5.皇帝、疑う
翔雲の声の険しさに対して、霜烈はゆったりと首を傾けるだけだった。深窓の美姫さながらの嫋やかな仕草でありながら、なよなよとした風がないのは、細身ながら均整の取れた長身ゆえだろうか。とにかく何をしても美しいという印象しかない男である。
「嘘のつもりであったかどうかは、分かりかねますが。例えば、祝宴に秘華園の役者を使うことについては、この間に礼部の官とも折衝して参りました。あちらから見れば、職分を侵されたと考えても不思議はございません」
礼部からの苦情ならば、確かに翔雲のもとにも届いていた。科挙の進士を祝う宴に、宦官や秘華園の小娘を使うのは格式が云々と。実際には、宴に招く芸妓を集めるのに利権が絡んでいたことが分かったので退けたのは、父にも説明した通りだった。
(あの者どもが腹に据えかねて楊太監を謗った、と?)
礼部の高官の顔を何人か思い浮かべて、翔雲は深く溜息を吐いた。動機については理解できなくもないが、私怨で皇帝を巻き込んだ醜聞を、皇父の耳に入れるなど、節度ある官のすることではない。
「……それにしても悪意のある歪曲ではないか? 朕の後宮での振る舞いを語るなら、真っ先に香雪が挙がるはずではないか」
冷静に考えると、父の怒りの激しさはやはり他者に煽られてのことではないか、と思えてならなかった。父が誰から聞いたのかは不明だが、その者は明らかに事実を伏せ、しかもあらぬ疑いを誇張して語ったのだ。
(香雪はお気に召してくださったようだった。彼女の悪口までは、吹き込まれていないのか? だが──)
書物について和やかに語らっていた父と寵妃を思い起こせば、その何者かは香雪については悪意を抱いていなかったのかもしれない。が、存在そのものを無視したような扱いは、不穏にも思える。姿の見えない密告者の思惑を疑って、翔雲は俯き、眉根を寄せる。いっぽうの霜烈は、穏やかな声で彼の懸念を宥めようとしたようだった。
「外朝の官であれば、後宮の動向には疎いのかもしれませぬ。あとは──」
例によって絶妙な間で焦らされて、翔雲は思わず顔を上げる。と、悪戯っぽく微笑む美貌が輝いていた。翔雲の目を眩ませておいて、形良い唇が、そっと囁く。
「祝宴の次第を書面でお渡しした時のことです。礼部尚書が、しばらく私の手を握って離してくださいませんでした。そういう趣味をお持ちだから、ということもあるでしょうか」
礼部尚書のことは、翔雲ももちろん知っている。妻子ところか孫もいる年の謹厳な官だ。……今の今までは、そう思っていた。
「は? 真か?」
「嘘でございます」
「……は?」
絶句した後に腰を下ろした翔雲を前に、霜烈は笑みを深めた。頭を抱える彼の上に、流れるような、台詞めいた声が降る。
「身近な者から聞いたことは、かくも信じやすいのだとお心に留めてくださいますように。興徳王殿下も、信ずるに足ると見た者から聞かされたのでしょう」
礼部尚書の挙動のあまりのしょうもなさは、かえって事実だったのではないかと翔雲に疑わせた。だが──見てもいないことに思い悩み疑いを巡らせることの愚かさを突かれたことも、分かる。
(だから聞いた話は信じるな、というのだな)
どうも丸め込まれた気が拭えなくて、翔雲は霜烈のたいそう綺麗な顔を睨め上げた。
「それでは、父上が惑わされていることには変わらぬのではないか?」
「陛下を案じられる一心ゆえでございましょう。どのみち、決断なさるのは陛下なのです。不審なことがあればお調べになればよろしいかと存じます」
霜烈の言うことはいちいちもっともだから、翔雲は反論することを諦めた。その代わりに、この者に確かめることがあったのを思い出す。
「そなたはやけに父上の肩を持つ。……お人柄を、知っているのか?」
声を潜めて、これ以上できぬほど情報をそぎ落として、端的に問う。一瞬だけ目を見開いた後、同じく声を落として囁くように応えた霜烈は、やはり察しが良いようだ。
「存じ上げませぬ。私のような生まれの者は、御目に入れることも厭われたようでございました。……ですので、ご懸念は無用かと存じます」
尋ねた以上を教える、翔雲の意をよく汲んだ答えだった。すなわち、お前は父と顔を合わせても大丈夫なのか、という。
(役者腹の皇子など、見るも汚らわしいと顔を背けた、ということか。……大人げないな)
先ほど見た父の様子からして、納得のいくことではある。が、同時に一抹の失望も感じずにはいられない。
十になるかどうかの子供、それも兄である皇帝の皇子に対して、礼儀に適った態度とはとても言えない。だが、そのように軽んじられた本人は、翔雲が浮かべているであろううんざりとした表情を諫めるように、白皙の頬に心配げな色を浮かべている。
「先帝を諫めた者は、皇族がたの中でさえ多くはございませぬ。興徳王殿下はその中のおひとりでした。先帝の不興を買った官や──亡くなった皇子がたの子女や麾下を、密かに庇ってもくださいました。国を憂える御心を、疑われることがございませんように」
「そのようなことを、なさっていたのか」
父が、霜烈の兄にあたる皇子たちに手を差し伸べていたなどと、翔雲は知らなかった。息子にあえて聞かせることではないと考えていたのだろうか。ならば、霜烈が父に感謝するのも当然かもしれない。
「だが。それでも──」
胸を塞ぐ疑問が口から零れぬよう、翔雲は固く唇を結んだ。
父への苛立ちや失望は、底知れぬ怖れと背中合わせだった。
父は、翔雲を厳しく鍛え、躾けた。それは、万が一の時に栄和の国を支えられるように、だ。彼が今、帝位にあるのは偶然と幸運、そして鍛錬と節制の賜物だ。
先帝の皇子がすべて命を落とすという奇禍に、父に従って自らを律していた彼がめぐり合わせたからだ。──父が、彼にそうあれと命じた通りに清廉であったなら、そのように信じ続けることができたのだが。
(父上は、そなたの兄の死に関わってはおらぬのか? ただのおひとりも? 俺に言わなかったのは、遺児たちを庇護したのは、後ろめたさゆえではないのか?)
口を噤んだ翔雲を、霜烈が不思議そうに窺っている。言葉に出して問えば、この男はきっと否定してくれるのだろう。父は潔白であり、したがって彼の玉座は正当なものなのだと。
だが、それは卑しい考えというものだろう。美しい声に心地良い言葉を紡いでもらおうなどと望むのは、父が抱いた邪推よりなお浅ましくおぞましい。霜烈の先の言葉に倣うならば、皇帝たるもの他者の言葉を拠り所にしてはならないのだ。
「陛下──」
それでも、翔雲は長く黙りすぎた。霜烈が上げかけた気遣う声を、けれど軽やかな足音が遮る。さらに響くのは、政務の場には不釣り合いな、澄んだ少女の声だった。
「外朝を騒がせること、誠に申し訳ございません。ですが、緊急の用があって参りました。楊太監も、こちらだと──」
息を弾ませて執務室に駆け込んできたのは、翔雲もよく知る秘華園の男役、秦星晶だった。いつも通りに円領の袍を纏った姿は、それこそ才知溢れるの進士さながらだ。見目良く凛々しく清々しいが──だが、本人が述べた通り、後宮の外には似つかわしくない存在だった。
「なぜ、そなたが? ほかに年長の者はいなかったのか。隼瓊老師や、藍芳絶は?」
秘華園の責任者たる鐘鼓司太監の立場からだろう、霜烈も咎めるように眉を顰めた。
「男装の者のほうが急ぎ参上することができるから、でございます。その場にいた男役は私だけでした。隼瓊老師は、長公主様についていらっしゃいますから動けません」
応じる星晶の声も目つきも、なぜか妙に鋭く切りつけるようだった。だが、それを不思議に思う暇はない。彼女が述べた中に聞き捨てならない語を聞き取って、翔雲は思わず割って入った。
「長公主とは明婉のことか? あれが秘華園にいるのか?」
「御意」
短く頷いてから、星晶はきびきびとした所作で平伏した。白い額を床につけた格好で、役者ならではのよく通る声で、述べる。
「長公主様は、秘華園に入りたい、役者になりたいとの仰せです。あの……燦珠の舞を見て感銘を受けられた、とのことで」
顔を見合わせた翔雲と霜烈は、鏡合わせのように同じく驚きの表情を浮かべていたことだろう。息を吸うのも、問い直す声を発するのもほぼ同時。
「明婉が?」
「燦珠が?」
ただ、それぞれ紡いだ名だけが違っていた。




