3.燦珠、競演する
秘華園の一角、練習場としては広めの大庁に、色とりどりの美しい絹と、春を先取りしたような良い香りが満ちている。
寧福長公主明婉のために、貴妃とその侍女たちも集まっているから、いつも以上に華やかで姦しいのだ。
(やっぱり大事になってるかも……)
花旦の、水袖を施した衣装を纏った燦珠は、袖から客席を覗いて息を呑んだ。
今さら多少の人数に怯んだりはしないけれど、今日の席は、殿舎間の競争の意味を帯びてしまっている気配がある。長公主に気に入られれば名誉だし、あわよくば妹君を通じて皇帝に近づけたら、という熱気が少し怖い。
「緊張しているの、燦珠?」
「わ!?」
と、耳元に甘く囁かれて、燦珠は跳ねた。慌てて見上げれば、刀馬旦の扮装をした藍芳絶が艶やかに微笑んで彼女を見下ろしている。普段は男役のこの人も、さすがに女役を披露することになったらしい。
すらりとした長身に、色鮮やかな刺繍が彩る靠衣姿が映える。それに戟を振るう先で花が乱れ咲きそうな溢れる色気──美しさだけで敵を降伏させられそうな、たいへん目に嬉しく麗しい女将軍ぶりだった。
(そうだ、この人たちの演技を見られるのは幸運よね……!)
主ぐるみで仲良くしている星晶は別として、余所の殿舎の役者と交流する機会はこれまでなかった。まして、本来と違う役柄を演じる反串なんて、絶対に見逃してはならないと思う。
「ええと、少しだけ……でも、頑張ります!」
「良い子だね。楊太監がいなくて残念だったけど」
よしよし、とでも言うように芳絶に頭を撫でられて、頬が熱くなるのを感じながら、燦珠は首を傾げた。頭にしっかりと固定した被り物が、少し重い。
「あの、楊太監が、何か?」
霜烈は、確かに今日は客席にいないらしい。彼は彼で忙しいのだろうから仕方ない。というか、どうして芳絶の口から彼の名が出るのだろう。
「いや──彼も観たかっただろうと思っただけだよ。ああ、始まるようだ」
芳絶が苦笑した理由も、聞きたかったけれど──確かに、話をしている場合ではなかったようだ。客席のほうから、隼瓊の凛々しい声が聞こえてきたから。
「長公主様は、華劇にお詳しくはないとか。ひと口に役者と申しましても、様々な行当がございます。貴妃様がたの抱えの役者が、それぞれ得意を披露しますゆえ、お好きなものを選んでくださいますように」
貴人の前に出るために、隼瓊も今日は女姿で襦裙を纏っている。燦珠はまだ遠目に見かけただけだけど、後で是非、近くで見せて欲しいものだと思う。
(絶対に、とっても格好良いんだから……!)
燦珠の確信を裏付けるように、明婉が答えるまでには数秒の間が空いた。きっと、隼瓊に見蕩れていたのだろう。
「え、ええ。楽しみです」
「恐れ入ります。──では、まずは銀花殿の黎姸玉でございます」
隼瓊の声に応えて、姫君役の衣装を纏った姸玉が袖から舞台に進み出た。客席からは、主である董貴妃仙娥の優美な声が届く。
「《探秘花》では公主役を演じる者ですの。もちろん、本物の長公主様の気品には叶わないでしょうが、それでも自慢の役者ですわ」
仙娥の紹介の間に、姸玉は幾つかの見得を決め、客席を沸かせた。主の評価は謙遜に過ぎなくて、彼女は舞台の上で佇むだけでも大勢から浮き上がって見える華のある役者だ。
仕草に続いて披露する歌も、情感豊かで胸に染みて、かつ耳には自然に詞が入る──確かな技量に裏打ちされた美しく澄んだ声だった。
(この子は歌が得意なのね。見習わないと……!)
聞き惚れながらも燦珠が決意したのと同時、明婉は花の蕾が綻ぶような可憐な溜息を零した。
「王皇后の教えですね。歌に乗せると、とても聞きやすいものなのですね」
「ご明察でございます。貴妃として、後宮に喧伝すべき心得と存じましたので」
明婉は、姸玉の歌の由来となった故事をさらりと当てた。仙娥が述べた通り、後宮の妃嬪を教え諭した賢皇后の、慈悲と慈愛と叡智に満ちた詞だ。
(さすが、天子様の妹君でいらっしゃるのね。董貴妃様も、真面目な方!)
演目の選び方に人柄を感じて、燦珠が感心するうちに、隼瓊は次の演者の名を呼んだ。
「次は、永陽殿の秦星晶と、楓葉殿の藍芳絶──このふたりは、殺陣を披露したいと申しております」
「行ってくるね、燦珠」
燦珠が目を見開く横を、星晶と芳絶が通り過ぎていった。そして、ふたりと入れ違いに袖に戻ってきた姸玉は、満足の行く演技だったのだろう、燦珠に得意げな笑みを見せて楽屋に入っていった。同時に、凛々しい対の登場に客席からは歓声が上がって──どこも慌ただしくて、目と耳がいくつあっても足りそうにない。
「わたくしの星晶が演じるのは二枚目役の中でも若く凛々しい武将役、李潤でございます。史実でも美男と名高いですが、星晶には敵わなかったことでしょう。とても格好良いでしょう? お好みでしたら男役に挑戦なさってもよろしいかと思いますわ」
「芳絶は、女将軍、虞松雅です。楓葉殿でももっとも優れた役者です……!」
いつも通りに淀みなく、愛と情熱をこめて星晶を紹介した華麟に比べると、楓葉殿の周貴妃鶯佳の声はぎこちなく、覚えてきたことを読み上げている気配があった。年若い方だけに、長公主や大勢の人数の前で緊張しているのかもしれない。それは少し気の毒だったけど、燦珠としてはそれどころではなかった。
(星晶が李潤で芳絶さんが虞松雅……!?)
「李潤の夫人は確かに虞氏ですが。このように武装していたとは──」
「史書には記されていないかと存じます。華劇においては、しばしば面白いように脚色されていますの」
「そうなのですか……!」
首を傾げた明婉に華麟が解説した通り、星晶たちが演じるのは、後に夫婦になる李潤と虞松雅が戦場で初めて相まみえる場面に違いない。最初は敵同士だったふたりは、剣を交えるうちに惹かれ合い、共に戦うようになるのだ。
(すごい迫力、本当に戦っているみたい……!)
身体ごと回転する遠心力を乗せた芳絶の戟を、星晶が交差させた双剣で受け、跳ね返す。その反動でさらに回った芳絶は次の一撃を繰り出す。
でも、その時には星晶は宙に跳んで避けている。剣を握ったまま翻転すると、模造の刃とはいえ、弧を描く銀の軌跡が危うく美しい。
(いつの間に練習したの!?)
殺陣は、綿密に打ち合わせて所作を決めた上で、練習を積み重ねなければいけないのに。それともふたりとも名手だから呼吸を読んで合わせることができるのか。とにかく、星晶と芳絶が演技を終えた時には、観客の悲鳴と歓声と喝采が沸き立った。──それに、燦珠の血も、熱く滾っている。
「最後に、喜雨殿の梨燦珠。すでにご覧になったとのことですが、衣装をつけた姿ではまた印象も変わりますでしょう」
「とても朗らかな娘です。演じるのは市井の娘の役どころですので、長公主様には馴染みがないかもしれませんが。それでも愛らしさを楽しんでいただけると存じます」
香雪が言い終えるか否かのうちに、燦珠は袖から舞台へと跳び出していた。
星晶と芳絶のすさまじい殺陣を見せられては、大人しくしていることなんてできそうにない。高揚がばねとなって、身体の内側から自然と手足を動かす力になる。披露する演目も、隼瓊と相談して決めてある。
貴婦人の役は銀花殿の姸玉と被るだろうし、恋の歌は、縁談を嫌がっているかもしれない明婉に聞かせるには相応しくない。──それなら、最初の試験で皇帝に披露したように、庶民の生活を描いてみよう。
燦珠の唇が、明るい歌を紡ぎ出す。
泛舟采菱叶 船を浮かべて行きましょう
过摘芙蓉花 蓮の実取りに、芙蓉を摘みに
扣楫命童侣 櫂を叩いて歌いましょう
齐声采蓮歌 声を合わせて蓮の実取りの歌を
《采蓮童》──水辺で働く娘たちが歌う、素朴な俗謡だ。都育ちの燦珠だって、知らない世界ではあるけれど。水面に浮かぶ蓮の花の瑞々しさや、弾ける飛沫の眩しさは想像できる。
東湖扶菰童 東に行ったら真菰を採って
西湖采菱芰 西に行ったら蓮の実採って
不持歌作乐 楽しく唱って忘れましょう
为持解愁思 務めの疲れも苦しみも
今日の燦珠の衣装は、青と碧。くるくると回って水袖や裾を翻せば、波紋にも水の流れにも見える。軽やかな歌は、ひとりでもおしゃべりをする娘たちの賑やかさを表す。足取りは緩やかに上下して、まるで船の上でゆらゆらと揺らいでいるかのように。いまだ春も訪れていない後宮に、夏の日の輝きを呼ぶのだ。
(──どう、でしょうか!?)
唄い終えて見得を決めて。燦珠は客席の中心に座る明婉を真っ直ぐに見つめた。彼女の演技を気に入ってくださったかのかどうかは──長公主の上気した頬を見れば明らかだった。
《采蓮童》は「楽府詩集」からの引用です。(意)訳は自作です。




