第三章 二人の犠牲者-4
夜が明けた。
暁の前に事務所に戻った三人+一人が仮眠をとるにはちょうど良い時間だった。
が、幸人の疲労を取り除くには充分とは言えなかった。
特に精神的には。
知識としては説明されていたとは言え、感染者の能力を目の当たりしに、そしてそれを超える力と技を持つ二人のインスペクター。
だが、それ以上に姉の消息が知れないことが一番ダメージが強かった。
早く姉の行方を知りたい――はやる気持ちを表面上では抑えていたが、それが余計に疲労を蓄積させた。
事務所で宛がわれた部屋に入った途端、睡魔が襲い……目が覚めたのは昼前だった。
時間を無駄にしたと、自分の不覚を呪いながら二人がいる事務室兼応接室に向かう。
「おはよう」
「よ、眠れたか?」
「あの男の人は?」
挨拶もそこそこに、幸人は現状で最大の情報源の所在を訊いた。
「地下だ」
「地下?」
「そ。ま、コーヒーでも飲みな」
英治は机の上の財布や免許証、時計などに視線を走らせながら片手にコーヒーを飲んでいた。おそらく、あの男の所持品を調べているのであろう。
対して沙羅はブラインド越しに窓の外を眺めていた。
「そんな、のんきな……」
「焦るなよ。せ急いては事を仕損ずる、ってな」
「でも……」
こうしている間にも、姉は感染者に刻一刻と近づいているというのに。
「尾谷健也」
「え?」
沙羅が背中越しに一つの名前をあげた。
「あの男の名前」
「ああ。持ってた免許証から分かった。偽造かと思ったが、そうじゃない」
「午前中、調べられる事は調べておいたわ」
「あ、はい」
「他の情報も五十嵐のおっちゃんに送ってる。冬美さんも全面的にバックアップしてくれるらしい」
「あ、あの厚生労働省の……」
自分が情けなかった。焦るばかりで自分は何も役に立っていない。
「昨日はお疲れ様。車を出してくれて」
「い、いやこちらこそ」
幸人の心中を察したのか、沙羅の言葉は無表情の中にもどことなく柔らかった。
「さて」
沙羅が今日初めて幸人に向いた。
「そろそろ本題に入りましょうか。お姉さんの居所」
「え、もう分かったの?」
「いえ」
肩を落とす幸人。
「でも……後三十分で分かるわ」
「え、何で三十分って?」
「今から私が聞いてみるから……尾谷に」
沙羅が当たり前のように言った。
でも、あの尾谷って半分チンピラみたいなのがそう簡単に口を割るとは……
「沙羅……俺が行かなくて良いのか?」
英治がカップを置いた。妙にまじめな声だ。
「出来るだけ早く聞き出したほうがいいでしょう?」
「ま、そうだがな」
英治はそこで諦めたように息をついた。
「それじゃ、行って来るから。英治、幸人さんに昼食を」
「……ああ」
沙羅はにこりともせず事務所のドアを開けた。
「……英治さん」
「何だい?」
取り残された感の二人。
「その……沙羅ちゃん一人で大丈夫なんですか?」
「心配ねえよ。尾谷は身動きできないように縛ってある」
「でも、相手がそう簡単に……」
「口を割るかって? まあ簡単には割らんだろうな」
「じゃ……」
「沙羅以外なら」
「え?」
「久しぶりだ……沙羅のあんなマジな顔見るのは」
幸人にはいつもと同じように無表情にしか見えなかったが。
「鳥肌が立つくらいだ」
英治の言葉には微塵の冗談も含まれていなかった。
階段下の倉庫。
確かに倉庫には違いなかったが、その奥の床に大きな上げ蓋があった。
後ろ手に倉庫のドアを閉めると、沙羅は上げ蓋の取っ手を引いた。
湿った空気が溢れ出す。
それこそ夏の風物詩、心霊スポットと化した廃病院の死体置場へ続くような階段を、沙羅は臆した様子も無く降りていく。
ちょうど十三段で階段は終わり、目の前に鉄製の扉が立ちはだかっていた。
それが外に音が漏れるのを防ぐために特別に造られた防音扉であるのを知るのは彼女と英治のみ。
無言で扉を開いた。それとは対照的に重いさび付いた音を立てて扉が内側から開く。
「……何だ、飯かい嬢ちゃん」
それは感染者――尾谷の声だった。
部屋の真中で、尾谷はスチール製の椅子に縛り付けられていた。
また音を立てて扉が閉じた。
十畳ほどの部屋。剥き出しのコンクリート壁は真っ白でしみ一つ無い。部屋の片隅にロッカー、天井には換気口。そして妙に青白い蛍光灯が何のための部屋かを連想させた。
そして、尾谷の前にはスチール製のテーブル。
机の上に白熱灯があれば、まんま刑事ドラマの取調室だ。
「ちっ、飯じゃねえみたいだな」
手ぶらで入ってきた沙羅に、子供ならそれだけで漏らしそうな鋭い視線を送る。
「嬢ちゃんよ、これとってくれねえか? とってくれたら嬢ちゃんだけは助けてやるぜ」
昨夜、沙羅の向けた銃口の下で涙と鼻水を垂らしていたことは記憶に無いのか、尾谷は体を縛り付ける極太の鎖をガチャガチャ言わせて脅しにかかった。
「おい、聞いてんのかよっ、ああっ!? 」
無言のままでロッカーに向かう沙羅に、無視されたと思ったのかさらに鎖をガチャガチャ鳴らして罵声を浴びせる。
それでも沙羅は無視してロッカーから工具箱らしき物と、白い布切れを一塊りを取り出してテーブルの上に置いた。
「何だよ……これ」
「あなた、おなか空いてるの?」
初めて口を開いたが、尾谷の問いに答える内容では無かった。
「そうだよ、聞いてなかったのか? 飯だよ飯」
「今、どっちが欲しいの?」
「あん?」
「血? それとも普通の食事?」
「飯に決まってるだろ、このガキ。血なんて力をつける時に飲むだけだ」
「そう。そして哀れな犠牲者を増やす時」
「俺は遊んでいる暇ねえんだよ、何訳わからない事言ってやがる?」
「普段は人と同じ扱いを求め、そして都合の良い時だけ血を貪る。吸血鬼様が聞いて呆れるわね」
「はあ?」
さすがに尾谷も困惑するしかなかった。沙羅の言葉の意味など、最初から考えるつもりも無かったが、ここまで来ると理解する気など起こらず『おかしいんじゃねえか、このガキ?』としか考える余裕が脳細胞には無かった。
「……さて、本題に入るわね。幸人さんのお姉さんはどこ?」
「?」
バカのようにきょとんとしていた尾谷の顔が、徐々に歪んで含み笑いを起こし、ついには堪えきれなくなって体全体で声と音を立てて笑った。
「……ひ、ひひひっ……何かと思えば結局それかよ。それも、こんなガキ一人よこして俺の口を割ろうとはなあ……ひゃあはっはっ、腹がいてえぜ」
「……」
笑い転げる――まあ、椅子に縛られているので本当には転がらないが――尾谷を横目で見ながら、沙羅はテーブルに置いたものを広げ始めた。
最初に工具箱を開けた。そこには予想通りのものではなく、型抜きされたウレタンを緩衝材にして透明なガラス製の器具や液体の入ったビンなどが納まっていた。
そして、純白の布を広げると、沙羅はそれについている紐で体に装着し始めた。
最後に残った小さな布を口に当てた。
「くくく……今度はお医者さんごっこか、お嬢ちゃん?」
下卑た笑いが混じっているが、尾谷の表現は正しかった。
沙羅はご丁寧に白衣とマスクをつけて尾谷に向き直った。もっとも、沙羅の背格好を考えると小学生の給食当番に近いのだが。
「まあ、そんなところかしら」
意外に沙羅が肯定の返事をした。そのうえ、箱からは注射器を取り出して。
「なんだなんだ、まさか自白剤ってわけじゃねえだろうな?」
「その通りよ。どう、話す気になった?」
それを聞いて今度は涙さえ浮かべて笑い転げた。
「ひゃはひゃははっ……本当に甘いな、嬢ちゃん? それとも上の奴らにそうやって脅せって言われたのか? 言っとくがな、俺達吸血鬼は傷だけじゃなく毒だって体内で中和できるんだ。自白剤だって同じだ。んなモンで口を割ろうって土台無理なんだよっ!!」
「そう……」
その言葉をどう捉えたのか、尾谷は含み笑いを続けた。
「ねえ、あなた達吸血鬼の弱点は?」
含み笑いが消えたタイミングで沙羅が訊いた。
「あん?」
「確か……銀、だったわね」
「だ、だからどうした?」
尾谷の額にうっすらと汗が浮かび始めた。
「ま、まさか銀で切り刻む気じゃあるめえな?」
尾谷は今更になって昨夜の記憶を呼び戻した。
「いいえ。そんな野蛮なことはしないわ」
そう言いながら、沙羅は注射器に銀色の液体を詰め始めた。
「う……そ、それ……もしかして銀……?」
動けないのは充分承知しているにも関わらず、尾谷はなんとか後退しようと脚をばたばたさせた。
「残念」
沙羅が向き直った。マスクをしているため、余計に表情は見えない。見えない分、恐怖が増した。
「銀の融点は約九百六十℃。常温では固体よ。これは水銀。常温でただ一つ液体の元素」
教科書の解説のように淡々と続ける。
「や、やめ……そんなの、し、死んじまう……」
昨夜、銃口を向けられた時のように、いやそれ以上に顔中を涙と鼻水で濡らして懇願する。
「大丈夫。元素が違うもの。即死はしないわ。銀ならすぐにあなたの細胞が石化してその活動を止める。でも、水銀は似て非なるもの。銀ほどじゃないけれど、あなた達吸血鬼、いいえ、吸血症患者の細胞を蝕む」
沙羅がゆっくりと歩み寄る。
「でも、さすがは感染者、といったところかしら。蝕まれても死には至らない……肉体的には。でも、神経は同じように蝕まれるから苦痛だけは人並みに、いいえ、それ以上に脳まで伝達される。そちらの方がつらいかしらね」
「あ……あ……」
「それと、私が白衣でいるのは伊達じゃないわよ。この前試したら、全身から血が吹き出したの。それも全身の毛穴から。返り血浴びて大変だったわ。だから白衣なの。わかる?」
妙に優しい沙羅の口調。
「……っ……ひっ……」
もはや尾谷の声は呼吸音でしかなかった。
「さあ、お注射の時間ですよ、患者さん」
針の先端から銀色の液体が飛び出した。
尾谷の絶叫は、分厚い鉄の扉に阻まれた。