1話
僕は知らない森で目が覚めた。
しかし、不思議と落ち着いていた。なぜなら、小説でよく読む展開だったからだ。
最後の記憶は、トラックに押しつぶされ、激痛が走ったこと。おそらく死んだのだろう。痛みに強いのが唯一の取り柄で、僕の死を悲しむ人はいなかった。この世界には未練もない。
僕の物語なのだから、自己紹介をしておこう。そう思ったが、多少不幸なだけで、話すほどのこともない人生だったので割愛することにした。
寝起きのような感覚だった。暖かさを感じたのは、体が少し土に埋まっていたからだと気づくのに時間はかからなかった。体が土に埋まっているなんて異常な状況だが、問題はそこではなかった。僕は服を着ていなかったのだ。
もし人に見られたら、せっかくの異世界なのに捕まってしまうかもしれない。異世界だから法律がない可能性もあるが、どちらにせよ人が来る前に行動しなければまずい。
案外、土からは簡単に抜け出せた。周囲を確認すると、近くに祀られているような石と、供え物らしきものがあった。お腹が空いていたので食べようと思ったが、腐敗臭がした。近くに布が落ちているのに気づく。それは都合よく浴衣のような服だった。
五分経っても着方が分からなかったので、適当に着た。おそらく、この石は転生の特典のようなものなのだろう。
状況を整理し、今後について考えた僕は、まずステータスを召喚しようとした。
「出てこい、ステータス!」
しかし、返事はない。
「出現ステータス! Come out, status! お願い、ステータス!」
何も起こらなかった。出し方が分からない。そもそもステータスがない異世界転生もあることを思い出した。
ステータスを諦め、村を探すことにした。この世界についての情報を知りたかった。
森は入り組んでいて、方向感覚があてにならなかった。それから二時間ほど歩いたとき、突然、物音が聞こえた。
僕は嬉しかった。これまで、人はもちろん鳥の鳴き声すら聞こえなかったからだ。動物でも何でもいい。この際、熊でもいい。
そう思ったのが間違いだった。本当に熊だったのだ。
鋭い目つきで僕を睨むその熊。近くに動物がいなかったのも、こいつが食い殺したせいかもしれない。じりじりと僕に近づいてくる。
見た目で判断してはいけないとは言うが、こいつは動物園にいる熊とは違う。凶暴で残忍だと直感した。僕は動けなかった。
攻撃されたら、二度目の死を体験するかもしれない。
しかし、体は反射的に動き、攻撃をかわした。とっさに避けたため、腕にかすり傷ができたが、仕方がない。
「話し合わないか?」
そう言ってみたが、相手は熊だ。反応するはずがない。そもそも話せるなら、最初から攻撃してこないだろう。
熊は雄叫びをあげた。もしかして会話に応じる気になったか? と思ったのも束の間、新たな熊が現れただけだった。
「大きな声を出せばいい」と何かで読んだので試してみたが、逆に刺激するだけだった。
一匹ならまだしも――いや、一匹でも無理だが――二匹を相手にできるわけがない。
逃げるしかない。学生時代は運動神経が良かった方なので、逃げ切れると思った。
……が、しかし。
三分も経たないうちに、二度目の攻撃をくらった。背中に激痛が走る。
僕が痛みで叫ぶより先に、熊が叫んだ。どうやら、僕の血が目に入ったらしい。しかも、奇跡的に両方の熊に。
戦闘不能とまではいかないが、多少のダメージは与えられたようだ。
とりあえず、逃げよう。
全速力で走ろうとしたが、背中が痛くて思うように動けない。
痛い。だが、「痛みに強いのが唯一の取り柄」と言ってしまった以上、耐えなければならない。
ゆっくりだが、僕は逃げ続けた。
熊たちも遅い。目を潰したから慎重なのだろう。それでも追ってきているのは嗅覚のおかげだろう本で熊の嗅覚は犬以上といつことを読んだ気がするしかし、目が使えないせいか、慎重に動いているようだった。
逃げると、目の前にさっきの石があった。
直線的に歩いたつもりが、迷ってしまっていたらしい。
もしかしたら、無意識にここへ戻りたかったのかもしれない。あるいは、服を勝手に着た罰なのか。おそらく後者だろう。
しかし、もっと罰当たりな考えが浮かんだ。
僕は体に供え物を塗った。塗りにくいものは熊に投げた。
腐敗臭が強烈だったため、熊の鼻をやられるのではないかと考えた。
こんなことをしたら怒られるかもしれないが、誰も見ていないし、第一にここは異世界だ。前の世界の常識は通用しない。
熊は苦しそうにしていた。だが、三発目の攻撃を仕掛けようとしてきた。
しかし、熊の攻撃は僕に当たらなかった。避けていないのに。
どうやら、熊は位置を勘違いしているようだった。
なぜか、僕は「今しかない」と思った。
僕は熊を殴った。素手で。
驚いたことに、熊は怯んだ。
さらに追撃を加えると、熊は一歩引いた。そして、もう一匹とともに逃げていった。
僕は人を、ましてやサンドバッグすら殴ったことのない人間だ。
「火事場の馬鹿力ってすげー……」
そう思った。
一息つくころには、夜になっていた。
あんなのがまだいるかもしれないと思い、森を抜けようとした。
意外にも、簡単に出られた。
出た先は丘になっていて、思いがけず美しい景色が広がっていた。
少し前なら、喜べたかもしれない景色。
光輝く、東京の夜景。