1.燦珠、嵌められる
最初から、何かおかしいとは思っていた。
翠牡丹を取りに来いと言われて指定されたのが、皇帝の住まいである渾天宮だったことも。燦珠だけでなく、香雪も同時に召し出されたことも。
ずっと纏わりついていた違和感は、背を丸め腰を屈めた宦官の後についてその大庁に足を踏み入れた瞬間に、ますます強まった。
ううん、大庁なんて呼び方は不敬にもほどがある。
鏡のように磨き上げられた磚に、数段高いところに豪奢極まりない椅子、というか台座が設えられている。龍が絡む柱に挟まれたその場所には、ひどく険しい顔をした皇帝その人が端然と着いている。となれば、燦珠と香雪が通されたのは、玉座の間に違いない。それに、何より──
(……なんで、こんなに人がいるの……?)
玉座の下段に、後宮の妃嬪がずらりと並んでいた。
燦珠が名前まで知っているのは華麟を始めとした貴妃たちくらいだけれど、昭儀や昭媛、比較的下位の方たちもいる。髪を彩る歩揺や簪の煌めき、咲き競う花のような華麗な衣装の数々に見蕩れるには、彼女たちの表情も、硬い。
翠牡丹を返してもらうだけのはずだ、どうしてこんな大事になっているのだろう。どうして、燦珠と香雪は妃嬪たちが居並ぶ列から外れた開けた場所、玉座の眼下に誘導されるのだろう。
(これじゃ、まるで──)
晒しものにされているみたいだ。
香雪も、強張った横顔からして何も知らないらしい。
不安は募るいっぽうだけれど、とにかくも皇帝の御前では相応しい礼を尽くさなければ。燦珠が、女主人と息を合わせて艶やかな磚に平伏しようとした時──けれど、それを遮るように、皇帝が声を発した。
「梨燦珠。そなたの翠牡丹が、司礼監の印刷局の傍に落ちているのが見つかった。これがどういうことか、分かるか?」
皇帝の言葉を受けて、立たされたままの格好になって落ち着かない燦珠の前に、宦官が跪いた。彼が頭上に掲げる盆には、確かに翡翠でできた牡丹の細工物が載っていた。大きさも形も、確かに翠牡丹のようだけれど。
(どういうことかって言われても……)
困惑しながら、燦珠は首を振る。問われたことの意味も分からないし、何よりも否定しなければならないことがあったのだ。
「あの、これは私の翠牡丹ではありません。私のは、香雪様にいただいた綬が通してあって──」
「さもあろう。その玉花に通してあったものが、これだ」
手ぶりも交えて説明しようとしたのを遮ったのは、低く険しい男の声だった。それも、皇帝のものではない。
驚きに目を見開きながら声のしたほうを向くと、皇帝の傍らに、龍をあしらった黄色の袍を纏った男性が燦珠たちを睨め下ろしていた。神経質そうに捻る鬚が半ば白くなっているところからして、六十くらいの年配だろうか。堂々として、かつ厳しい印象の──知らない方だけど、さすがにその名と立場を推測することは、できる。
(龍袍……皇族の、えっと、じゃあ天子様の父君様? 確か──興徳王殿下……!)
混乱しながらも結論に至ったのとほぼ同時に、興徳王は綬らしきものを燦珠たちに突き付けた。
らしき、というのは、細やかに編み上げられていたであろう絹糸が、どういう訳か無残に解きほぐされた形跡があるからだ。
もはや彩り美しいだけの糸の塊になり果てたそれを掲げた興徳王は、なぜか得意げに胸を張っている。
「この時期に、印刷局の周囲での不審な物品の動きは見過ごされぬ。綬を解いて検めたところ、中に細く折った紙が仕込まれていた」
この場の空気の張り詰め方も、翠牡丹が燦珠のものではないことも、興徳王の口調に責め立てる気配があるのも。何もかも、燦珠には訳が分からない。──でも、香雪には違うようだった。
「それは──」
美姫の驚きの喘ぎに、興徳王は満足そうに頷いた。次いで、わずかに笑んだ唇から呪文めいた言葉を諳んじる。たぶん、綬に編みこまれていたという紙に記されていた言葉、なのだろうか。
「藩属の諸国の朝貢の頻度は祖法によって定めるものである。近年、規定以上の入朝を求める国がある。許すべきか否か、その是非を論ぜよ。景寿六年に銭納により賦役を免ずる制を定めた。その弊害を述べ、対策を献ぜよ。──まだまだあったが」
呪文──燦珠にとってはそうとしか聞こえない音の連なりの意味を、香雪は理解しているのだろう。もとより白い横顔が、みるみるうちにいっそう白く青褪めていくのが怖かった。
何かとても重大なことなのだと、それだけは分かってしまうから。興徳王の声の大きさも鋭さも、増していくばかりだから。
「博識な沈貴妃には明白であろうが、まさしく会試の出題の形式だ。……聞けば、その役者がこれを紛失したことは後宮に広く喧伝されていたとか」
科挙の問題、と聞いて、妃嬪の間にも悲鳴のようなざわめきが起き始めた。彼女たちも、呼ばれた理由を聞かされていなかったのかもしれない。
(私だって、今、やっと分かったけど!)
そして、かけられた嫌疑を理解したところで、咄嗟に反論が出るはずもない。燦珠だけでなく、香雪も息を呑んで立ち竦み、興徳王の糾弾を浴びるだけだ。
「失くした、という体で印刷局の宦官に渡し、綬をすり替えた上で発見させる──そうすれば、労せずして出題が手元に転がり込む。かような謀であろう!」
雷鳴のような怒声に、打たれたように首を竦めた時、興徳王と同じくらいに険しい、けれどいくらか冷静な若い声が割って入った。
「実際の問題文か否かは、首輔をはじめとする出題者でなければ分かりませぬ。私でさえ知らぬのですから。謀と断じるのは早計です」
皇帝が、父君に逆らって燦珠たちを──主に香雪を、かもしれない──庇ってくれたのだ。ずっと難しい顔をしていたのも、疑いではなく苦々しさが理由だったのかもしれない。
(天子様は分かってくださってる!)
愛する御方からの弁護は、燦珠以上に香雪の力になったのだろう。折れそうに見えた細い背がす、と伸びて、凛とした声が響き渡る。
「燦珠の──この者の翠牡丹が失われていたのは事実です。が、わたくしにも燦珠にも、印刷局に知己はおりません。密かに翠牡丹を渡すことなどできませんし、仰せのようなことを行う理由もございません」
「む……」
香雪の毅然とした反論が届いたのか、それとも悪あがきにしか見えなかったのか。興徳王が、唸った後に何を言おうとしたかは分からなかった。
「香雪様──もしや、父君の御為にこのようなことを……!?」
興徳王と香雪の間を遮るように、妃嬪の列から飛び出したのは、銀花殿の貴妃、董仙娥だった。
美しい披帛が、風に舞う彩雲のように燦珠の目の前を泳いで、そして落ちる。仙娥は、転がるように燦珠たちの前に頽れたのだ。
「父君の教えた方が会試に臨んでいらっしゃるとか。その方の合格を、確かなものとするために──高潔と名高い沈司業のご息女ともあろう御方が、恐ろしい……!」
袖で目元を覆う仙娥を見下ろして、燦珠は呆気に取られていた。心外な疑いへの怒りや不安よりも、恥ずかしさというか居たたまれなさのほうが、今は勝る。
(うわ、棒読みだ……)
わあわあと、泣いていると思わせたいであろう声を上げてはいるけれど、仙娥の言葉は嗚咽に詰まることなく、しかも説明的だった。まるで華劇の台詞のよう──だけど、役者なら、こんな感情のこもらない、必死さだけが伝わる詠じ方をしたりしない。
(って、いうことは)
と、不意に恐ろしいことに気付いて燦珠は血の気が引く音を耳元に聞いた。
仙娥の言葉は、明らかな台詞だ。つまりは、あらかじめ考えて、覚えてきたものだということ。燦珠と香雪にかけられる疑いを、この方は知っていたのだ。それが、意味するのは──




