3.燦珠、出陣する
後宮でつつがなく暮らすためには、妃嬪には抱えの役者が不可欠で。けれど秘華園の役者の多くは有力な貴妃の息がかかっていて。後ろ盾の弱い沈昭儀、香雪は突然の寵愛に喜ぶばかりではいられなくて。
──ひと通りの話を聞き終えた燦珠は、霜烈を見ながらしみじみと呟いた。
「華劇でいうなら朱晋、っていうのは本当だったのね……」
「信じていなかったのか? どうしてわざわざ嘘を吐くものか」
父の舞台を見下ろしながらの、官座でのやり取りを踏まえてのことだ。ただ者ではなさげな霜烈を、華劇の役どころに喩えるならどの役か、という──
(だってすごく企んでいそうだったんだもの!)
仕える妃のために奔走する道化役、だなんて、常に涼しげな顔を崩さないこの男には似合わない。でも、聞いたところによると香雪は確かに困り切っているらしい。白い頬はより白く、伏せられて震える睫毛や華奢な肩が儚げな風情をいっそう際立たせているのが気の毒だった。
「わたくしの実家には、役者を育て養う余裕など、とても……。そもそも、女の役者なんて聞いたこともございませんでした。貴妃様がたにどんな役者を見せてくれるのかと問われて、どれほど驚いたことか……!」
香雪の実家は官吏の家なのだとか。役者の娘の燦珠でさえも、つい先日まで秘華園のことを知らなかったのだから、お堅いお家ならなおさら、なのだろう。
そして確かに、役者を育てるのは容易いことではない。父を師にすることができた燦珠はやはり特殊な例であって、良い役者に師事するためには相応の謝礼に加えて伝手が必須だから。女の役者ということだと、まずは娘を習わせても良いという奇特極まりない親を見つけるところから始めないといけない。
(突然言われても、そりゃどうしようもないわよねえ)
侍女が茶を淹れてくれたけれど、香雪が手をつける気配はない。この分では食事も喉を通らない有り様なのではないかと、初対面の燦珠でさえも心配になってくる。この方を寵愛しているという皇帝は何をやっているのか、という疑問も湧くけれど──後宮というのは、なかなかややこしいところでもあるらしいのだ。
「抱えの役者を貸してくださると言ってくださった貴妃様もいらっしゃったのですが、陛下はそれはならぬと仰って」
花が散るように溜息を零す香雪を、燦珠の隣に跪いた霜烈が宥めた。
「沈昭儀を思われるがゆえでございましょう。貴妃の実家に育てられた役者は、当然その恩義と無縁ではいられませんから」
それはそれで道理ではある。役者が養い主の意向を受けるのも、寵姫への牽制に使うのも。
華劇の筋書きでも、後宮の寵愛争いは定番だ。抱えの役者を持たせないことで、香雪を後宮の争いに関わらせないという判断も、そう不合理なものではないのかも。
(でも、戦わずして逃げるのも嫌じゃない!)
後宮での女の争いには、役者同士のそれも含まれるらしい、と燦珠は理解した。これまでの香雪は、戦場にあって徒手空拳だったようなもの。それなら逃げの一手も分かるけれど、燦珠は無類の名剣であるはずだ。彼女を武器にしてもらえれば、香雪が負けるはずはない。
「──だから私の出番、って訳だったのね?」
無礼かどうかを気にすることはもはやなく、燦珠は声を弾ませて霜烈に問うた。すると、美しくも頼もしい笑みが、しっかりと頷いてくれる。
「そうだ。秘華園の役者として合格すれば、禄が与えられるから昭儀が不安に思われることはない。衣装も道具も、必要に応じて仕立てることができよう」
「あの、でも、大変なことだとは思います。どの貴妃様も、抱えの役者はたいそうご自慢に思われているようで──あの、それぞれ得意が違うのでしょう? たったひとりで、わたくしもどこまで守って差し上げられるか分からないし……」
香雪の狼狽えた声は、燦珠の闘志を鎮めるどころか、それに油を注いだ。
(良い方だわ、沈昭儀様って。それに、私は歌も立ち回りも舞も得意だもの!)
初めて会う小娘を案じてくれる香雪は、美しいだけでなく優しい方だ。この方の助けになれるなら願ってもない。それに──格好良いだろう。
歌に舞に、それぞれの得意で挑んでくる役者を、ひとりで相手してやるのは。後ろ盾のない香雪を、女の戦いに勝たせて差し上げるのは。想像するだけで愉快で痛快で、大人しく座っていることなんてできはしない。
「不要担心、昭儀様! 私は国一番の花旦です。そうなるために、後宮に来たんですから!」
今日の燦珠の装いは、庶民の娘がよく纏う短い襖衣と馬面裙だった。華劇の衣装とは違って飛び跳ねるようにはできていない、けれど──
(一瞬なら大丈夫大丈夫!)
弾む思いに駆り立てられるまま、燦珠は跳ねるように立ち上がった。その勢いに任せてくるりと回ると、襞を寄せた馬面裙の裾が花弁のようにふわりと広がる。
「なんと、はしたない──」
段叔叔の呆れたような呟きは、回転の勢いに流されて、遠い。目を瞠る香雪の麗貌も、愉しげに口元を緩める霜烈の笑顔も。二度、三度と繰り返す回転の中、燦珠の視界に溶けていく。
そして、止まる時は一瞬で、ぴたりと、一切ぶれることはなく。片手を高く、片手を胸の前で構える見得は、刀馬旦が槍と馬鞭を構える時のもの。今の燦珠は徒手だけれど、出陣の場面を即興で演じたのだと伝わっただろうか。
「私、誰にも、どんな役でも負けるつもりはないですから。どうぞ、信じてくださいませね!」
きっと、伝わったはずだ。燦珠が宣言した時、香雪の頬は明らかに上気して、目元にも笑みと高揚が浮かんでいたから。
「ええ……ありがとう、燦珠……!」
たとえ一瞬の演技でも、化粧も衣装もない普段着でも。燦珠の立ち回りは香雪に憂いと悩みを束の間忘れさせることができたのだろう。