「楽しみにしていろよ」そう言いながら兄はうっそりと笑う。
お兄ちゃんです。
「逃した魚は大きかっただろう。思い知るが良い!」というシリーズの3つ目です。→https://ncode.syosetu.com/s8970h/
「離縁してください」
言われて、驚いた。
彼女は一体何を言い出すのかと表情は驚いたまま、考え込む。
妻であり、同盟国の第三王女である彼女の顔をじっと見つめる。
いつもと同じように柔和な笑みを浮かべたままだ。
何を考えている?と深読みをしようとして、いや、と思い返す。
彼女は自分に正直だ。良くも悪くも。なら本心なのだろう。
ため息が漏れそうになるのをじっと堪える。
「急に何を言い出すんだい?なにかあった?」
常に気をつけている柔い声音で尋ねる。
「私、思いましたの。私がここに居る意味はあるのかしら?」
「……私の妻であるのは不服かな?」
「いいえそのようなことは申せませぬ。私が望んでこちらに参ったのですから」
「では、何ゆえそのような」
「私ね、思いましたの。このままでは貴方の役にはたたないと。貴方にはもっと良い方が居られますわ」
頭に血が上りそうになるのを咄嗟に耐える。
今更だ。今更何を言うのか。
自らが望んだのだろう。今の有り様を。
同盟を強固にするための輿入れ。僕を見初め、次代に二国間で出来た子を据え、この国に食い込みたいとする父王の意を利用してここに来た。
生国での生き方のままに、王女気分のまま「妻」と「国母」としての役割だけしか担わない、担う必要はない、としていたのだ。
彼女が居なければ、僕はあのまま「彼女」と。
そこまで考えて、目を伏せる。
「とにかく。僕も驚いている。このことは明日話し合おう」
取りあえず先延ばしを告げると、少し不服そうに頬を膨らます。
「あら。すぐにでもご理解いただけると思いましたのに」
「何を言う。愛する妻に突然離縁を希望され、慌てない夫がどこにいると思うんだい?」
「だってあなた、私のことあまりお好きでないでしょう?」
「…誰だい?貴女にそんな根も葉もないようなことを吹き込んだのは?」
「私だってそのくらいわかります。貴方は仕方なく私を娶った。さぞがっかりしたでしょう?役立たずの妻で」
「誰かに言われたの?」
怪訝に思って尋ねると、ふわりと首を振る。
「私をね。解放していただきたいの」
にこりと微笑む。
頑固な彼女は、言い出したら聞かないのはわかっている。
取りあえず、父と話をしなくてはいけないな。
今日のところは落ち着きなさい、と告げて部屋を出る。
父への先触れと側近達の招集を命じながら先の事を考えると頭が痛かった。
泣いているのは知っていた。
先日外遊で訪れた帝国の夜会で、令嬢方に笑われたのだと聞いている。
理由も知っている。挨拶回りで振られた会話について行けなかったらしい。
この日、妻は生国のドレスを纏っていた。
一応止めたんだけどね。このような場で、属する国以外の物を纏うなど、非常識この上ない。
帝国の皇太子の婚約発表の会だったから、招かれた皆はこぞって外交、社交に励んでいた。勿論僕たちも。
自国の優れた所を大っぴらに自慢できる格好の場だ。このような機会、ままある事ではない。
だから妻には最近売り出しているガエル織の絹を使ったドレスを着て欲しくて用意をしていたのだけれど、彼女は生国のドレスに拘った。
「私にはこれが似合うの」と言って譲らなかった。
確かに彼女の豊かな黒髪には、繊細で軽く、柔らかいガエル織より生国の特産であるバッヘム織の照りと張りのある生地の方が映えることは理解出来るんだけど。
それをなんとかするのが社交であり外交であると、僕は思うんだけどね。
その場に居た、服飾を得意としている帝国の令嬢が問うたそうだ。
「ガエル織りをとても気に入っている。最近になって手に入れやすくなったが、今後はどうだろう」と。
それに答えることができなかったそうだ。
たまたまその令嬢が帝国旧家の出で、今はあまり主流ではない宮中言葉で聞かれたため、理解できない様子だったと聞いた。
いつものように少し困ったように眉を下げ、儚げな笑みを浮かべる様が手に取るように想像できる。
自国内なら問題無い。
彼女よりもっと詳しい、生地産業を生業としている家の令嬢が張り切って答えてくれるだろうし、弟の婚約者であるカリーナ嬢が仕方なく助けてくれるだろうから。
問うても答えてもらえず、にこりと微笑むばかりの彼女を、周りの令嬢はどのように思ったかは想像に難くない。
いつもなら可能な限り付き添うし、外交担当官が近くに控え、出来るだけ然り気無く助けていたのだが今回は場が悪かった。
大規模な夜会故、随行出来る人数は限られていたから、彼女に張り付く外交官を用意することができなかったし、僕自身も避けることが出来ない方に話しかけられ、離れた瞬間だったのも間が悪かった。
戻ったとき、笑顔ではあったがどこかぎこちない様子が気にかかったが、彼女ばかりに気を取られるわけにはいかず、その場を自然に離脱させるのみとなった。
その晩だ。
突然泣き出した彼女に呆気にとられた。
原因を問いただしても要領を得ず、どうしたものかと困っていたらようやく泣き止み、にこりと微笑んで「なんでもない」というばかりだった。だからそれ以上追及することも出来ず、「気にかかることがあれば言うように」と伝えるに止めた。
ちなみに、事の顛末は夜会の翌日、近くに居合わせた帝国の伯爵から聞いた。
彼の領の特産である、宝石の加工技術が欲しかったから、技術者派遣の要請のため個別の場で交渉していた時だった。
「苦労しますね」と苦笑されてしまったが仕方がない。
「彼女の稚さも良いところで」と物好きを装っておいたが、僕たちの馴れそめは広く知られているから、ある意味同情されているとも言える。
彼女を変えることを、期待するのを諦めてしまっていた僕達も悪かったのだと思う。
日々の政務に追われ、説得することが面倒で、止めてしまっていた。
今でこそ同盟は対等だが、彼女との結婚を決めたときは、派兵されるかされないか、それで戦の勝率は天と地ほども違ったから、どうしても断ることができなかった。
彼女を溺愛する国王に「なら兵は出さない」と臍を曲げられては困るから、業腹ながら諾々と従う他なかった。
その後国に帰ったあと、珍しく座学を受けると意気込んでいたから、良いことだね、と褒め称えておいた。
多少痛い目に遭ったのが良い方向に行ったのか。よかったと安堵したんだけどねぇ。
その後も国内の令嬢やご夫人方を招いた茶会でも芳しくなかったようだった。
然もありなん。付け焼き刃では満足のいく結果は出ないだろう。
はらはらと涙を流す様子に、自分がどんどん冷めていくのがわかる。
その後何度か話し合いの場を持ったり自分なりに言葉を尽くしてみたけれど、こんな時ばかりは強情で、御せないことを理解するよりなかった。
仕舞いには居室に閉じこもってまでの断固拒否だ。
「そうか。致し方ない。だが何分急な話だ。お父上は了承されているのかな?」
「いいえ。伝えれば反対されるのはわかっておりますので」
「では、今すぐには無理だとわかっているね?親しい間柄と言え、誤解があってはいけない」
そう、突然国元に帰られて、不遇をしたと誹られては困る。
「私からも文を認めましょう。それで良くて?」
「ああ。………残念だ」
苦笑して肩を落として見せる。面倒だな、とどこかぼんやりと考えた。
「ごめんなさい、お役に立てなくて」
どの口が。と出そうなのを堪えて笑ってやった。
「漸く自覚して分を弁えたということではないのか?」
父がふんと鼻を鳴らして吐き捨てる。
「いやいや。簡単に言わないでくださいよ。これでも僕、努力してきたんですからね」
「裏はあるのか?」
「無いですね。間者からも特にこれと言って連絡は無いですし」
「そうか。これまで大人しかったのが、最後に特大の我が儘だな」
「そうですねぇ。どうしましょうか」
「どうもならんな。ここで無理強いして父親に助けでも求められてみろ。あの、娘を溺愛する王だ。取り返しにくるぞ」
「最初の目論見はご破算になりますが?」
「あちらとて駄目で元々の策であっただろう。たとえ孫が両国の王位継承権を持っていたとして、すんなり我が国を取り込めると思うか?」
「無理ですね。通常であれば他国の継承権は返上することになる。よしんば上手くいったとして、傀儡にするにも我が国の貴族も無能ではない。そう易々とはいきません」
「だろう?国母となった娘を伝手としようにも、あの娘だ。上手くいかないだろうし、いかせんよ」
「たしかに」
父と、母と、大臣と。みなでため息を吐く。
「もう1年早かったらなぁ。フィリア嬢の身も空いていたのだが」
「無茶言わないでくださいよ。フィリアはコーネリアの輿入れが決まった早々に嫁ぎ先が決まったんですよ。1年前でも新婚早々だ。ウチの都合で離婚させるわけにはいかないでしょう」
「なら妃はどうする。国内にめぼしい娘はおらんぞ。他国から嫁取りするにもなぁ」
「カリーナ嬢がいますよ」
母が息を飲む。父の目が鋭くなって睨まれた。
「カリーナ嬢か。ありだな」
「あなた」
「考えても見ろ。彼女なら不足は無い。王子妃の教育は既に終わっていると聞く。追加するとしても多少だろう」
「あなた!」
母は弟のことを考えているのだろう。鋭く遮る。
だが。
「仕方ありません。取りあえずコルティエを呼びましょう」
「そうだな。急ぐ必要がある」
カリーナの父であるコルティエ卿を呼び出すべく使いを出す。
さて。どう転ぶかな。
「承知しました。娘も喜ぶことでしょう」
「嘘はいらないよ。喜ぶわけないじゃない」
「これまで以上に国の役に立つのです。望外の喜びでしょう」
「そうかい」
コルティエは外務を務める大臣だ。
僕の正体も知っている。当たり前だ。外向きの者と連携できなくてどうする。
四年前の戦の際も、同盟に他国への牽制にと共に働いてきたのだ。ある意味気心が知れている。
「悪いと思っているよ。ただ他に居なくてね」
「承知しております。あれは我が娘ながら出来が良い。必ずやお役に立てましょう」
「役に立つ、ね。これまでも存分に気働きはしてくれていたのに。可哀想なことだ」
「致し方ございません。あれも理解しましょうぞ」
「だと良いけどね」
父親の言質は取った。
後は議会で承認を取って…ああ、先に弟に伝えなきゃ。内緒にすべきことじゃない。
彼女自身はこちらの申し出はきっと断らないだろう。そういう子だ。
「ああ、気が重い」
「なんの。飲んで貰わねば。苦いでしょうが、それを支えるのが我らの役目」
「ありがとう。悪いね」
それでは、と退席する卿を苦笑して見送る。
目を合わせてくれなかったな。娘の幸せを考えれば当然か。
一人になると、自然、ため息が出てしまう。
「仕方ない、か。諦めるのは僕だけで良かった筈なのになぁ」
仕方ない。仕方ない。
我らは王家と貴族だ。国のためには個は不要であると教えられ、そのように生きてきた。
幼い頃からの婚約者を思い出す。
共に歩んでいこうと約束したのに、手を離したのは僕だ。
コーネリアとの縁談も、何が何でも無理だ、と断ることは出来た。
だがあの当時、取れる道の中で一番早くて確実で、簡単なのは彼女を娶ることだった。
あの時、今のことがわかっていれば、と思うけれど。詮ない事だ。
「うまくいかないものだねぇ」
独り言ちて、窓の外の青空を見上げる。
弟とカリーナ嬢の道は絶たれた。
絶つのは僕だ。本意ではないけれど。
「ごめんなぁ」
議会の承認はすぐに下りるだろう。弟にこれを告げるのは、僕の役目だ。許してくれるといいな。
その後は。そうだな、あの国にちょっと意趣返ししておかないと。
すぐには無理だ。早々に動いてしまったらせっかくの優位がふいになる。
そんなことになったら、弟もカリーナ嬢も報われないじゃないか。
四年前と違い、同盟はあの国だけと結んでいるわけじゃない。
着々と力を付ける帝国に対応できるよう、今の近隣諸国は表向き円満だ。
どうしようかな。どんな手があるかな。
腕を組んでじっとりと考る。
「楽しみにしていろよ」