2-8.
会計を済ませると、席にも座らず、りんごジュースを片手に持った大道がキョロキョロとせわしなく店内を見回しているのが見えた。
なんだあいつ。まじで落ち着きねえ。っていうか、そんなに浮くな。俺の後ろに並んでいる大学生っぽい女二人組から、あの子かわいいね、なんて冗談めかして笑っている声が聞こえる。あれがかわいいなら世も末だろ。俺はギリギリのところでため息をしまいこんだ。
「大道」
二階席を視線で示して、「行くぞ」と声をかけると、大道はあわあわと俺の隣に並ぶ。犬め。大道じゃなくて犬道に改名したほうがいい。
「ご、ごめんね! ぼ、僕、こういうとこ、初めてで」
「は? まじ?」
「ほんと……」
空いている席に座ると、大道も俺に習って――いや、習ってはいないか、それはもう申し訳なさそうにチョコンと腰かけた。
「りんごジュース頼んでるやつ、初めて見たわ」
「あっ、ご、ごめん。コーヒー、飲んだことなくて。た、頼む勇気、なくて」
「先に言えよ」
「ご、ごめん」
しゅんと落ち込む大道に、今日何度目か罪悪感が刺激される。
「……別に、そういう意味じゃねえから」
「でも」
「別の店でも良かったし。今度から苦手なもん、先に言ってくれたら他のとこにすっから」
大道の早口が俺にもうつったみたいだった。なんでこんなことまで言わなきゃなんねえんだって気持ちと中途半端な優しさを自覚して羞恥が湧きあがる。ごまかすようにコーヒーを口に運ぶと、黒々とした湖面に俺の顔が映って、それがまたこの現実を客観視させた。
俺、まじでなにやってんだろ。
大道を盗み見る。大道は店内を観察したり、俺が注文したトーストを見つめたり、手元のりんごジュースを宝物みたいに眺めたりしていた。本当に初めてなんだな、こいつ。てか、どんな人生歩んできたんだよ。友達、まじでいねえのかよ。実は親とも仲悪いとか? あ、いや、お坊ちゃまって可能性もあんのか。さっき、茅ヶ崎に住んでるとか言ってたし。でもチャリ通なんだよな。親が厳しいとか? でもならなんでゲームなんか。
……俺、こいつのこと、ほんとになにも知らないんだな。
昨日まで、名前しか知らなかったやつと、ゲームして、お茶して、まじでどうかしてる。
俺がじっと大道を観察していたからだろう。弾かれたようにこちらを向いた大道と視線がかち合った。
「あっ、えっと……ぼ、僕、なんか変、かな」
浮わついた大道の笑みを見ていると、自分がこんなやつのことで頭をつかっているなんて、とバカらしくなる。
「別に。変な感じだと思って」
「う、うん。緊張するね」
こんなチェーン店で緊張してどうすんだ。ってか、そういう意味じゃねえ。
「お前といるのが、ってこと」
「あっ、ご、ごめん」
「それ、やめろ。こっちが悪いみてえじゃん」
「あ、ごめん……じゃなくて、ええっと……」
「わかったって。もういいから」
「ごめ……う、うん」
「お前のこと、昨日までなんにも知らなかったのにって意味」
「ぼ、僕は、新野くんのこと知ってたよ! えっと、出席番号二番で、かっこよくて、頭もよくて、スポーツもできて、帰宅部で……」
「きもいからやめろ」
「うん」
「そこは謝れよ」
「ごめん」
素直なやつ。俺の口から思わず笑みが漏れる。大道はキョトンと首をかしげた。
「俺、お前の出席番号知らねえし」
冗談のつもりで言えば、大道は「十八番だよ」と真剣な顔で答える。
「聞いてねえよ」
「えと……謝ったほうがいい?」
「聞くな」
本当に犬を相手にしているみたいな、不思議な感覚が意外と心地いいなんて、どうかしている。等身大とか自然体とか、意識したこともないような、なんかの歌詞で聞いたようなフレーズを自分に当てはめる瞬間が来るなんて思ってもみなかった。
「変なの」
俺の独り言に大道はもう一度「うん」とうなずいた。その流れだろうか、今度は大道が口を開く。
「新野くんは……なんで、僕のことなんか、誘ってくれたの?」
自然な間合いの、自然な質問だった。
けれど、一番聞かれたくない質問だった。
「あー……いや、別に」
言葉を濁してから気づく。これじゃダメだって。大道の真剣な目に射抜かれたからかもしれない。いつもならごまかしたくなるような、そんなまっすぐな質問に対しても、今は答えなければならない気がした。
学校からここまでの道のり、ずっと、ずっと考えていたこと。
それは、バカみたいなことで、でも、今、俺には一番大切なこと。
「……聞きたいこと、あったから」
口内に広がるのはコーヒーの苦みだ。決して、それ以外のなにものでもない。
「聞きたいこと?」
大道はやはり真剣な表情だった。俺の話を聞くというよりも、俺のことを受け止めるって顔だ。
「RTA、だっけ? それ、誰でも一位になれるって言っただろ」
「うん」
俺は腹に力を込める。気合を入れるなんて、初めてのことかもしれない。
「あー……世界一位のお前から見てさ……」
「うん」
苦い。苦い。苦い。でも。少しだけ、期待とか憧れとか、そんな甘さが潜んでいる。
「……俺でも、やれるって思う?」
俺の声は自分でも驚くほど小さな声になって、大道の目は驚くほど大きく見開かれた。
沈黙が気まずくて、やっぱりごまかしたくなって、笑みを作るまでの時間稼ぎに俺はコーヒーを持ちあげる。もうほとんど空になっていることには持ちあげてから気づいた。あ、と思った。そのとき、
「絶対やれるよ!」
大道のひときわ大きな声が、店内いっぱいに響いた。おかげで俺はコーヒーを飲むフリなんてしなくてよくなって、それどころかマグカップを下ろして大道の口をふさがなければならなくなった。
「声でけえって!」
すみません、と俺が周りの客に会釈したのに対し、大道はなぜか誇らしげな笑みを浮かべて俺を見つめている。
「新野くんがやるなら、僕、一緒にやりたい!」
「だから、声‼」
二度目の叱咤でようやく大道は我に返ったのか一瞬口をつぐむ。だが、すぐに俺の手を握りなおした。
「一緒にやろうよ」
たしかに小声ではあったのだが、とてつもない熱がこもっていることはたしかだった。
嘘だろって、思った。けれど、大道を見れば、メガネの向こうにキラキラ光る瞳があって――もうどうにでもなれって、思った。