼をさせるためにあなたに預けている訳じゃないのよ。あの子には……あの子にはもっと普通の……」
「冬美さん」
無言を通す英治に代わって沙羅が声をかけた。呼びかけただけだが、そこには制止の意味が込められていた。
「……今回は、沙羅ちゃんに免じてここまでにしておいてあげるわ。でも、決して許したわけじゃないわよ」
「……わかった」
「とにかく、このチンピラの後始末はこちらでするわ。感染者じゃない以上、厚生労働省の管轄外。彼等に任せるわ」
「警察?」
沙羅がほぼ確証を得ながらも尋ねた。
「そう、さすがは沙羅ちゃんね」
「自衛隊や海保以外に、これほどの突撃装備をするのは一つしかないわ……SAT(特殊急襲部隊)?」
「そんなところ」
言葉を濁したのは、縦割り社会の日本で別の省庁に協力依頼したことに引け目を感じているのか。
「それと、あなたを襲ったゾンビ達の方はこちらで調査するから。元ハンターの」
敢えて視線を合わさずに義務的に冬実が英治に告げる。
「感謝するよ」
「勘違いしないで。あなたのためじゃない。沙羅ちゃんの依頼だから」
冷たく言い放った頃、両脇の二名以外の隊員が拘束したチンピラを伴ってバンに消えた。
「戻ります」
踵を返す冬美に、両脇の隊員は無言で返して後を追った。
二台のバンのテールランプが、すでに夜の帳を迎えた産業道路を遠ざかっていった。
「……どうして黙っていたの?」
先に沙羅が訊いた。
「何の事だ?」
「今更とぼける気? 今回の単独行動はわざとやったって事……相手の裏をかく作戦だったって」
英治は答えず、地に唾を吐いた。右フックで口内を切ったのか、血混じりの唾を。
「最初にあの感染者……尾谷の発信機兼盗聴機に気付いたのはあなた。でも、それを利用して背後の組織を引きずり出そうと提案したのも、囮役をかってでたのも私。あなたはそれにしたがったまで」
二重の計略だった。尾谷の発信機には気付かない振りをし、別ルートから尾谷の行動を追う。そうすれば尾谷の背後の組織は待ち伏せをかけることも、奇襲を仕掛けることも出来る。一度に二人を始末できなくても、人質に幸人を押さえれば残り一人の始末もたやすい。
それを逆手にとって、背後の組織をおびき出し、戦力を奪う。それに――
「あいつにはばっちり取り付けた」
「ええ。確認したわ」
「さすが」
「そうやって話をはぐらかす気? 素直じゃないわね。冬美さんに説明すれば良かったのに。彼女の印象、ますます悪くなったわよ」
「あんなのに誉められるほうがぞっとする」
「あら」
「それに、賛同したのは俺の意思だ。それで俺が責められても文句はいわねえよ」
「ふふ……そういうところ、あの人に似ているわね」
沙羅の英治を見る眼に、どこか懐かしい雰囲気が混じっていた。遠くを見るような眼差し。
どこか戻れない遠くを。
「その話はよせ……あいつの話は」
決まりが悪そうに、英治は気絶したままの幸人を抱え上げた。