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【書籍1、2巻発売中】煌めく宝珠は後宮に舞う  作者: 悠井すみれ
第二部 三章 翠華、失せて秘華乱れる
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7.燦珠、練習に励む

 秘華園ひかえんでは、朝早くから歌の声が時を告げる。艶やかなものや高く澄んだもの、役者たちの声が響く中、燦珠さんじゅ腰腿功(じゅうなんたいそう)に励んでいた。


 片足を掴んで頭の高さに掲げ、もう片方の足を屈伸させる──三起三落サンチーサンルオ。身の筋力と柔軟性を求められる鍛錬だから、調子のおかしい箇所があればすぐに分かる。筋でも関節でも気の持ちようでも。


(うん、今日も万全!)


 ぶれることなく立てているのを確かめて、燦珠は内心快哉を上げた。翠牡丹ツイムータンが見つからなくても、相変わらず陰口がちくちくと聞こえても、彼女の心身に影響はない。いつも通りに唄い、舞うことができるはず。


 広い練習場に、今は燦珠はひとりきりだ。《探秘花タンミーファ》の群舞の練習を、と以前から決めていた時間には、少しだけ早いから、()()不思議なことではないけれど。喜燕きえんが来てくれるのは、疑っていない。でも、ほかの役者たちについてはどうだろう。皆が不便を被っているのは燦珠のせい、という風潮は秘華園に燻っている。彼女抜きで別の場所に集まって──ということも、考えられなくはない。


(ひとりでも、喜燕とふたりでも──練習場を広く使えるなら、それはそれで!)


 そう自分に言い聞かせては、いるけれど。内心では怖かった。嫌われていたらどうしよう、ではなくて、満足な練習ができなかったら申し訳ない、と。同じ役柄の役者たちにも、科挙の進士しんしたちにも、秘華園に出番をくれた皇帝にも、そのために心を砕いてくれた霜烈そうれつにも──全方面に。


「あの、燦珠……? ここにいると聞いて──」


 だから、練習場の入り口に人影が見えた時、燦珠は喜びに跳ねた。ちょうど軸足が伸び切った時、きのまたの字の形になった瞬間だった。そして、高い悲鳴に出迎えられた。


「だ、大丈夫なの……? そんな格好で──」


 今にも卒倒しそうな顔色で震える長公主ちょうこうしゅ明婉めいえんと対面して、燦珠は首を傾げながら答えた。


「え? えっと、はい。大丈夫です」


 咄嗟のことなので、きのまたの字の形を保ったままの受け答えに、明婉は一歩退いてさらに震えた。


「よ、よく喋れるわね……?」

「はい、あの……役者ですから」


 恐怖に満ちた眼差しを向けられて、燦珠もさすがに気付いた。たぶん、世間には足を頭の高さに上げられる人間は多くない。長公主のお付ともなると皆無かもしれない。


(そっか……いきなり見ると怖いんだ……)


 少し、しょんぼりとしつつ──野の花のように可憐な御方を怯えさせないよう、燦珠は掲げていた足をそっと降ろした。そして、その場に跪いて首を傾げる。


「何の御用でしたでしょうか。これから練習なんですけど、ご覧になりに……?」


 明婉の背後を窺うと、秘華園の責任者であるはずの霜烈も、年長者の隼瓊しゅんけいの姿も見えない。ついでに言うなら、この御方が頼りにしているらしいあの侍女も。


(まるでお忍びみたい……? 時間も早いし……)


 もちろん、秘華園に来るには轎子こしを使ったのだろうし、お付の者がまったくいないとも思えないけど。例のあの日、貴妃たちも総出でお出迎えしたのに比べると、だいぶ様子が違う気がする。


「い、いえ……あの、立ってちょうだい。秘華園が、大変だったのでしょう? わたくしの我が儘のせいだと、梅馨ばいけいも──だから、お詫びをしなければいけないと思って」


「ああ……」


「わたくしに、何かできることはないかしら。自由に出歩けないのは困る、でしょう? 行きたいところがあるなら、わたくしが一緒に行けば良いかしら? お兄様もお父様も、それなら何も仰らないでしょうし。……あの、お願い。本当に立って欲しいの……」


 もう一度促されて、燦珠は躊躇いながら立った。燦珠の背丈は、明婉よりも少し高い。貴人を見下ろすのが不敬、というよりは、何となく()を与えてしまいそうだった。


(お優しいのは、天子様にそっくりかも、だけど……)


 役者相手に責任を感じる真摯さも、自ら秘華園に足を運ぶ真面目さも、皇帝との血の繋がりを感じる。でも、皇帝ならもっとちゃんと筋というものをご存知のはずだ。


 花旦むすめやくの必須の仕草である上目遣いで、燦珠は明婉の強張った頬を窺った。背の低い相手も()()()()ことができる立ち方や視線の使い方が、相手役を引き立てる秘訣なのだ。


「長公主様。それは、不公平というものです。甘える訳にはいきません。翠牡丹ツイムータンが使えなくて不便なのは、皆、同じなんですから」


 明婉の申し出を受けては、霜烈の配慮を無にしてしまう。翠牡丹ツイムータンを失くした役者が、反省せずに貴人の庇護下で出歩いている、というのはとても外聞が悪いと思う。


「でも。わたくしは貴女を困らせてばかり。そもそも最初から──」


 にこやかに軽やかに言ったことで、明婉の怯えを解くことはできたらしい。それでも納得には至っていないようだから、燦珠は無礼にも長公主の言葉を遮って、微笑んだ。


「とても嬉しくて光栄でした。華劇ファジュをご存知ない方を、役者になりたいと思わせることができたなんて」


 明婉のあの願いごとは、何かしらの口実だということは、気付いているけれど。口実に選んでもらえたこと、それ自体だって誇らしいだろう。燦珠の舞を見た時のこの御方の高揚は、嘘ではないと分かっている。だから燦珠も、嘘ではなく明るく笑うことができる。


「本当にお気になさらないでください。私、困ってはいないですから」

「でも」


「役者は、練習するのが仕事です。特に今は大事な公演を控えている時だから、出歩く必要なんてないはずなんです」

「大事な──進士への賜宴しえんのこと、ね……?」


 そうだ、そもそも明婉は、今回の状元──主席合格者に嫁ぐために上京したのだった。


(えっと……でも、長公主様はお嫌、なんだよね?)


 触れたくない話題だったのではないか、と。燦珠は慌てて弁明の言葉を探した。でも、彼女が口を開くより先に、とても()()()()声がその場の空気を華やがせた。


「とても良い心がけだね、燦珠」

「──芳絶ほうぜつさん!?」


 いつの間にか練習場を覗き込んでいた芳絶は、常のように男装のほうに、女の結い方で髪の艶やかさを誇示している。男と女の間の妖しい美しさは、傍にいるだけで濃く甘い蜜の酒の味を舌先に感じるようだった。燦珠はそんな酒を呑んだことはないけれど、それくらい酔わされる、ということだ。


「貴女は──女将軍役の?」


 芳絶の美に当てられたのかどうか、明婉も眩しそうに目を細めている。女生おとこやくの格好良さは慣れないと刺激が強いもの、気持ちはよく分かる。


らん芳絶でございます。長公主様にはご機嫌麗しく」


 滑らかに跪く芳絶の所作も流麗で、なぜか花が咲き乱れるのさえ見える気がした。でも、見蕩れるばかりでもいられない。燦珠は慌てて膝をついて、綺麗な人に目線を合わせた。


「あの、どうして……?」

「花精役の子たちで練習をするのだろう? 皇帝役わたしがいたほうが、やりやすくはない?」

「それは……えっと」


 正直に言ってどうだろう、と思う。もちろん、本番と同じ人数で、同じ配置ができるに越したことはないけれど。芳絶の香り高すぎる色気にどう立ち向かえば良いものか、まだ答えが見つかっていないのに。


(あと、それに──)


 いまだ閑散とした練習場を見渡して、燦珠は声を潜めた。


「あの、ほかの子たちが来るか、分からなくて」

「半分くらい連れてきたけど。来ていないのは誰かな」

「はい?」


 立ちながら背後を見やる芳絶の視線を追えば、頬を紅くした役者が何人も、うっとりとした眼差しを芳絶の横顔に注いでいる。まるで、花の香りに惹かれる蝶のようだ。その中には、確かに燦珠と同じ花精役の子たちもいる。


(どっちが花だか分からないけど……人を集めるために、来てくれたの?)


 芳絶がいれば若い役者は無視できない。美貌も経験も、秘華園でも抜きんでた存在だから。気まぐれに姿を見せたようでいて──まるで、燦珠に手を差し伸べてくれたかのような気もする。


「燦珠! ちょっと、これ、何!?」

「あ、喜燕!」


 と、燦珠の耳に、今度は慣れ親しんだ友人の声が飛び込んでくる。時間通りに練習場に現れた喜燕は、芳絶と明婉目当ての人だかりに道を塞がれているようだ。


(私も、何だかよく分からないんだけど──)


 でも、ちょうど良い時間で、人数も揃っている。長公主という、願ってもない観客までいる。それなら言うことはひとつだけ、だろう。


「練習、始めよっか!」

「は?」


 満面の笑みで宣言した燦珠に、ようやく人垣を抜けて来た喜燕は、驚いたように目を見開いた。

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2025年1月24日 角川文庫より1、2巻同時発売!

書籍版もよろしくお願いいたします✨

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