2-3.
まじかよ。
心の中で呟いたつもりが、どうやら口に出ていたらしい。担任の小川京子こと京子ちゃん先生がじろりと俺を睨んだ。
「あら、新野くん、今月は書庫整理当番だって前から連絡してたわよねぇ。なにか問題でもあるのかしら」
こうして本物を聞くと、昨日翔太がしてみせたものまねはまったく似ていなかったな、と思う。俺の頭に翔太の京子ちゃん先生がよぎって、笑いそうになった。慌てて表情筋に力を入れ、『だるい』の顔を作る。
「ちな、それ、内申点ってもらえるんすか」
「まさか。そんなわけないでしょう。だいたい、君は先生にため口の時点で減点です」
「マジ? それだけは勘弁してよ」
生真面目な京子ちゃん先生にも冗談だと伝わるようにへらりと笑みを浮かべれば、京子ちゃん先生は「呆れた」とため息混じりに俺から視線を外した。代わりに、俺の隣で妙に緊張した面持ちで立っている大道にやわらかな笑みを浮かべる。
「大道くんは大丈夫かしら」
「はっ、はい、もちろんです!」
「京子ちゃん先生、俺には大丈夫か聞かないんすか」
「はいはい、新野くんは大丈夫ね。じゃ、よろしくね」
京子ちゃん先生は俺を適当にあしらって、書庫の鍵を大道へと差し出す。大道はそれを素直に受け取ると、続けて遠慮がちに俺を見た。
まさか、こんなことになるとは。
メガネの奥に見える瞳の困惑が、俺と同じ感情を抱いていることを証明している。文句なら京子ちゃん先生に言えよ。そんな気持ちをこらえて「行くぞ」と俺は大道を渋々促した。ここに突っ立っていても帰りが遅くなるだけだ。書庫整理といっても、毎月各クラスの図書委員が持ち回りで掃除やら片付けやらをしているのだから、大した作業があるわけではない。
さっさとすませて帰りたい気持ちと大道への苦手意識があいまって、俺の歩調はいつもより速くなる。
「あっ、新野くん、図書委員だったんだね」
職員室を出てすぐ、後ろから俺を追いかけるように大道の声が聞こえた。俺はそれを無視して歩き続ける。だが、書庫までの道のりは長く、階段をのぼっていくうち、大道が俺に追いついた。
「ぼ、僕、委員決めのとき、休んでたから、知らなくて」
隣に並んだ大道は想像以上に小柄だった。小さい翔太より多分小さい。俺の歩調に一生懸命合わせているらしく、狭い歩幅を無理に広げるたび、後頭部の寝癖がぴょこぴょこと揺れる。廊下から差し込む光のせいか、その髪は真っ黒というよりは少し青みがかっているように見えた。
「ほ、本、好きなの?」
意外にも神経が図太いらしい。それとも、俺が無視していることにすら気づいていないのか。大道はなにが楽しいのかへらへらと笑って話を続ける。
「僕、あんまり本とかは読まないんだけど、あっ、新野くんは?」
「……別に。図書委員が一番楽だから」
「そ、そうだよねっ、図書委員、楽だよね」
適当な俺の言葉を素直に受け止めて、オウムみたいに繰り返す大道はしまりのない顔をしていた。やっぱり、こいつが世界一位だなんて信じられない。
俺から大道へ話すことなどない。だから、大道が口を閉じれば自然と沈黙が訪れる。
校舎の最も端にある図書室に近づくにつれ、学生の姿はまばらになり、足早な上履きの音が二つと、吹奏楽部の楽器の音だけが放課後の廊下に響いた。
階段をのぼりきる。正面、図書室には数名の学生が見えた。だが、俺はそれを気にもとめず、図書室の隣、真っ暗な部屋の扉に手をかける。
「鍵」
俺が振り返れば、大道は慌てふためいて、京子ちゃん先生から預かった書庫の鍵をズボンのポケットから出した。
俺はそれを受け取って鍵穴に差し込む。だが、建付けが悪いのか、鍵自体が古くなっているせいか、鍵は回らなかった。そうして、書庫の扉が開いたのは、俺が五回ほど鍵を差し直したあとだった。
「う、うちの学校、こういうところ、古いよね」
大道がフォローするように愛想笑いを浮かべる。
「だる」
簡単に開かない扉に対してか、大道に対してか。自分でもよくわからないまま文句をこぼせば、大道は作ったような弱々しい声で笑った。
部屋の内側につけられたスイッチを探る。パチン、と音がして、蛍光灯が数度またたいた。書庫全体が明るくなると、途端に紙の匂いと埃の匂いが鼻を刺激する。週に一度の換気も図書委員の仕事だったはずだが、今年は梅雨が長かったせいか、それとも先月の委員のやつらがさぼったのか、湿気と熱で蒸されたような空気が立ち込めていた。
俺は奥の窓を開ける。窓も扉と同じように鍵が痛んでいる。大道が俺に習って窓を開けるから、ギイギイ、ガタガタと騒がしい音がした。
「ま、窓もすごいね。海風のせいかな」
窓の悲鳴に負けじと、大道は声のトーンをあげる。俺は聞こえないふりをして窓を開けていく。
すべての窓を開け終えて、沈黙がやってくると
「あ、あのさ!」
大道がひときわ大きな声をあげた。まさかそんな声が出るとは思っていなくて、俺は反射的に大道を見てしまう。大道は真剣な表情だった。
「あ、えっと……その、今朝のこと……」
俺と目が合ったことで急に冷静になったのか、大道の声がどんどんと小さくなる。口調までもつれはじめて、俺は「なに」と苛立ちを声に込めた。面倒くさい。早く帰りたい。俺のそんな気持ちを無視して、大道は意を決したように顔をあげた。
意志の強そうな瞳が、メガネの奥に輝いて見えた。
「今朝はありがとう」
それは、耳馴染みのよい声だった。思わず聞きいってしまうような、すっと体に染み込んでいくような、そんな声。
「……は?」
だから、俺は返事に戸惑い、一拍の間をあけてなお、そんな返事しかできなかった。考えてみれば、そんなつもりはなかったものの、俺の今朝の行動は大道をかばったように見えただろう、と簡単に想像できたのに。
俺の考えを肯定するように、大道が俺の行動を事細かに振り返り、それに対して自分がいかに救われたかということを、まるで敬虔な信徒のように語った。
「だから、その……今日、偶然だけど、こうやって新野くんと話せるチャンスができて嬉しくって」
海風にはためくカーテンをバックに、大道は眩しいほどまっすぐに笑う。
翔太に負けず劣らずのストレートな剛速球を俺が真正面から受け止められなかったからだろうか。
バタン!
その球はどうやら扉に直撃したらしかった。
音の方へと目を向ければ、開けたままにしていたはずの扉がきっちりと閉まっている。
俺と大道が声を発したのは同時。
「あっ……」
「まじか」
開けるのに苦労した扉だ。当然、内側からだってそれは同じだろう。
嫌な予感を振り払うように、どちらともなく扉へ駆けよる。一歩早く扉前に到着した俺は、祈るように内側から扉を押す。
だが。
「これ、詰みじゃね?」
「……閉じ込められた、かも、だね」
びくともしない。おそらく鍵がかかったのだ。しかも、鍵穴に鍵を差し込もうにも、なにかが詰まっているのか、それとも錆びてしまっているのか、奥まで鍵を差し込むことすらできなかった。
俺たちは自然と顔を見合わせる。
「……まっ、漫画みたいだね!」
「いまどき漫画でもありえねえだろ……」
見合わせた顔は正反対だった。