2-1.
朝日を受けてギラつく海を電車から眺めて、俺は大きなあくびを一つ。うざい母親とだるい兄貴のせいにするわけではないが、昨日はどうにも落ち着かなくて、結局寝付いたのは深夜二時だった。
一番になれなくたって生きていけるのに。
わかっていても、紙で指先を切ったときみたいに、かすかな痛みが俺の気を散らす。
いつもなら、もう学校か、と思うのに、今朝は一秒でも早く電車が駅につくことを願っている。
「藤波高校前、藤波高校前です。本日も、江ノ島電鉄をご利用いただき……」
流れてきたアナウンスに、俺は前に抱えていたリュックを背負いなおした。
いつものメンバーといつもみたいにバカ話をしたい。一人でいると余計なことを考えてしまうから。
小学生が修学旅行当日に早起きをして家を飛び出すみたいに、俺は、らしくもなく電車からホームへと早足で降り立った。改札をくぐり、海を背に歩き出す。幸運にも、見慣れた茶髪姿がすぐ目についた。ホッとした気持ちを顔に出さないよう細心の注意を払って声をかける。
「おーす」
「おはよぉ」
先ほどまでの俺同様、大きなあくびをした翔太が眠そうにこちらを振り返った。
「あれ、亮ちん、同じ電車だったぁ? 全然気づかなかった」
「俺も。てか寝てたわ」
嘘だ。眠いのに、一睡もできなかった。昨日の鬱憤をごまかすために、今朝の俺は海を睨みつけていた。けれど、当然そんなことを打ち明けられるわけもなく、いつも通りを装う。
「亮ちん、いつも寝てない? いっつも俺が見つけるもん」
「今日は俺が見つけただろ」
「そりゃ、歩いてたら俺のほうが目立つからねぇ」
「小さいからな」
「いやいや、イケメンオーラが溢れ出てるんで?」
「こないだフラれたばっかのくせに」
「それはあの子の見る目がないだけだからぁ! 今度こそ絶対うまくいくし!」
そう、これだ。これでいい。翔太との他愛もない会話に俺は大げさに笑う。翔太がまたもや一目惚れをした猫カフェの店員の話を適当に聞き流しつつ、心を平らにならしていく。なにごとも、ほどほどに、適当に、楽して効率よく生きていければそれでいいのだ。
「てかさ! 昨日、猫カフェ行ったんだけどさぁ」
「まじか。お前、よく行くな」
「行かないと会えないもん! でさ、ついに! 連絡先! ゲットした!」
呆れる俺のことなどまるで見えてません、というように、翔太がキラキラとした目でこちらを見つめる。ほら、と差し出されたスマホの画面には、たしかに猫カフェで見た女子のアイコンが映っていた。翔太が言うほどかわいいとは思えなかったから、あまり覚えてはいないけれど。
よくもまあこんなに一生懸命になれるな、と心のどこかで冷めた俺がいる。
だが、尻尾を振っているときの犬みたいに目の前の友人が喜んでいるのを興ざめさせるほど、俺の性格は曲がっていないから、俺は「よかったじゃん」と口先で肯定した。
翔太は恋をしているだけ。そんな翔太に嫉妬するなんて、それこそバカバカしい。
けれど、だんだんと声のトーンがあがっていく翔太を直視できなくて、俺はまた適当な相槌でやり過ごした。ここに大斗や圭介がいればまた違ったのだろうが、あいにく、登校中の生徒の中に二人を見つけることはできなかった。
門をくぐり、靴箱の並ぶ昇降口まで歩く。ダラダラとどうでもいい会話を続けていたら、翔太が「あ」と声をあげた。大斗と圭介の代わりに見つけたクラスメイトに、俺が顔をしかめたのと同時だった。
「世界一位くんじゃん」
もはや清々しささえ感じるほどストレートな翔太の呼びかたに驚いたのだろう。呼ばれた張本人――大道は少しだけ床から浮いたように見えた。
「お、おはよう……」
意外にも聞き取りやすいハスキーな声だった。控えめな雰囲気は印象通りだが。
ボサボサに伸ばされた前髪の奥に銀縁の細いフレームが光る。さらにそのメガネの奥にある瞳は挙動不審なまでにあちらこちらへと動いている。
世界一位と、目の前に立つ冴えない大道。
どうしたってその二つが結びつかなくて、俺は挨拶もそこそこに大道を凝視した。
大道はそんな俺の視線に気づいたのか、ようやく視線を俺に定めて、困ったような、照れたような、なんにしても居心地が悪いと言いたげな顔をして見せた。なんの用事か聞かないあたり、おそらく大道の脳は現状を処理しきれていないのだろう。
だが、普段、相手の容量なんて気にもとめずに会話をしている翔太は、
「ね、世界一位くんってさ、なんの世界一位なの?」
と再びストレートの剛速球を大道に投げつける。大道はそれを顔面で受け止めたらしく、目をチカチカとさせていた。デッドボールだ。
「あ、えっと……」
大道はいよいよ困りましたと泣きそうな顔をする。
「翔太、やめとけって。大道くん、困ってんじゃん」
俺はからかうような声音で翔太の背をたたいた。別に、大道をかばったつもりなんて微塵もなかった。大道が本当に世界一位であることを認めたくない、なんて自分勝手な防衛本能に近い。むしろ、困ってくれて助かったとまで思っている自分が嫌で笑いがぎこちなくなる。
だが、当然、大道にそんなエゴは伝わらない。俺を見る大道の目は輝いていて、それを見た俺は、またも口内で苦み味わう羽目になった。結果、防衛失敗といえる。流れ弾にもほどがある。
「えぇ~、いいじゃんね、別に! だって本当に世界一位だったらすごいっしょ?」
翔太は言いながらも靴箱からようやく自分の上履きを出して、靴を履き替えていく。その隙に逃げればいいものを、大道もまた、丁寧な手つきでスニーカーを靴箱へしまった。
そうこうしているうちに、
「おっす」
「朝から集まってなにしてんの? っていうか、大道じゃん。おはよう」
と聞き馴染みのある声が聞こえる。見れば、大道は再び硬直していた。だからさっさと逃げればよかったのに。俺はため息を飲み込んで
「はよ」
なんでもないような顔で大斗と圭介に挨拶を交わす。大道なんて無視して、さっさと教室に行こうぜ。そう思う俺とは裏腹に、大斗は普段関わることのないクラスメイトがこの場に混ざっていることが気になったらしい。
「なに? いじめ?」
と鼻で笑った。紫に染まった前髪の奥から、いじわるそうな瞳が覗く。
「お前がな」
俺がツッコめば、バスケットシューズを無理やり靴箱に押し込んでいた圭介も「ほんとだよ。大道、怖がってるだろ」と大斗のすねを軽く蹴る。ほら、また逃げるチャンスだぞ。俺が大道をチラと見やれば、大道はボケっと俺たちを見ていた。
まじで、なんなんだよこいつ。
俺には絶対にとることができないであろう世界一位という壮大な肩書きが、俺の中であっけなく崩れ去っていく。
どうしたって手に入れられないそれを持っている男が、こんなにもとろくて、空気を読むことすらできない。
そのことがまた、無性に俺を苛立たせた。