2.華麟、もの申す
秘華園を歩く燦珠の耳に、同輩のはずの役者たちの囁く声が、刺さる。
「あの子、長公主様に取り入ったのよ」
「《探秘花》では端役だからって!」
「この前は鳳凰を演じたのにまだ不満なの?」
「ちょうど長公主様が通りかかるのを見計らって舞っていたんですって」
「上手くやったものね」
こちらに話しかけているのではないけれど、絶対に聞こえるという絶妙な声量の加減だった。はっきり言って、その技量は舞台の上で発揮すれば良いと思う。こんな陰口めいたことでは、なくて。
(そうじゃないのに……!)
いつもの燦珠なら、直接言われたのでなくても食ってかかっていたかもしれない。でも、今はできなかった。《探秘花》のために秘華園が一丸となるべき時に、余計な波風を立てるのは得策ではない。
《鳳凰比翼》の時のように実害が出るならまだしも、言葉で言われるだけなら耐えようがある。
(楊太監が頑張ってくれてるんだし……)
霜烈が、後宮と外朝を忙しく行き来しているのは秘華園にいてもよく分かる。燦珠の配役だって、彼の配慮の一環なのだろう、とも。
……だからこそ、長公主が来訪した時、彼女が厄介ごとを起こしたような目で見られて悲しかった。皇帝やほかの役者たちの手前、細かに言い分けできる状況でもなかったのだけれど。
(態度で示してれば、離れていても分かるはずだもんね!)
すべての言動が、秘華園の平穏のためになるように。無事に祝宴を歌舞によって寿ぐために。燦珠は改めて固く決意した。
* * *
その部屋に入った瞬間、燦珠はよほど安心した顔をしたのだろう。華やいだ軽やかな声がくすくすと笑って、彼女を出迎えた。
「災難だったわね、燦珠? そなたに限らず、秘華園が、かもしれないけれど」
「謝貴妃様……あの、申し訳ありません。星晶も皆も、練習がある時なのに」
室内にいたのは、謝貴妃華麟のほかに、燦珠の主である沈貴妃香雪。それに、ふたりに仕える星晶と喜燕も先に着いていた。
星晶が、頭飾に雉の尾羽根の飾りをつけた武将役の衣装を纏うのを、喜燕が手伝っていたところらしい。
(うーん……大事になっているわね……)
役者になりたい、という寧福長公主明婉の願いは、秘華園全体に及ぶことになった。最初は燦珠を手本に隼瓊が教える、という形になりそうだったのだけれど、ほかの殿舎の役者にも長公主に近づく機会があるべき、という主張があったらしい。気持ちは分からないでもない。
なので、四人の貴妃はそれぞれ抱える役者を長公主に披露して、誰を手本にするかを選んでいただく、という趣向になったのだ。
貴人に見せる以上は、練習着ではなく衣装も化粧も必要、という訳で、星晶と同じく、燦珠もこれから着替える予定だ。《探秘花》の練習はひとまず中断となってしまった。
「わたくしは、星晶の演じる姿を見られるなら何でも良いから構わないわ。それに、これは長公主様と陛下のせいでしょう」
「そ、そうでしょうか……」
明らかに華奢な長公主に星晶の女生を披露する、という揺らぎなさを発揮した華麟は、それでも優雅に微笑んで菓子を摘まんでいる。貴妃同士も役者同士も親しい、いわば身内の席のようなものではあるけれど──高貴な方々に対するもの言いには棘が見えた気がして、燦珠は引き攣った笑みを浮かべた。
「陛下のせい、と仰いますと……?」
香雪も、愛する御方のせい、と言われて気になったらしい。不安そうな視線を受けて、華麟は軽く肩を竦めた。
貴妃たちの前に出された菓子は、桜桃煎──ひとつずつ種を抜いた桜桃を蜜で煮込んで砂糖漬けにしたものだ。珊瑚の球のように艶々として美しく、貴重な甘味の減り方が、やけに早い。軽やかな口振りの割に、華麟は何かに苛立っているようにも見えた。
「親の言いつけでの結婚なんて、嫌がるも何もないでしょう? そういうもの、だもの。陛下は、妹君に過保護過ぎるのではないかしら」
「華麟様は、長公主様を応援なさるかと思っていました。身分違いの秘めた恋、なんてお好みでは?」
すでに化粧で紅く彩られた目を瞬かせて、星晶が首を傾げる。そう──確かに。例えば長公主が密かに思う人がいて、だから縁談に抗って何かしらを企んでいるのだとしたら、まさに華劇にありそうな筋書きなのに。
「あら、どこでどうやってそんな相手と巡り合うというの? 《探秘花》が成立するのは舞台の上でだけよ」
燦珠も排練中に考えたことを口にして、軽やかに笑い飛ばしてから──華麟は小さく溜息を吐いた。白く細い指が、裙に織り出された細やかな文様を苛立たしげに叩く。
(謝貴妃様、ご機嫌斜めなのかしら? 星晶が演じるのに……?)
華麟はまだ何か言いたげに見えた。馬面裙の紐を解いて、帯に提げていた翠牡丹を外しながら、燦珠は興味と心配が相半ばする思いで勝気な貴妃の表情を窺った。
「長公主様が何をお考えかはともかく。父君に逆らうために、安易に役者になりたいだなんて……そなたたちの鍛錬を侮っているし、秘華園にも迷惑でしょう。……それに、ね。わたくしだって、縁談については思うことがまったくなかった訳でもないのよ」
華劇を愛する者としては、長公主の言動はそれを軽んじているように見える、ということらしい。それに、花のような唇を尖らせる表情からは、本当に色々思ったのだろうな、という気配がひしひしと感じられた。
その内容が、燦珠には分からなかったけれど──香雪には通じたようだった。
「翔雲様のご即位は──急なこと、でしたから。権門の方々、特に姫君がたは翻弄されたのでしょうね」
しみじみと、労わりのこもった相槌を受けて、華麟は大きく頷いた。
「そう! わたくし、もう少しで文宗様の後宮に入るかもしれなかったのよ」
「え? でも、文宗様って──」
先帝が薨去した時には七十を越えていたと聞いている。
(謝貴妃様とは、おじいちゃんと孫くらいの年の差じゃ……!?)
衣装を纏う手を止めて、内衣姿で驚きの声を上げた燦珠に、けれど華麟は何でもないことのように笑う。
「皇帝陛下がお幾つであろうと、後宮が枯れていては見栄えが悪いじゃない。文宗様ならお話も合うでしょうし、可愛がっていただける自信があったし、星晶がいてくれるなら別に良かったのだけど」
先帝を、ただの戯迷仲間のように語ってから、華麟は表情を真剣なものに改めた。
「でも──お話だけなら、皇子がたとの縁談も上がっていたもの。今となっては恐ろしいわ……!」
嘆息混じりの呟きの意味が、燦珠にはやはり分からない。けれど、ほかの三人にとっては違うようだった。星晶は痛ましげな面持ちで深く頷き、喜燕は眉を寄せて怯えのような表情を見せている。
(皇子様がたって……楊太監のお兄さんたちのこと?)
今の皇帝が即位した以上は、その方たちも亡くなっているのだろう。親に先立つ若さだったのだろうから、悲劇ではあるのだろうけれど。でも、それだけではないようだった。
「燦珠は知らないのね。……大声で言うことでもないけれど、この先配慮が必要なこともあるでしょうから、教えておきましょう」
きょろきょろと視線を彷徨わせる燦珠に声を掛けてくれた香雪もまた、ひどく悲しそうな顔をしていた。その理由は──すぐに分かった。
文宗帝の第一皇子、そもそも皇太子であった方は、最愛の驪珠と陽春皇子を失ってますます加速する父帝の放蕩を諫めて、死を賜った。国を顧みないならば譲位を、と迫ったのが反逆と見なされたのだ。その妃も御子たちも、連座して位を奪われ、追放の憂き目に遭うことになった。
次いで皇太子になった第二皇子は、下にふたりいた弟たちをひどく警戒したらしい。
第三皇子は、父と兄を呪った──それによって帝位を狙った疑いをかけられて、自死を選んだ。断罪される屈辱を拒んだということでもあるし、兄の例を見ていたから妻子を守るためでもあっただろう。
第四皇子は、病死。けれどもちろん、実際はどうだったかは分からない。
「二皇子殿下は、お妃や御子さまがたともども流行り病で亡くなったの。まるで呪詛が返ったようだとも言う者もいるわね」
華麟はそんな、鬼故事めいた言葉で締めくくった。実際、燦珠は青褪めて震えているけれど──それは、呪いを恐れたからでは、ない。
(いや、幽鬼よりもよっぽど怖いでしょ……!?)
生きている人間のほうが。血を分けた兄弟でさえ陥れ、殺し合う様が。そこまでさせてしまう、帝位という輝かしい座の力が。
(ああ……だから、謝貴妃様は……亡くなった皇太后様も、もしかしたら文宗様だって?)
現実の恐ろしさを知っているからこそ、華劇に溺れた、のだろうか。芝居の美しさや華やかさを愛でる一方で、現実に期待することを止めたのだろうか。
「──父君と兄君がご健在なうちに状元に嫁げるなんて、良いお話でしょうにねえ。後ろ盾のない皇族の姫君がたは、わたくしたち以上に心細いものなのに」
「と、言いますと……」
言葉を失う衝撃から立ち直って、燦珠はようやく声を出せた。正直言って聞きたくはなかったけれど、華麟が吐き出したがっているような気がしたから。
「慶煕王様──三皇子殿下の姫君は、西域に嫁がされたのよ。国境を鎮めるため、和平の証に皇族の姫が必要とはいえ、遠い異国に棄てられたようなものよ。……本当に、巡り合わせというものは残酷ね」
だから、明婉長公主は幸運であって、大人しく嫁ぐべきである、と。華麟はそう言いたいようだった。確かに、より悲惨な運命を辿った姫君たちは多かったのだろうけれど。
(でも、私は……願って、動いたら思い通りになったわ……?)
もちろん、姫君の縁談と、市井の小娘が舞い踊るのとでは話はまったく違うけれど。燦珠が華麟に言うのは筋違いというものだろうし──
「燦珠、早く」
「う、うん……!」
と、喜燕に内衣の裾を引っ張られて、燦珠は我に返った。着替えの手を、もうだいぶ止めてしまっていた。
ほかの殿舎の貴妃や役者たちを待たせては、また嫌味のもとになりかねない。燦珠は慌てて、長公主の前に出るための衣装を整えた。




