1-2.
やっぱり翔太と猫カフェに行けばよかった。
帰宅早々、そんな後悔に耐え切れず舌打ちすると
「なにその態度!」
母さんの金切り声が飛んできた。ウザい。だが、ここで反抗しようものなら、もっとうるさくなるだけだ。
俺はそれ以上母親の目に成績表をとどまらせぬよう、そっと裏返して机の上に置く。
「はいはい、悪かったって」
「あんた、反省してないでしょ!」
「してるって。次は頑張るよ」
「次は、次はって……。昔からあんたはそう言うけどねえ、いつになったら一番に……」
「母さん、そこまでにしなよ」
穏やかな声が母さんの声を遮る。兄貴だ。途端、気づいたら俺は二度目の舌打ちをしていた。母さんが俺を睨みつけるが、兄貴が俺の肩を叩いて
「亮、荷物届いてたよ。部屋に置いてあるから確認しておいで」
と俺をリビングから逃がす。
「もう、そうやって勇輝が甘やかすから」
「甘やかしてないって。だいたい、母さんは俺と亮を比較しすぎなんだよ。俺たちは違う人間なんだから」
やわらかな兄貴の声と徐々にトーンダウンしていく母さんの声を背に受けながら、俺は階段を足早にのぼる。自分の足音に集中して、二人の声を排除した。
部屋の扉を開け、瞬間、気の緩みと苛立ちがピークに達したことが相まった。「うざ」と声が漏れる。わかってはいたが荷物などない。わかっていたのに、実感してふっと怒りがわきあがった。偽善者め。
リュックをおろしてベッドへ寝転がる。
「なんなんだよ」
ムカつく、そんな思いを吐き出したつもりだったのに、情けない声が出る。ムカつく。
俺の心を逆なでするのは、いつだって兄貴だ。あの兄さえいなければ、俺の人生はもっとイージーモードだったはずなんだから。誰だって、一番を知らなければ、二番で満足できる。
「だる」
モヤモヤとわきあがる気持ちをごまかすためにスマホを取り出したのに、ノックをする音が邪魔をした。
なんでもできる兄貴は、俺を煽ることも得意らしい。
「なに」
扉ごしに最低限の返事で答える。丁寧に開かれた扉から、兄貴が顔を覗かせた。その手には成績表が握られている。
「そんな顔するなよ。母さんも疲れてただけだよ」
優しい兄貴は、どうやら俺が母さんに腹を立てていると勘違いしているらしい。勉強だって運動だって簡単に一番をとってみせるくせに、どうして弟の機敏は察知できないのだろう。
「別に」
俺はスマホをタップする。見たいものがあるわけでも、調べものがあるわけでもない。翔太からのメッセージが入っているだけで、それも急ぎの用事ではない。ただ、狭い部屋の中で、自然な感じを装って兄貴と視線を合わさずにすませるには、こうするしかなかった。
「はは、別にって……。まあ、亮の気持ちもわかるけどさ」
全然わかってないだろ。言いかけて、俺はぐっと腹にとどめる。母親と同じだ。数十秒も我慢して、適当にその場を流すことさえできれば、これ以上の害を被ることはない。
だが、早く出ていけ、なんて祈りが神さまに届くはずもなく、兄貴は俺のベッドに腰かけた。俺がスマホを見ていることなんて気にもせず、成績表を俺のほうへ差し出す。
「ほんと、母さんの言うことなんか気にしなくていいからな。二位って、すごいじゃん。英語以外も、十三位とか、三十位とか……藤高だったら充分だと思うし」
真面目くさった顔で言っているんだろうな。そう思ったら、笑ってしまいそうになる。
一番をとれるやつが、二位で充分すごいだなんて、バカにするにもほどがある。だいたい、兄貴が卒業した高校は俺の通う藤波高校よりもさらにレベルの高い進学校で……つまり、そもそもの土俵すら違うのに。
結局、兄貴は内心で俺のことを見下しているのだ。はき違えた優しさはただ残酷なだけだとも知らず。
俺が無視をし続けているからか、兄貴は「うん」と一人でうなずいて、話を切りあげた。ベッドから立ちあがり、成績表を俺の机に置くと、
「なあ」
と声がかかる。
もういい加減出ていってくれよ。俺はうんざりしながらも、渋々スマホから顔をあげた。
こういう投げかけをしてくるときに一度視線を合わせてやる。そうすれば、兄貴は一言の余計なお世話を残して素直に部屋から出ていくのだ。俺にとっては兄貴を追い払うための行動を、多分、兄貴は、俺の気分が落ち着いたと勘違いしているのだと思う。お気楽なやつ。
「なに」
「……いや、なんでもない。俺は亮のこと、信じてるからさ」
一番をとれるやつだって?
鼻で笑ってしまいそうになるのを必死にこらえて、俺は「ありがと」と心にもない謝罪を述べる。すると、兄貴は満足げな笑みを浮かべた。こんなやつに礼を述べなければならないことは癪だが、追い払う方法としては最も効率的でシンプルだ。
兄が俺の部屋から出ていったのを見送って、ため息が口をついて出る。ようやく解放された。スマホとともに体をベッドへ放り投げると、どっと疲れが押し寄せた。
一番、一番って、そんなに偉いかよ。
教室の隅で、照れくさそうに、けれどどこか誇らしそうにしていた大道の姿が脳内をよぎる。
っていうか、あんなやつが一位? 世界で?
八つ当たりだとわかっていても、むしゃくしゃして、なにかに当たらずにはいられない。自覚しているのに、大道をバカにすることは止められなかった。
伸びた前髪のせいか、自信なさげにぼそぼそと話すせいか、普段はなにを考えているのかもイマイチわからなくて、暗いって言葉がぴったりな雰囲気のやつ。たしか、春先にやった体力テストも壊滅的だったはず。少なくとも、みんなの前で走った五十メートルは最悪だった。ふざけてるだろって大斗と話した記憶がある。
……そんなやつが一位?
「ありえねえ」
鼻で笑った瞬間、俺の心がざわりと大きく揺らめいた。
声に出してしまったせいかもしれないし、棚に飾られた賞状やトロフィーが目についてしまったからかもしれない。達筆な文字で書かれた賞状の『二位』や、トロフィーの銀や、盾に埋め込まれた銅。いくつも並ぶそれらが鈍い色で沈黙している。
弟のことなんて一ミリもわからないような自己陶酔野郎でも、暗くて地味なやつでも一位をとれるのに、俺は一度も一番になったことがない。
その事実が急に浮き彫りになって、俺の笑いはむなしい自嘲に変わった。
「ださ」
ある程度のことは人並みに、器用にこなせる自信はあるのに。
俺は、一番になれない。