8.長公主、喜ぶ
麗人芳絶と長公主明婉の力はすさまじく、練習場には秘華園中の役者が揃ったのでは、というくらいの人数が集まっていた。入り切れなかったものが院子から覗いているのは、先日、燦珠の翠牡丹が失われた時と同じ。でも、今は皆の表情が明るいのが大きな違いだ。
(これはもう、もう一度排練ができちゃうくらいじゃない?)
改めて腰腿功をやり直していた燦珠の胸は、喜びに弾んでいた。
何しろ、群舞隊で集まっての練習のはずが、《探秘花》の主要な役どころが揃っている。皇帝役の芳絶に加えて、探花役の星晶も話を聞いて駆けつけてくれた。それに、何より──
「姸玉まで来てくれるなんて、思わなかった」
「当然でしょう? 星晶の相手役で、芳絶さんの娘の役よ!? 逃がすものですか」
公主を演じる銀花殿の役者、黎姸玉は、横一字に開脚した格好で、床に頬杖をついて笑っている。燦珠は落腰──立ったところから後ろに倒れて、手が床につくまで身体をしならせる──で背中を伸ばしているところだったから、姸玉の可愛らしい顔が逆さになっている。
「いや、練習の一回くらいで配役は変わらないでしょ?」
何のことだろう、と思いながら。腹筋を使って身体を起こして指摘すると、姸玉も跳ね起きて傍腿──足を身体の側面につけるように高く上げる──をしながら唇を尖らせた。足を支えていないほうの手で指を折って、数え上げる。
「公主役がいなかったら、誰か代役を立てるでしょ? 燦珠になる可能性は高いでしょ? で、長公主様がお気に召したらそのまま、ってこともあり得るじゃない!」
「そ、そう」
仮定に仮定を重ねた話だと思うけれど、練習を見学することにしたらしい明婉のほうを見てみると、確かに燦珠に注目している、かもしれない。
(そんな無理を言い出す方じゃないと思うけど……)
でも、燦珠が口を挟む隙もなく、姸玉はまくし立てる。唱が上手いだけあって、素晴らしい活舌と勢いだった。それでいて聞きやすいのが、またすごい。
「沈貴妃様と違って、銀花殿の貴妃様は謝貴妃様とそんなに仲がよろしくないもの。今回限りの相手役なんて嫌よ。認めていただく良い機会なんだから……!」
これまで燦珠が姸玉と話す機会はあまりなかった。だから公主役の淑やかな印象が強かったのだけれど。なかなかに野心的で積極的だ。
(ま、まあ役者だもんね、当然かあ)
気の強さも、相手役や、舞台そのものへの思いも。そうと知ると、もっと仲良くなりたい、という欲も湧く。もう少し雑談をしてみたくて、燦珠は話題を広げることにした。
「あの……董貴妃様と謝貴妃様って、仲良くないんだ?」
「それは、まあ……うちの貴妃様はあんまり華劇がお好きじゃないしね」
「そうなの!?」
例の《偽春の変》では、銀花殿の貴妃董仙娥も偽皇子に役者を送って機嫌を取ろうとしていた。だから、何となく謝貴妃華麟と同じく、華劇に通じた御方かと思っていたのに。
目を見開いた燦珠に、姸玉は軽く肩を竦めて、声を潜めた。
「ほら、陛下のご評判は前々から聞こえていたもの。真面目で教養ある方のほうがご寵愛を受けられそうって、思うでしょ」
「ああ……」
燦珠も、香雪と仙娥の纏う雰囲気は似ている、と思ったのだ。清楚で知的で、慎ましやかな佳人。実際に香雪は皇帝の目に留まったのだから、董家の読みは大筋では当たってはいたのだろう。とはいえ、今のところ、仙娥が寵を受けているとは決して言えない。
(下手なこと言ったら、自慢に聞こえちゃうよね……)
燦珠が言い淀んだ気配に気づいたのだろう、姸玉は困ったように微笑んだ。
「董家の若君が会試に残られてるから。及第なされば、陛下の覚えも良くなるんじゃないかと思うんだけどね」
前回の排練の時に漏れ聞いた話題だ。科挙なんて、役者には本来無縁のものだけれど、秘華園に──ひいては後宮にいると、こうも身近な話題になるらしい。
「……香雪様の身内の方もいるそうだし。皆でお祝いできると良いねえ」
「ね」
燦珠と姸玉は、顔を見合わせてしみじみと頷き合った。
* * *
そして、燦珠は牡丹の花精のひとひらとして、群舞の練習の最中だった。彼女たちが取り囲む芳絶は眩しくて輝かしくて、うっかりすると霞まされてしまいそう。でも──今の燦珠には、姸玉がくれた助言がある。
『燦珠の舞には、恥じらいが足りない!』
公主役として、いったいどんな心構えで芳絶や星晶と演技の上で絡んでいるのか、と。聞いてみたら、姸玉は指を突き付ける勢いで断言した。
『普通はね、芳絶さんや星晶や、隼瓊老師や楊太監をまともに直視するなんてできないの。畏れ多いじゃない。もっとこう──扇の影からそっと窺う感じにしてみたら?』
霜烈がそこに並ぶんだ、と。燦珠は少し驚いた。美しさの極まり具合では何も不思議ではないけれど、彼と顔を合わせているところを姸玉にも見られているとは思わなかった。
(綺麗な人は、正面からじっくり見たいじゃない……?)
物陰から覗き見するように、なんて失礼にも思えるけれど。でも、可憐な公主を演じる姸玉の言うことだから──試してみよう。
扇を使った做で、実際に顔を隠すことはない。振り付けとしても、視線を芳絶に向けることになっている。
だから、本当に顔を隠す訳ではなくて。例えば──くるりと回った拍子、視界に映る横顔を追いかける、とか? 跪いて扇をそよがせ、皇帝を称える振り付けでも、目の前に紗が降りていると想像してみる、とか?
間近に食い入るように見るのではなくて、密やかに、手の届かない存在を見上げる思いで舞ってみるのだ。すると──
(あ、どきどきしてきたかも!)
不意に何かを掴んだ気がした。芳絶の香気に酔わされているだけではなくて、もっと苦しさや切なさを伴って、胸が高鳴る──もしかしたら、これは恋という感情に似ているのかもしれない。
(うん、良い感じかも!)
昂ぶるのは心だけで、指先も視線も足の運びも、あくまで優雅に滑らかに。でも、きっと今の燦珠は皇帝を引き立てる豪奢で薫り高い花になれているのではないだろうか。
達成感は、燦珠の声にもいっそうの張りを与えて、唱を響かせる。場面は物語の最後、皇帝が探花と公主の夫婦を認めて祝福し、花精に扮した妃嬪たちも唱和するくだりになっている。
多么令人高興 何と喜ばしい
多么好的一天 何と美しいこの日
公主微笑如花 姫様はお喜び
主上很很満意 陛下もご満足
王朝必永興旺 末永く国が栄えますように
唱の響きの余韻に空気が静かに震え、役者たちは各々、亮相を決めて輝く笑顔を見せている。
素晴らしい出来だったと、誰もが確信していただろう。演じる側の手ごたえだけでない、真正面の特等席で見ていた明婉の、真っ赤な頬が保証していた。か細く頼りなく儚げに震えていた声が、今は明るく弾んで、心からの讃嘆を紡いでくれる。
「進士は──科挙に及第した者たちは、この唱や舞で祝ってもらえるのね……!」
用意された椅子から立ち上がった明婉に、役者を代表して芳絶が跪き、微笑んだ。
「さようでございます。長公主様は、大勢での演技は初めてご覧になるのでしょうか。お楽しみいただけましたか?」
「ええ、とても……!」
明婉は、艶やかに香り立つ芳絶に対しての気後れを忘れるほど、興奮してくれているようだった。年相応にはしゃいだ様子は、始めて目にする少女らしい姿かもしれない。
(ひとりずつ演じるのと、大勢でのお芝居はまた別だものね)
端役らしく離れた場所で、燦珠がうんうんと頷いていると、そよ風のようにさやかな衣擦れの音が近づいてきた。
「ね、燦珠」
「長公主様……?」
長公主が纏う絹は、どれほど技術を凝らした薄い生地なのだろう。天女の羽衣のようで、華奢な方によく似合う──と、見蕩れる間に、明婉はそっと燦珠の耳元に唇を寄せた。練習場の誰もが、この方の挙動に注目しているけれど、燦珠にしか聞こえないであろう声量で、応える。
「燦珠。貴女は自分でここまでの道を拓いたのね……?」
「いえ──私だけでは、とても。教えてくれた、助けてくれた人たちに恵まれてのことです」
女だてらに舞台に立ちたくて、云々と話したことを、覚えてくださっていたらしい。
(でも、なんで今? わざわざ私だけに?)
不思議に思いながらも、何となく声を潜めて答えると、明婉は小さな手を胸元でそっと握りしめた。
「それでも。女の身でも、できるということよ。……わたくしも、見習わないと」
「……あの?」
「もう少しで諦めるところだったの。でも、やってみなくては──貴女のお陰で、そう思えたわ。ありがとう……!」
明婉は、何かの決意を固めているように見えた。それ自体は、良いことなのかもしれない。でも、この方の立場を思うと手放しで応援して良いことなのかどうか。
「あの──天子様には」
「ちゃんとお伝えするわ。燦珠にも、誰にも何もお叱りがないように。ただ、もう少しだけ待ってちょうだい」
皇帝に相談してもらえれば、と思ったのだけれど。どうしてもう少しの間が必要なのか、気になったけれど。長公主に待て、と言われれば燦珠は従うことしかできない。
(……天子様もお忙しいんだろうし。科挙が終わったらお伝えするのかな……?)
明婉の悩みは、たぶん科挙に関するものなのだろう、という予感はある。状元の縁談なのか、ほかに想う相手がいるのか、さらに別のことなのかは分からないけれど。ただ──祝宴のための演目を気に入ってくださったなら、何か良い方向に思い直してくれたのだろうと思いたかった。
* * *
燦珠の翠牡丹が見つかった、との報があったのは、その数日後のことだった。




