4.霜烈、奏上する
香雪に続いて、後宮の妃嬪たちは次々に皇父への挨拶を願った。父の機嫌伺いは彼女たちに任せて、翔雲は外朝のの濤佳殿に退避することにした。
(父上は、科挙の結果を見届けるおつもりなのだろう。いずれ、はっきりとお伝えせねばならぬが……)
科挙の不正のこと、妹の縁談のことは受け入れがたい。一方で、祝宴に秘華園の役者を使うことについては退ける理由がない。父に言えばまた怒鳴られるのは明白だから、今しばらくは後回しにしたい気分だった。
(明婉はどこまで知らされているのか。早く政務を片付けて話をせねばな)
父の話によると、妹は後宮の探索に出かけたらしい。……という口実で翔雲との対面を後回しにして、その間に縁談についての了解を取り付けようという段取りだったのだろうが。
まあ、興徳王府は父の気質を反映して質実剛健の風だから、後宮の華美は若い娘には楽しいだろう。長公主の行くところ、侍女も宦官も付き従っているだろうから、迷ったり退屈したりする恐れもあるまい。明婉が憂いなく過ごしてくれているなら良いのだが。
(父と兄とで言うことが違うと、あれも困るだろうに……!)
おっとりとして従順な妹が心を痛めることがないように話を進めなければ、と。やけに重く感じる額を抑えつつ、翔雲は山積する案件に取り組んだ。多くは書面での決済で済むこと、疑義があってもその旨を記して差し戻すのが常だが、時には奏上した者を召し出して話を聞くこともある。
「陛下。ご多忙のところお時間をいただき、心より感謝申し上げます」
その声が響くと、紙と墨の乾いた匂いが満ちる執務室に、不意に華やいだ空気が漂った。
むろんそれは気のせいだ。現れた奏上者があまりに美しく、その声は澄んで心を震わせるから、その場の空気さえ綺羅綺羅しく染め上げてしまうのだ。楊霜烈の美貌には、それほどに地上離れした神力めいたものがある。
「そなたが些事で朕を煩わせるはずがないからな。秘華園で何かあったか?」
霜烈の姿を見るたびに、翔雲は見蕩れるよりも気後れを覚える。そしてそのたびに安堵する。同い年の従弟を跪かせておいて美貌を愛でるのは、真っ当な感性とは言えないだろう。玉座にあることを当然と思わぬよう、傲慢に陥らぬよう──常に確かめるためにも、この者を傍に置くのは必要なことだと認識している。
「ご寛容のお陰を持ちまして、練習は滞りございませぬ。栄えある進士に捧げるに相応しい歌舞を披露できるかと存じます」
翔雲の内心を知ってか知らずか、霜烈は艶やかな微笑で辺りに眩さを振り撒いた。好きなことになると表情が変わる者が、またひとりいたようだ。
ともあれ──翔雲がかつて命じた通り、平伏せずに跪く簡略な礼をしてから立ち上がると、霜烈は恭しく一通の書状を差し出した。
「本日は、秘華園を辞した役者が返上した翠牡丹の処分についてご聖断を仰ぎたく参上いたしました。──私としては、砕いて売り払いたいと存じるのですが」
翠牡丹とは、その名の通りに翡翠を牡丹の花の形に彫刻したものだ。秘華園の役者に与えられる身分証であり、後宮での自由な行動を許す通行証でもある。書状を開くと、破棄予定らしい翠牡丹の数と元の持ち主の名、宝玉としての価値を示す重さなどが列記されている。
先年の変での趙貴妃の失脚に伴い、秘華園を去った役者は確かに多かったということだが──
(砕く? 惜しい気もするが)
梨燦珠たちが帯びる翠牡丹の精緻な細工を思い浮かべて、翔雲は首を傾げた。
「国庫の足しに、ということか?」
これまで奢侈の謗りを受けてきた秘華園のこと、外朝からの反感を和らげようというのだろうか、と思ったのだが。霜烈はさらりと首を振る。
「翡翠とはいえ、国庫を潤すほどの値にはとうてい届きませぬ。それよりも、権限の大きさに比して、あまりに数が多いことを憂慮すべきかと。封をしたうえで厳重に管理してはおりますが、万が一持ち出されれば悪用される可能性もございます。そもそも破棄してしまえば手間も懸念もなくなりますから」
「なるほど」
翠牡丹の数の多さは、先帝がやたらに与えたのが理由だろう。お気に入りの役者を、昼夜を問わずに呼び寄せるための方便だ。もっともな配慮と思えたから、翔雲は迷わず頷いた。
「理ありと認める。そなたの思うようにはからうと良い」
「恐れ入ります。陛下の御言葉があれば、妃嬪がたもご理解くださいますでしょう。大事な時期でも、ございますし」
妃嬪の多くは、実家の意向を受けて後宮にいる。役者を通して利益を得てきた家も多いし、秘華園の勢力を削ぐ動きを見せれば反発も起きかねない。役者に与えられる禄は、そのまま主である妃嬪の力になるのだから。あらかじめ皇帝の了解を得ることで異論を封じるのは、賢い処世だろうと思えた。
それに、霜烈は重要なことを仄めかしてもいた。
(科挙に関わる印刷の一部は、内廷で行うのを承知しているのだな。当然ではあるが……)
絶対に漏洩してはならぬ問題文の作成や、採点用の答案の複写は、内廷の高く厚い壁の内側で行うのだ。妃嬪や役者が住まう後宮の諸殿舎とはまた違う区画ではあるが、翠牡丹が悪用できかねない近い距離ではある。科挙を理由にすれば、なおのこと我欲で横やりを入れるのは難しいだろう。
科挙の公正な実施は、翔雲が望むところだった。彼の意に適う奏上でもあったと得心すれば、父とのやり取りで募った不満も霧消した。
「そなたの言葉は聞きやすいな。いや、声がどうということではなく、理屈として捩じれておらぬ」
「さようでございますか……?」
事情を知らぬ霜烈には、唐突な話題にも見えたのだろうか。眉を寄せた怪訝そうな表情さえ美しい男に苦笑して、翔雲は愚痴を零すことにした。
「……父上が、な。ひどい邪推をなさっていたのだ」
父の対応に閉口した一幕を伝えると、霜烈はただ静かに頷いた。
「なるほど、興徳王殿下がそのようなことを仰っておられましたか」
笑うことも憤ることもしないから、整った顔の陰でどのような思考が巡らされたかは分からない。それでも同意が欲しくて、翔雲は身を乗り出して言い募った。
「そなたを重用するにも相応の理由があると申し上げたのに、聞き入れてくださらなかったのだ。父の頑迷さを目の当たりにするのは辛いものなのだな」
霜烈の父──芝居に溺れ、寵愛した役者の面影を留めるために我が子を宮した先帝──はすでに死していること、頑迷などという形容では済まない暴挙と愚行を重ねていたことに気付いたのは、月のような美貌が翳って苦笑を浮かべたのを見てからだった。
彼の愚痴が子供の癇癪ででもあるかのように、銀の弦をつま弾くような耳に心地良い声が、翔雲の心のささくれも気まずさも窘める。
「皇父殿下のご懸念はまことにごもっともかと。善き言葉を並べる者こそ警戒せねばなりませぬ。讒言とは、しばしば諫言を装うものなのですから。だから──私にも油断なされぬのがよろしいかと存じます」
「そなたは秘華園が大事なだけだと承知している。芝居も歌舞も、それ自体は悪ではない」
かつての彼ならばあり得なかった言葉が口から零れて、翔雲は思わず目を瞠った。霜烈の美声に誘われたから、などということはないだろうが。いつの間にか考えは変わるものなのだと、不意に気付いたのだ。
「もったいない御言葉でございます。──が、悪だと断じる者もおりましょう。善悪も真偽も、見る者によって変わるものなのでしょうから」
霜烈は、軽く目を伏せて感謝の意を示してから、さらに忠告めいたことを続けた。
「興徳王殿下に注進した者も、心から宦官の専横を憂いたのかもしれませぬ」
霜烈の声は口調は穏やかで、さらりとしたものだった。何も、重大なことを述べているようには聞こえない。だが、その言葉には聞き捨てならない含みがあった。
「……父上に、嘘偽りを吹き込んだ者がいるというのか」
父は確かに、翔雲の行状について聞いている、と言ったのだ。心外極まりない醜聞を父に聞かせたのはいったい何者なのか。低く鋭く、翔雲は霜烈に問い質した。




