第三章 二人の犠牲者-2
「電話、繋がった?」
「いえ、それが……」
神奈川県横須賀市、久里浜港。
浦賀水道を通り、千葉県の浜金谷を結ぶ『東京湾フェリー』の発着港として賑わう久里浜港も、あと数分で夜十時を迎える時間となっては閑散としていた。
電話ボックスのすぐ横に止めた車に寄りかかるの英治の問いに、幸人は困惑の表情を浮かべていた。
やっと姉に会える、との思いで自らの車でかって出た幸人だったが、こうも早く失望に変わるとは思わなかった。
「出ないの?」
車の後方で立っていた沙羅が訊いた。
「いえ、電源が切れているってアナウンスが」
「そうか」
時折通る車のヘッドライトが、彼らを照らして去っていった。
「姉さん……」
「まだ時間はある。もう少し時間が経ってからかけなおそう」
肩を落とす幸人に英治がフォローを入れた。
それは分かっているのだが、その時間さえも彼にはもどかしかった。
そして何よりも説明しようのない漠然とした不安が、あせる心をあおっていた。
なぜ、こんな所に呼び出したのだろう。
話しがあるなら戻ってくればいいのに。
背後に何かある、英治も沙羅も同じ意見だった。展示場での一件もある。
「おびき寄せるつもりかもしれない」
英治はそう言っていた。感染者は新たに生み出した同類の親族との絆を断ち切る事が多いという。法的に人間として定義されていても、不老の身である感染者が普通に存在しつづけるのは難しい。そのため感染者同士が集まって自分達だけの社会を作る傾向が多いという。そして通常の社会から縁を切るために、いや、切らせるために親族を抹殺する――
「感染者がらみの犯罪で最も多い事例よ……残念なことに」
補足のような沙羅の言葉が幸人の胸に残っていた。
また一台車が通った。
「!?」
「どうした沙羅?」
最初に気づいたのは沙羅だった。すかさず沙羅が感じた変化に英治が気づいた。
「一瞬だったけど、あいつが」
沙羅の視線の先には港湾区に建てられた倉庫の群れ。昼間ならフォークリフトやトラックが間を行き交うここも、今では月明かりが頼りなく照らすのみだ。
「あいつ、って?」
幸人も眼を凝らしたが、特に人影は見当たらなかった。
「展示場の男。さっき通った車のヘッドライトで一瞬だけど……間違い無いわ」
「つう事はやっぱり罠か」
吸血症感染者であると思われるあの男。あいつがここに。
姉と関わりを持つあの男がここに。
――あんたは殺すなと言われている
沙羅が昼間に言った言葉がまた浮かんできた。
「そしてもう一つ多い事例が、近親者を仲間に引き入れるパターン。同じ感染者として」
英治も、今回は後者だろう、と苦々しげに付け加えていた。
「行こう」
英治の言葉よりも早く、幸人は倉庫に向かって歩を進めた。
その幸人の右横に沙羅が並んだ。
「焦らないで……気持ちはわかるけど」
「君に僕の気持ちがわかるのかい?」
口にしてから後悔した。いらだつ気持ちをこの子に当てつけるなんて、と。
「……理解することは出来るわ」
「ごめん」
幸人を挟むように英治が左に並んだ。
「向こうもこっちに気づいているだろうな。罠に気づいていることも。危険だが、君の姉さんの手がかりをつかむためには誘いに乗るしかない」
「はい」
それきり押し黙った三人は倉庫の影に消えていった。
「いないな」
五分ほどしてから英治が沈黙を破った。
見失った、というのが客観的な表現だろう。だが――
「誘うにしては少し動きがおかしい」
「ええ。こちらに気づいてないみたい」
「どういう……」
「静かに」
幸人の問いを英治が制止した。
「この音……」
沙羅が次に気がついた。
幸人も耳を澄ますが、何も聞こえない。
「こっちだ」
英治が向かう方向に残る二人もついていく。
その先には月明かりにもそびえる薄汚れた倉庫。
倉庫の通用口に英治が耳を当てた。
「……携帯の着信音」
「えっ?」
幸人も耳を押し当てた。
程なく、微かだが確実に電子音がドアの向こうから聞こえた。
「まさか……」
何の変哲も無い標準の着信音。恐らく日本全国の何万と言うユーザーも同じ着信音を使用しているはず。だが、それは同時に姉の携帯の着信音とも一致していた。
「俺が先に入る。合図をしたら後に続いて。絶対俺より先に行くな」
わかった、とうなずく幸人に冗談のつもりかリラックスさせるつもりかウィンクを送ってノブに手をかける英治。
始めに軽く触れ、そして廻す。
鍵がかかっていない。
ドアを九十度で開けたまま中に入る。沙羅がガイドするように軽く幸人の右肘をとる。
ドアの向こうは薄暗い廊下が続いていた。数メートル先の角で英治が首をかしげて後に続くように合図をする。それと同時に沙羅が幸人を促して入り、後ろ手にドアを音も無く閉める。
先に進むにしたがって、電子音が大きくなる。
間違い無い、近づいている。姉の元へ。
突き当たりに開け放たれたドアが見えた。その奥がぼんやりと緑色に光っている。
電子音が止んだ。
「姉さん?」
思わず駆け出して部屋に入ろうとする幸人を、入り口脇にいた英治が制止した。
なんとか踏みとどまった幸人だが、心は部屋に入っていた。
「こいつは……」
英治が視線を部屋中に巡らす。薄闇の中に点る緑色の小さな光。それが携帯のバックライトだと幸人も気がついた瞬間、微かな灯火は消えた。
同時に、英治が中に入って左手を動かした。
壁に這わせた左手が目標のものを探し当てた。
ぱちん、と音が鳴り、一呼吸おいてから青白い光が天井に明滅した。
まぶしさに眼を細める幸人。
視力が戻った時、英治は部屋の中央で肩膝をついていた。
「これ、姉さんのだろ?」
英治が背中越しに携帯を手にとって見せた。
「あ!?」
駆け寄って引っ手繰るように手に取る幸人。
一世代前の携帯電話に、ストラップがぶら下がっていた――六つの小さなブロックがついた。
MIYUKI
ローマ字でブロックに彫られた文字。
姉の名前。
「姉さん……」
「ここにはいないみたいね」
沙羅が膝をついたままの英治の傍らに立つ。
床を見下ろした彼女の視線の先にそれはあった。
「!?」
初めてそれに気がついた。そして見るのも初めてのもの。
「そ……の人」
「死んでいる」
三十代くらいだろうか、男が眼を見開いたままで息絶えていた。両手は宙をつかんだ姿勢で硬直している。
「見覚えは?」
「いえ……全然」
そら恐ろしいほど無表情で尋ねる沙羅に、幸人は姉の携帯を握り締めて答えた。
「姉さんは……どこに?」
「わからねえ。だが、こいつが何か関係していることは間違い無い」
英治がズボンの裾からナイフを取り出した。展示場で取り出した、あの禍禍しいデザインのナイフ。
「そして、こいつは」
ナイフの先端で軽く死体の頬をつつく。
「え!?」
幸人は眼を疑った。軽く振れた個所からまるで古い石膏像のようにヒビが広がり、砂とも煙ともつかぬ細かい粒子となって崩れ始めた。
「感染者だ」
その言葉が終わらぬうちに、人の形をしていたそれは原型を失い、服だけを残して塵の山と化した。
「あ……」
「感染者が死ぬとこうなる」
「……」
沈黙する三人の間で、中身を失った衣服がずれる音が妙に響いた。
「ちっ……手がかりは無し、か」
「……そうでも無いみたいよ」
沙羅が入り口を振り返った。
そこには、展示場で襲ってきた男が立っていた。