第三章 二人の犠牲者-3
「杉本!? 」
三人を確認して醜く歪んだ目が、床の衣服の塊を見てかっと見開かれた。
展示場で襲ってきた男。感染者の男。
「探したぜ、もう一つの手がかり」
「ふざけるな、ガキがっ!!」
大股で男が歩み寄る。
「てめえら、杉本をばらしやがったな」
「違う」
英治が前に出ると同時に、沙羅が幸人をかばうように無言で前に出た。
「でなけりゃ、なぜあいつを追っていた杉本が死んでるんだ? それにその携帯……美由紀はどこだ? どこに逃がした?」
「知らねえな。それより、携帯を鳴らしたのはお前か?」
「ああん? 何わけのわからねえ事抜かしやがる。確かに携帯の音がしたから来てみたがなぁ」
「ふ~ん。じゃ誰だ?」
英治が大げさに腕を組んで首をかしげる。
「俺をコケにするのも大概にしろよ、人間風情が」
「ほー」
英治が腕を解いた。口調はふざけているようであったが、その眼は厳しかった。男の台詞の最後を耳にしてから。
「俺ら無敵のヴァンパイアに刃向かうとはなあ……この前のと一緒にして兆倍で返してやらあぁぁっ!!」
男の語尾が妙に伸びた。それが高速移動で英治に寄った際の風圧が影響したものだと誰が信じるだろうか。
相手が感染者であることを知らなければ。
男が突きを三発、蹴りを二回繰り出す。一秒かからずに三回目の蹴りを繰り出したが、それを英治はバックステップと半身を併用して躱す。
「ひひ」
嫌らしい笑いを残して英治の懐に飛び込む。
「!?」
「逃げるんじゃねえよぉ」
退こうとした右足が動かない。男が踏み出した左足のかかと踵で英治の右脚のかかとに引っ掛けるようにして固定していた。
「ぐっ」
鈍い音がした。至近距離から胸板へ掌底打ち。肘が伸び切らないほどの至近距離であったために威力は半減されているのだが、コンクリートを素手で打ち破る力には関係無かった。
それでも意識を失わないでいる英治に内心驚きながらも、男は右肘と右膝を同時に繰り出した。
「どたま叩き割ってやらあッ!!」
肘と膝で頭を挟み潰す。誇張ではなく、感染者の力を持ってすればそれが現実になる。
だが英治は自らバランスを崩して背中から倒れこみ、後転して難を逃れる。
膝立ちになった英治の背中が硬い物に当たった。剥き出しのコンクリート壁だ。
「やるじゃねえか、人間にしちゃぁ、ええ?」
「ふん、感染者が何を意気がってやがる? 神様にでもなったつもりか?」
「感染者……だと? そうか」
男の笑いが引きつったものになった。
「俺達、吸血鬼様を病人呼ばわりするお役所の飼い犬があるって聞いたな……お前らがそうか」
男が口の端を吊り上げた。そこに、異様に伸びた犬歯が光る。
「へへ……二度と俺達に手を出さんよう、見せしめに潰しておくか」
血を吸う鬼。
目の前の現実に、感染者などという言い訳は幻想であることを幸人は感じた。
「来い」
英治がナイフを逆手に構える。
刺し違える気か――
風が唸った。
その風圧に、いや雰囲気に耐え兼ねて幸人は一瞬の瞬きを許した。
そして。
「……ひひひ、かすっただけでも大したモンだ」
「……」
静かだった。瞬きする前とたった二つしか違っていなかった。
男と英治の位置が入れ替わっていた――互いに背中を向ける形で。互いの距離もほぼ同じであった。
そしてもう一つ。互いの右頬に水平に血線が浮かび上がっていた。
「だがよぉ、そんなナマクラで幾ら切られても……!?」
男が頬に走った血を手に取った。その途端、男の台詞が凍りついた。
「な……」
「どうした、おっさん? 続き言ってやろうか?」
英治が振り向いた。ナイフの銀光が軌跡を描いた。
「『幾ら切られても、俺達吸血鬼にゃ効かねえ。あっという間に傷なんてふさがっちまう』ってとこか?」
「こ、いつは……」
始めて喧嘩して血が出た時の中坊のように手が震えていた。
「あんたつくづく頭悪りぃな。仲間を殺した、とか言いながら、その相手が感染者の弱点知らないわけねえじゃん……ま、杉本っておっさんやったのは俺達じゃないけどな」
「そのナイフは……!?」
「そう。あんた達吸血鬼様が唯一かつ絶対的に苦手な『銀』でできてま~す」
「英治の勝ちね」
「え?」
静観していた、というか静観できるのかという驚きもあったが、幸人は沙羅の言葉に耳を傾けた。
「人間以上の存在になったと思いこむ感染者の傲慢さに揺さぶりをかけて、本来持っている能力を発揮できなくする。見てて、相手の動きを」
「お、俺は……」
引き付けを起こしそうなくらい乱れた息の隙間から言葉を吐き出す男。
「俺は、無敵の吸血鬼だぁっ!!」
男が英治に突進を始めた。が、勢いこそあるものの、開始から英治の間合いに入るまでの動きが幸人にも追えた。
男が手を振り回した。突き、というような綺麗なものではなかった。まるで駄々をこねる子供のように闇雲に手と脚を振りまわしている。
「心技体……全てがバランスを失っている。子供が木刀振り回すようなものね。落ち着いて見れば幸人さんにもよけれるんじゃない?」
別に相手をしたいと思うわけじゃなかったが、確かに言われる通りだった。
実際、相手をしている英治は妙にニヤニヤしながらのらりくらりと躱している。それこそ、鼻歌でも出そうな感じで。
「がんばったね~老け顔の感染者。お礼に名誉の傷をいくつか進呈しよう」
英治が右手を振った。その動きは見えず、代わりに楕円の軌跡を描く銀光が二回。
「ぐっ」
男は後方にステップして躱した。いや、躱したつもりだった。
「な……?」
確かに間合いから離れたはずなのに、彼のシャツの胸元は十字に切り裂かれ、同じ形でうっすらと血が滲み出した。
「俺が別名、何て呼ばれてるか知ってるか?」
英治がナイフを持った右手をゆらりゆらりと漂わせた。銀光が怪しく軌跡を描く。
「あ、知ってる奴、少ねえかもな。名乗ったその日に塵になってんもんな」
動きを止めた。逆手のナイフの柄を、左の掌で軽く抑える。
切っ先が斜め下を向く。
刀身に、自分の眼が映っているのを男は見た――恐怖に満ちた。
「じゃあ自称、といこう……自称『銀の刃』」
銀光が半月を描いた。
「ひいいっ」
両手で頭を抱えて転げる男。
しかし、その必要など全く無かった。始めから英治は切っ先の届かない範囲で振りまわしていただけだった。
「何だよ~おもしろくねえ」
やられる。
お、俺は無敵の吸血鬼だぞ。こんな所でやられてたまるか。な、なんとか逃げるんだ。逃げさえすりゃ……
「!?」
逃げ道を確保しようと視線が室内をさまよい、一点に集中した。
「どうした、おっさん?」
英治が変化に気がついた――男の口に浮かんだ笑みを。
「ひひひ……こんな所にガキなんざぁ連れてくるとはなあっ!!」
その言葉の意味に気づいた幸人が、沙羅の前に立ちはだかった。
「逃げっ!?」
瞬間、幸人は衝撃と共に弾き跳ばされた。
「……沙羅ちゃん!?」
「動くな」
起き上がろうとした幸人の視界に、予想していたことの結果が映っていた。
男が羽交い締めにするように沙羅の後ろから首に手を廻していた。余った左手を頭にかけて。
「こいつは人質だ。このカワイイお嬢さんの首をねじ切られたくなかったらそこをどきな」
――形成逆転、俺の勝ちだ。
だが。
「ちっ、またおいしいところ沙羅にとられちゃいそうだな」
英治は頭を掻きながらぼやいた。
「なっ」「えっ」
男と幸人が同時に声を上げた。
「ふん、どうせ楽するつもりだったんでしょ」
男の腕の下から声がした。微塵のも恐怖を感じていない、いや感情さえない声を。
一呼吸あった。
次の瞬間、男は逆さになった沙羅の顔を見た。自分が宙を飛ばされたと分かったのはそれよりも後だった。
「う……ぐ?」
男もそうだが、傍らで見ていた幸人にも信じられなかった。
沙羅がほんの少し姿勢を低くして体を揺さぶった。たったそれだけなのに男の体は人形のように宙を舞ったのだ。
それが『合気』の技であることなど、幸人は知らなかった。いや、幸人よりも合気に関する知識がある男の方が驚きは大きかった。
何なんだこのガキ?
「降参か?」
「!?」
背後の英治の声に飛び起きる男。そして判断力の狂った男は雄たけびを上げて再度、沙羅に突進した。
ま、まぐれだ。偶然だ。あんなガキが合気の技なんて――
「沙羅ちゃん!!」
幸人に一瞬視線を合わせた沙羅。そして。
幸人は見た。
沙羅が、右手を後ろ手に廻し、見事なボリュームを見せる黒髪に指し入れた。
白い右手が流れるように黒髪からコントラストを成して現れた。
もう一つの『黒』と共に。
ゆっくりと、そして確実に『それ』を男に向け、左手も添える。
嘘……?
それは沙羅の手にしたモノへの感想か、それともその美しくもこの世の出来事とは思えない一連の動作に対してか。
コルトパイソン357マグナム・6インチモデル。
黒光りする『それ』の正式名称を知らないまでも、それが日本で目にしようとは思わなかったリボルバーの拳銃であることだけは分かった。
男の目にもそれが映った。
が、それが現実であるという認識はもはや無かった。
軽く添えられた指が動いた。
轟音一発。
「!?」
男の右腕に黒点が浮かんだ。
続けて二発。
「あ……あ?」
両腿に黒点を穿たれ、始めて男は現実に戻った。
そして、現実の痛みも。
途端に思い出したように男はつまずき、もんどり打って倒れた。
そして絶叫。
「い、痛てぇ、痛てぇよぉ、脚が、脚がぁっ」
子供のように転げまわり痛さを訴える男。
「まだ元気なようね」
冷たい声が男の頭上でした。
涙と鼻水にまみれた顔に、銃口が突きつけられた。
「ひっ、た、助けてっ」
「私、騒がしい人って嫌いなの」
「沙羅ちゃん!!」
細く白い指が引き金を絞ろうとするのを、幸人は最後まで見ることが出来なかった。
「……え?」
かちん、と音がした。が、それ以上は無かった。
「気を失ったみたいね」
既に拳銃の姿は見えなかった。おそらく、黒髪の中だ。
「あいかわらず怖いねぇ、沙羅たんは」
英治のふざけた口調には応えず、代わりに幸人に向き直った。
「銀の弾丸って高いから。無駄撃ちしたくないしね。弾倉を一つ戻して空薬莢を叩くようにしたの」
それは言い訳なのか説明なのか。
「で、どうするんだ、こいつ」
「決まってるでしょう。貴重な情報源」
「だとさ」
「へ?」
「というわけだ、幸人クン。お帰りは一名追加だ」