8話
僕は今、初めて腐敗した死体を見ている。
顔が潰れた死体なら、以前電車の中で目にしたことがある。だが、今回のそれは違った。
腐敗し、蛆が湧き、鼻を突く異臭が漂う。とても正気ではいられない光景だ。
だが、吐いている暇などない。
死体がある、ということは、誰かが殺したということだ。
もちろん自殺や病死の可能性もある。だが、死体は腐っているにも関わらず、さっきまでこの家には誰かがいた痕跡が残っている。
ならば、他殺だ。
一番の問題は、そいつが今どこにいるのか、ということだ。
僕がチャイムを鳴らしてから逃げた可能性は低い。だが、扉の前にはずっと黒崎が立っていたし、ベランダの窓も内側から鍵が掛かっていたからだ。
つまり、まだこの家の中にいる。
けれど、僕たちはすでにトイレからクローゼット、押入れまで調べ尽くした。
可能性は2つ。
――何らかの能力を使ってこの場を離れたか、もしくはこの上…風呂場の天井の点検口しかない。
僕は拳銃を構え、風呂場の天井を撃った。
「何してるの!」
黒崎の声が響くと同時に、
「ぐふっ…」
といううめき声が聞こえた。
だが、僕は最悪なことに気付いた。
そいつが本当に敵なのか?
敵の敵は味方、ということもある。
しかし、どちらにせよアノマリーの再生能力は異常だ。拳銃の一発で死ぬような存在ではない。
ならば躊躇する理由もない。
黒崎が風呂場の前までやってきた。
「夜白がいたの?」
「上に…敵が」
そう言い切る前に、腹部に鋭い衝撃が走った。
太い針のような物――黒崎の仕込み傘だった。
裏切りか?
そう思ったが、黒崎の顔には本気で驚いた表情が浮かんでいる。
敵の能力だ。
つまり、上に敵がいて、まだ生きている。
恐らく敵のギフトは物質の遠隔操作だろう。だが、今は詳細などどうでもいい。
問題はどう倒すかだ。
僕の持っている拳銃はアノマリーに対しては玩具だ。しかし玩具でも適切な使い方をすれば武器になる。
それは頭部をねらうことだ。アノマリーの再生能力は異常だ。しかし、脳は構造が複雑で、再生にも時間がかかる。しかも運が良ければ即死だろう。
狭い点検口なら、適当に撃っても一発くらいは当たるかもしれない。
黒崎の刀が僕の腹をえぐる。
それでも僕は撃ち続けた。
撃っている間に黒崎が僕の体から刀を引き抜いた。
「何なのよ!」
「夜白は、上の奴に殺されたんだ」
そう言いながら、僕は天井を指差した。
黒崎は刀を構え、天井に突き上げようとする。
だが、その瞬間――刀が曲がった。まるで意思があるように。
「……!」
恐らく相手の能力はスプーン曲げみたいに棒状の物を自在に曲げる力。
ならば剣も槍も、まともに使えない。
さらに恐ろしいことに、曲がった刀が蛇のように黒崎の首に絡みつく。
"まずい!"
そう思った僕はとっさに天井に向かって弾丸を放った。
一瞬の隙ができ、黒崎は刀から逃れた。
僕たちは狭い風呂場を飛び出し、リビングまで後退する。
「能力は棒状の物を自在に曲げるタイプね」
「お前の傘はもう使えないな」
「大丈夫。これがあるから」
黒崎はメリケンサックを取り出した。
確かにこれなら棒状じゃない。曲げられないはずだ。
「私が奇襲する。あんたは見張っといて。ちょっと後ろで待機してるから」
僕が気を引いているうちに、彼女が能力で接近する。
つまり僕は囮ということだ。
とりあえず風呂場を警戒する。
リロードも済ませ、グレネードも用意した。
棒状の物は近くにないのを確認し、元々あったものはベランダから捨てた。
風呂場から物音がする。
僕は銃を構える。
背後からも金属音が響いたが、今は気にしていられない。
黒崎を信じ、目の前に集中する。
突然、何かが飛んできた。避けると、それは黒崎の刀だった。
しかし――曲がり、僕を狙って追いかけて僕の体をえぐる。
撃っても効果はない。
なぜこんなにも正確に狙えるのか。
姿も見えないのに。
もしかして、監視カメラ…?
怪しい箇所をすべて撃ち抜いた。
すると、攻撃の精度が鈍り、やがてピタリと止んだ。
どうやら正解だったらしい。
だがこの状況はかなりまずい。
黒崎の能力は瞬間移動だが、見られていると発動できない。
そして、さっきの会話も聞かれていたに違いない。
次からは、重要なことは相手に聞かれないようにしないと。
風呂場から再び衝撃音。
黒崎の奇襲だろう。彼女も監視カメラに気付いたのだろう。
次の瞬間、黒崎が吹き飛ばされた。
腕がありえない方向に曲がっている。
さらにもう一人、風呂場から姿を現した。
十歳にも満たない少年だった。
だが、手加減する理由はない。
脳天目がけて撃つ。
外れる。
胴体を狙う。
それも外れる。
六発、すべて避けられた。
リロードして撃つも結果は同じ。
今までなら八割は当たっていた。
銃も壊れていないし、曲がってもいない。
…銃弾の軌道ごと、曲げられている。
ギフトの根源は想像力。
銃弾を棒と認識したなら、軌道すらも曲げられるだろう。
拳銃も刀も拳も効かない。
そして相手は遠距離も近距離も圧倒的に強い。
こんな化け物に勝てるわけがない。
だが――
僕は重要なことを思い出した。
俺たちの任務、それは「誘導」だ。