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【書籍1、2巻発売中】煌めく宝珠は後宮に舞う  作者: 悠井すみれ
第二部 三章 翠華、失せて秘華乱れる
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1.長公主、震える

 皇帝の妹、長公主ちょうこうしゅ明婉めいえんが役者になりたいと言い出している──


 星晶せいしょうがもたらした急報を聞いた翔雲しょううんは、すぐに秘華園ひかえんに急いだ。無論、星晶せいしょう霜烈そうれつも、彼の後に続いている。


 皇帝かれの訪れは、待ち望まれていたのだろう。翔雲の影が落ちる先、宦官や宮女が慌ただしく動いて進むべき道を示してくれた。そうして辿り着いた建物の一室に、翔雲をして政務を放り出させた存在が、いた。


「明婉……!」

「お、お兄様──」


 妹と直に顔を合わせるのは、即位の礼に際して上京させて以来だった。だからもう一年以上の間が空いている。それでも明婉の可憐さは記憶にある通りで、ひとまずは翔雲を安心させた。


 風が吹けば折れそうな華奢さは、おっとりとした風情は、絢爛な牡丹や薔薇というより野の花のもの。地位に相応しく着飾ってなお、威厳よりは儚げな風が勝る。けれど、だからこそいっそう愛しく、守りたいと思わせる──会わないうちに、妹が別人のように変わってしまったということでは、なさそうだった。


「──皆、立ったままで良い。ことの経緯を聞かせて欲しいからな」


 駆け寄ってきた妹を抱き留めながら、翔雲は居合わせる役者たちに命じた。


 本来は、練習を見に来た妃嬪ひひんを接待するための場なのだろうか。年長の女生おとこやくであるそう隼瓊しゅんけいに、ことの発端らしい燦珠さんじゅ、翔雲とも縁があったさい喜燕きえんのほか、彼が知らない者たちもいる。練習中のところを明婉が妨げたなら、平伏させるのは横暴というものだろう。


「お兄様はご政務の最中と伺いました。あの──わたくしのせいでお邪魔して、申し訳ございませんでした」


 明婉のかすかに震える声は、鈴蘭の花が音を奏でることができたらかくや、という健気さだった。咎める気が起きるはずもなく、翔雲は笑顔で妹を宥めようと試みた。


「大事な妹のことだから、恐縮するには及ばない──だが、役者になりたいなどと言い出したというのは本当か?」

「はい。確かにそのように、この者たちにお願いしました」

「そうか」


 不安そうに答えた明婉に、翔雲は笑顔のまま、できるだけ優しく頷いた。詰問にならぬように話をしたいとは思っているのだが──やはり、疑問は尽きなかった。


「そなた、ろくに芝居を見たこともないであろう? 楽も嗜みていどで、特別に好んではいなかったと思うが。どうして突然にそのようなことを?」

「あ、の……それは。燦珠の舞が、とても綺麗でしたから……」


 明婉の視線を受けて、燦珠が小さく跳ねた。相変わらず活きの良い娘である。普段の騒がしい印象とは違って、舞う姿も唄う声も優れているのは、翔雲もよく知っていることではあるのだが──


(明婉が秘華園に来て早々に、舞を見る機会があったのか? よりによって梨燦珠だけを?)


 翔雲と同じ疑問を読み取ったのだろうか、霜烈も目を細めて燦珠に問い質した。


「長公主様に舞を披露したのか?」


 余計なことを、という含みが聞こえたのは気のせいではあるまい。霜烈は、この間に秘華園を外朝がいちょうに認めさせるべく奔走している。長公主の存在は、厄介ごとの種としか思っていないだろう。


「ううん! ──っと、いいえ。違います!」


 その辺りの事情は当然承知しているであろう燦珠も、いつもの溌溂とした表情を強張らせて、懸命に訴えた。


「私は、ひとりで練習をしていただけで。あの、色気がないのでどうしようかと。そうしたら、いつの間にか長公主様がご覧になっていたようで。……それで」

「色気?」


 何やら不思議な語が聞こえた気もしたし、霜烈は眉を寄せて首を捻ったが。とりあえず、翔雲は納得した。燦珠がいつでもどこでも舞うのは何も驚くことではない。往来ならともかく、ここは役者のための秘華園なのだから。


 翔雲は、改めて明婉に向き直ると、その目を覗き込み、両肩に手を乗せて言い聞かせた。


「この者は、幼少から鍛錬を積んでいるのだそうだ。簡単に真似られるものではないぞ?」

「はい。そうだろうと思います。でも、あの、やってみたい、のですが……」


 頷きながらも、不安そうに視線を揺るがせながらも、明婉は主張を曲げようとはしなかった。父や兄に逆らうことのない妹にしては珍しいことだ。何より──


(やってみたい者の顔ではないぞ……?)


 明婉の頬は強張って、役者たちがに歌舞に対して見せる熱意はまるで見えなかった。翔雲の手には、彼女の身体の細かな震えが伝わってくる。これで役者になりたいと言われても信じがたい。妹は、どう考えても芝居には向いていない。だが──


(……結婚させられたくないがための、口実ではないだろうな?)


 妹が嘘を吐く理由に、心当たりがないでもなかったから、それ以上問い詰めることは憚られた。


      * * *


 明婉めいえんに手ほどきをする者の都合をつける、という口実で、翔雲しょううん霜烈そうれつと役者たちを別室に集めた。先ほどと同じく、話しやすさのために全員の伏礼を免除している。


 よって、彼は彼女たちの困惑の表情をたっぷりと見せつけられることになった。長公主が役者志望というだけでも混乱のもとだろうに、実は縁談を嫌がってのことかもしれぬ、とも聞かせたのだ。貴人の我が儘に振り回されているとの思いが拭えないのだろう。


 役者を代表するように最初に口を開いたのは、最年長の隼瓊しゅんけいだった。


「先帝の御代では、公主様や皇子様がた、御子様がたが戯れに華劇ファジュを演じられることはございました。ですから、簡単な演目をお教えすること自体は何の問題もございません。──が、それは文宗ぶんそう様のお気に召すように、という前提があってのことでございました」

「ああ……そうであろうな」


 まさに、歌舞を披露して先帝を喜ばせた筆頭だったであろう霜烈を見ながら、翔雲は苦々しく呟いた。聞けば聞くほど、かつての後宮の風紀の乱れははなはだしい。皇族の子女が煌びやかに着飾って唄い踊り演じるなど、彼の感性では受け入れ難い。──それはつまり、彼を育てた父も同様だろう、ということだ。


興徳王こうとくおう殿下の姫君に役者の真似事をさせて、殿下のお怒りを被ることはございませんでしょうか」


 端整なおもてを不安に翳らせた隼瓊が言い終えると、すかさず霜烈も口を開いた。


「ほかにも懸念はございます」

「何だ」


 いかな美声でも、面倒なことを聞かされると分かり切っていれば耳にはざらついて聞こえるようだ。玉のやすりで神経を削られる思いで、翔雲は促した。


「興徳王殿下は、状元じょうげんに長公主様を尚す(とつがせ)る思し召しとか。《探秘花(タンミーファ)》では探花たんかと公主ではございますが、あまりに筋書きが似ております。不敬には当たりませぬか」


「ああ……そなたには先ほどはそこまで伝えなかったな」


 額を抑え、指先でこめかみを叩きながら、翔雲は考えた。父の器量の狭さのほどを。祝宴で催す芝居の筋書きを、現実と重ねて不快に感じるか否かを。結論は、考えるまでもなく明らかだった。


(……お怒りになるな)


 父に逆らい、その怒りを宥める面倒に暗澹としながら、それでも翔雲は首を振った。今回の科挙に関して、父の主張は公正に欠けて受け入れがたい。どうせ断るならば、まとめて否、を突き付けるのが、早い。何といっても、帝位にあるのは彼なのだ。


「……明婉は、今回の科挙の合格者には与えない。父上にはそのように申し上げるし、明婉に望みがあるなら叶えさせる。未婚の娘の戯れで、どうせ後宮の中だけでのこと。叱りつけて禁じることでもない……!」

「御意。心強い仰せでございます」


 半ばは自身に言い聞かせるように翔雲が宣言すると、霜烈は恭しく目を伏せて受け止めた。本心から安心したのかは窺い知れないが──今は気に懸けてもしかたない。


「代わりにそなたらに命じる」

「は、はい」


 皇帝の視線と言葉を受けて、役者たちが騒めいた。特に燦珠は責任を感じているのか、大きな目をこぼれ落ちそうに見開いている。


「とはいえ、明婉が本心から役者になりたがっているとは信じがたい。本心は那辺なへんにあるか聞き出すのだ」

「え──長公主様に、ですか」

「年の近い娘のほうが、あれも気安いであろう」


 無理を申し付けているのは百も承知で、燦珠が問い返すのを黙殺して、翔雲は言い張った。


ちんは妹を意に反して嫁がせたくはない。本人の言葉があれば、父上の説得も容易になろう……!」

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2025年1月24日 角川文庫より1、2巻同時発売!

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