5.霜烈、翠牡丹を封じる
長公主様ご一行、が秘華園を一周したころには、夕暮れの気配が漂い始めていた。貴妃も含めた貴人をもてなす晩餐の準備は、さすがにすぐにできるものではない。よって、明婉が誰に弟子入りするかの結論はまた後日、ということになった。
衣装のままで一日動き回っていた燦珠たちも、ようやく着替えを許されることになる。香雪についていた喜燕も合流して、楽屋に戻る道中は賑やかだった。
「さすがに疲れたね。早く顔を洗いたい……!」
「星晶は翎子もあるしね。大変そう」
「まあ、芳絶さんの鎧姿よりはマシだろうけど。燦珠もお疲れだったね」
「ううん! 姸玉の歌も、星晶たちの殺陣もすごく良かったもの。ねえ、いつの間に練習したの?」
先ほどの熱演を思い出しつつ、燦珠がうっとりと呟くと──星晶はどこか凄みのある微笑で応じた。
「してないよ。芳絶さんに八つ当たりしたくて、胸を借りた感じ」
「え──」
思わぬ答えに燦珠が目を見開く一方で、なぜか星晶と喜燕は通じ合っているようだった。
「でも、即興であれだけ合わせられちゃうと負けた気がするよね」
「あの人、いつも余裕だから。すごい役者なのは、分かってるんだけど」
「ね。たぶんね、あの人に当たっても仕方ないし」
「……え? 何があったの!?」
「大丈夫。私たちが勝手に怒ってるだけだから」
ふたりとも、燦珠にはにっこりと笑ってくれるけれど、やり取りはどう考えても不穏だった。でも、問い質すことはできなかった。
燦珠が口を開く前に、一行は楽屋に辿り着いてしまった。それに、雑談どころでない事件が起きていることが、すぐに分かってしまったのだ。
畳んで置いておいた自分の服を何度もひっくり返して、喜燕と星晶に手伝ってもらって楽屋の隅から隅までを探してから。燦珠は呆然と呟いた。
「えっと……私の翠牡丹が、ない、かも……」
* * *
報告を受けた霜烈は、すぐに秘華園を訪れた。役者たちのほうも、昼間、長公主を迎えた大庁に集まっている。秘華園の役者のすべてを収容するほどの広さではさすがにないから、入り切れなかった者は廊下や窓から窺っている。
事件のことは、それだけ早く秘華園中に広まったのだ。翠牡丹は、秘華園の役者であることの証で、誇り。それを失くしてしまうなんて前代未聞に違いない。
(失くした……失くなった? でも、いつ、どうして……!?)
ふらふらと、雲を踏むような不確かな足取りで、燦珠は霜烈の前に進み出た。よほど急いで駆けつけたのだろう、ほつれた髪が額にかかり、頬も上気している。珍しく乱れた姿に、見蕩れることができれば良かったのに。最近は練習で忙しくて話す機会もなかったのに、久しぶりに纏まって言葉を交わすのが、こんな場面になってしまうなんて。
「梨燦珠が翠牡丹を紛失したとか。経緯を説明するように」
「はい。楊太監」
霜烈の美貌には慣れたと思っていたけれど、冷たい目で厳しく問い質されると怖かった。それに、燦珠の耳には役者たちの囁きが届いている。例によって、聞こえるような声量でちくちくと胸を突いてくる、悪意のある囁きが。
「長公主様に取り入ろうとしたからでしょ」
「ええ。目に余ったんでしょう……!」
「楊太監は、あの子を贔屓するかな?」
最後の言葉が一番痛くて、燦珠はいったん唇を結んだ。
(やっぱり皆、そういうことを思うのね……!?)
喜燕と星晶は、霜烈が燦珠に悪いようにするはずはないと、一生懸命慰めてくれた。でも、燦珠はそんなことを期待してはいない。期待してはいけないと、思う。
(知り合いかどうかで扱いが変わるのは、駄目よ……!)
秘華園が大事な霜烈のことだ。騒ぎを起こしたのが誰であろうと、公平な処分をするはず。正しい判断をするためにも、起きたことは正確に正直に伝えなければならない。霜烈の深い色の目を見上げて、燦珠は口を開いた。
「翠牡丹を最後に見たのは、着替えの時でした」
これは、喜燕と星晶が証人になる。身内だろうと言われると困ってしまうけれど。その後は、演技の披露の間、楽屋には誰もいなかった。
婢や宦官、あの場にいなかった役者が密かに近づくことは、できたはず。今日は貴妃付きの侍女も訪れていたから、接待で人の出入りが普段よりも多かったし、見知らぬ顔がいても意識に残りにくかったはず。演技の後は、明婉を案内する一行が秘華園の注目を集めていたから、その隙を突くこともできたかもしれない。
「楽屋も、私の部屋も、何度も探したんですが、見つからなくて──」
語るうちに霜烈が眉を顰めていくのに胸を痛めながら、燦珠は説明を終えた。きっと、困らせているし怒らせている。長い指で顎を捉えて、いったい何を考えているのだろう。燦珠だけでなく、その場にいる役者全員が、息を詰めて待っていると──霜烈の整った唇が、溜息を零した。
「……翠牡丹の権限を考えれば、紛失などあってはならぬこと。まして科挙の会試を控えている今、後宮に不審な人の動きがあってはならぬというのに」
「はい。ごめんなさい……」
翠牡丹があることで得られる、恐ろしいほどの自由は燦珠もよく知っていたのに。管理が甘い、と言われれば返す言葉もない。さらに叱責されるのかと思ったけれど、霜烈は肩を強張らせる燦珠を余所に、見守る役者たちに視線を巡らせた。
「そなたたちも翠牡丹の管理は改めて注意するように。そして、梨燦珠のものが見つかるまでの間、秘華園の役者全員の翠牡丹は無効とする」
霜烈は声も美しく、かつよく響く。華劇の台詞を読み上げるような明瞭な宣言は、その場の誰の耳にもはっきりと届いただろう。役者たちの悲鳴のような声が、瞬く間に大庁を揺らした。
抗議や戸惑いの声が上がる中、いち早く挙手して発言したのは、星晶だった。
「貴妃様のお召しがあった時は、どうすれば良いのですか?」
「宮女や宦官と同じように、事前に申請と先触れを行うように。今夜のうちにも後宮全体に通達する」
「……分かりました」
鋭く切り返すような霜烈の答えに、星晶は軽く眉を顰めて頷いた。
(そんな。謝貴妃様がお怒りになるんじゃ……)
霜烈の判断は正しい、とは思う。だからこそ星晶も引き下がったのだろう。でも、華麟を宥めるのはとても大変そうだし──誰もが分かってくれるとは、限らない。
「それではあまりに不便です……!」
「私たちは、何も悪いことなんてしません!」
不満の声が上がるのもまた、当然のことだ。
(そうよね、皆、何もしてないんでしょうから……)
燦珠の翠牡丹が盗まれたのか否かさえ分からないし、たとえそうだとしても、犯人はひとりなのだろうに。でも、抗議に応じる霜烈の声はどこまでも冷ややかだった。
「役者の本分は華劇であり、ことに今は練習に励むべき時であろう。妃嬪がたのご所望であれば、許可はすぐに下りる。何ら不都合があるとは思えない」
「余った翠牡丹はたくさんありますよね? 燦珠に新しいのをあげれば済むと思います」
氷の刃のような眼光を放つ霜烈に食い下がった役者は、たぶんとても勇気がある子だ。でも──
(それは、何にもならないわ……)
燦珠の翠牡丹はこの世にたったひとつ。ほかの誰かのものでは代用ができない。それに──それでは、犯人の手に後宮を自在に動く手形が残ったままになってしまう。
「失われた翠牡丹が悪用される可能性を見過ごせぬ。万が一そのような事態が起きれば、累は秘華園全体に及ぶと心得よ」
分かってくれたのか、霜烈の迫力に気圧されただけなのか──発言した役者は、それ以上は何も言わなかった。でも、それは霜烈に対しては、というだけ。親しい者同士で囁き合う声は、止まない。
「面倒くさいことになったね」
「燦珠のせいではないけど──」
「案外、どこかに紛れているんじゃないの?」
(だって、さんざん探したのに……!)
そうだったら良い、と。燦珠が誰より思っている。でも、口に出せる立場でない。だから燦珠はひたすら唇を噛んで、腹の中に渦巻く思いを呑み込んだ。




