6.霜烈、招かれざる客に会う
鐘鼓司太監の拝命に伴い、霜烈は秘華園にほど近い殿舎の一角に住まいを賜った。
職務上、何かと都合が良いのはもちろんのこと、風向きによって届く役者の歌の声から、燦珠のそれを聞き分けるという楽しみもある。彼は現在の住まいにたいへん満足していた。
とはいえ、住まい自体の居心地の良さと、訪れる客の好ましさはまったく別の話である。
「長公主様にお仕えしております、花梅馨と申します」
その日、霜烈を訪れた客は、出された茶に手もつけず、宦官を蔑む眼差しを隠しもしなかった。
まあ、世に宦官は嫌われるものだし、主と変わらぬ若さならばそんなものだろう。むしろ、彼の見た目にいちいち動揺しないのは、しっかりしている、とさえ思う。
「この卑しい身に、どのような御用でしょうか」
ただ、面倒極まりない願いを言い出してくれた長公主に関わることだ。秘華園を預かる身としては警戒せずにはいられない。
「明婉様は、此度のことで御心を痛めていらっしゃいます。あの日のことは、明婉様の御言葉が発端のようなものでもありましたから」
案の定というか、梅馨は主の権力を振りかざす者特有の高慢さで切り出した。
「もったいない思し召しです」
霜烈の素っ気ない答えに、梅馨は軽く目を見開く。そのようなことはありません、と言わせたかったのかもしれないが、彼の知ったことではない。動揺してくれれば、その分扱いやすくなるというものだった。実際、梅馨は少々上擦った早口で捲し立てる。
「……秘華園も動揺しているとのこと。ご自身のせいで、と思っていらっしゃるご様子もございます。ご心労を解くためにも、楊太監が出された通達を撤回してくださいませ」
「長公主様に関わりのあることではございませぬ。お気に病まれる必要はないと、お伝えくださいますように」
にこやかに、けれどはっきり伝えると、梅馨はあからさまにむっとした表情を見せた。長公主の機嫌を取ろうとしないのが信じられない、とでも言いたげだが──信じられないのは、霜烈のほうだ。
(興徳王殿下の姫君が、このような無理を通そうとするものか……?)
皇帝と長公主の父君は、皇族の責務を知る数少ない憂国の士だ。無論、先日皇帝が零したように、陰謀とまったく無縁であるはずもないのだが。
それでも、自身の気持ちだけを理由に、理のある措置を覆そうとはしないはずだ。あの御方ならば、姫君の躾けも怠らなさそうなものなのだが。
「実際に影響が起きているではないですか。明婉様のご滞在中に、後宮が落ち着かぬのもご負担になります。だからこそ──」
「そこをご説明するのもお慰めするのも、近侍の方々の役目と存じます」
ますます道理から外れていく梅馨の主張を、霜烈は丁寧に、けれど冷たく遮った。そして、人に聞き入らせる力があるらしい声と抑揚で、ゆっくりとじっくりと言い聞かせる。
「気晴らしに役者をご所望ならば、無論、手配いたしますが。それ以外のことは私の職分ではございませぬ。皇族に連なる御方といえど、規律は守るべきものと弁えていただきたいものです」
「……楊太監のご意向は承りました。明婉様に申し伝えます」
悔しげに吐き捨てて去って行った梅馨は、恐らくは言いつける、と言いたかったのであろう。だが、どうぞご随意に、というものだ。
長公主がさらに言いつける先は父の興徳王か兄の皇帝だ。前者ならば、秘華園の権限を制限する措置に賛同するだろうし、後者に対しては、翠牡丹に関する懸念を進言済みだ。あのふたりが長公主の言い分を是とする可能性はごく低いだろう。
(あるいは、長公主様ご自身のご意向ではなく、侍女の暴走ということもあり得るか……)
主の意を待たずに、行き過ぎた忠誠心で気を回した、ということなら梅馨の強引さもまだ理解できるかもしれない。いずれにしても、後宮と秘華園にとって頭痛の種であることには変わらないのだが。
「厄介なことだ……!」
溜息を呑み込むべく、霜烈は冷めた茶を飲み干した。
* * *
次に霜烈を訪れた客もまた、彼が待ちわびていた相手ではなかった。とはいえ彼が望む情報を持つ者でもあったから、素直に迎えることができる。
「燦珠の様子は?」
「開口一番、それか?」
その客──楓葉殿の役者、藍芳絶は、挨拶もそこそこに尋ねた霜烈に呆れた色の苦笑を見せた。それでも、問われたことには答えてくれる。
「当然、落ち込んではいるよ。ただ、練習は怠っていないし君に泣きつく気配もない。とても良い子だね、あの子は」
「そう、か……」
芳絶の答えは、喜ぶべきもののはずだった。鐘鼓司太監との個人的な繋がりを利用して優遇されたい、などと考えているようなら叱らなくてはならないから。
だが、燦珠が彼に頼る選択を一切考えないのだとしたら──
(いや、それはそれで喜ぶべきだ。燦珠は私などに深く関わるべきではない)
順当な結論に至った、と思った瞬間、霜烈の耳に、とろりとした蜜を思わせる甘い声が悪戯に囁いた。
「残念そうに見えるよ」
「そのようなことはない」
「ふうん?」
強い調子の反駁に軽く肩を竦めると、芳絶は手近な椅子に勝手に座り、脚を組んだ。
男装に慣れた男役ならではの、さばけた洒脱な所作だ。周囲を見境なく酔わせるような色気は少々行き過ぎに感じることもあるが、自身の見せ方を知り尽くした、優れた役者であることは確かだった。
これで燦珠に妙な影響を与えなければ、手放しで称賛できるのだが。
(燦珠の舞がおかしなことになっていたのは、そなたのせいだ)
じっとりと睨む霜烈の視線を意に介さず、芳絶は大輪の花が香りと花弁を振り撒くような豪奢な笑みを見せている。
「燦珠に嫉妬を集めまいという、君の涙ぐましい努力には感服する。《探秘花》の配役も、今回の措置も。でも、こっそりとなら、もっと優しくもできるだろうに」
燦珠に公主役をやらせては、さすがに贔屓に見えるだろうと考えたのは、事実ではある。だが、芳絶の言のそのほかの部分については、まったく承服しがたかった。
「燦珠は私の慰めなど必要としない。それに、此度のことは狙いがあってのことだ」
「うん。翠牡丹が封じられれば、犯人にも影響があるはずなのにね」
正当な外出はすぐに許可されるから問題がない、と霜烈が強弁したのは実は嘘だ。
恋人──相手は宦官だったり侍女だったりする──との逢引、役者ではない友人知人との語らい、さらにはその際に手紙などの受け渡しを依頼されたり。
翠牡丹を濫用している役者は意外と多い。芸に悪影響を及ぼさず、規律を乱さぬ範囲であれば、とわざわざ咎めては来なかったが──こうなると、不便の理由を公に口にできずに不満を募らせる者もいるだろう。
「燦珠の荷物に紛れ込ませれば、やっぱりあの子の勘違いだった、ってことにできるだろう。嫌がらせなら、それで十分なはずなのに」
「……分かっているのではないか」
犯人が名乗り出るとまではいかずとも、燦珠の翠牡丹は戻るのではないか──彼の意図を察していながら、芳絶はあえて揶揄いの種にしたらしい。不本意だが、話が早くも、ある。
(犯人は、此度の措置で不都合を被っていない……同輩の不便も気にしては、いない。ならば──)
どうするつもりだ、と目で問うてくる芳絶は、すでに霜烈と同じ結論に至っているようだった。ならば、対策を示すのが鐘鼓司太監の役目であろう。
「犯人が役者でない可能性については、こちらで手を打つ。そなたは引き続き役者の動きに目を配って欲しい」
「得令」
芳絶は、華劇の古風な言葉遣いで頷くと、やや大仰に拱手した。何につけても遊ばれている気がしてならないが──秘華園にいて長く、娘たちの尊敬を集める役者の目線は、得難い助けではあった。
「現段階では、何かあるか?」
「そうだね──星晶と喜燕が時々睨んでくるくらいかな。ほら、私は皇帝役で、あの子たちは探花と妃嬪の役だから。困ると言えば、困る」
割と深刻な苦言が跳び出したので、霜烈は額を抑えた。
芳絶は苦笑で済ませているが、舞台の上で私情を隠せないのは褒められたことではない。が、原因は恐らく彼自身にあるのだろう。
(言いたいことは想像がつく──が、燦珠にわざわざ説明することでもないだろうに)
彼と燦珠の関係は、何ものでもないのだから。事実、彼と芳絶が間近に顔を寄せ合っていても、燦珠が気にした風はなかったのを確かめて、安心していたところだというのに。思わぬ伏兵があったものだ。
苛々と、指先で額を叩きながら、霜烈は呻いた。
「……私が言っても聞くまい。隼瓊老師から言っていただく」
「頼んだよ。しかし、まあ──」
軽く笑った後、芳絶は表情を真剣なものに改めた。そうすると、眼差しの強さと端整な顔立ちが、いっそう際立つ。
その目が、遥かな時を越えた光景を見ているのだと──視線ひとつで見る者に悟らせるのは、やはり役者としての技量なのだろう。
「私があの子たちくらいの年のころも、あんな目で見たり見られたりはあったものだ。だが、それは文宗様や皇子がたの寵を巡ってのことだった」
霜烈も、彼女が語る時代のことはよく知っている。ほかならぬ彼自身もその渦中にいたのだから。
芳絶が、髪型だけは女の結い方をしているのも、兄たちのいずれかと縁があったのかもしれない、と考えてもいる。だが、それは口にはできぬこと、詮索すべきでないことだ。
だから黙して聞いていると、芳絶は少しだけ口元を緩めた。
「それが今では、眦吊り上げるのは朋輩のためで、争うのも美貌の太監と来ている。まことに平和で、可愛らしい。……守ってあげたいものだね」
容姿について触れられるのも、小娘たちの姦しさに巻き込まれるのも、霜烈の好むところではなかった。だが、芳絶の言葉の趣旨はそこにはないことは、分かる。
「私もそのように思っている」
よって霜烈は静かに頷いて同意を示した。




