第二章 隠れた存在-5
「……疲れた……」
下がベッドでなければ大怪我するくらい重力に体を任せて幸人は倒れこんだ。
しかし疲れていたのは肉体よりむしろ精神であった。
(吸血鬼、か)
吸血鬼ではなく『吸血症患者』であることを心の中で訂正し直しながら、幸人は数時間前までの出来事を思い起こした。
「インスペクター?」
「そう。といっても、正確には吸血症候群対策課公認の民間人、という位置付けだけど」
幸人の問いへの回答、というより冬美の説明の補足をするように沙羅が続けた。
「本来なら麻薬捜査課のように正式な職員がなるべきものだが……相手の存在を公に出来ない以上、職員から人員を割くことは難しい。それでごく少数の正式職員を除いては、彼らのように捜査に適した民間人に権限を与えている」
課長が葉巻を消しながら説明した。
「捜査に適した?」
「ふふ……まあ、そのうち分かるがね」
捜査に適した民間人、とはどのような民間人を指すのか。その幸人の胸中の疑問を見透かしたのか、あえて局長はそれを軽く流して話を続けた。
「念のため断っておくが、我々の仕事はあくまでも吸血症患者の管理、いや正確には吸血症患者がらみの犯罪の監視と対処、だ。映画のように吸血鬼を見つけては滅ぼす、と言うのではない」
「なぜなら、彼らは『人』であるから」
「……沙羅ちゃん?」
沙羅が呟くように、しかしどこか幸人に言い聞かせるような口調で言った。
「『例え血を吸い、不老の存在であっても彼らは人であり、人権を有する』だったかしら、五十嵐課長?」
「吸血鬼症候群感染者に対する基本条項……そらんじているとはさすがだな、沙羅くん」
「や~ん、沙羅ちゃんてば顔だけじゃなくて頭もいいからますますカワイイわっ!!」
それこそ二重人格者のようにコロっと声を変える冬美に、慣れない幸人はビクつくばかりだ。
「ほんっと、どこかの変態さんとは大違いね」
「あんだよ、その冷たい視線はっ!?」
「あら英治くん、気のせいじゃないの? それとも頭だけじゃなく眼も悪くなったのかしら」
「何だと、俺だって条項くらい言えるっつーんだ。確か続きはだな、『ただし感染による能力で故意に社会の安全と規律を乱すことがあってはならない』」
いきり立つ英治とは対照的に沙羅が淡々と続ける。
「『この場合は公的に定められた機関およびその機関に所属する者が感染者の捜査・逮捕・懲罰を行うことが出来るものとする』」
「ま、早い話が『悪いことしなけりゃいーけど、やった時は俺達が黙っちゃいないぜ』ってとこかな」
「じゃ、あの探偵事務所は……」
「ありゃ隠れみの蓑だ。まあ、探偵課業自体もきちんとやっているけどな。幸人クンが来たように。それに、感染者の情報つかむにも都合がいいからな」
きちんとやっている、というのには疑問を感じる幸人。
「!? ちょっと待ってください」
幸人の頭の中で点が線で繋がりはじめた。
同時に、考えたくない結論が出来あがった。
「もしかして、その……姉さんは吸血鬼に……」
「なっちまってるかもしれない……最悪の場合は」
「……」
絶句、というものが何なのか、幸人は始めて体験した。
「でも、それは最悪の場合。少なくとも今のところはなさそうね」
フォローするつもりなのか、冬美が言葉を挟んだ。
「何でわかる? っていうか、あんたが何でここにいる」
英治が冬美の言葉に反応する。
「あら、いちゃ悪い?」
噛みつく英治をさらっと流そうとする冬美。
「とぼけんなよ。確かにあんたも公認のインスペクターだ。ここに来ること自体はだれも文句を言わねえ。でもよ、何で幸人クンがあんたの顔見て驚くんだ? 始めてじゃなさそうだったぞ」
「あら、盗み聞きだけじゃなくて覗き見までしてたの?」
「ごまかすな」
「幸人さんが最初に行った探偵事務所、冬美さんのところでしょう」
「ふふ、おバカさんは誤魔化せても、沙羅ちゃんは誤魔化せないわね」
「俺も誤魔化されてないっつうの」
英治を無視して冬美が続ける。
「私も、最初はありきたりの失踪事件かと思ったわ。でも、調べていくうちに色々と普通とは違う点が浮かび上がってね。それで、もしかしたら、と思ってそっちに振ってみたの」
「けっ、それで連絡も無しで俺達に押し付けたのかよ」
「別に悪いことしたつもりは無いけど? どうせあなたの事務所、万年開店休業でしょう。それに、本当に感染者絡みだったら余計にあなた達向きだと思ったから。どちらに転んでも感謝されこそすれ、恨まれる覚えはないわ」
「ふん」
「……」
幸人も沙羅も何も言い返せなかった。いや、沙羅は言い返さなかった、と言った感じか。
「黙っていた事は謝るわ、幸人さん。でも、それは確証が無かったから。まだお渡ししていない資料も彼らに預けるし、こちらも援助を……幸人さん?」
幸人の眼は完全に上の空であった。
(姉さんが吸血鬼に?)
「幸人さん?」
「あっ、はい?」
再度の呼びかけで現実世界に引き戻された幸人。
「まだなっているとは限らないわ」
「えっ?」
沙羅の言葉は幸人の心中を見透かしているかのようだった。
「すぐに感染者になるわけじゃないから――例えそう望んだとしても」
睡魔が襲ってきた。
吸血鬼に襲われたかもしれない、と告げられた時の衝撃と同じくらい抗し難い睡魔の波が。
「どういう……?」
沙羅の代わりに五十嵐課長が説明を始めた。
「吸血鬼の噛まれた者は吸血鬼になる、というのがフィクションの世界だが、実際には違う。現実には感染者に血を吸われた者が、一定の期間を経て自分の血を吸った感染者の血を摂取することによって始めて感染する。互いの血を吸って始めて感染すると言うわけだ」
「一定の期間?」
「そうだ。まだ調査中ではあるが、感染者が相手の血を取りこむことによって、相手を同じ感染者にするために必要な成分を自分の血液中に造り出すらしい。その成分を生成するには時間がかかる」
「ど、どれくらいの時間が?」
「個体差にもよるが、短い場合は二週間、長いときは一ヵ月と言う事例がある」
「二週間……」
姉が消えてからもう一週間経つ。とすると、一番悪く見積もって残り一週間。
「大丈夫だって。留守電にメッセージ入ってたろ? 明日は姉さんに会えるぞ」
「そう……ですね」
英治が励ましの声をかけてくれた。そこまでははっきり覚えている。
が、その後の会話は自分のも、そこにいた他の者も含めてほとんど覚えていなかった。
なぜなら、言いようのない不安を感じていたからだ。
眠い眼と体を何とか動かしながら、ベッド脇のデイバッグからアルバムを取り出した。
数枚めくると、姉と自分が一緒に写った写真が目に飛び込んできた。
少し苦笑いする幸人を引き寄せて、子供のようにピースサインをしている。満面の笑みを浮かべて。
知らない人が見れば、恋人同士に見えなくも無い。
実際、撮った人も最初はそう勘違いしていた。
明日、姉に会える。
でも、明日会う時、姉は同じように笑っていてくれるのだろうか。
あの留守電のメッセージ。あの時の声。
あれは本当に――
「ゆーきーとークン」
間延びした声でドアを開けたのは英治だ。
「シーツ、持ってきたぜ。いくら夏だと言っても……?」
ノックもせずに入ってきた英治のシーツを持つ手が止まった。
「なんだ、寝ちまったのか」
ベッドの上で、幸人は眼鏡も外さずに横になって静かな寝息を立てていた。
「……」
少しめくれあがったTシャツから、脇腹が僅かに覗いている。
「……ふ」
女性のように少し長く、綺麗にそろった睫毛が眼鏡の奥に光っていた。
「……ふふ」
幸人の静かな寝息とは別に、どことなく下品な息遣いが重なる。
「幸人クン、カゼひいちゃうよん」
普通なら起こす時に使う台詞を、英治は起こさないように小さな声で言った。
「ふふ……寝ている姿もまたイイもので」
身の危険に気づかず眠りつづける幸人に、抜き足差し足で近づく英治。
「まずは、おなかを冷やさないようにシャツを戻して……それくらいなら良いよね」
自己弁護の言葉とは反対に、両手の指はやたらくねくねと動かしている。
「ちょっと味見……ん?」
本音を言いかけて緩んだ英治の顔つきが、元に戻った。
「……さん」
幸人が何か寝言を言っていた。
「……姉さん」
「……」
幸人の手には、アルバムから取り出した写真が握られていた。
英治はシーツを幸人に被せると、音を立てないように部屋を出た。
「何してたの?」
「のわっ!?」
部屋を出た英治を沙羅が出迎えた。
「何だ沙羅かよ。びっくりさせんな」
「別に驚かすつもりはなかったけど。それとも、何かやましいことをしていたのかしら」
「あのなあ、俺はシーツを届けに……」
「幸人さんの寝顔、どうだった?」
「そりゃもう寝顔もまたオツなもので……」
「やっぱり、やましいこと考えていたじゃない」
「あ、あのなあ、俺はまだ何も」
「まだ? ということは何かする気だったのかしら?」
「ま、待て沙羅、そう怖い顔をするな」
「あら、私はいつもと同じよ」
確かにいつものように無表情だが、それ故に目に見えない怖さがにじみ出ているのを英治は感じた。それに。
「いつもと同じ、とか言いながらその手に持っているのは何だよ?」
「包丁。見たこと無い?」
「そうじゃなくて、何でそれを振りまわす?」
「夕食当番だから」
「わっ!!」
妙に慣れた手つきでぷらぷら指せていた包丁が英治の足元に落ちた。というか、遠心力をつけて両足の間の床に突き刺さった。
「あら、ごめんなさい」
「沙羅、てっめ~わざとだろ」
賑やかなやり取りとは無縁に、夢の中に落ちていく幸人は今宵の探偵事務所で一番の幸せ者だった。