3-6.
舐めていたわけじゃない。だが、大道の言ったとおり、ケツで階段をのぼる――通称、ケツダッシュは想像以上に難しかった。
言葉で説明されれば理解できる。大道は丁寧だし、教えかただって下手じゃない。でも、俺の指が思い通りに動かない。こんな経験は初めてだった。スポーツだって、楽器だって、今までそこそこできてきたのに。
てか、ケツダッシュで扉を通り抜けるってなんだよ。しかも、この階段のあと、もう一つ同じ階段があるらしい。バカじゃねえの。てか、最初に考えたやつ、まじで誰だよ。
もう何度目か、マルオが扉の前でじっと立ち尽くしているのを見て、俺はため息をついた。自分への苛立ちがほとんどだ。こんなの誰だってできるって、バカにしてた過去の自分もムカツク。その自分を超えられない自分も。
これじゃあ、一位はおろか、二位にすらなれない。
「も、もう、今日はいいんじゃない? 充分、すごいと思うし……」
「いや、これできるまでやるわ」
大道の制止を振り切って、俺はもう何度目かわからない画面に向き合った。
コントローラーを握る手が汗ばむ。俺はそれを握りなおして深呼吸をひとつ。まだ、やれる。
マルオがじっとこちらを見ている。そろそろ成功してくれって顔をしていた。
わかってるよ。
俺はゆっくりとコントローラーを操作する。まずは、画面の視点合わせから。それから、階段に対して垂直に幅跳び。ゆっくりと数回幅跳びを繰り出して――今! 俺はスティックを真上に押し込んだ。
二度目でマルオのケツが階段にひっかかり、マルオが高速で扉にぶっ飛んでいく。
「うしっ!」
思わず声が漏れた。俺の左手はコントローラーから離れて、自然とガッツポーズになる。
「すごいよ! すごい! 新野くん、やっぱりめちゃめちゃすごいよ!」
大道もまた、俺の肩をバシバシとたたき、興奮をあらわにする。痛い。けど、もう、今はそれどころじゃない。
まずは一つ目クリアだ。
俺は離してしまったコントローラーをもう一度握りなおす。大道にタイムを縮める動きを教えてもらって、再びバグ技で扉をくぐる。
扉の先に、今度は先ほどよりも長い階段が現れた。だが、これで最後だ。もう一度、ケツダッシュを決めさえすればいい。
「無限階段って呼ばれてるんだ。ここは、見えない壁があったりするから、もし途中で止まっちゃったらスティックを下に、それからジャンプすれば大丈夫。あ、真ん中から右側でやらないと、左側は別のステージにいっちゃうから気をつけてね!」
大道はぐっと両手を握ると「大丈夫」と俺を励ました。素直にその言葉を受け取って、マルオを少し画面右側へ寄せる。
途中で止まっても、焦らない。スティックを下に倒してジャンプすればいいだけだ。
ケツダッシュ自体はさっき決めたんだから、同じようにやればいい。
大丈夫、やれる。
俺はゆっくりと息を吐き出して、その分たっぷりと息を吸う。吸った息をぐっと腹の奥にため込んで、俺はボタンを押し込んだ。
幅跳び、スティックを操作して――
「いけっ」
ほとんど祈りみたいなものだ。マルオのケツが階段にひっかかり、ものすごい勢いでマルオが画面上を移動していく。もはやロケットのそれだ。祈りが届いたのか、一度も止まることなく頂上まで辿り着いたマルオは、勢いをそのままに扉へとめり込んだ。一瞬、画面が暗転する。
まばたき一回分の空白のあと、画面に現れたのは……亀の魔王だった。
「……お?」
「うわぁぁぁあああ! やったあ! 新野くん、すごいよ! ほんとにすごい! これ、初めてで決めた人、いないんじゃないかな! めちゃめちゃすごい!」
実感のわかない俺を、大道が力任せにぐわんぐわんと揺さぶった。がっしりと掴まれた肩が痛いのは、多分、大道のせいだけじゃないだろう。気づかないうちに腕に力が入っていたに違いない。ずっとコントローラーを握っていたせいか、手も震えている気がする。……いや、興奮のせいなんかじゃない。きっと。
「ここまで来たら、あとは魔王を倒すだけだから! ほんとにすごいよ! 新野くん、練習したらすぐにうまくなると思う! ほんとになんでもできるんだねえ! すごいねえ!」
大道ががっしりと俺の両手を握りしめる。その手を払いのけることすらできなくて、俺はただ、大げさなまでに俺を褒める大道の言葉に耳を傾けた。俺以上に喜んでんじゃねえよって思うけど、それすら笑えてくるくらい、まじで……嬉しい。
ホッとして、全身から力が抜ける。しばらくはコントローラーなんか握りたくねえって思うのに、俺の心はボスを倒したがっていて、いや、それ以上に、もう一度、って思っていた。
こんなに真剣にゲームが楽しいとか、いつぶり? って感じ。
ボスは大道がいなくても多分倒せそうだ。俺は一度休憩を、とすっかりぬるくなってしまった麦茶に手を伸ばした。途端、窓の外が暗いことに気づく。
「……あ、てか、時間。悪い。大丈夫か?」
「あ!」
大道もすっかり時間のことなど忘れていたようで、壁にかけられた時計を見て青ざめた。
「ご、ごめん! 遅くまで! ぼ、僕、そろそろ帰らなきゃ」
「いや、俺こそ悪い。まじで気づかなくて」
「だ、大丈夫だから! ボ、ボス戦まで、一緒にいられなくてごめんね」
「いいって。それくらいひとりでできんだろ」
バタバタと片付けをする大道に付き合って、俺は玄関先まで大道を送る。駅まで送ろうかって聞いたら、大道は大丈夫だからと言い残して帰っていった。駆け足で去って行ったところを見るに、相当急いでいるらしかった。
悪いことしちまったな。
俺はその背中を見届けながら、けれど、心はすぐにマルオの世界へと引き戻される。
戻った部屋では、マルオがテレビ画面の中で、ボスと対峙したまま止まっていた。ゲームを再開すれば、先ほどまでの明るい曲が一変、どこか暗くて怖いものになる。
けれど、ボス戦はそれまでのバグ技よりも簡単で、あっけなくて。
『終わったぞ』
俺はクリア画面を写真に撮って、大道へメッセージを送る。電車に乗っているのか、すぐにレスがあって、祝いの言葉と感謝の言葉、それから大量のほめ言葉が並んだ。それから、三十分を切るためのコツや、RTAの練習の仕方など、様々な動画やURL、大道自身の言葉が届く。俺はそれらひとつひとつを読んで、再び返信をした。
最後に、今日は悪かったな、と謝るか悩んで、いや、と俺は打ちかけの文章を削除する。
代わりに、
『すぐ、三十分台切るから。次は、一緒にできるゲームやろうぜ』
そう、次の約束を取り付けたくて、そのほうがいいって思って、俺は送信ボタンを押した。
そのころにはもう随分時間が経っていたから、大道はおそらく電車をおりて、自転車を走らせていたのだろう。
それ以上の返信はなくて、俺はスマホを閉じる。
大道のいない部屋は、ほんの少しだけ寂しかった。
その寂しさをまぎらわすように、昼間の楽しかった時間を振り返るみたいに、俺はコントローラーを握った。