第五章 変わるもの変わらないもの-1
八月上旬。
JRの新橋駅からモノレール『ゆりかもめ』に乗ること約二十分の『国際展示場正門前』。
駅名そのものよりも、『東京ビッグサイト』の最寄駅として名を知られている。
数々の業種の展示会場として使用される、並べたピラミッドを逆さにしたような独特の外観の建物に中に吸い込まれていく人々の累計は計り知れない。
が、この時期が特にその何割かを占めている事は、人の波を見れば明らかだった。
駅から会場までの陸橋をほぼ間断無く続く人の群れは、その数もさる事ながら独特の雰囲気が他とは規模が違うことを示していた。
普通の人の群れ――ほとんどが十代から二十代の――に混じって、明らかに日常では着ないような派手な格好をした人々。時折みる空のカートと折りたたんだダンボールを引きずるように足早に会場に向かう人。
同人誌を売る側、買う側、そして遠方からの買いつけ、コスプレ、それを撮影するカメラ小僧。なかにはそれら複数の分類を併せ持つ人々。
これが夏と年末の年に二回行われる、日本最大の同人誌即売会に向かう人達であることは、とりわけ関東では周知の事実に近かった。
中には乗り継ぎ駅である新橋辺りからコスプレのままゆりかもめに乗込み、上京したばかりの人達の度肝を抜くのもこの時期ならではのことであった。
ビッグサイトの入り口手前、陸橋と会場をつなぐ広場のように広いスペースは人山で溢れ返っていた。会場に向かう人波、それを整理する誘導員、飲み物や軽食、使い捨てカメラの出店。周辺でたむろしたり腰を降ろしているのは待ち合わせなのか、人ごみを避ける人達か。
が、そのたむろする人の中に、眼鏡の奥から入り口に鋭い視線を送る一人の男がいた。
年の頃は二十代前半だろうか、シャツに綿パン、手にはポーチだけの軽装は、この会場ではまさに軽すぎた。購入した同人誌の山を入れるバッグやキャリーも持たないその姿は、まるで降りる駅を間違えて物珍しさに会場を眺めているようにも見えた。
だが、男の目的地はまさにこれであった。
コスプレイヤーの年代相も幅も広くなった最近では、その姿をカメラに収めることに没頭する人種も多くなってきた。いわいるカメラ小僧というやつだ。
なぜか超望遠のレンズをつけたカメラを首に下げ、それでも持ちきれないカメラ機材やフィルムを下げて会場を徘徊するその姿は別の意味で目立っていた。
一時期は被写体とのトラブルが多発したが、最近では主催者側の努力と参加者のマナーによって互いに気持ち良くこの年二回のお祭りを楽しんでいる。
男はこの部類に入るのだろうか。
ポーチのジッパーを開けて中を確認する。そこには銀色の直方体、デジタルカメラが入っていた。
ポーチの中にいれたままでバッテリーの状態を確認し、満足げにポーチの口を閉じた。
カメラという存在だけ見ると男も『カメラ小僧』という分類に入るのだろうか。いや、彼は純粋な撮影目的でそれを持ってきてはいなかった。
(……今年もレベルが高い)
男はこの会場では最も性質の悪い輩の一つ――盗撮者であった。
この世の中には盗撮を専門とする雑誌が公然と売られている。それが被写体に許可を得ているとは到底思えないのに。
最近は自主規制をしている出版社も多いが、ネットのアンダーグラウンドの世界ではまさしく関係の無い世界であった。
それこそ、被写体の顔つきできわどい角度から撮った写真を同好の者に配信、もしくは高値で売りつける。ネットとは自己顕示欲の手軽な提供の場でもあり、悪趣味な小遣い稼ぎの場でもあった。
それだけでも犯罪なのだが。
(しかし、みんなメジャーなのが目立つな。その分、質も高いがこれじゃ他の奴等も狙うだろう。ここは一つ、マニアック狙いを……)
男は視線を巡らした。どこかの格闘ゲームの女性キャラ、小学生魔法使いのキャラ、一見女子高生の制服のようでいて微妙に違うコスプレ――
「お……」
男は思わず息を漏らした。
年の頃は小学校中学年ぐらいだろうか、銀縁の眼鏡の奥から切れ長の目で会場を見つめる一人の少女。
いや、美少女――男はそう確信した。
髪の毛は二つのお下げにしているが、それと眼鏡の組み合わせが逆に奇抜な髪型が多いアニメ・ゲームのキャラとは一線を引いていた。
その清楚さや世間知らずなお嬢様的雰囲気を倍増させるかのように、少女はピアノの発表会にでも出るようなダークブラウンのドレスに膝上までのスカート、その下からは黒いタイツに包まれた細い両足。
だが、それと同じように眼を引くものがあった。
少女が傍らで支えているものだ。
少女の身長とほぼ同じ高さ、途中でくびれたデザインの黒いケースを記念撮影でもするかのように並んで立てている。それがチェロという、バイオリンを巨大化したような弦楽器が入るケースであることは、男の乏しい音楽知識でも何とか理解できた。
(こんなキャラいたっけな?)
盗撮のために資料を見まくった男の知識でも、すぐにはそれが何のコスプレであるかは検索できなかった。
そう考えあぐねているうちに、一陣の風が会場周辺を巡った。
(おっ!?)
歓喜の声を口に出さなかったのを、男は自分でも感心した。
風は当然の如く少女の周囲にも届き、そして当然の如くスカートの裾を翻させた。その瞬間、男はその奥にある物を確認した。
(タイツじゃなく、オーバーニー……萌え萌えだ)
さらにその奥にあるものは確認できなかったが、それよりもマニアックなアクセサリであるオーバーニーのソックスに、男は意味不明の言葉で歓喜した。
少女は風で翻ったスカートの裾を押さえることも無く、風が止むとチェロのケースを下げてすたすたと会場に向かって歩き出した。
(逃がすか……ありゃ良い被写体になる)
男は怪しくない程度の早足で後を追った。
ほぼ同時刻。
黒い車体が、ビッグサイト付近の渋滞をすり抜けて一キロほど離れたとある場所に向かっていた。
CBR1100XXにまたがる黒崎英治の視線が、厳しく、そして苛立たしげに前方に視線を送っていた。