2.燦珠、潔白を訴える
「わたくしの甥も、進士を目指して都に入っております。堂々と競って──願わくば、共に及第して、陛下の御為に砕身したいと思っておりましたのに」
董貴妃仙娥の、相変わらずの棒読みの泣き真似を聞きながら、恐ろしい思い付きに心臓がどきどきするのを感じながら。燦珠はそっと妃嬪の列を窺った。
こんなに嘘くさい、下手くそな芝居は、誰が見ても分かるだろうと思ったから。でも、結果は、燦珠の期待に反したものだった。
(なんで!?)
眉を顰めた妃嬪たちの視線の先は、仙娥ではなく香雪だった。
非難や怯えや驚きを帯びた表情は、本気ではないと思いたい。でも、演技だとしたら、彼女たちは仙娥よりもよほど上手な役者だった。華麟が露骨に顔を顰めているのは、成り行きに賛同している訳ではないと思いたいけれど。でも、多勢に無勢というものだった。
(後宮では、真実が真実として通らない。真実であって欲しいことが真実になる……!)
《偽春の変》で思い知らされたことを再び突き付けられて、足もとが崩れ落ちるようだった。
皇帝の寵愛を一身に受ける香雪は、妬まれているのかもしれない。恐らくは華劇嫌いで、秘華園も目障りに思っているであろう興徳王に、おもねる肚積もりもあるのかもしれない。
あるいは単純に、場の空気に逆らわないというだけかも。皇帝でさえ、一度口を挟んだ後は苦虫を嚙み潰したような顔で唇を結んでいる。
(言うだけ、逆効果になるのかもしれないけど!)
もう少し何とかならないのか、と。燦珠が皇帝に念を送るのを余所に、香雪は毅然と、背筋を正して立っていた。声も、微かに震えてはいても凛として、仙娥の嘘泣きよりもずっと聞きやすくて、よく響く。
「わたくしの願いも、董貴妃様と何も変わりございません。賜っております喜雨殿の調度の隙間も床下も、仕える者たち、人の出入りも──何ひとつ隠すこともございません。この身と父と、科挙そのものの潔白を示すためにも、心行くまでお調べいただきたいと存じます」
「わ、私も──役者の本分は練習です。私はこの間、秘華園を一歩も出ていません。長公主様をはじめ、証人はいくらでもいます!」
声の通り方なら、役者としては負けてはいられない。燦珠が女主人に加勢して言い募ると、けれど、興徳王の憤怒の表情に迎えられる。
「役者ふぜいが、我が娘まで誑かしたか……!」
「違います……!」
この御方が、姫君と役者の交際を喜ぶはずがなかった。それでも、香雪と燦珠の反論によって、皇帝は我に返ってくれたようだった。
「申し上げた通りでしょう。香雪と梨燦珠が不正に関わるはずはございませぬ。これ以上問い詰めるよりは、まずは印刷局と問題の真否の調査を行うべきです」
尊貴この上ない存在であるはずの皇帝でも、父への反抗は許されないものなのかどうか。興徳王の怒りの矛先は、今度は我が子に向けられた。
「汝の目は塞がれている。役者は演技が巧みなものであろう。沈貴妃にも十分に動機がある。ここで加減して、後宮の風紀の乱れを外朝に見せる気か!」
「ほかにどのようにして真実を明らかにするのですか!」
男の人同士の言い争いは、後宮ではまずありえないものだ。それが玉座の高みで、皇帝とその父君の間で繰り広げられているのだから、迂闊に見上げることもできない妃嬪たちは恐ろしげに首を竦めて身を寄せ合っている。
そんな中、直立して顔を上げている燦珠と香雪は、傲慢にも不遜にも見えるのだろう。興徳王は憤怒の表情で、玉座の高台から一段、足を下ろした。
華劇なら、さぞ威厳ある皇帝役が似合うのだろうと、燦珠はますます怒られそうなことを考えてしまう。たぶん、現実逃避に過ぎないのだろうけれど。
「貴妃を打擲するのは憚りも躊躇いもあろう。が、役者に斟酌する必要はあるまい」
「え──」
だって、興徳王が燦珠だけを見つめてゆっくりと述べたのは、明らかな脅しだった。つまり、燦珠なら拷問しても角が立たないから存分にやる、それで自白が引き出せれば、真実を明らかにしたことになる、ということだ。
(何それ!)
あらかじめ控えさせていたのだろう、宮衛の宦官が杖刑に使う棒を手に現れたのを見て、燦珠は震えた。役者の身分は卑しいもの、権力者は何をするか分かったものではない──後宮に上がる前に、父に言われたことが頭を過ぎる。
たぶん、怯えた姿を見せて、許しを乞うのが賢いのだろう。涙の演技なら、仙娥よりずっと上手にできる自信がある。そうして、興徳王の怒りが緩むのを願うのだ。でも──燦珠にはできそうにない。
「それは私の翠牡丹ではありません。印刷局にも行ってません。そもそも、どこにあるかも知りません」
彼女にとっての事実を口にすれば、悪あがきと思われるのかもしれない。偽証しているとか、反省の色がないとか、悪印象を持たれるのかも。一方で、下手に出ればそれはそれで罪を認めたことになってしまうかもしれない。
どちらが良いか分からないなら、正しいと信じることを口にするだけ。
(殴られたら痛い……わよね? 傷は残るのかしら!? 踊れなくなるくらい……!?)
心の中は、不安と恐怖と緊張でいっぱいだけど。それでも表には出さないように。香雪を見習って、毅然としていなくては。そう決意して、燦珠が全身に力を込めた時──
「卑しい身が御前を汚すこと、まことに申し訳ございませぬ」
この場の緊張に似合わぬ涼やかな声が響いた。興徳王と対峙する燦珠には声の主の姿は見えないけれど、ひと言で場の空気を塗り替える美声と、一流の役者顔負けの間の取り方は聞き間違えようもない。事実、皇帝も彼を見下ろして顔と顰めた。
「そなたは呼んでいない、楊太監」
「弁えております。が、秘華園の役者に関わることとなれば、奴才が参上しない訳には参りませぬ」
美貌と蟒服で周囲を輝かせながら現れた霜烈は、宦官が高貴な人の前で使う卑称を口にした。皇帝は、伏礼と併せて免除してくれたはずなのに。
(興徳王様がいらっしゃるから……?)
厳格な方だということは、この短い間でも嫌というほど伝わってきた。霜烈なら、皇族の人柄もよく知っているのだろうし、さらに機嫌を悪くさせないように、という配慮なのだろうか。
でも、頼りになると単純に喜ぶには、燦珠にも事態の重要さが分かってしまっている。
(董貴妃様の罠だと思う、けど……)
退場の機を見失って、床に伏した体勢で固まっている仙娥を責めても、たぶん意味はないだろう。ものすごく怪しいとは思うけれど、この方がやったという証拠がない。
興徳王は、秘華園嫌いで頭に血が上っている部分もあるのだろうし。狡くて卑しい役者が罪を人になすりつけようとしている、と思われかねない。
燦珠の不安を余所に、霜烈は燦珠と香雪を通り過ぎて、玉座の真下に辿り着いた。同時に、他者の異論も疑問も封じるように、美しい声が滑らかに淀みなく響き渡る。
「翠牡丹の権限が大きすぎること、所持する役者の数が多すぎることについてはかねてより懸念しておりました。で、ありながら対策を怠っていたのは、鐘鼓司太監としての怠慢でございます」
述べてから、霜烈はそれは美しい所作でしなくて良いはずの平伏をした。額は磚についているのだろう、無防備にさらけ出された白い項を、立った目線から見下ろすのは、ひどく落ち着かないし──嫌な予感がした。
そして、霜烈は晴れ晴れとした声で燦珠の予感を裏付けた。
「ですので、何よりもまずこの身に罰を下してくださいますようお願い申し上げます」




