1-1.
俺は、一番になれない。
「え、亮ちん、英語二位なの⁉ やばぁ!」
背後から声が降ってきた。かと思えば、体にのしりと重みを感じて、俺はすぐさま「やめろ」と声の主、翔太の頬を掴んだ。同時、「おー、ほんとだ」とやる気のない声がする。
「亮って意外と頭いいよな」
冷静に俺の成績表を覗き込んでいる大斗に「意外は余計だろ」と翔太を押し付ける。続けて、俺のささくれだった声をたしなめるように、圭介の穏やかな笑い声が聞こえた。
「っていうか、亮は意外となんでもできるよなあ」
「だから、意外は余計じゃね?」
よくつるんでいるメンバーが集まって、俺の机の周りを陣取る。ガタガタと椅子が動く音が、ホームルーム直後の喧騒に色を添えた。
俺はすぐさま興味がないと顔を作り、つい眺めてしまった成績表を机にしまいこむ。
「今回はたまたまな」
悔しいと思われていることを悟られたくなかった。一番にこだわるなんて、どう考えてもダサい。
居心地の悪さを逃がすように「なあ、今日ダーツいかね?」と話題を変える。
「ありよりのあり!」
翔太の底抜けに明るい声でいつも通りの空気が流れた。俺は安堵を内心にしまいこみ、「ビリヤードでもいいけど」と付け足す。念には念を。そうやって惨めな俺を奥へと追いやっていく。
「悪い、俺今日部活だわ」
「俺もバイト」
「え、大斗先週もそうだったじゃん。バ蓄すぎ」
「お前だって先週五連勤だったくせに」
「そうだっけ?」
俺は忘れたふりをして大げさにおどけた。翔太と圭介が笑い、大斗は「ウザ」と顔をしかめる。
いつも通り、いつも通りだ。
――これでいい。
心の中で呟いた瞬間、俺の口内に苦みが広がる。なにも不満なんてないはずなのに。
俺はカバンから飲みかけのフルーツティーを取り出して口にふくんだ。甘ったるい味が舌を簡単にごまかしてしまう。これでいい。自己暗示みたいにもう一度念じる。一番になんかなれなくていい。後味はただ甘いだけだった。
仕上げとばかりにペットボトルのフタを閉める。心の奥底に波打った感情が静かに引いて、凪いでいく。
「ま、じゃあ今日は」
解散だな、と言いかけた俺の声を遮って、
「え! おおみっちゃん、世界一位ってマジ⁉」
教室にひときわ大きな声が響いた。思わず声の方へと目を向けてしまう。見れば、教室に残っていた全員が同じ場所を見つめていた。
視線を向けられた地味なクラスメイト二人組が慌てたように顔を背ける。途端、あっけなく、教室の空気は視線とともに緩やかに戻っていく。
声デカ。てか、急にうるさくなるのオタクの見本すぎ。世界一位だって。すごいじゃん。てかおおみちって誰? 大道だろ。ああ、だいどうくんね。
数秒後にはそれらの話題すら元に戻っていて――
「亮ちん?」
名前を呼ばれた俺も、ハッと我に返った。
「悪い、なに?」
「亮ちん、なんか言いかけてなかった?」
「ああ、いや、今日は解散だなって」
翔太にせっつかれ、俺は先の会話を無理やりに引っ張り出す。
だが、先ほどの言葉が気になって、俺はやっぱり教室の隅へ視線をチラと投げた。
みんなに見られたことがよほど恥ずかしかったのか、大きな声で名前を呼ばれた『おおみっちゃん』こと大道明は顔を真っ赤にしながら友人になにかを話している。
「それにしても、さっきの、ほんとだったらすごいよな」
圭介の声に俺が顔をあげると、圭介も俺同様、教室の隅を見つめていた。ただ、俺と違って、圭介の目には感心だけが宿っている。
そのせいで、俺はどうしたって、そんな風に大道を見ることができないと気づいた。心の水面が揺れる。そのことにも見ないふりをして、俺は大道たちを視界から追い払う。
それでも、耳をふさぐことはできなくて、
「さっきのって?」
あくびをかみ殺す大斗の声が、
「いや、大道だよ。よくわかんないけど、ほんとに世界一位だったらすごくね?」
少し興奮したような圭介の声が、
「でもさぁ、なんの世界一位かにもよるくない?」
からかうような翔太の声が、
「翔太が珍しくまともなこと言ってる」
「そうだけどさ。とりたくてとれるもんでもないだろ?」
「うわ、圭ちゃんが言うとなんか説得力あるぅ」
三人の他愛もない会話が、なんとなくウザかった。
酸素が急に薄くなったような気がして、俺はわざと大きく息を吐き出す。
「てか、別にどうでもよくね?」
俺の放った一言がやけにむなしく三人の間に落ちていったのがわかった。
空気を凍らせるほどの冷たさになってしまわないよう気をつけたつもりだった。けれど波紋を無視できないほどの質量にはなってしまったらしい。
三人が一瞬見せた顔は、それを俺に悟らせるに充分だった。
「マジそれな」
取り繕うよりも先に、打たれた大斗の相槌は軽い。いつもは冷たく聞こえる大斗の口調や声のほうが、よっぽどマシだって自覚して、
「そもそも大道くん、なにものだよ」
俺もごまかすように軽い冗談を付け加えた。
「あら、新野くん、それはクラスメイトに対して失礼じゃないかしらぁ」
「え、誰?」
「いやいや、どう考えても京子ちゃん先生でしょぉ!」
「マジ? 似てなさすぎてウケる」
「俺、翔太のものまね、下手すぎて逆に好き」
「それ、褒めてないよねぇ?」
翔太が頬を膨らませ、俺たちは笑う。タイミングよく教室の窓から吹き込んだ海風が数瞬前の空気を入れ替えたことも相まって、完全に先ほどまでの空気が戻ってきた。
ダメ押しするみたいに「圭介~、行くぞ~」と教室の外から圭介を呼ぶ声がする。
「お、悪い。じゃ、そろそろ行くわ」
「うぃ」
「部活ファイト~! ばいばーいっ」
「またな」
圭介がガタリと椅子から立ちあがり、マネージャーからもらったというバスケットボールの手作りキーホルダーが揺れる。やけに鮮やかなオレンジが目の前を通過して、窓の向こうから波の音が聞こえた。
圭介の後ろ姿を見送って、
「青春って感じだよねぇ」
翔太がのんびりと呟く。
羨望なんてドロドロしたものじゃなくて、もっとあっさりと、事実を言いました、みたいな、そんな感じの温度だった。
俺には無理だ。
今日何度目かそんなことを思って、振り切るように俺はリュックに手を伸ばす。
「俺たちも帰るか」
これ以上教室にいてもいいことなんて一つもない。リュックを背負えば、登校してきたときよりも重く感じて気が滅入る。
教室を出ようと椅子から立ちあがれば、ちょうど扉の近くにいた大道と友人が目についた。まだ先ほどの話で盛りあがっているらしい。気にしなくていいとわかっているはずなのに、俺の背中に重りが追加されたみたいに足が重くなる。
「亮ちん、まだぁ?」
「早くしろ」
とっくに教室を出ていたらしい翔太と大斗が廊下から顔を覗かせた。
「悪い、すぐ行く」
俺はできるだけ大道たちを視界にいれないようにしながら教室を後にする。二人とすれ違ったけれど、先ほどのことを反省したのか、ぼそぼそと話す二人の声はもう聞こえなかった。
けれど。
おおみっちゃん、世界一位ってマジ⁉
その言葉が俺の耳にこびりついていた。