7.燦珠、練習に励む
秘華園では、朝早くから歌の声が時を告げる。艶やかなものや高く澄んだもの、役者たちの声が響く中、燦珠も腰腿功に励んでいた。
片足を掴んで頭の高さに掲げ、もう片方の足を屈伸させる──三起三落。身の筋力と柔軟性を求められる鍛錬だから、調子のおかしい箇所があればすぐに分かる。筋でも関節でも気の持ちようでも。
(うん、今日も万全!)
ぶれることなく立てているのを確かめて、燦珠は内心快哉を上げた。翠牡丹が見つからなくても、相変わらず陰口がちくちくと聞こえても、彼女の心身に影響はない。いつも通りに唄い、舞うことができるはず。
広い練習場に、今は燦珠はひとりきりだ。《探秘花》の群舞の練習を、と以前から決めていた時間には、少しだけ早いから、まだ不思議なことではないけれど。喜燕が来てくれるのは、疑っていない。でも、ほかの役者たちについてはどうだろう。皆が不便を被っているのは燦珠のせい、という風潮は秘華園に燻っている。彼女抜きで別の場所に集まって──ということも、考えられなくはない。
(ひとりでも、喜燕とふたりでも──練習場を広く使えるなら、それはそれで!)
そう自分に言い聞かせては、いるけれど。内心では怖かった。嫌われていたらどうしよう、ではなくて、満足な練習ができなかったら申し訳ない、と。同じ役柄の役者たちにも、科挙の進士たちにも、秘華園に出番をくれた皇帝にも、そのために心を砕いてくれた霜烈にも──全方面に。
「あの、燦珠……? ここにいると聞いて──」
だから、練習場の入り口に人影が見えた時、燦珠は喜びに跳ねた。ちょうど軸足が伸び切った時、丫の字の形になった瞬間だった。そして、高い悲鳴に出迎えられた。
「だ、大丈夫なの……? そんな格好で──」
今にも卒倒しそうな顔色で震える長公主明婉と対面して、燦珠は首を傾げながら答えた。
「え? えっと、はい。大丈夫です」
咄嗟のことなので、丫の字の形を保ったままの受け答えに、明婉は一歩退いてさらに震えた。
「よ、よく喋れるわね……?」
「はい、あの……役者ですから」
恐怖に満ちた眼差しを向けられて、燦珠もさすがに気付いた。たぶん、世間には足を頭の高さに上げられる人間は多くない。長公主のお付ともなると皆無かもしれない。
(そっか……いきなり見ると怖いんだ……)
少し、しょんぼりとしつつ──野の花のように可憐な御方を怯えさせないよう、燦珠は掲げていた足をそっと降ろした。そして、その場に跪いて首を傾げる。
「何の御用でしたでしょうか。これから練習なんですけど、ご覧になりに……?」
明婉の背後を窺うと、秘華園の責任者であるはずの霜烈も、年長者の隼瓊の姿も見えない。ついでに言うなら、この御方が頼りにしているらしいあの侍女も。
(まるでお忍びみたい……? 時間も早いし……)
もちろん、秘華園に来るには轎子を使ったのだろうし、お付の者がまったくいないとも思えないけど。例のあの日、貴妃たちも総出でお出迎えしたのに比べると、だいぶ様子が違う気がする。
「い、いえ……あの、立ってちょうだい。秘華園が、大変だったのでしょう? わたくしの我が儘のせいだと、梅馨も──だから、お詫びをしなければいけないと思って」
「ああ……」
「わたくしに、何かできることはないかしら。自由に出歩けないのは困る、でしょう? 行きたいところがあるなら、わたくしが一緒に行けば良いかしら? お兄様もお父様も、それなら何も仰らないでしょうし。……あの、お願い。本当に立って欲しいの……」
もう一度促されて、燦珠は躊躇いながら立った。燦珠の背丈は、明婉よりも少し高い。貴人を見下ろすのが不敬、というよりは、何となく圧を与えてしまいそうだった。
(お優しいのは、天子様にそっくりかも、だけど……)
役者相手に責任を感じる真摯さも、自ら秘華園に足を運ぶ真面目さも、皇帝との血の繋がりを感じる。でも、皇帝ならもっとちゃんと筋というものをご存知のはずだ。
花旦の必須の仕草である上目遣いで、燦珠は明婉の強張った頬を窺った。背の低い相手も見上げることができる立ち方や視線の使い方が、相手役を引き立てる秘訣なのだ。
「長公主様。それは、不公平というものです。甘える訳にはいきません。翠牡丹が使えなくて不便なのは、皆、同じなんですから」
明婉の申し出を受けては、霜烈の配慮を無にしてしまう。翠牡丹を失くした役者が、反省せずに貴人の庇護下で出歩いている、というのはとても外聞が悪いと思う。
「でも。わたくしは貴女を困らせてばかり。そもそも最初から──」
にこやかに軽やかに言ったことで、明婉の怯えを解くことはできたらしい。それでも納得には至っていないようだから、燦珠は無礼にも長公主の言葉を遮って、微笑んだ。
「とても嬉しくて光栄でした。華劇をご存知ない方を、役者になりたいと思わせることができたなんて」
明婉のあの願いごとは、何かしらの口実だということは、気付いているけれど。口実に選んでもらえたこと、それ自体だって誇らしいだろう。燦珠の舞を見た時のこの御方の高揚は、嘘ではないと分かっている。だから燦珠も、嘘ではなく明るく笑うことができる。
「本当にお気になさらないでください。私、困ってはいないですから」
「でも」
「役者は、練習するのが仕事です。特に今は大事な公演を控えている時だから、出歩く必要なんてないはずなんです」
「大事な──進士への賜宴のこと、ね……?」
そうだ、そもそも明婉は、今回の状元──主席合格者に嫁ぐために上京したのだった。
(えっと……でも、長公主様はお嫌、なんだよね?)
触れたくない話題だったのではないか、と。燦珠は慌てて弁明の言葉を探した。でも、彼女が口を開くより先に、とても良い香りの声がその場の空気を華やがせた。
「とても良い心がけだね、燦珠」
「──芳絶さん!?」
いつの間にか練習場を覗き込んでいた芳絶は、常のように男装の袍に、女の結い方で髪の艶やかさを誇示している。男と女の間の妖しい美しさは、傍にいるだけで濃く甘い蜜の酒の味を舌先に感じるようだった。燦珠はそんな酒を呑んだことはないけれど、それくらい酔わされる、ということだ。
「貴女は──女将軍役の?」
芳絶の美に当てられたのかどうか、明婉も眩しそうに目を細めている。女生の格好良さは慣れないと刺激が強いもの、気持ちはよく分かる。
「藍芳絶でございます。長公主様にはご機嫌麗しく」
滑らかに跪く芳絶の所作も流麗で、なぜか花が咲き乱れるのさえ見える気がした。でも、見蕩れるばかりでもいられない。燦珠は慌てて膝をついて、綺麗な人に目線を合わせた。
「あの、どうして……?」
「花精役の子たちで練習をするのだろう? 皇帝役がいたほうが、やりやすくはない?」
「それは……えっと」
正直に言ってどうだろう、と思う。もちろん、本番と同じ人数で、同じ配置ができるに越したことはないけれど。芳絶の香り高すぎる色気にどう立ち向かえば良いものか、まだ答えが見つかっていないのに。
(あと、それに──)
いまだ閑散とした練習場を見渡して、燦珠は声を潜めた。
「あの、ほかの子たちが来るか、分からなくて」
「半分くらい連れてきたけど。来ていないのは誰かな」
「はい?」
立ちながら背後を見やる芳絶の視線を追えば、頬を紅くした役者が何人も、うっとりとした眼差しを芳絶の横顔に注いでいる。まるで、花の香りに惹かれる蝶のようだ。その中には、確かに燦珠と同じ花精役の子たちもいる。
(どっちが花だか分からないけど……人を集めるために、来てくれたの?)
芳絶がいれば若い役者は無視できない。美貌も経験も、秘華園でも抜きんでた存在だから。気まぐれに姿を見せたようでいて──まるで、燦珠に手を差し伸べてくれたかのような気もする。
「燦珠! ちょっと、これ、何!?」
「あ、喜燕!」
と、燦珠の耳に、今度は慣れ親しんだ友人の声が飛び込んでくる。時間通りに練習場に現れた喜燕は、芳絶と明婉目当ての人だかりに道を塞がれているようだ。
(私も、何だかよく分からないんだけど──)
でも、ちょうど良い時間で、人数も揃っている。長公主という、願ってもない観客までいる。それなら言うことはひとつだけ、だろう。
「練習、始めよっか!」
「は?」
満面の笑みで宣言した燦珠に、ようやく人垣を抜けて来た喜燕は、驚いたように目を見開いた。




